狂おしい甘さ

 ――油断したな

 ほんの一瞬、回避を見誤った。ただそれだけの、僅かな失態で、このザマだ。

 返り血と、自らの血によって濡れた身体は、貫くような痛みにしみがみつかれている。意識まで遠く霞みそうだったが、重い足を強引に動かし続け、壁伝いに歩き続ける。
 ――獣を狩る狩人にあるまじき姿だ。

 病が蔓延する古都に慣れたとして、油断するものではないな。
 獣と成り果てた罹患者の群衆に、立て続けに四方から襲われてしまうとは。

 肉を切り裂き、喰らいつこうとする彼らを退ける事には成功したものの、予想以上に血を多く流し過ぎてしまったようだ。その上、輸血液を消耗してしまい、手持ちが尽きるというあってはならない状況へ陥っている。
 “夢”へ戻れば、全て無かったように癒えるものの、肝心の使者の灯りまでが遠い。

 意識が、途絶えそうになる。身体を庇いながら獣を切り伏せ、気力のみで入り組んだヤーナムの市街地を潜り抜ける。そうして、通い慣れた細い路地を伝い歩き、どうにか一軒の住居のもとへと辿り着いた。武器を振る余力もない拳に最後の力を掻き集め、殴るようにその扉を叩いた。

 ほどなくし、住居の中から、足音が聞こえてくる。男とは違う、軽やかな足取り。その音を聞いた時、無意識に、安堵が過ぎった。

「……はあ、また貴方。ここに来たってどうしようも――きゃッ?!」

 扉が開くのとほぼ同時に、身体が傾き、前へ倒れ込む。
 その向こうに佇んでいた彼女へ、正面から凭れ掛かるような恰好になってしまった。

「ちょ、ちょっと、狩人さん?」

 何が起きたのかと理解しかねて驚く声は、今まで耳にしてきた鬱陶しげに追い出そうとするそれではない。齢二十の半ばか、あるいはそれよりも下の若い女性らしい声で……きっと平素の、彼女の声なのだろう。
 状況を説明したいところだが、自覚していた以上に、もう気力は無かったらしい。何も告げられず、肩で呼吸を繰り返すばかりだった。

「……早く中へ。ほら、肩を貸すから。頑張って」

 状況を察したらしく、彼女は声音を変える。倒れそうになる男の身体をぐっと支え、肩を貸し、住居の中へと招き入れてくれた。
 ふわりと漂う、彼女の匂い。血や獣、硝煙の匂いとは無縁な、温かいその香りに、力が抜けそうだった。
 華奢と呼ぶべき彼女には、武器を引っ提げた男の身体など途方もなく重いだろうに。文句を言いながらも、俺を床板の上に放り投げたりせず、ソファーにまで導き横たえてくれた。

「ほら、身体を休めて。もう大丈夫だから」
「ぐ、う……ッああ、すまない」

 仰向けになり背中を預けたソファーは、ほんのりと温かかった。側に引き寄せられたテーブルには、飲みかけの紅茶と、頁の開いた蔵書が置かれている。
 ああ、獣狩りと隔離された“日常”だったのに、血で汚れてしまった。彼女にとっても、俺にとっても――ここは唯一、心休まる場所であったというのに。

「まったく、貴方はいつも来るたびに血塗れね。今度は貴方が怪我をしたの?」
「……すまない」
「馬鹿、そこは謝らなくていい」

 獣狩りの狩人を好まない彼女だが、俺を見下ろす表情は、いつになく強張っているように見える。長い睫毛が縁取る両の瞳にも、不安な色が滲んでいた。

 鬱陶しそうにしても、長居を許さなくても、やはり彼女は、情が厚い。情の厚さを、隠し切れない。
 だから俺は、ここに何度も通うのだろうな――。

 何処もかしこも門戸を閉ざし、けして開こうとしない、ヤーナムの住人の扉。
 この地で暮らす人々の、陰湿な心をそのまま映し出したような拒絶の意志がはっきりと見えるようだった。
 だが、彼女――だけは、毛嫌いされる狩人にも開いてくれる。
 自身の名前と、意味不明な走り書きだけを持つ俺にとって、それは何よりも救いであり、寄る辺であったのだ。

「酷い傷ね……獣に?」

 の白く細い指が、そっと顔に触れる。枯れ羽を模した黒い帽子を外し、両目の下から首筋まで覆う黒い布を下げおろした。指先が瞬く間に血で汚れたけれど、彼女は構わず、俺の身体の具合を診ようとしているようだった。

「そんな……ところだ」
「輸血液は?」
「……手持ちが、尽きた」
「あんなに持ってたのに」

 本当に、そう思う。まったく、情けない失態だ。獣を狩る狩人であるというのに。

「恥を承知で訊くが……貴公は、輸血液とか、持っていないか」
「……私自身は、血の医療を受けていないから。輸血液は、一つも無いの」

 そう、か。そうだろうな。
 狩人と、ヤーナムの風土を嫌う、何処か潔癖なだ。以前話してくれた、旧市街の悲劇の数少ない生存者であるのならば、けして血の医療に手を出そうと思わないだろう。

「……いや、いい、忘れてくれ。“夢”に戻れば、すぐに癒えるものだ」
「夢って……そんな状態で、冗談を言っている場合じゃあ……」

 の面持ちに、困惑が色濃く浮かぶ。
 俺の現状を知らない彼女にとって、“狩人の夢”といっても、伝わらないだろうな。今際の世迷言と、思うかもしれない。
 だが、事実だった。夢現の、不可解な、事実。痛みと血の絡み付く喉で咳き込み、小さく笑った。


 何らかの目的を持ち、訪れたヤーナム。その理由は、記憶もろとも消失してしまった。
 だが、医療教会の医師から施術を受けたその瞬間に、俺は“選ばれた”。
 暗闇から滲み出た獣が炎で焼かれ、小さな使者達が俺を見つけ、そしてあの“夢”に導いたのだ。
 あの時から、俺は人間とは遠く離れた存在になったのだろう。

 この夢から醒め、只人へ戻るには、悪夢の元凶を見つけ、絶つしかないのだ――。


「……少し、休憩させてもらえれば、それだけでいい……ッゴホ」

 灯りにまで辿り着けば、後はどうとでもなる。全て一時の夢であったように、この身体は元に戻るのだから。
 大きく胸を上下させ、息を吐き出す。粘着いた口の中は、自らの血の味で充満していた。

 はしばらく押し黙っていたが、何か思い立ったのか不意にソファーの側から立ち上がり、部屋の奥の戸棚へ走っていった。慌ただしく引き出しなどを漁り始め、何かを掴んで戻ってきた。
 俺の血で汚れた白い手の中にあったのは、銀色の、小綺麗なナイフだった。

「貴公、それは……」
「血の医療に関わるものは、全部捨てちゃったから。これしか、ないの」

 夕暮れの光に、銀色の鋭い刃が光る。それに照らされたの顔は、強張っていた。
 気力の尽きかけた朦朧とする頭に、何か、予感めいたものが過ぎる。潔癖を貫くように、血の医療を嫌っていた彼女が、何故ナイフを持ち出してそんな事を告げるのか――。

「貴公、まさかと思うが……――」

 尋ねるよりも、の行動は素早かった。
 左腕の衣服の袖を捲り上げると、右手で握りしめたナイフを左手首の下、前腕の部分に重ねる。覚悟を決めたように瞼を閉じ、肌の上へ滑らせた。
 静かに引かれる、鋭利な一線。
 そこからじわりと溢れた赤い雫は、腕を滑り落ちた。

 途端に香る、甘い匂い。花の香のように鼻孔をくすぐる香しさに、頭の芯がぼうっとした。
 自分の血ではない、他人の血であるからか。白い肌を彩るの鮮やかな血潮に――酷く、そそられた。

「く、口に合うか分からないけど、変な薬を入れたり他人の血を入れたりしていないから、そんなに変な味はしな――」

 全て聞き終える前に、俺はの腕を掴んでいた。驚いたように肩を跳ねさせたのが見えたが、そんな事に構っていられないくらいに、の血ばかりに視線が捕らわれる。
 強く香る甘いに匂いに誘われ、彼女の細い腕を口元へ引き寄せる。口を開き、舌を伸ばし、浅ましくむしゃぶりついた。血に飢えた獣に成り下がったつもりは無いけれど、この時ばかりは、獣と呼ばれても仕方のない姿だっただろう。

 ――ああ、甘い。その上、熱い。

 輸血液や、獣の血とは、全く違う。比べるべくもない、あまりにも甘美な舌触り。痛みに呻いた声が、無意識の内に、酩酊する声へと変わる。
 少しずつ溢れる彼女の血に、みっともなく追い縋り、もっと寄越せとばかりに舌を這わせる。浅く切り裂かれた傷口に、容赦なく舌先を押し込み、舐め取った。

「ひ、い……ッ」

 痛みを訴える呻き声が、強張った唇からこぼれている。けれど、は、獣のように舐め啜る俺を咎めず、左腕を抜き取ろうともしなかった。

「狩人、さん」

 陶酔感でぼうっとし始める頭の中に、の声が染みる。
 慰められている、あるいは愛しみを受けている――そんな愚かな錯覚を抱く俺を、彼女は僅かな蔑みも見せず、じっと見つめていた。




「少しは、足しになったかしら」

 不可思議な昂りと酩酊感が落ち着いた頃――は静かな声で尋ねてきた。

「……ああ、感謝する」
「そう、良かった」

 小さく笑ったの面持ちに、今更ながら罪悪感めいたものが込み上げてくる。

 血の医療を受けた者は、以後、血を入れることで同様の治癒の感覚を得る。
 その意味では助かったものの――あの熱く甘い舌触りには、中毒性が秘められているような気がする。
 あんな感覚は、輸血液を使う時にも、これまでの狩りの中にも、全く無かった。

 思わず頭を抱えたが、が清め終えた左腕に包帯を巻こうとしたため、せめてもの礼として手当てを買って出た。
 掠め取った包帯を巻く腕には、細い傷跡がくっきりと残っている。既に血は止まり、あの恐ろしい甘い香りは感じられないが、これほど細い腕にむしゃぶりついていたとは。獣狩りには不要であるため忘れかけた羞恥心が、胸の片隅を炙った。

「その、すまなかった」

 謝ると、は不思議そうに首を傾げる。

「私が勝手にした事よ。謝られる必要はない」
「いや、そうだが……」

 しどろもどろに声を濁す俺を、は細い肩を揺らしクスクスと笑う。しかめっ面が多い彼女にしては、珍しい表情だった。素の笑みを浮かべると、頑なな仕草が解れ、女性らしさが浮かんでくる。そうして見てみると、彼女は実は、とても美しい容貌を持っている事に気が付いた。嫣然とした艶やかさではなく、清廉な清らかさを湛え、いやに魅力的な姿に映ってならない。

「……貴公は、もともとヤーナムの民ではないと、言ったな」
「え? ええ、そうだけど。それが、どうかした?」
「いや……だからなのか、と」

 こうしてと接している間は、ヤーナムの退廃的な、独特の陰湿さから離れられる事も。
 口に含んだ彼女の血が――あまりにも甘く、熱く感じた事も。

 そう呟くと、の表情が、呆れたように歪んだ。

「それ、褒めているのかしら? 血が甘いなんて、あんまり嬉しくないんだけど」

 せっかく微笑みが浮かんでいたのに、またいつものしかめっ面に戻ってしまった。
 失敗したな……せっかく珍しい、貴重な表情であったのに。

「まあ、そんな事が言えるなら、少しは大丈夫みたいね。“夢”とやらに戻れる気力も出てきたでしょう」
「ああ、十分に」

 の手当がちょうど終わり、すぐに俺は狩人の夢へ戻るべく、立ち上がった。
 足元が僅かにふらついたが、問題ない。使者の灯りまで、容易に辿り着けるだろう。の血のおかげである。

 その代償として、ソファーを汚してしまったが……。きっと文句を言いながら、この後掃除をするのだろうな。

 血の乾いた黒い狩装束を翻し、扉に近付く。その取っ手に指先を掛けた時、が後ろから俺を呼び止めた。

「待って、狩人さん。これを」

 そっと差し出されたのは、赤い液体が納められた細長い硝子管だった。
 蓋をしている硝子の栓の上には、手編みのレースがこじんまりと掛けられている。

 考えるまでもなく、それは――の血であった。

「道具はないけど、こういう容器くらいは残っていたの。少しだけ入れといたから、危ない時に使って」
「貴公、だが」

 その申し出は、喜びよりも、困惑の方を強く感じさせた。あぐね果て、と硝子管を交互に見つめるばかりの俺に、彼女の方が痺れを切らしたようで、半ば強引に手のひらへ握らせる。

「いいから、持っていきなさいよ。こういう時は、素直に受け取るもんよ」

 硝子管を握る俺の手へ、の小さな手のひらが重なり、ぎゅっと包み込んだ。

「私が狩りの夜明けを迎えるには、狩人の貴方には身を粉にして頑張って貰わないとならないんだから。まあ、医療教会の聖女様達の血とは質が違うだろうけど、無いよりマシでしょ。あとは……えっと……ほら、余計な血は入れてないから、きっとそんなに不味くないだろうし」

 矢継ぎ早に言葉を連ねるの表情は、いつものように、つんと尖っている。
 けれど、その眼差しからは、彼女の本心がありありと透けて見えた。

「……少しは、貴方の狩りに、役立てるでしょ」

 硝子管を差し出した指先から、俺の手を包む仕草から、温かい祈りが垣間見える。

 にとって、獣狩りの狩人は、罹患者以上に忌むべき存在。これまでの口ぶりからも読み取れるように、狩りにも、血の医療にも、極力関わろうとはしていない。
 そんな彼女が、自らの血を、俺に施した。
 暴くまでもないその意図は――巨大な獣と対峙しても平然と振る舞えた心臓を、容易く、掻き乱した。

「……俺のため、か」
「そ、そこは、わざわざ口に出すもんじゃなくて、ありがとうって言えば済むだけ――」

 全ての言葉を聞くよりも早く、身体が動く。
 まだ言葉の途中にあるを、正面から抱きすくめ、華奢な肩に顔を埋めた。

 殺してきた獣の体温とも、誰のものとも知れない血液の温度とも異なる、すべらかな温もりが伝わってくる。狩人の夢に捕らわれ、只人から遠く離れた身には、それはあまりに熱く焦がすようだった。

「か、狩人、さん」
「貴公の血は、無駄にしない。ありがたく、拝領する」

 腕の中で、が照れたようにはにかむ。そんなに厳かに受け取らないでよと呟いた声は、いかにも呆れ果てながら、優しさが隠せていなかった。




 の住居を後にし、回復した身体でヤーナムの市街地をひた走る。
 細い路地を抜け、獣狩りの群衆が巡回する大通りへ足を踏み入れたが、驚くほどに身体の調子が良かった。
 仕掛け武器を振る腕も疲れず、血や臓腑の匂いに精神が削られる感覚も無い。
 調子が、良すぎるくらいだった。

 の、血のおかげだろうか。それとも……――。

 懐へ大切にしまった細長い硝子管を、狩装束の上からそっと撫でる。使者の灯りを目指す道中、その事ばかり考えたけれど、答えなど見つかるはずもない。
 ただ、硝子管に触れるたび、あの血の香と味わいを思い出した。
 甘く、そして熱い――高揚と酩酊をもたらす、危うさを。



の血』

ヤーナムの民の「血の施し」
彼女の血は甘く、HP回復に加え一定時間スタミナの回復速度を高め、さらには心身の異常を防ぐ

ヤーナムで暮らす民でありながら血の医療を頑なに拒絶した彼女の血は、驚くほどに甘く、そして熱い。
病に侵されたヤーナムで潔癖であろうとも、彼女の血は禁忌に近く、だからこそ呪いと呼ぶに相応しいのだ。


2019.04.13