星の瞬く夜でした

 咳止めの薬の備蓄は、大丈夫。獣避けの香も、十分に買い足した。
 これくらいあれば、外に一歩も出る事が叶わなくなる今夜の獣狩りは、十分に乗り切れるだろう。

 入念に保管棚を確認し、は満足げに頷く。

「いつもすまないね、さん……ッゴホ、ゴホ!」
「いいえ、私が好きでさせてもらっている事なので。夕食の後の咳止めは、ここに置いておきますね」

 ベッドに腰を掛け、背中を丸めゴホゴホと咳き込む男性は、やつれた頬に笑みを浮かべる。病を抱え、身体の輪郭は細くなってしまっているが、その頬にある笑みは穏やかそのものだ。

 ヤーナムの住人には珍しい、物腰も柔らかく理知的な眼差しを浮かべる人物――ギルバートは、と同じく異邦人だった。
 不治の病を患い、最後の望みをかけこのヤーナムを訪れ、怪しい血の医療を受けた。そのおかげでどうにか生き長らえているのだと、知り合ってから間もなく彼が教えてくれた。
 病によるものなのだろう。ギルバートの外見は、実年齢が計れないほどに老け込み、覇気がなくやつれた印象を抱かせる。年配の老人のようにも見えるけれど、病を治したいと縋ったのだから、もしかしたら四十代、五十代なのかもしれない。

 ――両親が生きていれば、ちょうどそれくらいの年代だった。

 それもあって、は知り合って以来、ギルバートの身の回りの手伝いを率先し行ってきた。
 そうする事が、血と獣の不浄に溢れたヤーナムで正気でいられる、数少ない術であるとも思えたのだ。

「でも、今日は咳が少ないですね」
「ああ、調子が良いみたいなんだよ。さんが色々してくれるおかげかな」

 穏やかに笑ってはいるが、身体はけして楽ではないはずだ。血の医療は、どうにか彼の命を繋いだけれど、病までは癒してくれなかったのだから。

 それに、も気付いている。ギルバートの病状は年々、悪化しているという事を。

「それよりも、今夜は獣狩りだ。暗くなる前に、早く家に帰った方が良い」
「……はい。これだけ片したら、戻ります」

 どうして、こんなに優しい人が救われないのだろう――。

◆◇◆


 が外へ出た時、ヤーナムの街並みは夕暮れを迎え、赤く染まっていた。
 区切りの良いところまで手伝いをしていたため、結局、こんな時間になってしまった。ギルバートは酷く心配し、せめて近くの通りまで送ろうと言ってくれたのだが、病気がちな彼に無理はさせられない。ベッドから出ようとするギルバートを宥め、大丈夫だと笑い家を出てきたのだが……。
 思いのほか、空が赤い。風に混じる匂いにも、夜の気配が漂っている。夜は、もう間近だ。

 今夜は、獣狩り。
 病に侵された人や動物が、おぞましい獣へと成り下がる夜だ。

 は急いで帰路に着く。繰り返される獣狩りにより、建造物の美麗さに反し荒れた街中を、急ぎ足で抜ける。既にもう住人の姿は全く見えず、沈黙が覆い被さっている。家々の門戸はかたく閉ざされ、狩りがあるというのに出歩いているを窓の向こうから嗤っているに違いない。
 次第に、空も赤色から藍色へと変わり始め、いよいよ“夜”が訪れそうだった。

(大丈夫、家はもうすぐそこだもの。大丈夫)

 言い聞かせ、薄暗くなった細い路地を駆け抜ける。そこの角を曲がれば、もうすぐそこだ――ほっと安堵した、その時であった。
 暗い影から、ずるりと、誰かが這い出る。はすぐさま、足を止めた。
 くたびれた衣服を着た、背格好から察するに男性。だが、その頭部は、およそ人間のものではない。色の抜けたざんばらな髪、血色の悪いこけた頬、突き出た牙――それはまるで、獣のような出で立ちであった。

 病を発症した住人だ。

 ウウウ、と低く唸る音がの耳へ届く。その手に薄汚れた刀剣が握られているのを見て、すぐさま踵を返し、来た道を逆走し逃げ出した。
 獣の病に侵された男が、剣を振り上げ後ろを追う。迫り来る獣の唸り声と足音に、は無我夢中で街中をひた走る。

 ありふれた光景だ。獣狩りの行われる夜では珍しくもない、ヤーナムのありふれた光景。
 だから、が息を乱し逃げ惑っていようと、誰も助けようとしない。閉ざした門戸が開かれる事も、手が差し伸ばされる事も、けっしてない。嫌われ者の異邦人がどうなるか、窓の向こうから楽しみにしているくらいだろう。

 やがて、走り続けたの足はもつれ、倒れこんでしまう。執拗に追いかけてくる獣は、その足元に追いつくと、握り締めた剣を振り上げた。

 けれど、その剣は、を切り裂く事はなく。
 それどころか、獣までも、の目の前で倒れ伏してしまった。

「あ、え……ッ?」

 何が起きたのかと、呆然と眼を瞬かせる。うつ伏せに倒れたっきり動かなくなってしまった獣を見ると、その背が斬られていた。どくどくと流れる、病に侵された赤黒い血が、煉瓦を敷き詰めた道へ瞬く間に広がっていく。
 それを呆けながら見つめていただが、ようやくその時、獣の向こうに誰かが立っている事に気付いた。

 はっとなり見上げたその視界に、真っ先に飛び込んできたのは――黒い鳥の羽根だった。

(……鴉……?)

 暗くなった路地に浮かび上がる佇まいに、一瞬、そんな事を思い浮かべた。
 血の匂いを孕む風に揺れる、真っ黒な鴉の羽根を無数に継ぎ合わせた、翼のような外套。その下には、紫がかった装束を着こんでいた。
 顔は、分からない。鳥のくちばしを模った奇妙な造形の仮面で覆われており、顔の輪郭すら見えない。ただそのくすんだ白色の仮面は、ペストマスクによく似ているように思えた。

 手袋に包まれた両手に握られている二本の銀色のナイフが、カキンと冷ややかな音を奏で一つのナイフへと変形する。不思議な仕掛けの施されたナイフの鋭利な煌きが、暗がりの中で光る。

「――あんた、大丈夫かい」

 ペストマスクの向こうから響いた声は、なんと女性のものだった。身長もあるし、身体の輪郭がまったく見えないから、無意識に男性かと思っていただけに、衝撃を受けてしまった。だが、その声音は女性にしてはとても低く、よりもずっと年上の風格が漂っている。穏やかな柔らかさなどはない。幾度の戦いを生き抜いてきた、そんな熟練の強者の静けさが感じられた。

 女性の、獣狩りの狩人も居たのか。全然、知らなかった。

「今夜は獣狩りだ。まだ通りを歩いてる奴がいるなんてね……それも、若い娘が」

 けして馬鹿にしている声ではないのだが、はむっとし眉を寄せる。

「……ご面倒をお掛けしました。すぐに家に戻るので、もう平気です」

 さっさと離れてしまおうと、ぐっと力を入れ立ち上がろうとした、その瞬間。
 の足首に、痛烈な痛みが走った。
 あまりの痛みに、はすぐさまうずくまる羽目になってしまった。どうやら、倒れこんだ拍子に、痛めたらしい。

 獣に追われた上に、狩人に会って、なんて厄日だろう。狩りの夜なのに、最悪の出だしだ。

 腹立たしさと情けなさで、は唸りながら足首を擦る。すると、鴉羽の外套を羽織る女狩人は、ゆっくりと首を傾げ、視線を下げた。

「なんだい、あんた怪我でもしたのかい」
「べ、別に、平気です」

 弱みを見せたくなくて、は無理やり立ち上がろうとする。だが、足元はぐらつき、身体がぐらりと傾いた。
 再び倒れそうになったを、いつの間にか距離をつめた鴉羽の狩人が、肩を抱き支える。その予想外の強さに、は驚きながら女狩人を見上げた。
 頭上にあるペストマスクの向こうから、大きな溜め息が聞こえてきた。

「はあああ……仕方ない。送り届けてやるから、おぶさりな」

 女狩人は仕方なそうにへ背を向け、その場にしゃがんだ。

「べ、別に、必要は」
「獣を舐めてんのかい? そんな細い身体、奴らの良い餌だ」

 強く言われ、はぐっと声を詰まらせる。否定のしようがない、正論である。

「目覚めが悪いだろ、若い娘をそのまま行かせたら。他の狩人連中は知らないが、私はそこまで腐っちゃいないよ」
「……」
「ほれ、早くおぶさりな。血の匂いに、獣はどんどん集まってくる」

 けっして狩人を頼ろうなどとは思わなかったのだが、獣が寄ってくるという言葉に怯んでしまう。考えた末、は無言のままヨタヨタと女狩人の背に近付き、負ぶさった。
 の葛藤とは対照的に、女狩人は膝裏にさっと腕を回すと、苦もなく立ち上がり、暗くなりつつある路地を歩き始めた。

(まさか、狩人におんぶされる日が来るなんて……)

 狩りに関わるものは忌々しく思うにとって、全く予期せぬ出来事だ。幼い少女でもないこの年になって、赤の他人におんぶされるという事自体が滅多にない事だけれど。

「――それにしても、獣狩りの夜に出歩く、豪胆な娘がいるなんてねえ」

 静まり返った路地に、女狩人の声がふと響いた。

「狩人をやって長いが、そうそう居ないよ」
「……褒めているんですか」
「感心が半分、呆れが半分といったところさ」

 道はこっちで良いのかい、と付け加えた女狩人へ、は小さな声で肯定する。

「あんた、何だって出歩いてんだい。狩人の真似事、でもなさそうだ」
「……」
「まあ、ババアの独り言だ。答えなくて良いが、慣れてるからって獣は舐めない方が良い」
「舐めてなんかない。獣は、恐ろしい。でも、人間の方が、もっと恐ろしい」

 無意識の内に、語尾が強まる。女狩人の肩に添えた手のひらにも力が入り、ぐっと掴んでしまった。

「……一人暮らしの、病気がちな人のところへ見舞って、お手伝いしていたんです。他所から来た人というだけで、ヤーナムは皆冷酷だから」
「……そうかい、ならそいつのためにも気を付けな。こんな有様のヤーナムで、数少ない優しい隣人まで失くしたとあったら、そいつは悲しむだろうさ」
「……はい」
「おっと、年を取ると、どうにも説教っぽくなっちまうね。これもババアの独り言だ」

 女狩人は、機嫌を悪くした様子を見せず、仄かに笑った。の言葉の節々から生えた棘に、気付いているにも関わらず。
 それだけで、この女狩人は多くの醜悪さと凄惨さを目の当たりにし、その上で未だ狂人の域へ踏み込んでいないのだと、感じ取った。
 落ち着いた低い声の通りに、二十歳に満たない小娘のよりもずっと年上で、ペストマスクの向こうにある面持ちも相応のものに違いない。自らを“ババア”と称しているが、言うほど年も取っていないのではないだろうか。老齢な年代ではなく、五十代の気がする。

 こんな人が、まだヤーナムには残っていたのか――。

 それは確かに、純粋な驚きだった。

「……ねえ、鴉の狩人さん。貴女には、怖いものなんて、ある?」

 何となくこぼした呟きは無視されるかと思っていたのだけれど、意外にも女狩人は「なんだい、急に」との話し相手になってくれる姿勢を見せた。

「貴女は、獣を殺せる狩人だから。きっと怖いものなんて、無いんだろうなって」

 すると、ペストマスクの向こうから、大きな溜め息が響いた。「そんな事あるもんかい」と告げた声には、多大な呆れが含まれていた。

「恐れているようじゃあ、獣を殺し、生き延びる事は出来ないだろうさ。だが、真っ当な感情を忘れて正気を失った狩人は、そいつはもう血に酔ってしまった狩人だ」

 何かを恐れ、縋る事は、狩人とてあるだろう。むしろ狩人こそ、その弱さと常に隣り合わせだ。
 とても静かに、女狩人はそう呟いた。

「誰だって“人”でいたいもんさ。例えいつか“人”を失うとしてもね。だから誰かが止めてやって、人であった事を敬ってやらないと――その為に、私は此処にいる」

 は、ただ耳を澄まし、女狩人の言葉を聞いていた。
 狩人の事情は、よくは知らないが……かっこいい人だなと、悔しいがそう思えた。遠い昔の時代、狩人が英雄と呼ばれた時もあったと聞きかじった事があるが、今では誰にも感謝されず不毛な狩りを続けるだけの存在だ。だが、閉じこもり陰口を叩く以外の楽しみを知らない住人より、遥かに勇ましい。もちろん、などよりもずっと、だ。

 この鴉羽の狩人は――揺るがない芯を持つ、強い心を持っている

 病魔と荒廃で荒れてゆくばかりのヤーナムに、まだ、こんな人がいるのか。
 まるで、あの人のよう。
 浄化などと称して街一つを焼いた、炎に塗れたあの獣狩りの夜。泣きじゃくり八つ当たりをするばかりの少女だったを抱え、炎の中を駆けた灰色の狩人。火薬の匂いを纏うその面影が、何故だか脳裏に甦った。


 狩人は、嫌いだ。
 けれど、そんな狩人に、今も鮮烈に惹かれる何かを感じてならない――本当に、おかしな話だ。


「……ねえ、鴉の狩人さんは、狩人をやってもう長いの?」
「いつからやり始めたのか、もう忘れるくらいにはね」
「そう……いくつの時? ヤーナムを出ようとは、思わなかったの?」
「私には私の狩りをする目的があるからね。……なんだい、急にお喋りになったじゃないか」
「いいじゃないですか。家まではまだ、もう少しあるんだから」

 はああ、とこぼした溜め息は、いかにも煩わしそうに路地に響いた。だが、の取り留めのない問いかけを、女狩人は蔑ろにしたりせず、言葉少なく応じてくれた。

 それは、ほんの一時の邂逅。獣狩りの夜に起き、そして夜明けと共に忘れるだろう出来事だ。
 けれど。

(……女の人におんぶされるなんて、お母さん以外では初めてだな)

 病気がちだった母がまだ元気に歩いていた頃、おんぶして、故郷の歌を歌ってくれた。
 ヤーナムへやって来る以前の、もはやおぼろげに遠ざかってしまった、過去の記憶だ……――。

 あの温もりとは、全く違うのに――何故、母を思い出すのか。

 無数の黒い鴉の羽根を幾重にも重ねて縫い付けた外套に、頭をもたれる。心地好さとは縁遠い、かさついた羽根の独特の感触と柔らかさは、意外と悪くはなかった。



ゲーム本編前の、ある日の獣狩りをイメージしました。
かっこいいババアにおんぶしてもらいたかっただけ。

◆◇◆

ブラッドボーンで人気を誇る古狩人――狩人狩りアイリーン。
彼女、ぶっきらぼうだけど気風がよく、芯のあるかっこいい狩人ですよね。
正しく、頼れる姉御。
本編前もそうだったに違いない。

だからこそ、本編のアイリーンの結末を思うと、泣けてしまう。
彼女の遺志も、天へ、あるいは狩人の夢へ、届いて欲しいと心から願う。

(お題借用:sprinklamp, 様)


2019.06.25