五十二行の空想紀行

「貴公のところにも、これが有るんだな」

 枯れ羽を模った黒い帽子を被る狩人が、じっと見つめるその先には、古ぼけたオルゴール箱があった。
 ああ、とは思い出したように声をこぼすと、彼の傍らへ並び立った。

「この家の、前の住人の持ち物でしょうね」
「……聞いていないのか?」

 小さなハンドルが取り付けられた、古びた四角形のマホガニー色の木箱。花と蔦を模った意匠が彫り込まれ、落ち着いた品のある外貌だったが――狩人が指先を滑らせれば、軌跡を残すように拭き取られた跡がくっきりと浮かび上がる。黒革に包まれた指の先端に、白い埃がふんだんにまぶされている。
 最後に使ったのは、いつだったか。記憶にない辺り、かなりの間触っていないのは確かだ。

「たまに聞いたりするんだけどね。最近は開いてないわ……これじゃあ部屋の飾りね」
「そうか……」
「気になる?」

 狩人はほんの僅かに口を閉ざし、やがて小さく頷いた。
 へえ、狩人さんは、こういうものに興味を持つのか。
 何か新しい一面を垣間見たような気分になった。

「……じゃあ、少し流してみましょうか」
「いいのか」
「獣狩りの夜でも、心のゆとりは大事だものね」

 特に、今夜の獣狩りは異常なのだから。

 夕刻を告げる鐘が鳴り響いてからというもの、市街地には獣臭い呻き声と女の悲鳴ばかりが木霊している。白い月が空へ浮かべば、ますます気を狂わせる住人が増え、もはやまともな住人など存在しないのかもしれない。
 そんな環境に身を置き、恐ろしい音ばかり聞いていては、気が滅入るというものだろう。

 埃を被ってしまったオルゴールの木箱を綺麗にし、蓋を開く。側面に取り付けられた小さな銀色のハンドルを回し切り、そっと指を離せば――澄んだ音楽を奏で始めた。

 そう、この音、この音楽。懐かしいな。

 鳥のさえずりよりも高く、澄み渡る音色。血の匂い、獣の鳴き声、ヤーナムに蔓延するあらゆるものを清めるような清楚な響きは、ささくれる精神をも優しく包む。このオルゴールの存在に気付いたのは、いつだったか覚えていないが、旧市街の惨劇を何度も夢に見た時、父母を想い膝を抱えて音もなく泣いた時などには、このオルゴールを決まって鳴らしていた。
 きっと、強くなったのではない。諦めてしまっただけだ。何かを想う事も、ヤーナムがまともになる事も、何もかも。
 けれど、この澄んだ音楽を、今も素直に美しく感じるのは――人らしさが残っているのだと、思ってもいいのだろう。

 はそっと、顔を横へ向ける。狩人は、じっと視線を下げていた。あの静かな面持ちは、変わっていない。

「これは……ヤーナムでよく聞かれる曲なのか」
「どう、かしら。よく分からないわ。貴方は知ってる?」
「いや……覚えのない曲だ」

 ――失言だったと、は自らを咎めた。
 血の医療を受けた際、彼はそれまでの記憶の大部分を失ったという。病を治しにやって来たというのに、大切なものを失くした挙句、右も左も分からぬ中獣狩りに身を投じている。そんな彼に、知っているかなどと、あまりにも浅はかな問いかけであった。
 しかし、彼は気分を害した様子もなく、音色を奏でる金属の部品を見つめ。

「だが――穏やかな、優しい響きだな」

 顔の下半分を覆い隠している、黒い布をずり下げる。すっと伸びた顎の輪郭と、静かな微笑みが、の前に現れた。
 彼の声は、心からそう思うのだろう、穏和な響きに溢れている。それを耳にするまでも、つられて心穏やかに安らぐほど。

「ええ……そうね、私もそう思う」

 曲名も知らぬ、優しいオルゴールの音は、と狩人の間を温かく埋めるようだった。

「――

 不意に、狩人が名を呼ぶ。それと同時に、黒革の手袋に覆われた左手が、の前へ差し出された。
 その意図が分からず、は彼の手のひらと顔を、何度も繰り返し見比べる。すると、狩人はふっと吐息のような笑みをこぼし、太腿の横に置かれたの右手を掴んだ。撫ぜるように、手のひらから指先まで、狩人の長い指が滑る。そうして握り合わせた手を、肩の高さにまで水平に持ち上げると、次いでの背中にもう片方の手のひらを重ね引き寄せた。
 それは、正しくダンスのホールドだった。
 力強く、けれど粗暴さのない恭しい仕草で誘われ、の胸はどきりと跳ねた。

「か、狩人さん?」
「良いだろう。たまに獣狩りから離れ、日常を楽しんでも」
「で、でも、私は、ダンスなんて」

 が知るダンスというのは、平民達が老若男女問わず腕を組み賑やかに踊り明かす、故郷の踊りぐらいなものだ。こんな風に正面から向かい合い、胸と胸、腹部と腹部を重ね、優雅に距離を詰める踊りなどまったく知らない。
 しかし、困惑するとは対照的に、狩人のしなやかな肉体は美しいほどに真っ直ぐと佇んでいる。その黒い装束からは、獣と硝煙の匂いが微かに匂い立っているというのに。獣を殺す狩人ではなく、その作法に慣れ親しんだ紳士のようだ。

「こういう時は、黙って誘われるものだ」

 狩人の低い声は、からかうような笑みを仄かに湛えている。口数の少ない、物静かな彼にしては、とても珍しい仕草だった。

「なに、ダンスなんて、楽しんでこそだ。難しい事は考えず、俺に預けてくれ。さあ、いくぞ」

 の細い手と背中を支え、狩人は片足を一歩後ろへ引く。それに合わせるように、の片方の爪先が、一歩踏み出す。それを一度、二度と繰り返せば、ぎこちなさに溢れながらも立派なステップとなり、床板を鳴らした。
 「ワン、ツー。ワン、ツー」の耳元で、リズムを口遊む狩人の囁きが聞こえる。
 黒い狩装束に静けさを纏わせた、獣狩りの狩人。この人も、こんな風に楽しむのかと、失礼かもしれないが少し驚きを抱いた。獣を殺す武器を握る手は、優しくの手を引き、血と屍を踏みつけている足は、優雅なステップを刻む。
 その姿を、想像した事などまったくなかった。
 あるいは、狩人だからこそ、人らしい日常に惹かれるのかもしれない。血と獣の匂いに呑まれないよう、正気を保つために――。
 穏やかな微笑みを浮かべる彼の面持ちを、はじっと見上げ、そんな風に思った。

 それにしても、この人のリードは、とても上手だ。何の経験もなくぎこちなさに溢れたでも、不安を感じる事なく安心し身を委ね、導かれるまま足を運べる。次第にの中にも、ダンスの楽しさというものが生まれるのだから、これは彼の意外な特技ではないだろうか。

「狩人さん、とても上手ね」
「そうだろうか」
「もしかして、慣れているの? それとも、身体に染み付いているのかしら」

 神秘の血の医療の代償とし、自らの名以外のものは全て失った、異邦人の狩人。けれど、彼自身に宿る慣れ親しんだ習慣や作法が、無意識下に存在し現れる事もあるとすれば。
 もしかしたら、彼はヤーナムへやって来る以前、こんな風に優雅にダンスを嗜んでいたのかもしれない。狩りとは無縁な、穏やかで、煌びやかな日常のもとで。

「……貴方、ヤーナムへ来る前は、何をしていたんでしょうね。あんまり荒事が似合わない気がするわ。良家のお方かしら?」
「自分でも、あまり想像がつかないな。だとしたら、俺が患った病は……ダンスのしすぎによる足の負傷かもな。それか、腰痛かもしれない」

 は噴き出すように笑い、細い肩を震わす。その正面に佇む狩人も、愉快そうに唇を緩めていた。
 もはや、失われた遠い過去。追憶も叶わず、探す術もない。けれど――夢想し、それに思いを馳せ楽しむ事くらいは、許されるだろう。

「……こんなの、不思議ね」
「何がだ」
「だって、そうじゃない」

 ここは、谷合にある、忘れ去られた古都ヤーナム。獣の病に侵され、血と腐臭、あらゆる不浄に満ち溢れた呪われた土地だというのに。
 部屋に響く美しい清純な音楽に合わせ、身体を寄せ、ステップを踏む。この空間だけ、何にも脅かされぬ平穏が広がっているようだ。
 それはただの幻想であり、一歩外へ出た先の世界こそが無残な現実であるという事は、も、この狩人も、嫌というほど身に染み付いている。だとしても――。

「二人きりの世界で、踊っているみたい」

 オルゴールの音色に彩られたその空間は、忘れていた幸福感を思い出させた。そして、それを失う事と、手放したくないと縋りつく恐ろしさがどれほどのものなのかも。
 だからこそ――この優しい一時を、大切に思ってしまうのだ。

「夜明けを迎えたら、また、踊りましょうね。狩人さん」
「……ああ、そうだな」

 の手を握る、彼の手は、ぎゅっと力を込めた。

「俺も、そうある事を願うよ……何度でも」

 眼差しを交わし、額を重ねるように顔を寄せ合う。
 互いの手を握りしめ、背中を抱き、他愛ないステップを踏む。ヤーナムには相応しくない日常の真似事だとしても、溢れ返る幸福に酔いしれた。
 優しいオルゴールの音楽が鳴り止むまで、いつまでも。



我が家の名無しの狩人さん、ヤーナムに来る以前はどのような過去があり、どのような病を持っていたのか。
紳士な人だったかもしれないし、実は暴力的な人だったかもしれない。あるいは、何も持たざる者かもしれない。
けれど、過去は過去、今は月の狩人であり、悪夢の終わりと夜明けの訪れを渇望する人。
救いのない悪夢の世界に、一時の優しさを。

◆◇◆

ブラッドボーンの劇中、オルゴールがひとつ描かれています。言わずと知れた、ガスコイン神父の娘が持っているあれです。
ブラッドボーンの世界観は、ヴィクトリア時代に近いという考察がありました。この時代、オルゴールは車や家が買えるくらいにとても高価で、主に貴族諸侯が楽しんでいました。
ヤーナムは谷合の忘れ去られた街、技術革新などは無さそう。実際、ヤーナムの住居の中を見て回ると、医療の道具ばかりで娯楽はまったく見当たらない。ガスコインが異邦人だったからこそ持ち込む事が出来たのでしょう。

――なら、夢主のもとにあるオルゴールとは。

前の家主、というのは夢主がそう思っているだけなので、もしかしたら“誰か”が置いてくれたのかもしれませんね。


(お題借用:天文学 様)


2019.09.16