さようならすら聞こえない

 この人を救おう。
 夜明けを迎えたら、彼女の共に此処から離れよう。

 心の底から、そう思っていたのだ。





 ヨセフカ診療所で目覚めた時、自身に関する事は全て記憶になかった。ただ腕に巻かれた汚れた包帯と、微かな痛みが、医療を受けたという事実のみを物語っていた。
 何も知らず、何も持たず、“狩人”なる存在となったらしいが実感も無く、それなのに狂った住人達に幾度も殺される荒れた市街地は、俺の足を容赦なく止めさせた。

 家々に閉じこもった住人は皆、けして俺にはその門戸を開かず、口々に嘲りあるいは罵倒してきた。
 何一つ知らず、先へ進む事も恐ろしいその状況下で――初めてまともな会話を交わした時、心の底から安堵したのだ。

「ああ、獣狩りの方ですね。それに……どうやら、外からの方のようだ。私はギルバート。貴方と同じく、余所者です」

 獣から身を守るための太い鉄格子、その向こうの窓硝子にうっすらと浮かんだ人影。同じ余所者だというその男性は、病に冒されているらしく酷く咳き込んでいた。
 それから彼は、色々と、俺に教えてくれた。山間にあるという忘れ去られた古都ヤーナム、そこで暮らす住人、奇跡を謳う血の医療と医療教会、そして市街地の進み方――勇気づけられ、一人ではないのだと励まされた。どれほど救われたか、言葉では表せない。
 彼が“友人”と呼ぶべき存在になるまで、時間など掛からなかった。



「ギルバート殿。貴公は、という女性を知っているか」
……? ああ、さんですか。ええ、よく知っていますよ」

 窓硝子の向こうに透けて見える人影は、嬉しそうに揺れた。

「同じ異邦人の、若いお嬢さんでしょう? 私よりもずっと、此処に長く暮らしていてね……色々と、気に掛けてくれるのです。優しいお嬢さんですよ。貴方も、助けられた口ですか」
「ああ」
「そうですか……良かった、ちゃんと家に居てくれて」

 あの子、あれで妙に肝が据わって、獣狩りの日だというのに日没ぎりぎりまで出歩いてしまうのですよ。前科がいくつもあるんです、お転婆で困った子ですね。
 微笑むギルバートからは、親愛が感じ取れた。その時ばかりは病を感じさせず、穏やかな声で饒舌に語るのだ。
 ――市街地で住人の群衆に追われていた俺を手助けした女性――も、ギルバートの事を話す時は穏やかだった。同じ異邦人だから気に掛けていたのではなく、きっと血の繋がった父あるいは祖父として心から慕っていたのだろう。

 ヤーナムへ来る以前の記憶を失い、血と獣の匂いに塗れながら狩りをする己にとって、それは忘れそうになる人の温もりを思い出すよすがであり――同時に、酷く妬ましく、羨んでしまう繋がりだった。
 ただそれ以上に、ギルバートも、も、どちらも好いていた。ギルバートの元へたびたび出向いては、の話に花を咲かせたものだ。きっと彼女が聞けば、あのしかめっ面を赤らめそっぽを向くに違いないない。

 ギルバートと言葉を交わす短い時間は――人である事を思い出させる、貴重な一時となっていたのだ。





「――もう、お役に立てることもないようです……」

 最後にこれを、と差し出されたのは火炎放射器。窓の隙間からそっと伸びた、痩せこけた老人のような腕には不釣り合いな、不浄を焼き払う鈍い銀色の武器だった。

「結局、私には無為の品でしたが、貴方なら違うでしょう」
「ギルバート殿」
「もう、十分ですよ。むしろ、獣の病に罹らぬことを、感謝しています。せめて、人のまま死ねるのですから」

 ――何も、言えなかった。恩人とも呼ぶべきギルバートへかける言葉など、俺に浮かんでくるはずがなかったのだ。
 そしてそれが最初で最後の友からの贈り物であると、心の何処かで覚悟した。受け取った火炎放射器はずっしりと重く、その重みこそ託された思いであると、何も持たない俺ですら理解した。

「……お嬢さんを、さんを、よろしくお願いします」

 ゴホ、と咳をこぼしながら、ギルバートは言った。

「怪しげな血の医療に縋ってでも生き長らえている、こんな死に損ないの私にも、彼女は優しくしてくれた。私は、常と異なるこの獣狩りの夜を、なんとしても生き延びて欲しいのです。彼女は、彼女だけは」
「……」
「どうか、どうかよろしくお願いします……あの子は不器用なだけの、根はとても優しい、素敵な女性なんです」

 それは、娘を想う父の声ではなかった。
 間違いなく、異性を慕う男の声だった。

 ああ、そうか。貴方も、彼女を……――。

「――必ず。必ず、彼女を救う」

 痩せ細ったギルバートの手を包むように握り、躊躇わずに頷く。窓硝子の向こうの人影は、安堵した吐息を吐き出した。彼は弱々しく俺の手を握り返すと、静かに解放し、一礼し遠ざかっていった。

「ギルバート殿、待ってくれ」

 鉄格子を掴み、僅かな隙間へ声を掛ける。

「直接、会えないか。せめて、顔だけでも。一度だけで良い」
「……」
「頼む。俺の、初めての“友人”として」

 僅かな隙間から、動きを止めたギルバートが微かに見える。肩越しに振り返ってくれたような気がしたが……。

「――この呪われた街から、無事に離れる事を願っています。さんを、よろしくお願いします」

 尋ねれば応じてくれたギルバートは、それっきり、窓辺から消えてしまった。


◆◇◆


 ――あの時から結局、会えた試しはなかった。
 彼はあれ以降、一度も窓辺に立つ事はなく、言葉を交わす事も叶わなくなってしまった。もともと彼は酷い咳をし、重い病を患っていた。もう、窓辺に立つ事も出来なくなってしまったのかもしれない。
 市街地の道を示してくれた事、人らしさを思い出させてくれた事……数えればきりのない感謝を、出来れば窓硝子を挟まず対面し伝えたかった。もう、叶わない事であるけれど。


 けれど、目の前の“それ”が誰なのか、はっきりと理解出来るのだ。


「――ようやく、会えたな。ギルバート殿」

 湖と蜘蛛が隠した“秘匿”は破られ、現れた赤い月。紫がかった不気味な夜空からは、赤い月光が降り注ぎ、市街地を照らしていた。
 夕暮れから今に至るまで、何度も足繁く通った彼の住まいの近くには――けして見なかった“獣”がいた。かつて病が蔓延し医療教会により焼き棄てられたという、惨劇の旧市街で見た、獣患者と同じ姿をしている。

 ぼろぼろに引き裂かれた衣服を纏う、二本足で歩く毛むくじゃらの罹患者。眼は血走り、手は獣の如く大きく鋭利な爪が揃っている。それは、かつて人間であり、ヤーナムに蔓延する奇病“獣の病”に冒された者の末路の姿だ。

 それが誰なのか、分かった。
 病に冒され、人の姿をついに失った、心優しいあの友人だと、不思議と分かったのだ。

「ずっと、会って話をしたかった。ヤーナムの外の事、の事、ギルバート殿の事――話したかった事は、たくさんあったのだ」

 獣は俺を見るなり、耳障りな咆哮を上げ、俊敏に駆け寄ってくる。地を蹴り、飛びかかってきたその姿を、真っ直ぐと見つめる。右手に握ったノコギリ鉈を静かに放り、避ける事無く迎えた。
 顎から飛び出したギルバートの鋭い牙が、深々と肩を抉る。これまで幾度も感じてきた食い千切ろうとする痛みが迸り、鮮血が足下に飛び散った。

「……ッ! ぐ、ふ……ッ!」

 血を啜り歓喜する獣の呻き声が、耳元で聞こえる。貪ろうとしがみついてくる身体からは、鼻をつく獣の匂いが漂う。この悪夢のような世界を進むたび、それらはもうとっくに慣れてしまったとばかり、思っていたのだが……。

(貴公も、ずっと、恐れていたのだろうな)

 心優しい彼の事だ。けして誰にも明かさず、きっと歯が砕けるまで食いしばり、耐えていたに違いない。
 俺にも、にも、何も言わずたった一人で。ずうっと、戦い続けていたのだろうな……――。

 肩口から広がる痛みと血の熱に包まれながら、ノコギリ鉈を放った右手を、ギルバートの胸に押し当てる。

「――それでも、貴公に会えて良かった。ギルバート殿」

 ぎゅ、と力の限り拳を握り締め、獣となった彼の胸を貫く。
 耳元で響いた最期の悲鳴も、やはりギルバートの声ではなかった。けれど、夕暮れに出会ったあの記憶は、鮮明に脳裏に浮かぶのだ。

 痙攣し、やがて動かなくなった獣の身体が、力を失いずり落ちていく。それを腕で支え、静かに横たえた。虚空を見つめる、どろどろに蕩けた瞳に手のひらをかざし、そっと瞼を下げさせた。

「……だが、残酷だ。友人の介錯を、しなければならないなんて」

 心臓ごと肉を押し出し、背骨を貫通した自身の忌まわしい手は、ギルバートの真っ赤な血肉でべっとりと濡れている。

 へ、何と告げれば良いのだろう。
 この獣狩りが終わったら、様子を見に行かなければならないと、もう一度会える事を信じている彼女に、何と――。



『引き裂かれた古びた手記』

衣服の内側から発見したその手記には、日々の記録としては短い言葉が続いていた。
最後の頁には、恐怖と後悔、そしてある女への慕情が幾度となく書き込まれていたが、祈りはけして届く事なく、自らの血と爪により引き裂かれ終わりを迎えた。

ただ生きたかっただけの異邦人の男、なんと哀れな結末か。

◆◇◆

きっと一週目の悪夢における出来事。
この後に何度も繰り返す悪夢の中で、唯一ヒロインの救出を諦めない支えの一つになったのかもしれません。
ギルバート、貴方は最期まで友だった。


ところで、赤い月が現れた終盤の市街地で、絶望し打ちひしがれた狩人も多いはず。
最初の友人を介錯しなければならないなんて、あまりにも酷い。
これが絶望を売りにする、フロムのやりくちです。

【ひとりになって、ふたりになる】の傍らにあった、もう一つの物語。
そしてごめん、全然“夢小説”じゃないです。
(狩人も主人公だと思っているんだ……)


2020.04.11