かくしてついに、幕が上がる

 長い長い夕暮れは終わり、訪れた銀色の満月が、薄い窓硝子の向こうに見えた。
 淡く射し込む月光は、あまりにも美しく、暮らし慣れた住居の中を照らしている。真夜中のはずなのに、酷く、目の前が眩しい。
 この外には、たった一歩でも踏み出せば、血と獣によって彩られた古都が広がっているというのに。

 そして、月光を浴び、浮かび上がった男性は――獣狩りに耽る狩人とは思えないほどの、静寂を帯びていた。

 質素なベッドに横たわったに、恭しく跨がった狩人は、じっと眼差しを注いでいる。どことなく感情が希薄なように感じていた瞳には、焦熱が燻っているように見える。出会った時にも被っていた枯れた羽根を象った黒い帽子と、血を避けるための顔の下半分を覆い隠す黒い布を外せば、その下には無骨さとは遠く無縁な、意外にも若く整ったかんばせがあった。きっと、とも年齢が近いのだろう。二十代後半ほどの凜々しい輪郭から、獣狩りと陰湿なヤーナムの狂気に染まっていない、落ち着いた雰囲気が感じられる。
 獣を殺し続けるその手も、細やかな傷跡が無数に刻まれごつごつと筋張った男の手であったが、壊れ物にでも触れるようにの頬を優しくなぞっていった。

 たったそれだけで、心臓が弾けそうだ。くすぐったくて、ドキドキする。

「狩人、さん」

 の震える唇に指先を重ね、静かになぞった後、狩人は自らの衣服を脱ぎ落とした。血と獣、硝煙の匂いが深く染み付いた黒い狩装束の下から、鍛えられ引き締まった上半身が現れる。
 古い傷跡が、いくつも見えた。あの夕暮れから、よほど苛烈な狩りをしてきたのだろう。彼の身に刻まれた獣の痕跡を、は静かに見上げた。気持ち悪さなどは、感じない。記憶を無くしたこの異邦人が、がむしゃらに足掻き生き残ろうとしている証であるならば、むしろそれは敬うべきものなのだ。
 広く、温かな胸板へ、手のひらを重ねる。そうっと傷跡を撫でれば、の頭上で、狩人の唇から微かな吐息がこぼれた。

 ぎしり、とベッドが軋む。狩人の身体が近づき、へと重なる。大きくて、がっしりした、男の人の身体。ぎこちなくその背に腕を回すと、抱き返すように狩人の腕がを包む。ぎゅ、と距離が埋められ、の口から意図せず少女のような声が漏れた。

「あッ……か、狩人、さん」
「……

 女とは全く違う、ごつごつした筋張った手が、の細い肩を撫でる。そのまま二の腕を滑り、脇腹を這うと、胸元へ伝い上がった。

「やッあ」

 反射的に身を竦めたの耳元へ、狩人の唇が寄せられる。耳たぶを柔く食み、輪郭を舌先と熱い吐息でなぞっていく。
 物静かな整ったかんばせだが、男の人だ。低い声と、少し荒っぽい息遣いに、全身がみっともなく震え上がった。恥ずかしくて、両耳を塞ぎたくなる。

「――、こっちを向いてくれ」

 呼ばれるまま、そろりと、顔を向ける。真横に寄せられた狩人の顔には、うっすらと微笑みが見えた。
 珍しい。そんな表情も、きちんと出来るのか。
 そんな風に思っていると、狩人の唇が、の眉間に触れる。大きな手のひらに包まれてしまった乳房が、やんわりと揉まれ、甘く形が歪む。

「ふ、う……ッ」
「不快か」
「ん、ちが……ッば、ばか……」
「知っている、すまない」

 くつくつと、笑うように狩人が言う。これまでは、そんな仕草、見せなかったくせに。狡くて、腹立たしくて――けれど、目を惹かれ、心臓が跳ねる。

 そうして、彼はの華奢な身体に優しく触れ、熱に染まる肌を愛撫していった。何匹――いや、何人もの獣を殺してきたのだろう手で、を甘く解す。
 不快さは、まったく無かった。生きたまま浄化の炎で焼かれる事を望まれたあの獣狩りの夜から、忌み嫌ってきた狩人であるのに、あまりにも心地よかった。



 そして、あの物静かな低い声が熱を帯び、欲情の欠片を見せる彼の姿が、酷く嬉しく思えたのだ。

 ――狩人は、をけして蔑ろにしない。
 恥ずかしさを煽る事はしても、その手を払い除けたくなるような嫌悪を抱かせるような真似は、けしてしなかった。
 まるで、の好む場所と嫌う場所を、知り尽くしているような触れ方だった。
 もちろんそんな事、あるはずがない。今日の夕暮れに、出会ったばかりの人なのだから。
 しかしそのような取り留めも無い空想を見出すくらいに、彼の手はの隅々を愛する。

「狩人さん、ずるい」

 吐き出した吐息は、恐ろしく甘やかに響いた。対して狩人は、熱を帯びているが余裕までも失っているようには見えない。少し、悔しく感じた。
 思えば、はこういった事には、まったく縁遠かった。異邦人であるがゆえに、偏見と陰湿さに満ちたヤーナムの住人はを邪険にした。そんな住人に、恋心を抱けというのが無理な話であり、恋の一つも無かったのはある種当然の事であったのだろう。
 男女の交歓など、これが――初めてだった。

「女の人に、慣れているの? なんてね」

 は悪戯に呟き、微笑んだ。先ほどのように、彼が笑うのを期待して。
 だが、の前に広がったのは――深く染みるような、切なさに満ちた表情だった。

 ほんのささやかな、戯れの言葉のつもりだった。まさか、そのような表情を返されるとは思わず、は狼狽する。
 何か気に障ってしまったのだろうかと、は彼の頬を両手で包む。ぎゅっと、ますます口元が強張った。

「……
「狩人さん?」
「俺は、貴公を」

 再び、唇をぎゅっと強張らせる。

「俺は、貴公の事を……」

 何か告げようと、必死に逡巡させている。けれど、結局、告げる事を選ばなかった。それを言ってはならないのだと、自らを重く戒めた。

「狩人さん――」

 貴方は、私を……なに? 構わずに言って欲しいと、は首を伸ばした。けれど、開いた唇は狩人に塞がれ、ベッドに押し返されてしまった。
 侵入してきた舌先が、ぬるりと絡み付く。粘着いた唾液が音を立て、粟立つ感覚と共に熱が灯る。

「ん、ふッ」

 言葉ごと、酸素を奪われるようだった。優し気に触れてきた仕草とは真逆な、乱暴とも言える強引な口付けに、頭の後ろが甘やかに痺れる心地がする。
 狩人の手が、閉じ合わせた両脚を撫で、抱え上げる。開かれた太腿の間へと伸ばされた指先は、の柔らかい秘所にまで滑り、狭い入口の周囲をなぞった。
 獣を狩る、狩人の指。かつて人だった、獣に成り下がったものを殺す、忌み嫌われた指。ごつごつして、けれど温かい、人間の指の感触が広がっていく。
 嫌悪感は、一欠片もなかった。だが、誰にも触れられた事のない場所へと、好いた人の指が届いてしまい、羞恥心と躊躇いで全身が熱で冒されるようだった。

「ん、や……ッか、かりゅうど、さ……!?」

 くち、くち、と水音を立てた指先が、ゆっくりと押し込まれる。味わった事のない異物感に、たまらず背中が反り、唇を離した。
 狩人はそれをゆっくりと追いかけ、の濡れた下唇を甘く食む。ちゅ、と音が鳴り、蝕むように吸われる。背中が、少女みたいにぞくぞくと戦慄いた。

「ああ、温かい、な」

 溜め息と共にこぼれた、陶然とした呟き。また少し、欲望の滲む昂りが、増したように聞こえた。
 耳の奥まで、ぞくぞくする。あの狩人が、物静かで穏やかな獣狩りの狩人が、こんな。

(ふれ、られてる。内側まで、自分ですら触ってない場所まで)

 長い指が出入りするたび、粘着いた音が立てられる。意志とは関わらず爪先がみっともなく跳ね、恥ずかしくてたまらなかった。

「ねえ、まって……ッき、きたな……ッんあ!」
「汚いところなど、貴公の身体にあっただろうか」

 微かに笑う低い声に、欲望が滲む。彼はしなやかに鍛えられた身体を、へぐっと押し付けると、睫毛が重なるくらいに顔の距離を詰めた。
 視界の全てが、狩人で埋め尽くされる。子どものように、心臓を飛び跳ねさせたのだけれど――。

「貴公は、綺麗で、甘く、温かいよ――いつだって、ずっと」

 白く輝く月明かりを受けるその面持ちは、熱を浮かべているはずなのに。
 二つの瞳には、下手に隠された切なさがはっきりと見えた。
 今にも涙をこぼしてしまいそうな、不器用すぎる歪んだ微笑みを浮かべたその理由を、は知る事も、聞く事も出来なかった。

 私はこの人の事を、どれほど知っているのか――分からないままだったのだ。








 あの時、彼は何を言おうとし、躊躇った末に言葉を飲み下したのだろう。

 不意に過ぎった他愛ない疑問に、つい、笑ってしまう。こんな場面で、思う事ではないだろうに。
 笑おうとし、喉からせり上がったのは引きつった呻き声だった。肩から、酷い激痛が迸る。あの夜の炎よりも、ずっと熱い痛みだ。もはや手のひらで押さえる事も出来ず、べっとりと深紅に濡れた地面の中央で、顔だけを動かした。

「グルルルルル――」

 青い色が滲んだ、不気味な空。恐ろしい輝きを放つ赤い月を背にし、獣が唸る。人間の背丈ほどの、小柄な獣だ。人であった名残だろう、ぼろぼろの衣類を纏った身体は毛むくじゃらで、伸びた両手は鋭い爪を擁している。
 その爪は、今しがた、の肩を抉ったために、ぽたぽたと赤い雫を滴らせていた。

「ギルバート、さ……」

 掠れた吐息で、今や獣となってしまったギルバートへ呼びかける。返ってきたのは、グルグルと響く、獰猛な唸り声ばかりだった。
 もはやとうに、人の言葉も、人であったという事実も、失われている。
 そして、赤い暗闇の中、不気味に光る瞳は、どろどろに蕩け崩れていた。獣の病を、発症した証だ。

 優しい、優しいギルバートさん。
 貴方も、もう、耐えられなかったのね――。

 ギルバート。同じ異邦人であり、父あるいは祖父のように慕った男性。不治の病を患い、血の医療に縋りどうにか生き長らえていると教えてくれた彼は、最近は特に体調が芳しくなかったが、その理由は“これ”だったようだ。
 この人も、必死に、耐えていたのだろう。獣の衝動を、人を失う恐怖を。
 肩を抉られても、血を啜られても、彼への尊敬の念は変わらない。目の前で大きく口を開き、唾液を垂れ流しながら喰らい付こうとする彼の姿を、は痛みの中静かに見上げた。

 ――獣となったギルバートが真横へ吹き飛んだのは、その直後だった。

 宙を飛んだ彼は、したたかに壁に打ち付けられ、崩れ落ちる。人とは思えぬ膂力でギルバートを蹴り飛ばしたその人物は、黒いコートを翻し、俊敏に駆け寄る。立ち上がろうとする毛むくじゃらな両足をノコギリで斬り、骨ごと砕かんばかりに両腕を踏み付け、地面に縫い止めた。
 靴底の下から抜け出そうとし、激しく身を捩るギルバートの頭上へ、握りしめたノコギリが掲げられる。ガシャン、と音を立て柄が伸び、ノコギリは無骨な鉈へと姿を変えた。

「ギャウ! グルルアア!」
「――何度でも、介錯をしよう。ギルバート」

 獣の血を啜ってきただろう、ギザギザの刃が、赤い月に真っ直ぐと向かう。そして――その刃は躊躇無く、ギルバートであった獣の頭部へ振り下ろされた。

 グシャリ、と骨肉を砕く音が響き渡る。
 再び鉈は高く持ち上げられ、もう一度、落とされる。
 果物を潰したような、水気の多い音が飛び散ると、獣の呻き声はついに途絶え、毛むくじゃらの身体は動かなくなった。

 ぐちゃぐちゃに潰れた肉片の中から、ゆっくりと鉈は引き抜かれ、血を払うと同時にノコギリの形へと戻る。事切れた獣の上から彼は退き、黒ずくめの狩装束を翻しのもとへ駆け寄ってきた。

、しっかりしろ」

 見慣れた枯れ羽の黒い帽子を被る、異邦人の狩人。穏やかな彼の低い声は、らしくもなく、焦燥感に溢れているようだった。
 出会った当初から、この狩人は物静かで、下手したら感情というものがコトンと落っこちてしまいそうな人だった。何に直面しても動揺とは無縁なのだろうと、常々思ったのだけれど、今の彼の状態を見るとそうとは言えなくなる。

 この人も、そんな風になるのか。ただのヤーナムの住人に、一度だけ身体を重ねた女相手に、こんなにも心を乱すのか――。

 伸ばされた狩人の腕が、上半身を慎重に抱き起こす。迸る激痛に、悲鳴すらもう出ない。そして、ようやく目の当たりにした自身の姿に、嘆息した。ああ、酷い格好。これはもう駄目だ、と。

 だって、片側の肩、在るはずの肉が、見当たらないもの――。

、何故」

 狩人の嘆きが、小さく聞こえた。

「ギルバート殿の所へは行くなと、けして行くなと、言っておいたはずだ」

 そうね、ごめんなさい。そう、言われていたのに。

 この狩人は、きっとギルバートの状態に気付いていた。もはや助かる事も、獣の病から逃れられない事を、夕暮れの時からとうに知っていたのだろう。だから立ち去る時、決まって何度もギルバートのもとへ行ってはならないと、釘を刺してきたのだ。

 それなのに、素直に聞けなかった。青ざめた空が広がり、赤い月が突如現れ、急にギルバートが心配になってしまい、言いつけを破り飛び出した。本当に、馬鹿な女だと思う。案じてくれた狩人の想いを、踏みにじった。

「ごめんな、さ……どうしても、しんぱい、で……」
「いい、もう、喋るな。動かなくていい、気をしっかり持て」

 黒革の手袋で覆われた狩人の手が、肩口を押さえる。血を止めようとしてくれているのだろう。そんな事をしても無駄だと、彼も知っているだろうに。辛うじて腕は繋がっているが、肉を抉り取られ、骨も見えているはずだ。むしろ未だに喋り、意識を保っている事の方が、恐ろしい奇跡である。

「……なきそうな、かお」

「しかた、ないの。かりゅうどさん」

 獣に成り下がる不気味な奇病に侵され、血と不浄に満ち溢れた、古都ヤーナム。
 ここでは、ありふれた結末だ。何も、驚く事はない。
 獣となってしまった人、哀れにも獣に食い殺された人、たくさん見てきただろう。いよいよ私も、その一人になった――それだけだ。

 仕方が、ないのだ。
 ここでは、救いなんてものは、何処にもないのだから――。

「――仕方ない、などと、貴公が言わないでくれ」

 語尾を荒げた声が、の耳を打った。
 狩人は不意に、枯れ羽の帽子を脱ぎ捨て、口元を覆う黒い布を下げた。赤い月から注ぐ、血のような月明かりが、焦燥に満ちた彼の顔立ちを照らし出す。

「俺は諦めたくはないから、何度もこの“悪夢”を見続けている。頼む、仕方ないと、言わないでくれ」

 噎ぶような懇願が、へと落ちてくる。言葉少ない、彼の心の底からの感情の吐露。剥き出しにされた生々しさに、初めて触れた。

「何度も、何度も、この悪夢を繰り返している。なあ、、本当は俺は、何度も貴公と出会ってる。夕暮れをやり直すたび、出会い、愛して、抱いてきた。嘘だと思うだろう、だがもうとっくに、貴公の身体で見ていないところなど無い」

 それなのに。
 狩人の低い声が、力を失い、悄然と掠れる。

「……何度も繰り返しているのに、約束した夜明けだけが、いつも遠い。そして決まって、最後はこの光景だ。迎えに行くと、共にヤーナムを出ると、“最初”の時から約束してきたのに」
「かりゅうど、さん……」
「何処で、間違えた。今までで一番、正しく進んでいた。今までで一番、近かったはずだ」

 口数も少なく、物静かな、何処か品のある狩人。けれど、もしかしたら、この人の心の中、誰も知らない秘めた深い部分は、とても熱いのかもしれない。ヤーナムを濡らす血より、きっと、何処までも。

 この人は、今も、抗い続けている。
 赤い月と青ざめた血の色のような空が現れるまでになってしまった、この陰鬱な場所で、抗い続け、生に縋り付いている。
 温かくて、感情が溢れ、とても――人間らしい。
 浄化と称した炎に飲み込まれたあの獣狩りの夜に、心の大切な場所をも焦がされたが、忘れてしまったものだ。

 ああ、何だか眩しくて、視界が細くなってしまう。

「あいかわらず、しじんみたい、ね」

 何度も悪夢を繰り返し、夕暮れに巻き戻るたび、初めからやり直しているだなんて。
 時々口にした、狩人の夢とやらもそうなのだろうか。
 それじゃあ、無骨な武器を振り回し獣狩りをしているくせに、女の抱き方が異様に上手かったのも。

 私は、それを知らないのに。
 この人は、今の私も、前の私も、その前の私も、知っている。

 ――本当に、夢物語だ。詩人だって、そんな言葉を書き連ねるだろうか。

「……でも、すてきね」

 心から、そう思った。それが事実なら、これほど素敵な事はないだろう。

 狩人の頬に手を伸ばそうとし、けれど叶わなかった。もう、指先の一つ、動かせないらしい。
 それに狩人が気付いてくれて、の手を取った。真っ赤に濡れた指先に顔を寄せ、躊躇なく、唇を押し付けた。
 温かい、柔らかい感触。あらゆる感覚が薄れていく中、狩人の温もりは仄かにまだ感じられた。

「……なら、もういちど、ゆうぐれから、はじめましょ」

「なんどでも、わたしのところにきて。たぶん、だいじょうぶ、つぎのわたしも……おなじように、あなたに恋をするから」

 狩人の瞳が、揺れ動く。初めて露わになった、狼狽。ああ、もっとよく見たいのに、瞼が勝手に下がってしまう。

「……そんな事を、いつも言ってはくれないのに。どうして、この時ばかり」
「ふふ、ごめんなさい、ね。やっぱり、いやなおんな、みたい」

 素直に物を言えない、可愛げのない女。
 けれど――好いた男性の腕の中で死ぬなんて、ありふれた物語のように、素敵ではないか。

、俺は――」

 瞼が下りる。暗闇が押し寄せる。けれど、深く沈み込んでゆく意識の中に、最後まで狩人の声が聞こえる。

 ねえ、狩人さん。私、本当は夜明けを迎えて、貴方と一緒にヤーナムを出る事、ずっと夢見て……――。









 この悪夢に囚われてから、幾度と嗅いだ匂いがした。
 限りなく“近い”がゆえに、格別に甘く、熱い――呪われた血の匂いだ。
 そして、悪夢の行き止まりには、いつもこの匂いが、むせ返るほど立ち込めている。



 腕の中には、また、冷たくなっていくがいる。肩を抉られ、血を多く流し、さぞ苦痛を味わっただろうに、その表情は穏やかだ。だらりと力を失った彼女の手を握りしめ、項垂れるように顔を寄せる。

 もう少しだった。もう少しで、夜明けを共に迎えられそうだった。これまでの悪夢で、一番上手く、立ち回れていた。

 ――本当に、そうだったか?

 何処かで、またしくじったのだ。“白痴のロマ”が隠していた赤い月が現れ、ヤーナムに複数のアメンドーズが出現しても、は発狂死しなかった。だが、結局、ギルバートのもとへ向かってしまった。彼を先に殺しておけば、何か違ったかもしれない……いや、それは前の悪夢で試した事だったろうか。

 幾度も繰り返す悪夢。何度も直面する、愛しい人の死。近付いているはずなのに、遠のくばかりの約束した夜明け。
 それでも気を狂わず、人間として縋りついていられるのは、というよすがを見出したからだ。
 それでも、まだ繰り返さなければならないのか。なんという、呪いだろうか。
 力なく吐息を漏らし、赤い月を仰ぐ。忌々しい、青ざめた血の色の夜空ごと睨みつけた、その時――ふと、頭の中が綺麗に凪いだ。

「……呪い、か」

 狩人となった瞬間、俺の脳裏には“逆さ吊りのルーン”が刻まれた。あれが狩人の業であり、呪われた存在である証なのだそうだ。
 ならば、は。
 これまで出会ってきた甘く熱い血を持つ女性は皆、ことごとく狂おしい末路を辿っている。呪詛をもたらす上位者たちにも目を付けられやすい存在であるなら、極めて純粋に近い血の持ち主であり、裏切り者としてその罰を呪いのように一心に受け続ける彼女もまた、恐らくは――。

「……ふ、ふふ、そうか。そうだな、夜明けを目指すだけでは、きっと――“敵わない”のだ」

 を、この呪われたヤーナムから連れ出すには。
 数多くの上位者が絡んでいる、この悪夢から抜け出すには。

 そうか、つまり、そういう事か。

「……ようやく、俺にも理解出来た。、次はきっと、上手くいく」

 彼女の亡骸を抱きしめ、赤い月へ吼えるように笑う。
 何度目になるか分からない秘匿の破られた世界で、こんなに高揚したのは――久しぶりだった。



月の狩人、ようやく“それ”に気付く。
呪われた狩人の身では、上位者を殺す事は出来ても、その神秘までも凌駕する事は出来ない。
己が人間である内は、けして敵うはずがなかった。

――そんな感じに、終わりへ向かい始めた、月の狩人の物語です。


2019.11.07