あの日確かに人間を知った

 ――狩人呼びの鐘。
 地下遺跡で発見されたという、古い大きな鐘。
 その音色は次元を跨ぎ、最初の狩人はこれを特別な符牒としたという。
 別次元の狩人達が、しかし断絶を越えて協力するために。


 当初は、この意味と、使い方が分からなかったが、この悪夢を繰り返している内にようやく理解した。通常、この鐘は音を鳴らす事が無い。正しくは、鳴らす事が出来ない。この神秘の鐘を鳴らすには、人の身では啓蒙を消費するという。その見返りとして、別世界の狩人の協力を求める事が出来る。
 きっと、これが医療教会、ひいてはメンシス学派やビルゲンワースが得た知啓なのだろう。
 常人には理解出来ないはずの場所にまで、思考が及んでいる。それに気付くたび、俺も確実に狂人の域へ向かっているのだと、静かに思い知る。

 最初の悪夢の俺と、幾度目かの悪夢を迎えた俺は、一体どれほど変質しているのだろうな――。

 とりとめのない戯言は、すぐさま思考の隅へ押しやる。片手で持てるその鐘を、戯れに揺らしてみた。鳴るはずのない鐘が、リィン、と美しい音色を奏でた。血と、獣と、病の匂いで包まれる古都の果てにまでその音色を運ぶように、神秘の鐘はいつまでも美しい調べを響かせた。

「……協力者とやらは、すぐに現れるわけではないのか」

 鐘を懐へ仕舞う。頭の中では、音色の余韻が絶えず広がっていた。
 協力者なる狩人は、いずれ現れるだろう。それまでは、大通りを片付けていよう。
 長い夕暮れに染まる空の下、乱雑に荒んだ市街地の大通りには、獣狩りに蜂起し、しかし自らも獣と成り狂った群衆が数多く集っている。
 最初の頃は、ここで数え切れぬほどに殺された。空を焦がすような巨大な焚き火、その中で磔にされ燃え盛る罹患者の獣、それを囲む群衆……嫌というほど見てきたその光景は、今では狩りの良い教訓となり、つまずく事はまずない。
 さっさと民衆を片付け、先を急ごう。ノコギリ鉈を握りしめ、踏み出そうとした、その瞬間だった。

 細く微かな音色の余韻が、頭の中で大きく震えた。

 何処からか、鐘の音色が聞こえる。今しがた自分が鳴らしたものと同じ響きの、美しい調べ。
 なるほど、これは、“共鳴”か……――。

 目の前の石畳の路から、不意に青白い光が立ち上った。光の中央に、跪く何者かの姿が見える。やがて、ゆっくりと立ち上がったその人物は、正面に立っていた俺の姿を眼に映すと、静かに一礼をした。背を屈め、左手を胸の前に重ねる“狩人の礼”だ。
 断絶を越えてやって来た、協力者。別次元にいるという、獣狩りの狩人。
 何も無いところから現れ出でた、なるほどこれは確かに神秘の成せる業だと思いながら、現れた協力者を見つめる。俺と同じように、工房の標準的な装束だという黒ずくめの狩装束一式に、身を包んでいる。背格好からして、恐らくは男だろう。とある古狩人を模ったという枯れ羽の黒い帽子の向こうで、物静かな瞳が窺えた。暗い色を湛えた、水底にも似た瞳だった。

「――初めまして、狩人殿」

 さあ向かおうか、と告げた声は、存外若い男のものだった。年齢は同じくらいだろうか、年上のようにも感じる。熟練の古狩人としか出逢わなかったから、不思議な親近感を覚える。俺も静かに一礼を返し、向かう先である大通りの群衆を指差す。男は淡々と頷くと、得物を握り締め、躊躇なく駆け出した。

 群衆の叫び声が上がる。「失せろ! 失せろ!」「呪われた獣め!」「お前の脳みそをグチャグチャにしてやる!」聞き飽きた狂った叫びは聞き流し、ノコギリ鉈を振るう。その横で、男も武器を用いて、群衆を躊躇いなく切り裂いていた。
 男が扱う武器は、パイルハンマーだった。右腕に装着されたその武器は、工房の異端として知られる“火薬庫”が生み出したものだ。どの工房とも異なる、複雑怪奇な機構を持つそれは、通常、先端の刃を振るう事で切りつける事も可能だが、その真価を見せつけるのは仕掛けを動かした時だ。
 飛び掛かった群衆に向け、パイルハンマーを構える。ごく太い杭を、叩き付けるように打ち出したその瞬間――辺りに、激しい爆発音が響くと共に、炎と火花が炸裂する。
 群衆はもろとも吹き飛び、散り散りに千切れ、赤黒く焼け爛れた四肢が飛び散った。

 “火薬庫”――火薬と爆発、複雑な機構に魅入られたその工房が生み出す仕掛け武器は、等しく扱い難く、また一撃必殺に重きを置く事でも知られる。使用難度はあまりにも高いが、もっともその扱い難さこそが“火薬庫”の所以である。

 身に纏う静けさに反し、荒々しく、そして凄惨さに満ちた、狩りの風景だった。
 瞬く間に、閉ざされた大門の正面は、臓物の深い血の色、そして焼け爛れた肉片で彩られた。群衆の絶えた通りにはもう、彼らの声は一つもなく、静けさが舞い降りていた。

 どうやらこの狩人は、狩りに慣れた熟達の狩人のようだ。

 感心こそすれ、蔑みは欠片も抱かない。返り血と臓物塗れの相手の恰好も大概だが、俺も同じような有様のため、嫌悪感もない。
 狩人は、獣を殺してこそ。そのやり方が、美を求めたのか、処刑を求めたのか、それだけだろう。

 男は、淡々とパイルハンマーを振り、血を払う。その瞳が先へ動いた時、その横顔へ静かに声を掛けた。

「すまないが、用事を済ませてもいいか」
「……? ああ、貴公に任せる」

 男は不思議そうに首を微かに傾げたが、異を唱えず、俺の後ろに従った。
 彼を連れたまま、大通りを外れ、ヤーナム式の住居が密集する細い路地へと踏み入れる。もはや身体で覚えた裏路地だが、いつ訪れても酷く緊張し、一方で幼児のような期待に心が揺れる。

 約束を交わした“彼女”は、この先にいるのだ。

「……すまない、少しだけ、待っていてくれ」

 肩越しに告げ、男から離れる。そして、あの住居の前に立つと、扉を叩いた。
 やや間を置き、扉が開かれる。慎重に開かれるその隙間から、しかめっ面の女性が現れた。

「――まったく、貴方、飽きもせずよく来るわね」

 煩わしそうに眉を寄せ、溜め息を吐き出す彼女は、やはりしかめっ面だ。
 ――最初の悪夢で、共にヤーナムを離れると約束した、愛しい人。
 彼女の姿に、人知れず歓喜の吐息をこぼす。ああ、約束を交わしたは、ここにいる。最初の悪夢をなぞらえ、同じ出会いをし、同じ言葉を交わしても、けして褪せる事のない慕情が心臓を揺らす。

「獣は来ていないかと、立ち寄っただけた。すぐに狩りへ戻る」
「貴方……はあ、獣避けの香を焚いているから、変な心配は無用よ。早く行きなさい、貴方の役目でしょう」
「ああ」
「……まあ、その、気を付けなさいよ」

 聞こえるかどうかという小さな声で、は囁いた。そして、急ぎがちに住居へ引っ込み、扉を閉じてしまった。
 どの悪夢でも、彼女は不器用で、そして隠し切れない慈悲深さを見せる。
 だからこそ、俺のよすがとなり、夜明けを求める最たる理由となったのだ。

 特に異変は見当たらない無事な姿に満足し、俺は男のもとへ戻った。

「すまない、手間を取らせた」

 しかし、男は身動ぎ一つせず立ち尽くしていた。何やら、とてつもなく驚いた空気をありありと滲ませている。顔の半分を血避けのための布で覆っているのに、その隙間から覗く双眸にも驚愕がはっきりと宿っていた。
 水底のような、暗く、物静かな瞳をする男が初めて見せた――人間らしい、素の仕草だった。

「……貴公、まさか」
「……?」
「あの婦人と、親しくなったのか」

 そして今度は、俺が目を剥く番だった。





 断絶を越え、訪れたこの狩人の悪夢にも、は存在しているようだ。並行して存在する同じ時間軸のヤーナムであるなら、友好的な住民も、歴戦の古狩人も、そっくりそのまま存在していて当然か。
 そして、こちらと同じように――は、必ず、命を落とす。
 本当に、忌まわしい呪いだ。

「しかし、知っているという事は……貴公も、救われた口か?」

 俺が尋ねると、男は曖昧に首を振った。その横顔は、何やら沈痛な影を落としている。

「最初は、そうだった。だが……今はもう、訪れる勇気など無くなってしまった」
「何故……」
「優しい婦人の死を、何度も繰り返し見るのが、耐えられなくなった」

 出会う事すらもう無いのだと、男は言った。

「名前すら知らぬ分際で、救われておきながら。そのくせ、忘れられず幾度も思い出し、そのたびに胸を詰まらせる。私には……あの婦人の優しさは、危う過ぎる」

 男の言葉は、ほんの少し、理解出来た。彼女の慈悲深さは、とても優しく、温かく、惹かれてしまうのだ。忌まわしい獣狩りに捕らわれた悪夢の中で、いつか忘れてしまうかもしれない“人らしさ”を、思い出させてくれるがゆえに。

 そして、その後に訪れる絶望は――いとも容易く、心を砕くだろう。

「……あの婦人の結末を、貴公も、知っているだろう? それなのに、貴公の目は、不思議とひた向きだな」

 これは馬鹿にしているわけではないのだと、男は付け加える。

「悪夢に囚われてもなお、屈服していない。他の次元の狩人を、幾度か見た事があるが……貴公のような目と出会ったのは、初めてだ」
「……そうか」
「貴公、あの婦人を、大切に想っているのだろう?」

 その問いかけに、嘘偽りなく、心から頷いた。

「……ああ。この悪夢に踏み入れた時から、俺のよすがは彼女だけで、夜明けを求める理由も――彼女だけだ」

 何度も、何度も繰り返した、この悪夢。その数だけ、愛した人の凄惨な死を目の当たりにしてきた。けして褪せる事のない慕情と、比例する喪失の痛みが、病が蝕むように心の中へ積もっているが――彼女との出会いを、絶やした事はない。最初の約束と、夜明けを求め、何度でも彼女の前に立っている。

 とうの昔に、その感情は人の域を外れているのだろう。半ば一人の女のためだけに、獣を殺し、名状しがたい存在をも殺しているなど、馬鹿げていると誹られるかもしれない。他人から客観的に見れば、俺の姿とてきっと狂人のようで、おぞましく映るに違いない。

 目の前の男は、どのような目をするのか。静かに視線をやると、俺の想像に反し、男は――とても穏やかなまなじりをしていた。

「……素晴らしいと、思うよ。とても人間らしい……美しい愛情だ」

 ……見ず知らずの、一時の協力関係である同じ罪人から、そんな言葉を告げられるとは。
 嬉しい、恥ずかしいといった感情はなく、困惑の方が強く過ぎった。反応に困る俺など、はなから気にも留めていないように、男はうっそりと仄かに笑っている。

「……貴公も、夜明けを求めているのだろう? そちらの、理由は」

 特に深い理由はなく、話題を変えるために思いついただけの質問を、男へ投げかける。

「ああ……そうだな。私も、未だ夜明けを求めている。だが……人と獣の違いを考え続けるばかりの、瞳の足らぬ身では、夜明けなど程遠い」
「……」
「例えば、焼け爛れた街に今も残る、獣の嘆きと、救い主の狂気。守ろうとする人の愚かな優しさ、など」

 右腕に装着したパイルハンマーを、左手の指で静かになぞり、男は俺へ視線を戻した。

「……長話が過ぎたな。まともな会話を誰かとしたのは久しいせいかな。さあ、狩りへ戻ろう。狩人殿」

 それが何であれ、我々の役割であるのだから。





 聖堂街へと繋がっている大橋へ踏み入れると、封鎖された大門の上から巨大な獣が躍り出た。
 聖職者の獣――血の医療を広めた、医療教会の敬虔な信者である。
 聖職者こそが最も恐ろしくおぞましい獣と成り果てる、その伝え通りの姿となった獣を、これまでの悪夢でもそうだったようにつつがなく殺し尽くした。

 獣の巨体が倒れ伏し、温かい血の雨が降り注ぐ。訪れた静けさのもと、再び男を見ると――男の身体は、薄っすらと透け始めていた。
 俺の悪夢からの、目覚めの兆しだろう。
 なるほど、大物を相手にする事で、一時の協力関係は終わるのか。

「――貴公、最後に一つだけ、伝えてもいいか」

 もう間もなく自身の悪夢に目覚めるという時に、男は俺に声を掛けてきた。

「枷になるようなら忘れ去ってしまって構わない。ただ、これから先もあの夕暮れの婦人を救おうと真に願うのなら――どうか最期まで、頼む」

 物静かな、水底のような暗い瞳に、懇願が宿っていた。伸ばした手も、踏み出した足も、薄く透明になりつつあるのになおも掴もうとしているその姿を、俺は静かに見据えた。

「けして助かる事はないのだと、私はもはや諦めてしまった。だが、救いのない悪夢で、あの婦人は唯一、人らしさを思い出させてくれた。その恐ろしい優しさを、狩人は、罪人は求めて仕方ないのだよ。だから、名も知らぬ月の狩人殿、夕暮れにこそ映えるあの美しい婦人を、どうか……――」

 男の手が、俺の腕を掴む。
 しかし、その僅か一瞬の間に、男は目の前から消えてしまった。
 全て一夜の悪夢が見せた幻だったように、何一つの痕跡も残さず。最初から何も存在などしていなかったように、血と獣の匂いに満ちた風が吹いた。

 だが、男の声は、耳に未だ残っている。

 かつては人だった獣を殺し、いずれはその獣に成り果てるかもしれない恐怖が付き纏う、狩人だからこそ抱かずにいれない哀願か。あの暗い瞳に宿っていたのは、人間らしい生々しさだった。
 それを、嗤う事も、忘れる事も、出来ないだろう。そうしないよう、けして血に酔う事なく、この悪夢を終わらせなくてはと、静かな覚悟を抱いた。

「――しかと受け取ったよ、名も知らぬ狩人殿」

 貴公も確かに、悪夢の終わりを求める人だった。

 とうに鳴り止んだ、狩人の呼びの鐘の音。しかし再びこれを鳴らしたとて、あの男には二度と会えない、そんな気がしてならなかった。断絶の先で、自らの悪夢に戻った男は、彼だけの思考を続けているのだろう。

 不気味な鮮やかに満ちた夕暮れの空のもと、俺も静かに願う。あの男にも、どうか有意な目覚めが訪れるように、と――。



あんまり夢小説してはいないですが、とある名も知らぬ協力者との一時の狩りをイメージ。
サイトのお客様から素敵なお手紙をいただいて「これは絶対に書かねば!!(発狂)」と書いた次第です。

様々な場所、時間で、狩人様はそれぞれの思いのもと、獣狩りに臨んでいる。
どうか彼らに、有意な目覚めが訪れますように。

そして勝手に書かせていただきまして、この場をお借りして今一度感謝を。
素敵なお手紙をありがとうございました!


(お題借用:酔醒 様)


2020.10.11