あの過去は生きていた

 重厚な棺の真下に隠されていた階段は、地下へと暗く伸びていた。
 仕掛けまで施され秘匿されていたわりには、下へと続く空間はきちんと成されており、この道程が何か重要な役割を担っていたという事は、薄く想像が出来た。

 カツン、カツン、と自らの足音が響く石畳の階段を下っていった、その終着点に見えたのは、屋内らしからぬ土埃と雑草で荒れ果てた暗い風景と――血で黒ずんだ古い貼り紙と共に閉ざされた、巨大な扉だった。


 ――これより棄てられた街。獣狩り不要。引き返せ


 何処か厳格な匂いを漂わせる、堅い字面で綴られた言葉は、市街地の住人とはまた違う気配をひしひしと感じさせた。どれほど扉を叩いてもけして開こうとしてくれなかった彼らは、獣狩りを疎ましく思いこそすれ拒絶の言葉は無かった。まあ心の底ではどう思っているか分からないが、ともかく。
 ここは、聖堂街ではなく、また別の区画だろう。この古い木の扉は、何を隔てているのか。
 微かに漏れている光を見ながら、両手をつき、扉を押し開いた。

 瞬く間に、匂いが変わったのを理解した。市街地とも聖堂街とも異なる匂い……――。

「……何だ、ここは……?」

 真っ先に視界へ飛び込んだのは、炎と、灰色の煙だった。
 沈んでゆく太陽の、不気味な眩しさを帯びた夕暮れの赤い光に照らされた、ヤーナムの街並み。けれど、最初に抜けてきたあの市街地とは、全く風景が違っていた。
 焼け爛れている。街並みも、建物も、風景を彩ったであろう草花や樹木も、全て等しく。
 辺り一面、油でべたつき、炎で燻り、残りカスの灰と煤が散乱し、夕暮れに染まる空へ舞い上がっている。
 骨組みのみを残し焼け落ちた黒い建造物までもあり、修繕される事無く放棄されたのだろうか。ふわりと吹く風には気味の悪い熱が孕まれており――焼け焦げる煤と獣、そして油の匂いがおびただしいほどに漂っていた。

 まるで、今も治まらぬ炎に焼かれているような、惨状だった。


 ――ねえ、狩人さん。ちょっとした、昔話をしてあげるわ


 狂おしいほどの血と獣の匂いを、一時であっても忘れさせてくれる、市街地にいる彼女は静かな面持ちで教えてくれた。


 ――市街地は、本当はもう一つあったの。聖堂街の近くの、谷間に、谷の底に。でも、全部焼かれた。私が子どもの時、あの獣狩りの夜に……全部。


 ヤーナムの噂を耳にし、病を患った家族のため一家で移り住んだという、同じ異邦人であるの過去の話。彼女がぽつりぽつりと明かしてくれた話の中に、焼き棄てられた市街地が出てきた。
 とある獣狩りがあった夜、谷間の市街地は常と異なる有様だったそうだ。体調を崩す者が次々と現れ、住人らは一斉に病を発症したという。徒党を組んで現れた医療教会の者達は、病に冒された人々に救いの手を差し伸べるかと思ったが、投げ寄越されたのは油と炎だった。
 医療教会は、浄化と称し、街一つを炎の海に沈めたのだという。
 現市街地の建物の中で見つけた、住人の手記の切れ端にも「医療教会は俺達を見捨てるつもりだ。あの月の夜、旧市街を焼き棄てたように」とある。

 病の浄化を謳った炎に、生きたまま焼かれる事を望まれた――当時の住人達や、幼いの心境は、どれほどだったか。何もかも嫌悪した彼女を、責める事など出来まい。狂っている、などと、そんな言葉一つでは足りない、道を外れた所業である。

 ここが、その忌まわしい惨劇の舞台となった、閉ざされた場所――旧市街なのか。

 木の扉をすり抜け、今もなお炎と灰で塗れる、煤こけた黒い街へと踏み出す。茫然としながら辺りを見渡したが、人の気配は、とても感じられない。だが、至るところから煙が上がり、燃え盛る焚き火があり、しかも扉が閉ざされている。という事は、この地には未だに誰かが……――。

 そう思った、その時であった。


「――狩人よ、警告は読まなかったのか?」


 何処からか、声がした。焼け焦げた空気が満ちる、痛ましい風景には不釣り合いな、低く厳格な男のものだった。

「引き返したまえ。旧市街は獣の街、焼き棄てられた後、ただ籠って生きているだけ。上の人々に、何の被害があろうものか」

 何処からだ、何処から声が。
 再び辺りを見渡したが、それらしい姿は何処にも見当たらなかった。

「引き返したまえ――さもなくば、我々が君を狩るだろう」

 低い声が、途絶えた。主を探しながら、石畳を踏み付け、橋へと進む。灰と煙の中に身を潜めていたのだろう、もはや人の姿を失った獣の罹患者が現れ、襲い掛かってくる。ヤーナム市街に居た瞳の蕩けた住人らとは異なるその姿こそ、病を発祥した者の行き着く末路なのだろう。振り回すのは松明や鍬ではなく、自身の指先に伸びた鋭い獣の爪だ。
 それを躱し、ノコギリ鉈で切り伏せながら進んでいくと、再び男の声が聞こえた。

「……貴公、よい狩人だな。狩りに優れ、無慈悲で、血に酔っている。よい狩人だ」

 それは、賞賛ではない。ありったけの憎悪を込めた――蔑みだ。

 獣を踏み越え、ふと、前を見る。煙が上がる広場のすぐ側に佇む、時計塔。旧市街を展望出来るだろうその天辺に、小さくはっきりと認識出来ないが、確かに人の姿があった。

「――だからこそ、私は貴公を狩らねばならん!」

 ガシャリと、何か音がする。声の主が、傍らにあった大きな塊――何かの仕掛けだろうか――を動かした、その直後。
 時計塔の天辺から、何十発という桁違いの弾丸が恐ろしい速度で降り注いだ。それは僅かな狂いもなく、真っ直ぐと正しく俺の身体を狙い、ずたずたに打ち抜いていった。




 再び目覚めた時には、旧市街の入り口の灯りのもとに戻されていた。
 全身に降り注いだ鉛の熱、重さ、全てが生々しく残っている身体を立ち上がらせる。

「……問答無用、というやつか」

 こちらの言葉には、聞く耳を持たないようだ。いいや、そもそも聞くつもりもないのだろう。
 あれは果たして、何者なのか。言葉からして、焼き棄てられた旧市街を浅からず想い、獣狩りの狩人を嫌悪しているようだったが……。

 少女だったがかつて過ごし、そして今のを作った、惨劇の地。
 例え狩りに何の関係もないとしても、しかと見なくてはならないのだと、何処か使命感にも似た感情が胸に浮かんだ。気持ちを落ち着かせるように息を吐き出した後、もう一度旧市街へ踏み入れた。


 ……しかし、時計塔の天辺に居座る低い声の主は、本当に容赦が無い。俺の姿が見える限りは、大量の弾薬を斉射し続け、執拗に狙い澄ましてくる。何度死に戻ったのか定かでないほどに、その人物に殺され続けた。
 だが、鉛の雨を潜り抜けついに、ようやく時計塔の足下にまで来る事に成功した。

(……高いな……)

 入り口辺りから見た時は、さほど特別高さがあるように思わなかったが、こうして見上げてみると想像以上だ。上から落ちたら、ひとたまりもないだろう。確実に、使者の灯りのもとへ戻される。

(昇るべきではない。先に進み、ゲールマンの言っていた谷間の教会にあるという聖杯を探すべきだ)

 あれほど正確に打ち抜いてきた輩だ。これまでのように、問答無用で殺されるだろう。
 だが、何故か、一目だけでも見ておかなければならないのだと、無性に掻き立てられた。
 名の付けられない感情に背を突き飛ばされ、梯子に足を掛ける。落ちたらまず助からないだろうという高さまで、ひたすら昇り、ついに時計塔の天辺へ辿り着いた。

 柵らしいものも見当たらない、殺風景なそこには、風の音が響いている。今も煙が上がり、炎の燻る惨劇の旧市街が、よく見えた。
 俺を執拗に狙った、弾丸を撃ち続ける大きな仕掛けも、そこにあった。砲台のように見えたけれど、まるで違う。もっと精密で、もっと複雑な造りをしたものが、台座に固定され堂々と在る。環状に束ねた複数の太く長い砲身、ベルトのように連なった大量の弾薬……自身に関する記憶は全て失った身だが、機関砲という言葉がふと脳裏に浮かび上がった。
 古都と称される通り、閉鎖的な古い地で、まさかそのような代物と見えるとは思わなかった。

 ――傍らに佇む、その人物が、あの機関砲の操っていたのか。

「――今夜の、獣狩りの狩人。貴公、警告を破った者だな」

 扉を開けた先で聞いた、あの低い声だった。強く、厳格で、射竦めるような威圧もあり――身体が震えたのが、分かった。理性を失った住人、病を発症した獣、巨大な身の丈の獣など、人知を外れた存在と既に何度も対峙してきたが、それらとはまた違う恐ろしさを確かに抱いたのだ。

 この男は、強い。俺などよりも遙かにずっと強く、そして死地を潜り抜けているに違いない強者だ。そんな事を、自然と理解させられる居住まいと声色だった。

 伸びた男の背が、悠然と振り返る。時計塔へと昇ってきた侵入者に、僅かな狼狽も感じさせない。

 ――だからこそ、その時、何か裏切られたような、愕然とした心地が胸に広がったのだ。

 男が目深に被った帽子は、枯れた羽を模った、灰色の狩帽子だった。その身を包む、使い込まれたのだろう狩装束もまた煤けた灰色を宿しており、浄化の炎に沈んだ旧市街に皮肉なほど似合う風体だった。
 古びた白布で片目を隠すその面立ちは、けして若くはない。白いひげの生えた顎、余分な肉のない輪郭、深く刻まれたしわなどから、老齢の印象を抱く。だというのに、年老いた脆弱さは全くと言っていいほどなく、年を重ねより鋭く研ぎ澄まされた、熟練の老狩人と呼ぶべき空気が纏われていた。

 ……そう、狩人だ。それも、血と獣に溢れたヤーナムで、今もなお狩りを続けているという、古狩人に違いない。
 アイリーンやガスコイン神父と同じ存在だろう。だからこそ、解せなかった。

 熟練の古狩人が何故、獣を守り、狩人を狩ろうとしているのか。

「……いい狩人だ、そこそこの度胸もある。だが」
「……!」
「――甘い」

 灰色の古狩人は、外見の年齢にそぐわないほど俊敏に踏み込み、右手に装着した仕掛け武器――複雑な機構と太い杭を備えた、見た事のない形をしている――を振り抜いた。
 外見の重厚感に反し、振りが速い。ハッと意識を戻し、横へ飛び退く。だが、避けたと思った瞬間、男の左手に握られた散弾銃は腹部に突きつけられており、一瞬の間に引き金が引かれた。
 ダァン、と鳴り響く銃声。次いで飛び散った散弾と、火薬の匂い。

「が、ふ……ッ!」

 速い。とても老齢とは思えない、無駄のない足運びだ。
 散弾銃が身体を食い破る感覚に呻きながら、たまらずノコギリ鉈を振ったけれど、容易く躱されてしまった。

「古狩人殿!」

 半ば叫ぶように、声を上げる。灰色の狩帽子の向こうから、男の眼差しが突き刺さる。

「俺は、貴公と、争いにきたわけでは……!」
「ほう? 下にいる彼らを、殺していただろう。であれば、理由など十分だ」

 灰色の狩人は、低い声を唸らせ、大きく踏み込んでくる。
 その動きを身ながらも、俺の身体は動かなかった。それが、俺と、この狩人の、覆せない力量の差なのだろう。

「――私はこれ以上、この街の人々を、殺させるわけにはいかない。医療教会にも、狩人にも!」

 ガシャリと、音が鳴り響く。彼の右手に装着された武器の仕掛けが動いた音だった。
 気付いた時には、男の武器は俺の胸に叩き付けられており、炎と共に火薬が爆ぜていた。

 何の仕掛けだったのかは分からない。だが、火薬による爆発が起き、熱と痛みに焦がされる身体が宙に吹き飛んだ事は理解した。
 ろくな柵などない時計塔の上から投げ出され、遠ざかる塔の風景をいやに鮮明に見ているのだから。

「――貴公、まだ夢を見るのだろう?」

 灰色の古狩人は、縁に片足を乗せ、静かに見下ろしていた。瞬く間に遠ざかってゆくのに、その姿が、いやにはっきりと脳の奥に突き刺さった。

「であれば、あそこでよく考え直すことだな」

 灰色の狩人は、静かにそう告げた。俺は目を見開き、届かぬ手を伸ばした。

 “夢”を、知っている。ならばこの古狩人も、見ていたのか。
 あの夢を――白い月と、白い花に彩られた、月の香りが満ちる、狩人の夢を。

 時計塔の上にいた古い狩人は、正しく先達者だった。きっと狩りに優れ、無慈悲で、そうして数え切れない夜を生き残ってきたのだろう。そんな老練の強者でありながら、何故、旧市街を守っているのか。
 何故、狩人でありながら、狩るべき獣を守っているのか。

(知らない事が、増えていくばかりだ)

 だが、一つ、理解した。



 ――旧市街にいた狩人さんが、私を抱えて連れ出してくれたのよ

 ――狩人さんが被っている帽子がね、その人のものにそっくりなの



(……お前なんだろう?)

 浄化の炎で焼かれる市街地から、幼い少女だった彼女を抱きかかえ、救い出したという狩人は――きっと、あの男なのだ。

 その存在を語る時、彼女は常と異なる表情を見せた。想いを馳せるように静かで、けれど恋焦がれるように熱を帯び、それがたまらないほど艶やかだった事を今も鮮明に覚えている。
 忌々しく思う一方で、今も強烈に彼女の心を捕らえている狩人は――こんなに、強者であるのか。
 ふっと、瞼を下ろす。やがて訪れる死の衝撃を、今ばかりは抗わず、静かに受け入れた。


◆◇◆


 灰と炎の匂いのしない市街地の、通い慣れた通りを進む。の住居を訪ねると、彼女は呆れたように笑いながら扉を開き、ごく自然に招き入れてくれた。

「まったくもう、貴方、また来たの。狩りに行きなさいよ」

 しかめっ面の多い彼女だが、段々と、素の表情を見せてくれるようになった。それはとても、喜ばしい事だと思う。訳も分からぬ内に狩人となり、獣狩りに身を投じ、時々狂いそうになる思考が平常を保てているのは、彼女の存在のおかげと言っても過言ではないのだ。それほどこの場所は、彼女は、俺にとって何物にも代えがたい存在となりつつあるのだ。

 ――だからこそ、なのか。

「仕方ないわね。ほら、紅茶を淹れてあげるから、そこにお座りなさいよ」

 まったくもう、と柔らかく微笑みながら、はぼやく。テーブルの側へ向かう彼女の手を、思わず、後ろから掴んだ。

「……狩人さん?」

 驚いたように振り返った彼女が、俺を見上げる。


「なあに?」

 旧市街に辿り着いた。貴公の言う、灰色の狩人に出会った。
 そう告げようとし、一瞬迷った末、止めた。口に出してしまったら、胸の奥底に渦巻く醜い感情が、もっと鮮明に色を帯びてしまいそうで、恐ろしかったのだ。

「……すまない、何でもない」
「何でもないって、狩人さん」

 不思議そうに見上げるを、無言のまま抱き寄せ、両腕の中へ閉じ込める。彼女は何度も身動ぎをしたが、俺の腕が解けない事を知ると、小さく溜め息をこぼし腕の中に納まった。

「嫌な事があったの? 獣狩りの夜だもの、気にしたら駄目よ」
「……そうだな。だが、今はしばらく、こうさせてくれ」
「……分かった。しばらく、ね」

 の身体から力が抜け、俺に寄りかかる。それを抱きしめながら、俺は安堵ではなく、渇きを覚えた。彼女がどう笑うのか、どういう仕草をするのか、身体の細さと儚さ、温もりと柔らかを知っているのに、何か、足らない。ヤーナムへ来る以前の記憶が失われ、もうほとんど俺自身には残されていないからだろうか。
 渇くような物足りなさが、ずうっと、胸の底にこびり付いている。旧市街に踏み入れ、灰色の狩人と出会ってから、何故か。

 この美しい横顔は、他の男の存在で艶やかになり、そして幾度も想いを馳せ熱を帯びる。
 には、その自覚はない。きっと、意識などしていないのだ。それほどまでに、忌々しく思いながらも、あの狩人はの中に在るのだろう。これからも、きっと。

 ……ああ、そうか。それが、耐えがたいのだ。
 あの強者が、彼女の中にあるという事が。



焼き棄てられた旧市街を守る、古狩人デュラ。
灰色の狩装束に身を包み、他にない異形の仕掛け武器――パイルハンマーを愛用する彼は、黒い狩装束のモデルにされるほど象徴的に存在していた。
けれど、ある時を境に、狩人である事を止めた。英雄と呼ばれた時代を生き、そして狩人の夢を見ていた、老練な強者をも折ったその出来事は、よほど凄惨な記憶なのだろう。

◆◇◆

月の狩人の、きっと“最初”の悪夢。
機関砲の洗礼は、きっと彼の脳裏に強烈に刻まれたはず。そして乗り越え、会いに行った先で、成す術なく敗北した。
後に彼が悪夢を繰り返すにあたり、得なければならなかった強さの一つになったのかもしれません。

基本、フロム産のジジイとババアは恐ろしく強い。
一週目、旧市街に訪れてすぐデュラに会いに行く場合は、相当な覚悟が必要です。
ですが、後輩狩人へ、この言葉を送ります。

――ヤハグル教会へ向かいたまえ。


(お題借用:スカルド様)


2019.12.09