ひとりになって、ふたりになる

「今日は、天気が良いですね」

 痩せ細ったギルバートの手を握り、肩を支え、ゆっくりと街中を進みながら語りかける。彼は痩けた頬に笑みを乗せていた。

「ゴホッ……そうですね、幾分、身体も調子が良いです」

 ここ最近は咳き込みがちで、ベッドに臥せる事が多かった。外を歩けるだけの気力があると、喜ばしく思う反面、日に日に痛ましくなる姿はの胸を締め付ける。それでもけして、ギルバートはに弱音を吐かない。娘ほども年の離れたへの、彼の意地なのだろう。
 とはいえ、そう遠くまで歩くなんていう、無理はさせられない。彼の住居からほど近い、聖堂街へ続いているという地下墓へ繋がる大橋が見える場所が、定番だった。

 そこへ向かう途中、家々や道端の隅からは、住人達の陰険な眼差しが向けられる。獣狩りの夜ではないこの日、ヤーナムの市街地で暮らしている彼らも外へ出ているが、露骨に表情を顰めいかにも不快を露わにし、ひそひそと囁きを交わしている。その全てが、とギルバートに対してのものである事は明白だ。
 けして気持ちの良いものではないが、あれにもすっかり慣れてしまった。散歩くらいでケチをつけるなんて、なんと心の狭い事かと、鼻を鳴らし睨み返すくらいには傷つく事もなくなっている。

「……すまないね、さん」
「え?」
「私が、たまには外に出てみようなんて、言うものだから。貴女まで不快な思いを……」
「何を言っているんですか。ギルバートさんは、なんにも悪くないです。それに、獣狩りのない日です。数少ない楽しみですから」

 背に浴びせられる陰険な眼差しを無視し、いつもの場所へ到着した。手頃な木箱を腰掛にし、はギルバートと共に肩を並べる。

「ああ……風が、吹いているね」
「最近、空気も涼しいですからね。大丈夫ですか、冷えませんか」

 山間にある古都ヤーナムは、市街地と旧市街とでも高低差がある。景観は美しいが、肌寒い季節ともなれば空気は冷え込みがちだった。

「ああ、大丈夫。涼しいくらいがいい。頭がしゃっきりとしますから」

 それに。
 ギルバートは呟くと、空を仰いだ。

「風が吹く日は、ヤーナムの空気もいくらか清浄になる」

 血の匂いも、獣の匂いも、涼やかな風に乗り遠ざかる。それが一時のまやかしであるとしっても、僅かでも忌まわしい風習を忘れられるのだと、ギルバートは静かに呟いた。
 その直後、彼は大きく息を吸い込み、背を丸め、激しく咳を上げる。は彼の背に手を添え、労るように擦った。

「ああ、すまない、大丈夫だよ……ッさんは優しくて、頼もしい女性だ」

 心強いよ、と微笑むギルバートに、はきゅっと口を噤む。
 私は、そんなに優しい人間ではない。立派な、出来た人間でもない。我が身が一番可愛い、みっともない女だ。
 けれど。

「いつも、ありがとうございます」

 この人にそう言われると、とても、嬉しく思う。

「……こんな世界でも、信頼出来る人がいるのは、素晴らしい事だ」
「ギルバートさん以外に、紳士な人は知らないです」
「おや、ありがとう。私も……貴女のような、心根のまっすぐな、清らかな人は知らないよ」

 例えお世辞だと知っても、嬉しかった。貴方を身勝手にも父あるいは祖父のように慕い、実の娘のようにお節介を焼く、それがこのヤーナムで唯一出来る事なのだと思い込んでいるだけの女だというのに。
 余所者と疎まれ、誰からも邪険にされ、それでもなお心根の曲がらない貴方こそ――私は、心から慕い、また尊敬していたのだ。





 窓辺から差し込む赤い月光は、眼の奥に沁みるようだった。銀色の満月だったはずなのに、瞬きをした刹那の内に血の色へと染まり、夜空は紫がかった不気味な色を帯びた。

 ――泣きじゃくる赤ん坊の声が何処からか響き渡った、あの時から。

 長い長い夕暮れが過ぎ、満ちた月が昇ってから、市街地は惨憺たる有様だった。いつものように住人は閉じこもり、獣狩りが終わるのを息を潜め待っていた。しかし、家々からは悲鳴が上がり、発狂する耳障りな悲鳴が市街地のそこかしこから聞こえ始めた。そして、赤い月が現れてからは、しんと沈黙している。あれほど耳をついた悲鳴は急に途絶え、恐ろしい静寂に包まれているのだ。
 無事なのは、恐らく、だけだろう。何故、未だ己は正気なのかと、逆に恐怖を抱く。いっそ狂ってしまったら――どれほど楽か。

 一体、何が起きているのだろう。このヤーナムに。

 獣の病、獣狩り、奇跡を謳う血の医療、既に常軌を逸脱したこの古都ヤーナムはついに狂ってしまった。これからまだ、何か酷い事が起きるに違いない。悪寒が止まらず、身体がガタガタと震える。頭の中にまで、その振動が響く。

「……狩人さん、ギルバートさん」

 ヤーナムで唯一心を許した、二人の異邦人の姿がよぎる。この赤い月夜の中、狩人は狩りをしているのだろうか。ギルバートは、大丈夫だろうか。尽きぬ不安から逃れるように、は両手を組み祈るばかりだった。


 ――トントン


 控えめに扉を叩く音が、の耳へ届く。跳ね上げるように顔を起こすと、「、俺だ」と聞き慣れた静かな低い声が続いた。ソファーから立ち上がり、駆け足で扉へ向かう。勢いよく開けば、そこにはやはり彼が佇んでいた。

「狩人さん!」

 目の前の胸に飛びつくと、狩人の両腕がを抱きとめる。

「一体、何が起きているの。市街地は、他の住人は。あの空の月は何なの」

 が見上げると、狩人は口元を隠す血避けの黒い布をずらし、額に唇を押し当ててきた。そのまま瞼へと下り、最後はの唇を奪っていった。矢継ぎ早に疑問を繰り出すを落ち着かせるための行動とも言えるが、狩人自身が心の安寧を求めているようにも思えてしまった。

「……狩人さん?」

 じっと見下ろす彼の瞳には、切実な深い感情が宿っている。此処に来るまで、彼はもっとおぞましいものを見てきた事だろう。無理もない。狩人とて、ただの人間だ。

「……外は、きっと大変な有様なのでしょうね。大丈夫?」
「……ああ。いや」

 どっちよ、などと笑う事は出来なかった。
 獣を狩る狩人ですら、平常でいられなくなる。なら、閉じこもっている住人は……――。

「ギルバートさん、大丈夫かしら……」

 が呟いた瞬間、狩人の身体が微かに震えた。ごく小さな振動は、けれどはっきりとに伝わった。

「……ギルバートさん、何か、あったの」
「……」
「狩人さん」

 予感めいた焦燥が、足下から這い上がってくる。黒いコートの襟を掴み、詰め寄るように彼を見上げた。
 彼は、何も言わなかった。
 元々、口数は少ない方ではあるが、その沈黙は――きっと、違う意味を孕んでいる。

「ギルバートさん……ギルバートさんのところに」
、だが」
「お願い。ギルバートさんのところへ、連れて行って」

 その懇願に、狩人は酷く躊躇った様子を見せた。当然だろう。それでもは何度も、何度も願い、その胸に縋った。口数は少なく、物静かで、けれど優しい狩人は、長い間沈黙し悩み抜いた末――の身体を静かに離し、手のひらを差し出した。感謝と謝罪を抱きながら、それをしっかりと握りしめる。狩人の導きのもと、はおぞましい赤い月のもとへ繰り出した。




 ギルバートの住居は、丁度ヨセフカ診療所と市街地を繋ぐ門の上方にある。
 そのため、一際赤い月が近く、また大きく映った。
 不気味な赤い月光に目眩を感じながらも、覚束ない足は、ゆっくりと進む。

 点々と散らばった、硝子破片。
 てらてらと湿った、真新しい血の痕跡。
 そして、内側から破られた、住居の窓枠。

 惨状に彩られた住居の傍らに、その人はひっそりと蹲っていた。

「……ギルバートさん」

 扉に背を預ける、引き裂かれた衣服を纏った“獣”。
 毛むくじゃらの顔、カサカサの毛皮、伸びた四肢に鋭い爪。面影など、何処にもない。それでも、その獣が、その人だと何故だかはっきりと分かった。

 ――このヤーナムで、ずっと一緒に居たもの。分かって、当然だわ。

 言葉が上手く出てこない。唇がしきりに戦慄き、意味の成さない声がこぼれる。
 握っていた狩人の手を離し、真っ赤に塗れた獣の正面へと近づく。地面を濡らす獣血も構わず、スカートを広げ腰を下ろした。



 微かな困惑を帯びた声に制された。けれど振り返らず、真っ直ぐと獣を見つめ、その顔に手のひらをそうっと伸ばした。

「……貴方は、これをずっと、隠していたのね」

 年々、咳が酷くなり、病がちな身体は弱り切っていった。それでも、獣狩りの夜にはいつもを案じ、「獣狩りの夜だ、きちんと戸締まりをするんだよ」なんて娘に言い聞かせるように笑っていた。今夜も、そうだった。長い夕暮れが始まる前、彼は変わらずへそう言ってくれたのだ。

 痩せ衰え、やつれた面立ちは、もはや実年齢も曖昧にさせるほどであったが――どのヤーナムの住人よりも、優しい微笑みを浮かべていた。けれど、けしてには明かさなかった。どれほど案じても、けして明かしてはくれなかった。不治の病を患いヤーナムへ訪れ、怪しげな血の医療に縋りながら、どうにか生き長らえているのだと、一度だけ教えてくれたが――年々、酷くなる咳の理由は、これだったのか。

 ギルバート。優しい、異邦人。
 ついには、獣と成り果てた。

「――ギルバートさんの、馬鹿」

 手遅れになってからではなく、貴方の口から秘密を聞きたかった。
 ベッドに臥せ、儚げに微笑んだ、あの姿。あれが、最後の“人”の姿であるなんて。

 怒り、後悔、悲しみ――様々な感情が、奔流となりへ押し寄せてくる。それも、もう彼へ伝える事は叶わない。

「……狩人さん。貴方が、介錯をしてくれたの?」

 背後に立つ彼は、何も言わなかった。だが、沈黙は、とても雄弁だ。

「……ねえ。誰か、傷つけたのかしら。この、優しい人は」
「……俺が来た時も、周りに新しい遺体はなかった。きっと、誰も、食い殺してはいない。殺してなど、いないはずだ」

 それは、あまりにも幻想じみた願望だった。しかし、そうであって欲しいと、も願わずにいられなかった。

「きっと、そうよね、きっと。ありがとう……貴方に介錯してもらえたなら、ギルバートさんもきっと安心して……――」

 その時、視界に収めた獣の亡骸が、ぴくりと微かに動いた。
 え、と声もなく驚いたの背後で、狩人の緊張を帯びた声が響き渡る。

!」

 目の前の獣が、腕を持ち上げる。太い爪が揃った獣の手は、へと近付き――肩に触れた。

「え……」

 人間など造作もなく引き裂く膂力を持つ、獣の手。それが撫でるような儚い力で肩を滑り、二の腕へと伝い、最後はの手へ重なった。

「既に、心臓は潰してある。動くなど、そんなはずが」

 狩人の静かな声が、珍しく、強い困惑を露わにしていた。
 は、それっきり動かなくなった獣の顔を覗き込む。その両目に、生気は欠片もない。光を失ったどろどろに蕩けた瞳は、空虚を映している。扉にもたれ掛かった獣は、間違いなく、既に事切れている。

 腕の一本、動くはずがないのだ。

「……執念、か」
「か、狩人さん……?」
「……そうか、きっと、執念だ」

 身体を貫かれ、心臓を潰され、なおも動こうとする、獣の衝動。
 あるいは――取り残されたまま在った、への情念。

 あまりにも空想じみた考えだったが、狩人は笑えなかった。身体の内側から破られ、心臓を奪われ、けして動く事のないギルバートがほんの僅か再び動いた。それをぞっと恐怖しながら、納得もしてしまった。
 ついに明かしてくれなかったギルバートの心の奥深くには、が存在していた。
 記憶を失った狩人が、そうであるように。

「……死してなお」

 ――死してなお、貴方はを求めたのだな。



 赤い月が現れる前の、未だ銀色の月が原型を保っていた時の事を思い出す。
 ふとギルバートの住居に立ち寄った狩人は、それを聞いてしまったのだ。

「なんで、私だけが……こんな……。神よ、あんまりではありませんか……。助けて、ください……助けて……」

 明かりが漏れる窓の向こう、ギルバートは悪化した咳を響かせながら、一人嘆き、また生を祈っていた。そして同時に、彼は吐露していた。

「ああ、さん……言ってしまえば良かった……。あまりにも不相応な想いを抱いたと、貴女こそが、私の生き長らえる理由であったと……」

 獣に成り果てるその恐怖に怯え、神へ祈りながら、一人の女性を想い続けていた。
 声など掛けられるはずがなく、彼の秘めた言葉を誰にも伝えない事を決め、その場を去った。それしか、出来る事はなかった。

 あの想いは、執念となり、獣の肉体に残ったのだろうか。
 ビルゲンワースの学長と白痴の蜘蛛が、湖の底へ隠していたあの赤い月という“秘密”……あれの下では、何が起きても不思議ではないだろうが……。

(……ああ、本当に、なんて忌まわしい夜だ)

 その縋る祈りに、応えるものが在った。
 それこそが――獣の病を発祥させる、最たる要因だったのだ。



 狩人の声が、酷く遠い。頭の中が、ぐちゃぐちゃに、壊れそうだ。

「あ、ああ、あ」

 震えが収まらず、ついには涙となって溢れ出た。両腕を伸ばし、獣となったギルバートを抱きすくめる。力が抜けきった身体は重く、そして血と獣の濃厚な匂いを放っている。触れた感触も、もはや人間のそれではなかった。

 それでも、間違いなく、この獣は――ギルバートなのだ。

「あああアアあああアアアアア!!」

 油と炎に塗れたあの獣狩りの夜に、枯れ果てたと思っていた涙が、滂沱となって溢れる。
 喉が引き千切れるような甲高い慟哭は、住人の絶えた市街地に、いつまでも木霊した。



夢主が発狂死する結末の、その内の一つ。
きっとこの後ヒロインは、オドン地下墓に続く大橋前のエレベーター付近、開けた場所で発見される。獣になったギルバートの亡骸と共に。

赤い月夜は、あらゆるものの境界を曖昧にし、そして狂わせる。
間違いなく、ヒロインも正気を失っていたのでしょう。

啓蒙があれば、あるいは……――。


2020.04.11