瞬きの中に棲む獣

 待機モードの巨大な有人機動兵器アーマード・コア――通称ACの、その周囲に設けられた作業用通路を進む。その一角には、主にパイロットの私室が並んでいる。現状、住人はおらずほぼ無人だが、そのうちの一室には足を踏み入れた。扉が開くと同時に、工具や機材、薬品といったさまざまな匂いがこもった空気とともに押し寄せる。慣れ親しんだ、日常の匂いだ。は壁に腕を伸ばし、照明のスイッチを押す。部屋を埋める大量の機材、床と空中に垂れるいくつものチューブ、そしてそれらに囲まれた寝台が、温白色の明かりに照らされ浮かび上がった。

「さて、と――強化人間C4-621の脳深部コーラル管理デバイスを起動。起こして」
『了解。所属整備士、のオーダーを実行。強化人間C4ー621、覚醒しました』

 男性の声を当てられたコンピューターの音声が響く。はそのまま中央に進み、寝台のそばへ歩み寄った。

「おはよう、621。気分はどう?」

 寝台の上には、多くの機材に囲まれ、また何本ものチューブにつながれた人物が横たわっている。
 強化人間C4-621――通称621。ハンドラー・ウォルターに見いだされた、ごく最近にやって来た強化人間だ。
 長い間、不良在庫として保管されていた第4世代型強化人間は、の姿を視線のみで見ると、すぐに天井へと視点を移した。脳の深部をコーラル覚醒デバイスに焼かれた影響はけして小さくなく、自己表現を発露することはない。ある程度の回復が進んできた今も、だ。置物のように、ただそこに横たわっている。統括者であると同時に技術者でもあるウォルターも「機能以外は死んでいるとはこういうことだ」と言っていた。をその瞳に映しても、見ているわけではない。
 既に621は、未知の物質コーラルが潜在するという惑星ルビコンへ入り、企業からの依頼を受注しこなしている。後を追う形で、もウォルターと共にやって来た。もともと621は不安定な状態で、心身のケアは継続して必須だった。さすがにルビコンへの密航時は621一人で大丈夫かと心配が尽きなかったが、こうして依頼の合間にケアが出来るようになった。おかげで621の全身を覆っていた当初のフィルムも剥がれ、その顔と身体を拝見することがかなった。

 結論から言えば――当分の間は、あらゆるケアが必要な状態だった。

 最低限の生命維持によって生かされていた身体は痩せ細り、痛々しいほどやつれていた。腕も足も枯れた枝のようで、扱いを間違えたら折れるどころか粉々になってしまうのではないかと思ったほどだ。フィルムがなくなった代わりに、固定目的の包帯が増えた。あまりにも長い保存期間のせいなのだろう。飲食についても、固形物が口にできず、チューブによる投薬と栄養摂取を行っている。また、コーラル覚醒デバイスを埋め込む開頭手術の痕跡も、まるで昨日行われたような鮮明さでもってはっきりと刻まれている。毛髪も、まだまだ伸びてはこなさそうだ。
 それでも、ACには乗れる。ACに乗るために必要なものは、神経接続するための生きた肉体と、機体を動かす脳。
 機能以外は死んでいる――まったく、なんて言い方だろうか。

「休んでいるところ、ごめんね。また近々、依頼があるみたい。いつでも行けるよう整えるから、何か感じたら言ってね」

 がにこやかに話しかけても、言葉は返ってこない。空虚を見つめる621の瞳に、僅かな変化もない。聞こえてはいるが、それだけなのだろう。ただ、意識はあるのだ。こうして話しかけていれば、いつか反応を返してくれるかもしれない。失った感情というものを、もしかしたら見せてくれるかもしれない。そんな希望のもと、は今日も621に話しかけている。

(それにしても……男の子、でいいのかな)

 全身を覆っていたフィルムがなくなったことで、その下から621の姿が現れた。やせ細ってはいたが、顔立ちと身体的特徴から、何となく男性のように見える。ウォルターも、そのような見解だった。ただし、年齢については、やはり定かでない。十代半ば、いや後半かもしれないし、二十代、三十代の可能性もある。さすがにウォルターほどの年配ではないのだろうが……。その辺りもいつか判明するだろうか。

「じゃあ、いろいろ確認していくね。隣でガサゴソするけど、ちょっとの間だけ許してね」

 返ってくるものは、バイタルの電子音。脳波による音声変換デバイスは取り付けているが……まあ、意志や感情が希薄ということは、こういうことだ。特に気にしてはいない。
 それからしばらくの間、は部屋の中を回り、機材のチェック、チューブから流し込まれる栄養剤と薬剤の補充と点検をした。



「――よし、大体こんな感じかな。コンピューター、チェックリストと照合してくれる?」
『了解、チェックリストとの照合を開始……』

 あとは、コンピューターの結果を待つだけだ。をぐぐっと背伸びをし、脱力する。
 さて、時間ができたことだし。
 は、621へ視線をやった。

「作業が終わったよ、621。どこか、悪いところはない?」

 空虚を見つめる瞳は、十数分前と変わらない。見た限りの不調もないようだった。
 改めて、その容貌を見る。こけた頬、細い首筋、折れてしまいそうな両手足、そして生々しい開頭手術の痕跡……痛ましい姿だ。必要最低限の生命維持だけで、よく生きていたと思う。

(……ウォルターに見つけてもらえたのは、幸せか。それとも不幸か)

 ウォルターは、どの世代の強化人間であっても、一人の人間として扱ってきた。寡黙で、一見すると冷徹な彼は、けして彼らの尊厳を踏みにじらなかった。企業の多くは、独立傭兵という民間出身のその日暮らしのAC乗りを、駒のように扱い、また侮辱することも間々あったのに。
 だからこそ、共に仕事をしてきた彼らは皆、ハンドラーを慕い、そして彼の足掛かりのため迷わず殉じた。

 ――、あの人を、恨まないでくれ。

 覚えている父との会話には、必ずその言葉があった。
 そして今も、ウォルターは621を一人の人間として扱っている。この大量の機材、そして補充される薬剤や栄養剤が、その最たる証拠だろう。

 ハンドラー……確か、調教師だったか。悪名高き、ハンドラー・ウォルターとその猟犬たち。本当は、そんな呼び名、似合わないのに。ウォルターにも、ウォルターを慕った強化人間たちにも。

 そう呼ばれてまで果たさなければならないこととは、何なのだろう。617、619、620を先の戦いで失ってまで、ルビコンへやって来た理由は。
 思えば、は何も聞かされていない。幼い頃、何度か尋ねたこともあったが、明確な答えをもらえていない。ただ、友人たちの意志、とだけ。
 これに関しては、きっと懇願しても教えてくれないのだろう。それはあまりにも果てしなく、途方もないことなのだろうと、安易な想像しか浮かばないが……。
 それを、この621が、後押しをする。617たちが、命をもってつないだこのルビコンで。

 たくさんの強化人間たちが殉じた先で得るもの、それを見届けるため――きっとそれが、がなおもこの場所にいる理由だ。

 621は、どうだろう。今は意思や感情の表現も何もなく、ウォルターの言葉のままにACを動かしているが、621自身の言葉を紡ぐ時が来るのだろうか――。

 近くの椅子を引っ張り、寝台の横に座る。包帯の巻かれた手は、だらりと投げ出され、ぴくりともしない。は、小さく呼気をこぼす。

「とはいえ、こんなに細い腕じゃあ、ACに乗せるのも心配だね」

 ACは神経接続することにより、肉体の延長として自由自在に動く。その負荷は相当なものだ。強化人間でなければ、まともに動かせない。身体が資本なのだから、621には早く健康になってもらわなければならない。

 それにはまず、この枯れ枝のような身体に栄養が行き届いて、ふっくらしなければ。今は身体を拭いてあげることしかできないが、たっぷり用意した湯に浸かってほしいし、栄養補給ではなく温かい食事もいつか取れるようになってほしい。髪の毛も伸びて、開頭手術の痕跡も薄れて――……。

「……これは、整備士というか、お姉ちゃんかな」

 お姉ちゃん。お姉ちゃんか……うん、しっくりくる。
 整備士とパイロットではあるが、よく考えると今の状態は、世話を焼く姉と焼かれる弟だ。あまりにもしっくりきてしまったため、は一人で笑い声をこぼす。

「……ここに来て誰よりも長い先輩だし、貴方の年齢が分からない以上、年下の可能性だってある。なら、弟みたいなものだって、思ってもいいかな」

 過去、の周囲にいた強化人間たちは全て年上で、兄や父、姉といったような人物ばかりだった。そういう意味でも、今の状況はなかなか新鮮である。

「621は、どう? 嫌じゃない?」

 特に、反応はない。よく理解していないだけかもしれないが、都合よく受け取ることにした。

「もちろん、一緒に仕事をする同僚ではあるけど。まあ、嫌になったら、また教えてね」

 そろりと、は621の手を取った。力が抜けきった、細い手と指。下手に扱ったら腕ごとすっぽ抜けてしまいそうだ。
 それに……とても冷たい。
 もともと体温は低めではあったが、これほど指先が冷たいとは思わなかった。包帯が巻かれた621の手を、は両手で慎重に包む。およそAC乗りの手ではない。虚弱で、守ってあげなくてはと思ってしまう、儚さ。触れたことで、一層それを強く感じてしまった。しっかりと、けれど丁寧に、壊れ物を撫でるように上と下から手のひらで挟み込む。ひんやりした手の甲と指先に、自らの体温が少しでも621へ移るように、優しく。

「621、私――」

 が呟いた、そのときだった。
 バイタルメーターの規則的な電子音が、異常な速さを刻みだした。

「え……え……!?」

 まさか、異常発生? どこか、具合が悪くなったのか。
 621の手をさっと寝台に横たえ、タブレットを掴み寄せる。画面を見ると、チェックリストのいくつかの項目がエラー表示になっていた。どれも脈拍に関する項目だ。しまいには警告音までなり始めてしまった。こうなると、恐らく――。

、621の異常反応を確認したが、どうした』
「ウォルター」

 ああ、ほら、ウォルターのところにも伝達されてしまった。

「ごめんなさい、原因は今調べてる。薬剤と栄養剤の拒絶反応とかはないけど……」
『……ふむ、分かった。俺もそちらへ向かおう』
「分かった。……ごめんなさい、忙しいのに」
『構わん。それが俺の仕事だ』

 通信を切り、は大きく溜め息を漏らした。
 もう! おしゃべりに夢中になって、私の馬鹿!

「原因、何だろう。新しい栄養剤は使っていないし、一体……ん?」

 ふと、耳を澄ます。あれほどけたたましく響いていた警告音が、ぴたりと止まっていた。バイタルメーターも、平常時より波はあるものの、先ほどよりずっと落ち着いている。あれ、とは首を傾げた。

「急に、静かに……? 621、どうかし――」

 言いかけた言葉が、喉でつっかえた。
 空虚を見つめていた621の瞳が、を映していた。
 今までの顔をしっかりと見ることはなかったのに、今はっきりと、意図してを見つめていた。

 もしかして、何か感情に刺激が。いや、それよりも――。

「何か、伝えたいことがあるの?」

 少し、期待を込めた声音が出てしまった。こんなときに、喜んではいけないのだが。

『――』
「え?」
『分からない。でも、でモ』
「落ち着いて、621。大丈夫だから」

 音声変換デバイスから、ノイズが激しく鳴った。これも初めてのことだ。慎重に尋ねなければ。

「調子が悪いところ、ある?」
『……ない』
「今、気分は? 悪い?」
『……悪い』

 621の視線は、なおもへ向けられている。いや、これは、見つめるというより、射抜くようだった。これまでにはない初めての反応に、にも動揺が滲む。

『身体の、末端、自分のものでなくなるように。何かが、脳の奥にくるような』
「621……?」
『――

 機械の音声が、いやにはっきりと、名を呼んだ。

『もう一度』
「え?」
『もう一度、さっきのように』

 乞われ、はためらった。空虚を見つめるばかりだったあの621が、初めてを真正面から見つめている。身体は細く、痩せ衰え、守ってあげなくてはと思ってしまうほどなのに、その瞳には確かに強い光が見えた。危うく、したたかな、まるで野生の動物のような。
 困惑は収まらないが、何らかの変化が訪れたということだろう。理由は分からないけれど、そうであるならば断わるわけにもいかない。
 は、再び621の手に両手を伸ばした。先ほどのように、慎重に持ち上げ、手のひらで上下からしっかりと包み込む。変わらないあの冷たさが、の肌にじわりと伝わってきた。
 音声デバイスから、ノイズが走る。しかし、今までとは違う。まるで人が溜め息をこぼすような、あるいは感嘆の吐息を震わせるような、不思議で、柔らかい雑音だった。

『なんて、言うんだったか。これは』

 を見つめるその視線の、その強さときたら。弱々しいなんて、守ってあげなくてはならないなんて、あまりにもおこがましい。

 ウォルター、彼はやせ細ってもなお炎が消えない、獣のような――。

『ああ、そうだ、これは……』

 肉声ではない、機械の声に、の背中がなぜかぞくりと戦慄いた。

「――、621、大丈夫か」

 そして、響き渡る、扉の開閉音とウォルターの声。
 は弾かれたように621の手を置き、椅子から立ち上がった。ただし勢いのあまり椅子が後ろへ滑り、ガシャンと激しい音を立てた。振り返った先のウォルターは、珍しく驚いた様子を見せ、目を見開いている。

「き、来てくれてありがとうございます。ウォルター」

 は誤魔化し、何事もなかったように出迎える。ウォルターは不思議そうにしながらも、部屋の中央へ歩を進める。

「いや、構わないが……ん? 少しは落ち着いているようだな。原因は分かったのか」
「え、ええっと、その、分かったような、そうじゃないような……」
「ふむ……データを見るに、一時的な興奮状態にあったようだが」

 ウォルターから、何があったのだと、無言のまま問われる。しかし、今の出来事は、言葉にしようがなかった。
 冷たい指先に触れていたら、なぜだか自分の手のほうが火傷を負ったような不可解な熱に震えている――なんて、説明のしようがないだろう!

「あとで……観察記録を報告しますね……」
「……分かった。621、どこか調子が悪いか……いや、拗ねているのか?」

 ウォルターの問いかけに、621は沈黙を返す。今はもう天井を見つめている彼だが、心なしか横顔は不満そうに見えた。
 さて、今日の観察記録は……どう書いたらいいのだろう――は未だ熱い自らの指先を握り締め、背中にぎゅっと隠した。

 ――しかし、この瞬間、も想像していなかった。この日以降、621はたびたびの体温を求め、手を握るよう要求してくるようになることを。


ファーストミッションにしてチュートリアル「密航」の際は、ウォルターはルビコン外だったと思いますが、どこかのタイミングでやって来たんじゃないかと想像しています。

ハンドラーの本拠点はルビコンのどこかにあって、オールマインド提供の自由利用できるガレージを挟みつつ依頼をこなしている、みたいな。そんなイメージがあります。
(具体的設定がないため想像)

ウォルターが「技術者」とは作中で明言されていませんが、彼の過去と言動を察するに、知識と技術は相当なはず。

(タイトル:エナメル様 借用)

2023/10/08