エンディングはまだ遠い

 空が、不気味な夕暮れに染まってゆく。
 “獣の病”という風土病が蔓延し、救われる事などなく見放された美しい古都に、日没の赤い光が注ぐ。
 かつては栄華を誇っていたという華やかな過去など、誰も信用しないだろう。病に侵され、人から化け物へと変貌する住民がいる、呪われた都のこの有様から。

 静まり返った市街地に、鐘の音が響き渡った。
 夜を告げる、忌わしい宣告だ。

 ――獣狩りの夜が、また、始まるのだ。





 夕暮れを迎えた市街地に、いくつもの叫び声と、足音が響いた。

 病を発症し、獣と成り下がる者達が本性を現す日に、出歩く者などまずいない。ヤーナムの住民は皆、獣避けの香を焚き閉じこもり、特に余所者に対しその扉を開けようとしない。猜疑的かつ冷酷な本性を、嫌と言うほど知っているも、外に出ようなどと思わないが……何事かと外を見るくらいには、訪れる今夜の狩りに対し余裕はあった。


 まだ、空が夕暮れの色に変わったばかり。にも関わらず、悲鳴が聞こえる。皿やグラスなど食器の割れる音も、そこかしこから鳴り響いている。扉を閉ざし、家に篭った住民達が、狂い始めているようだ。
 今回の獣狩りは、何かおかしい。
 これまでにはない、もっと惨たらしい惨劇が起きそうな、嫌な予感がした。


「――ん?」

 何となしに窓の外へと視線をやった時、大通りが騒がし事に気付いた。
 その喧騒は、細い路地を曲がり、こちらからも見えるところにまで近付いてくる。
 松明を掲げ、薪割りの鉈や農具などを握り締めた住民達……市街地での暮らしを守ろうと、病の発症者を探していた、自警団だ。
 他人のためではなく、自らのために警邏に当たっていた彼らだが、今夜の獣狩りで、どうやら狩られるべき“獣”に成り下がってしまったらしい。
 そんなに嫌いな人達じゃなかっただけに、落胆を禁じえなかった。

 病を発症した自警団は、誰かを一心不乱に追いかけているようだった。
 夕暮れの不気味な陽射しに、血飛沫を散らしているのは――黒いロングコートを翻す、人物だ。仕掛けが施された鉈を、柄を折り畳み、あるいは引き伸ばしたりし、襲いかかる発症者に向かっている。

 あの狩人が、今夜の獣狩りの狩人というわけか。

 しかし、多勢に無勢。あるいはまだ熟練の狩人でないのか、圧されているようだった。
 助ける義理など、には無い。この夜の救い主だとしても、にとっては忌わしく忌避したい存在である。獣狩りにも、獣の病にも、もう関わりたくはなかった。

 それなのに。
 血のような夕暮れの光に照らされたその人物は――枯れ羽を模した、帽子を被っていた。

 呼び起こされる、炎と煙りの記憶。今も強烈に刻まれる、“あの人”の面影。
 それを見ていなければ、無視できていたのに――は顔を顰めながらも、二階から一階へ駆け下り、玄関口まで向かっていた。
 窓から覗きながら、神経を研ぎ澄ます。自警団に追われる狩人は、こちらに駆けて来る。そして、扉の近くにやって来た――そのタイミングで、勢いよく開いた。

「なに……」
「騒がないで! 早く中へ!」

 驚いて身を竦めた狩人を、有無を言わさずに引きずり込む。
 すぐさま扉を閉じ、鍵を掛けると、数秒遅れで自警団の足音が建物の前に集まった。人のものとは思えない割れた叫び声に、心臓が激しく鳴る。けれど、焚いていた獣避けの香のおかげだろう、自警団は住居の中にまで踏み入れる事はなく、狩人を見失い元来た道を戻っていった。
 は張り詰めた緊張を解き、ほっと大きく溜め息をこぼす。

 だが、安堵すると同時に、家の中に漂う血と獣の匂いが鼻をついた。今や慣れ親しんでしまった、ヤーナムに蔓延する匂いだ。顔を顰めながら振り返れば、黒いロングコートを身に纏う長身な人物が、警戒するように佇んでいる。

「貴公、一体……」

 驚いたような、訝しむような声。だが、が今気になるのは、狩人のその出で立ちだ。長身を包む黒い装束は、返り血か、あるいは自らの血か、いくつものシミが浮き上がっている。おまけに、右手に持った奇妙な形の鉈からは血が滴り落ち、足元の床板を濡らしている。つい先ほどまで狩りをしていたせいだが……嫌悪を隠さず、眉を顰めた。

「話をするのは構わないけど、先にその恰好をどうにかしてもらわないと」

 唯一安心できる家の中を、赤黒いシミで汚されてはたまったものではない。は眉をひそめながら、一度奥に引っ込み、掃除道具と水の張った桶、そして不要な古布を持ち戻った。

 狩人は、ちょうど輸血液を打ち込んでいるところだった。

 血を入れるという行為は、ヤーナムでは常習的に行なわれている事だ。不治の病を癒やすと謳い、医療教会が率先して普及し、得体の知れない輸血液を流し込む。その技術や由来は住民が知らされる事はないのに、古くからこの医療行為を信じられてきたという。ろくなものではないとは思っているが、どんなものに縋ってでも生き延びたいという想いまでは、否定出来ない。

 この人も、ヤーナムの血の医療に縋ったのか。何らかの病から、逃れるために……――。

「ほら、これで綺麗に拭いて。汚されたらかなわないわ、獣も寄ってくるだろうし」

 血塗れの姿のままの狩人へ、古布を差し出す。狩人は押し黙ったままであったが、古布を受け取り、身体を拭った。敵か味方か、測りかねている様子はありありと感じたが、気にせずは掃除を続けた。

 片付けながらちらりと盗み見た黒い装束を纏う狩人は、男性らしく上背が伸びているけれど、大柄という印象はなく細身に見える。声からして男性なのだが、年齢までは分からない。同年代のようにも、年上のようにも見える。枯れ羽を象った帽子を目深に頭り、鼻から首筋に掛けて黒い布で覆っているからだろう。顔の半分以上を隠されてしまい、から見えるのは両目くらいだった。

 その目には、まだ常人の正気が見えた。
 私の知る狩人の瞳とは、まるで違う。まだ、遠く及ばない。

 荒廃しきったヤーナムに、未だ存在している、狩人達。何十年と獣狩りを続ける、熟練の古狩人達だ。
 “あの人”もきっと、その一人だったのだろうな……――。
 はぎゅっと眉を寄せ、面影を振り切る。そうして、身なりが幾分マシになった狩人を、早々に扉の前へ立たせた。

「もう、あいつらも居ないでしょ。さ、早く行って」

 背を押したところ、狩人が肩越しに振り返った。

「……貴公に、礼を言うべきか」

 は一瞬、呆気に捕らわれる。それから首を振ると、扉を開け放ち、狩人の背を押した。

「礼なんて要らないわ。狩人にはもう、関わりたくない。次も、扉を開けるとは限らないし」
「ならば何故、俺を助けた」
「……ただの気まぐれ。深い理由なんかないわ。そんな事より、貴方は獣狩りの狩人、狩りに励んでいればいい」

 狩人は、獣を狩る。そう、それだけ。私達の思いなんか、関係ない。
 私達の思いは、もう、何処にも届かない。
 あの月の夜に行われた“浄化”が、そうだったように――。

 蘇る焼け焦げた記憶に、の吐き出す言葉も、自然と棘が生えてしまった。初めて出会ったこの狩人に、投げつけるものではないと知りながら。

「……もう、行って。獣になった自警団達も、遠くに行ったでしょうから」

 狩人は少しの間、を見下ろしていたが、何も言わずに外へ踏み出した。

 はすぐに扉を閉じ、鍵を掛け、物陰に隠れた。狩人はしばらく、建物を見つめていたが、やがて路地を歩き始め、角を曲がって消えた。

 関わる事は、もうない。これっきりだ。

 しかし、血と獣、それと火薬の残り香に、の心は訳も知らずにざわついていた。
 懐かしい、懐かしい、炎の記憶が蘇るようだ。

 枯れ羽を模った、黒い帽子。あの形に、私は今も強烈に……――。


◆◇◆


 いやに長い夕暮れを見ながら、本を開いて過ごしていると――トントン、と扉が叩かれた。

 獣狩りが始まるという日に、家々を訪ねるような者は居ない。陰険な住民は皆、獣狩りの夜は口を閉ざし、家の扉も固く鍵を掛ける。まして、幼い頃とはいえ他所の土地から来たを、住民は今もなお受け入れてはいない。
 となれば、扉の向こうに立っているのは――。
 緊張で逸る心臓の音を聞きながら、常備している鉈のもとへ走る。震える両手で握り締めると、恐る恐る玄関口へ向かった。

 再び、トントン、と扉が叩かれる。

 は意を決して、言葉を投げ掛けた。

「ど、どなた……?」
「――貴公、俺だ」

 返されたのは、獣の呻き声でも、正気を失った住民の声でもなく。
 は一瞬呆気に捕らわれ、信じられない思いでバンッと扉を開け放った。

 果たしてそこには、枯れ羽の帽子を目深に被り、黒い装束に身を包む、狩人が佇んでいた。
 つい先ほどか、それとも数時間前か、気まぐれで助けてしまったあの男だ。

「な、なんだってまた来たのよ。今夜は狩りでしょ、そっちに行きなさいよッ」

 は扉を開いた格好のまま狼狽する。だが、当の狩人は肩を竦めるだけだ。
 何故また此処に来たのか、疑問は尽きないが、無防備に話し込んでいる場合でもない。獣避けの香を焚いても、襲われる時は襲われるのだ。

 香も無限ではないし――はあ、仕方ない。

 は肩を落とし、身体をずらす。この顔の見え辛い狩人を、再び我が家へ招く羽目となった。あまりにも不本意すぎて、溜め息しか出ない。そういうの心境は面に表れているだろうに、狩人は全く気にも留めず、そして恐縮した様子もなく、スタスタと中へ入ってきた。躊躇するとか、遠慮するとか、そういうのも一切ないらしい。

「……はあ、ついさっきまでは血みどろだったと思うんだけど。急に小綺麗になったわね」
「“夢”があるからな」
「夢?」
「狩人達の夢だ」

 ……おしゃべりには見えないが、詩人のような事を言う。
 それとも、皮肉だろうか。夢だなんて、病だらけのこんな場所に、あるはずがないのに。

「それで、ご用は何?」

 腰に手を当て、挑むように狩人を見上げる。彼は視線をに向けるも、小さく首を振った。

「聖堂街へ続く大橋に向かう途中で、寄っただけだ。他意はない」

 聖堂街……この市街地の上にあり、医療教会の教区長が居る大聖堂のある場所だ。
 そして、谷を挟んだ向こう側には、かつての市街地が広がっている。“あの人”は、そこにいるのだろうか……。
 ふとそんな事を考えた時、ばちりと狩人の眼差しとぶつかった。は咄嗟に顔を背け、扉を指差した。

「さ、だったら私なんかとお喋りしていないで、そこへ行ったらどうかしら? 狩人さん」

 そう言って、は半ば強引に押し出したが、それからというもの、狩人は何度も家を訪ねてきた。
 特に会話らしいものもなく立ち去る事もあれば、市街地の道を尋ねたり、ヤーナムの風土なり住民の人となりを尋ねてきたりもした。獣を狩る狩人であるが、まるで物を知らない幼子のようだった。

 不思議な、狩人。それに、ただの血と獣の匂いだけでなく、心がくすぐられる奇妙な懐かしい香りもする。

 狩人なんて、皆、忌まわしい存在。そのはずなのに、何度も足繁く訪れ扉を叩くその狩人に、いつの間にか気が緩んでしまった。余所者を酷く厭う陰険なヤーナムの住民とは、根本的に違うからだろう。
 きっと、彼も同じ異邦人だ。
 他所の土地からやって来たというだけで歓待をあまり受けなかったには、何て事ない“普通”のやり取りですら、本当は久しぶりの事だったのだ。あるいは何処かで、それを望んでいたのか。

 今ではもうすっかりと、扉を叩く音が聞こえると、彼の声を確認し、何の抵抗もなく迎え入れるようになってしまった――。




「大聖堂に続く大橋には、獣になった聖職者。地下に広がる下水道には、肥大化した鼠に烏に豚。そして、オドン教会の地下墓地には……病を発症してしまったガスコイン神父様」

 嗚呼、と嘆息し、は瞼を下ろした。
 いつもは、閉じこもっているだけで良かった。獣除けの香を焚き、夜が明けるのを待っていれば、良かったのに。
 今夜の獣狩りは、何かがおかしい。夕暮れも随分と長く、まだ夜にすらなっていないのに、悲鳴が途絶えない。
 私の頭も、おかしくなってしまったのだろうか。彼から明かされる市街地の有様に、困れば良いのか、笑えば良いのか、それすら定かでない。

「ガスコイン神父という人物と……知り合いか」
「いいえ、それほど親しくはないわ。でも、同じ街で暮らしているし、これまでの獣狩りの夜も狩りをされていたから」

 大柄で、立派な身体つきの男性だという事。それと、異邦人という事くらいしか、知らない。
 あとが知るのは、ガスコイン神父と共によく歩いている、独特の黄土色の狩り装束に身を包んだ古狩人が、彼の相棒だという事くらいだろう。確か、ヘンリックという名の狩人だ。ガスコイン神父の事を知れば、きっと狂ってしまうかもしれない。

 まだ獣狩りが始まったばかりの最初期、狩人は人々の英雄であったという。
 けれど英雄たりえる時代はとうに過ぎ去り、彼らは守るべき住民に疎まれながら、途絶えない獣の血の海に身を投じている。
 きっと、この狩人も、そうだろう。

 それなりに長くヤーナムで暮らしながら、は初めて知った。繰り返される獣狩りの夜に臨む狩人は、もう多くはない理由を。
 自分のためであれ、他人のためであれ、獣を狩っていた狩人達もまた、いずれ獣の病に飲まれてしまう。
 家族を守るために戦っていたガスコイン神父にまで、その病魔が及ぶなんて――。

「……報われないわ」

 初めて知った狩人達の末路を、は笑う事など出来なかった。
 重苦しさを取り払うため、はソファーから立ち上がると、温かい紅茶を用意した。ティーポットと、二つのカップをテーブルの上に置き、一つは自身の前へ、もう一つは枯れ羽の黒い帽子を被る狩人の前へと押す。

「良かったどうぞ、口に合うと良いけれど」

 がそう告げると、狩人は黒い手袋に覆われた手を伸ばし、カップを持ち上げる。口元を覆う布を外すと、唇を寄せ、紅茶を含んだ。
 不意に現れた精悍な顔の輪郭を、はじっと見つめた。顎や頬に無精ひげなどはなく、スッと伸びた凛々しさがある。年齢は、やはり分からないが、きっと年は近いのではないだろうか。
 彼は意外にも上品な仕草でカップを傾けると、こくりと、太い喉を上下に揺らした。

「美味いな」
「自己流だけれどね」
「いや、美味いよ。本当に」

 けして高級な茶葉ではなかったのだが、しみじみと彼は呟いた。言葉少ない口元には、笑みが浮かんでいるような気がするが、見間違いだろうか。

 静けさを纏う狩人を、はまじまじと見つめた。思えば、ソファーに腰を落ち着かせ、紅茶を嗜みながら言葉を交わした事は、これまで無かった。はそんな事を思いながら、気まぐれに、狩人へ問いかけた。これまでの訪問ではなかった、からの初めての問いかけであった。

「……ねえ、狩人さん。そういえば貴方、どうやって下水道とか聖堂街とかの行き方が分かったの? 異邦人で、地理には明るくないでしょ」
「市街地の大通りへ続く、門というのだろうか。あれのちょうど真上にある家で暮らす、異邦人の男から教わった」
「……いつも咳き込んで、具合の悪い?」
「知っているのか」
「ええ、もちろん。ギルバートさんという人よ」

 他所の土地からやって来た、穏やかな異邦人の男性。不治の病を患い、どうにか生き延びるためヤーナムの地を訪れ、怪しげな医療を受けた人だ。
 ヤーナムの住民は皆、余所者と嫌っていた。だがは、彼のもとに足繁く通っていた。同じ余所者同士という事もあるが、誰からも陰口を言われ、嗤われる辛さは、がよく知っている。それに、父母を同時期に亡くしたにとって、家族に出来なかった事をしてあげる事が、ヤーナムで出来る唯一の事のように思っていたのだ。

「共通の友人がいるという事ね」
「ああ……そうらしいな」
「ギルバートさん、大丈夫かしら。近頃は特に咳き込んでいて、いつも辛そうだったから。今夜の狩りが終わったら……具合を見にいかないと」

 獣狩りが始まるんだから戸締りの確認をしなさい、と病気の辛さを隠しながらを案じてくれた、優しい人。何処か、父のような、祖父のような慕わしさを感じていた。ああ、無事だと良いのだけれど。

 と、そこまで考え、は視線を下げた。

「……ごめんね、狩人さん」
「何がだ」
「最初、嫌な女だったでしょ」

 いくら“獣狩りの狩人”が嫌いだったせいとはいえ、あれはない。あれでは大嫌いなヤーナムの住民と同じになってしまう。
 恥ずべき事をしたとようやく理解し、羞恥心を覚えたけれど、傍らの狩人は淡々と「気にしていない」と応じた。

「その時にはもう、住民達に追い返され、いきなり襲われ、散々な状態だった。だから……貴公には、救われた」

 そう告げた狩人に、はたまらず自嘲した。
 救い。救いか。その言葉は、今の私には、最も縁遠いものだ。

「私は、誰かを救うなんて事、出来なかった。助けを求める人の声にも耳を塞いで、蹲るだけ。本当は、誰かを嫌う資格すら無いんだわ」
「……それは、貴公が狩人を嫌う理由にも、繋がっているのか」

 どきりと、心臓が跳ねる。
 そうか、伝わっていたか。そうだろうな、あんなあからさまな態度では、分からないという方が無理がある。
 は大きく溜め息を吐き出すと、カップの中の紅茶をしばし見つめる。一呼吸を置いた後、そっと囁いた。

「……ねえ、狩人さん。ちょっとした、昔話をしてあげるわ」

 貴方がやって来る、随分前に起きた、市街地の悲劇を。





 ヤーナムにはもともと、市街地が二つあった。一つは此処と、もう一つは聖堂街の向こうの谷合にあった。今はどんな有様になっているか分からないが、現在そこは“旧市街”と呼ばれている。
 も、もともとはそちらの方で暮らしていた。
 ヤーナムへとやって来たのは、十にも満たない少女の頃。父と、病気で身体を壊した母と共に移り住んだ、いわゆる余所者だ。ヤーナムにあるという医療に縋り、母の病状を少しでも和らげるためだった。

 余所者を嫌い、余所者の身の上話を嗤う、陰気な住民。怪しい血の医療を施してゆく、医療教会。けして楽しい日々ではなかったが、中には親身になってくれる人も少ないながらに存在し、ヤーナムでの生活は成り立っていた。

 医療教会からやって来た医師は、すぐさま母の治療を行った。その直後から母は起き上がるようになり、元気に歩けるほどにまで回復した。不気味な血の医療であったが頼って良かったと、その時はも家族と共に大いに喜んでいたのだが――やがて、母は再び床に臥せるようになった。
 当時のは理解出来ていなかったが、ヤーナムの風土病だという“獣の病”に罹ったのだと、父は気付いたのだろう。そして、母もまた自らの未来を悟っていたのかもしれない。
 往診だと言ってしつこく訪ねてくる医療教会の使者も、追い返すようになった。その使者こそ、獣の病に罹った者を発見し、間引く存在であると、恐らく勘付いたのだ。

 母が一日のほとんどをベッドで過ごすようになったその頃、市街地の住民は、何かしらの病を患った者がとても多かった。
 今にして思えば、あれは皆、獣の病が発症する前触れだったに違いない。


 ――そして、“あの日”がやって来たのだ。
 全てが浄化の炎に飲み込まれた、あの月の夜が。


 思えば、あの夜の狩りも、異常だった。まるで何か示し合わせたように、住民は一斉に獣の病を発症したのだ。
 そうして、徒党を組んで現れた医療教会の者達は、市街地に油を掛け、火を放ち回った。病の浄化などと称し、市街地の全てを炎で焼き払う事を決めたのだ。
 もちろん、住民は誰も知らない。父も母も、まったく知らなかった。
 ただ理解したのは、住民の救い主であったはずの医療教会に見限られ、生きたまま炎に焼かれる事を望まれた。それだけだった。

 あの凄惨な光景は、少女だったの心を砕くのに十分過ぎた。
 市街地の至る所から響き渡る、けして途絶える事のない悲鳴。街全体を瞬く間に飲み込んでゆく、赤い浄化の炎。空にまで届くような、充満する煙と、焼け焦げる匂い。そして、獣狩りの夜と共に醜い獣へと変わってゆく、住民達――。
 余所者の達にもよくしてくれた近所の家族も、炎に飲み込まれた。
 病に伏せた母もついに獣へと成り果て、あんなに仲睦まじかった父を爪で切り裂こうとした。それでも僅かな理性が残るうちに逃げてくれと、母は懇願した。
 父は涙を流しながらの手を引き、外へと駆け出した。家の中にいた母ごと飲み込んだ炎の色は、忌々しいほどにはっきりと、脳裏に焼きつけられた。

 やがて手を引っ張った父も、獣の病の発症者に襲われ動けなくなり、はただひとり生き延びた。
 父母を失いながら、あの炎の惨劇から、“不幸”にも生き延びてしまったのだ。





 その後、浄化の炎に呑まれたあの市街地は封鎖され、旧市街と呼ばれるようになった。
 あれから、もう二十年近くが経った――現在、あの地がどうなっているのか定かでない。けれど、行く場の無い人々は、きっと見限られた旧市街に居るのだろう。ひっそりと、息を殺して。

「……よく、生き延びれたな」

 狩人の問いかけに、は小さく笑う。

「――旧市街にいた狩人さんが、私を抱えて連れ出してくれたのよ」

 あの人の事は、今も覚えているし、よく知っている。向こうはきっと、私の事など一欠片も記憶に残っていないだろうけれど。

 刀剣を扱う狩人が主体の中、火薬の扱いを得意とし、それに因んだ異色の仕掛け武器を用いた、古狩人。
 灰色の狩り装束に身を包み、炎の中で獣狩りを続け、聖堂街への氾濫を防いだ人。

 当時のにとっては――炎の中で苦しむ母を見捨て、まだ息のある父を獣達の中へ置き去りにし、家族のもとへ送ってくれなかった冷酷者だ。

 助けてくれたなんて思わない。父母を目の前で失ったばかりのにとって、目の前の古狩人は、仇以外の何者でもなかった。
 どうして見捨ててくれなかった。何故、父母のもとへ送ってくれなかった。泣き叫び何度も罵倒するを、あの古狩人は黙々と抱え、襲い掛かる獣を切り伏せた。炎の届かないところにまで連れて行くと、そこでようやくを下ろし、初めて口を開いた。

『――俺は、獣を狩ってはいなかった。彼らは、獣などではなかった』

『――俺を許せとは言わない。だが、生き延びろ。浄化などと称したこの狂気の沙汰から、貴公だけでも、離れるんだ』


「……ただの、小娘の八つ当たりね。今更、気付いたって、どうしようもない」

 言葉少なく告げた古狩人の顔は、赤い炎の色でよく見えなかった。
 彼はどんな表情をし、ぐずぐずに蕩けた瞳の獣達と、炎に呑み込まれる旧市街の風景を、見つめていたのだろう。
 そんな疑問も、もはや意味もない事である。

 だからこそ、あの忌まわしい記憶が、今も夢に現れるのだ。
 油と煙、炎と獣、焼け焦げた肉の匂い。
 そして、を抱きかかえた古狩人の身体から漂った、火薬の匂い――。

 炎に飲まれた旧市街へ戻ってゆくその後ろ姿と、枯れ羽を模した灰色の帽子を、今も強烈に記憶へと刻まれている。
 恨みのようで、憧憬にも似た、途方もなく複雑に絡まった感情。今もそれは行き場がなく、を悪戯に焦がす。

「狩人さんが被っている帽子がね、その人のものにそっくりなの」

 きっと、あの灰色の古狩人のものを模ったのだろう。
 の眼差しの先で、今夜の獣狩りの狩人は、僅かに沈黙した。そして、紅茶を口に含み喉を潤すと、おもむろに語り始めた。

「……診療所で目覚めた時、俺は、ヤーナムへ来る以前の事を何も覚えていなかった」

 不衛生に汚れた包帯と、輸血の痕跡から、血の医療を受けたという事しか分からないと、狩人は告げた。
 それは、が初めて耳にする、この謎めいた狩人自身の話であった。

「俺が持っていたのは、名前だけだ。診療台の側にあった椅子の上に、自筆の書置きがあった」

 ――青ざめた血を求めよ。狩りを全うするために。

 覚えもなければ、何か記憶が蘇るわけでもない。だがその一文は、強烈に空っぽの記憶へと刻まれた。
 そして不気味な夕暮れが照らすヤーナムへと踏み出し、市街地で訳も分からないまま血を浴び、狩りに身を投じた。

 狩人は、そこで一度、言葉を区切った。

「――過去を持たない俺に、貴公の過去へ掛ける言葉はない。だが、俺は……訳も分からずに放り出された先で、貴公に手を引かれた。気まぐれであれ、俺は、あの時確かに救われたんだ」
「貴方……」

 まるで堰き止められた感情が、溢れるよう。途切れる事のない狩人の言葉は、静かにの耳をなぞっていった。

「……貴公と話している間は、纏わりつく血の匂いと獣狩りから、ただの一時であっても離れられた。この狩りの中で正気でいるための……俺にとっての、よすがなのだ」

 言葉を失うへと、狩人の瞳が向けられる。
 黒い帽子の向こうから微かに覗く瞳は……これまでにはない、温かな光を湛えているようだった。

「――感謝している」

 この狩人に、そんな風に言われる資格は無い。助けられていながら、その相手に罵声を浴びせたような、愚かな女なのだ。
 けれど、どうしてか。この狩人から感謝を告げられた時――の中に巣食っていた昏い感情が、許された気がしたのだ。


 ――俺を許せとは言わない。だが、生き延びろ。


 ああ、今なら、あの灰色の古狩人にも、感謝を伝えられる気がした。
 はくしゃりと眉を下げ、困惑に似た不器用な微笑みを浮かべていた。

「どう、いたしまして」

 狩人はしばらく沈黙すると、静かな声音で「貴公の笑った顔は、初めて見た」と呟きを落とした。
 はたまらず吹き出し、肩を揺らした。

「……ふふ、そうかもね」

 ああ、でも確かに、久しぶりに笑えた。

 がそっとまなじりを拭うと、不意に、狩人が立ち上がった。ゴツリ、ゴツリ、と重い足音を立て、のもとへ足を進める。
 正面に佇んだ、黒い装束を纏う長躯まれた長躯が、赤い夕暮れに照らされた。
 物々しくありながら、孤独の垣間見える静かな姿を、は瞳を細めながら見上げる。彼に向け、ゆっくりと、両手を広げてみせた。
 佇んでいた狩人は、黒い手袋に覆われた手で、の背面にあるソファーの背もたれを掴み、長身な身体を屈める。近付いた彼の顔へと、は手のひらを伸ばし、普段顔の半分以上を覆っている黒い布を首筋まで下げおろす。
 初めて現れた狩人の面持ちを、は指先でなぞり、手のひらを這わせた。

「……狩人さんの顔、初めて見た」
「そうだったか」
「そうよ。思っていたより、若かったんだ」

 言葉を交わす間も、顔と顔の距離は近づいてゆく。
 やがて、互いの温かな息遣いが、肌を掠め合った。

「もう、少し……近くで」

 の唇が、薄く開く。頑なな言葉ばかり紡いだそこに、やがて狩人の唇が重なった。
 児戯のように、ただ触れただけなのに、背筋が震えるくらい、心地好かった。
 甘やかな吐息が、からこぼれる。その瞬間、狩人の太い腕が、の身体を力強く引き寄せ、ソファーの上へと倒した。

 静かに被さったその大きな身体を、は拒む事なく受け入れ、広い肩を引き寄せる。
 ふわりと漂った、獣と硝煙の匂い。そしてその中には、彼のものだろう温かな香りも混ざっている。

「狩人さん」

 答えの代わりに注がれた彼の息遣いが、をまた、陶然とした心地で包んでいく。

 獣を狩る狩人に抱かれるその一時は、あまりにも甘く、狂おしい熱情に満ち満ちていた。


◆◇◆


 長い長い夕暮れが、ようやく終わりを迎えた。
 病の蔓延する古都の頭上は、藍色に染められ、冷ややかに輝く銀色の満月が浮かぶ。

 獣狩りの夜が――ついに、始まったのだ。

 その直後、しばらく姿を見せなかった狩人が、のもとを訪ねてきた。

「聖堂街の、大聖堂へ向かった。教区長は――駄目だった」

 角の生えた、真っ白な巨獣に成り果てたと、狩人は囁いた。

 名前だけは、知っている。
 大聖堂にいる、教区長エミーリア。医療教会の長。
 そうか……彼女も。獣になってしまったのか。医療教会の者が、立て続けに変貌するなんて。彼らが病的に推した血の医療は、彼らをけして救いはしなかった。

 ああ、今夜の狩りは、本当に……――。

「聖職者こそが、医療教会に関わる奴らこそが、より凶暴な巨大な獣になるのは何故か。俺が殺しているのは、本当は何なのか――深遠を、覗いている気分だな」
「貴方は、ヤーナムにあるものが、知りたいの?」
「……何かに、引き寄せられているような気がする。知らなければ、ならないのかもな」

 呟いた狩人の瞳を見た時、はやはりそうかと悟った。何故、今夜の獣狩りは、常と異なるのかを。

「――狩人さん、私ね、気付いたの」

 獣の病に冒された古都。

 獣除けの香を焚き、閉じこもっていても現れる死人。

 次々と正気を失い、獣へと成り下がる、狩人や聖職者。

 かつてない異常な有様の夜は、何かの始まりか。それとも、終わりか。ひしひしと感じる大いなる訪れの、その中心には――きっと、この狩人がいるのだ。

 最初は市街地の自警団に追われ、逃げ回っていたというのに。今では、自らよりも遥かに巨大な獣を狩り、狩人としての練度を極めつつある。最初の頃とは、大違いだ。その証に、彼の瞳にはもう戸惑いと恐怖はなく、鋭く研ぎ澄まされた狩人の風格が滲んでいる。
 きっと、常人では知り得ない“暗い深淵”を、数多く目の当たりにしてきたのだろう。
 住家に閉じ篭るでは、到底知る由もないものも。

 この人は――深い場所へ進んでゆく。
 血の医療を施す、医療教会の源だと噂されている“聖体”の正体にも、きっと辿り着く。
 呪われたこのヤーナムに秘匿され続けたものも、暴くに違いない。


 ――私は、それを見送るため、あの夕暮れに、この人の手を取ったのだ。


「貴方は、私とは違う。同じ余所者でも、全然違うわ」
「……」
「狩人さん、これから何処へ?」

 が尋ねると、彼は出会った時よりも深く落ち着いた声で答えた。「医療教会の、警句の先へ」
 そう、と呟いたは、小さく笑みを浮かべた。

「もう、私では手助け出来る場所ではない。家に閉じこもる私が出来るのは、祈る事だけだわ」

 ここにも、きっともう、来ないんでしょうね。
 は自らの腕を抱きしめ、顔を背けた。

「――多くの狂人や、獣達、古狩人にも、よすががあった」

 ゴツリ、と床板を鳴らし、彼のブーツが踏み込んだ。

「今の俺のよすがは――貴公だけだ」

 はハッとなって顔を上げた。枯れ羽を模った黒い帽子の向こうから、彼の眼差しが真っ直ぐとを射抜いた。

「狩りが終われば、“夢”は醒める。俺は、狩人ではなく、只人に戻るだろう。その時、俺はヤーナムを去る。貴公も……一緒に、行かないか」

 黒い手袋に覆われた手のひらが、の前へと差し出される。
 仕掛け武器を操り、多くの獣を殺したとは思えないほど、何処か緊張が浮かんでいた。

「……私を、連れて行く、つもりなの?」
「何も持たない者同士、悪くないと、思うのだが」
「……口説き文句が、下手ね。狩人さん」

 大きな肩が、落胆するように下がる。は吹き出すと、意地悪な言葉を吹き飛ばすように、狩人の胸へ軽やかに飛び込んだ。

「“青ざめた血を求めよ。狩りを全うするために。”――狩りの成就を、願っているわ」

 だから、必ず迎えに来て。

 そう告げたへ、狩人は言葉少なく、分かったとだけ呟いた。けれど、を抱きしめる腕は、迷いのない頷きは、今までで一番力強く。
 は、忘れかけていた祈りを、狩人に捧げた。





 警句の先へと向かった狩人は、恐らくは当分の間、此処へは来ないだろう。
 そんな予感が、にはあった。
 きっと彼は今頃、獣よりも恐ろしいものと対峙し、そして狩りを果たしているに違いない。

 こんな呪われた古都では、抱くべき祈りも希望も無くなっていたけれど。誰かを待つ事も、何かをこいねがう事も――こんなにも安寧をもたらすものだったのかと、は懐かしく思った。

 悪く、ないものだ。
 誰かの無事を、願う夜も。

「……灰色の古狩人様。デュラ様。貴方の言葉、ようやく、受け入れられそうです」

 狩りが終わったら、もう一度、会いに行くのもいいかもしれない。
 狩人さんと一緒に、あの時の感謝を告げに――。

「――あ……」

 ふと、が窓辺に立った時だ。
 藍色に染まっていた空が、赤く滲んでいった。
 頭の奥が、キン、と痛む。浸食していくような、夥しい血の色の空から、意識を奪われたように視線が逸らせなかった。


 何処からか、泣き声が聞こえる。
 無垢な赤ん坊の、泣きじゃくる、憐れな声が。


 ――それは、始まりか。それとも、終わりか。



まさかのブラッドボーン夢。
狩人(いわゆるプレイヤー)≠夢主でお送りします。
プロローグ的な感じで。

ブラッドボーンをプレイされた、あるいはしている、啓蒙の高い方々なら大体この後の展開は察してしまう。
赤い月夜以降は、どうあがいても絶望。
それでも、ブラッドボーンが大好きです。

なお、旧市街の悲劇は、作者の妄想がだいぶ強いですので、ご了承下さい。(個人的には、そんなに大昔の事ではなく、10~20年程度前の出来事のように思っています)
狩人の数だけ、物語がある。考察こそが、ブラッドボーンの醍醐味でもありますから。

古狩人のデュラとか、ヘンリックとか、長とか、すごく好き……いつか書きたいです。
でも一番はやっぱり狩人さん(プレイヤー)だよね……超かっこいい。


(お題借用:酔醒 様)


2019.03.29