痛かっただろう、私などよりずっと

――――女神サリエル。
サイゴードが美しさを求めて共食いを繰り返した結果、生まれたアラガミと言われている。

青がかった白磁器の肌の上に、冴えた鮮やかな孔雀色のドレスを纏う、妖艶な女性の姿。その姿に、多くのゴッドイーターが惑わされてきた。実際も、この世にこんなに美しい、それも残酷なほど綺麗なアラガミがいるのかと思ったくらいだ。
焼き尽くす光の柱を放ち、追従するレーザーを金色の魔眼から複数撃ち、スカートをはためかせ翼を広げれば優雅に毒が撒き散らされる。嘆き苦しむその上で、女神は常にたおやかな面持ちを崩さない。宙を舞いながら繰り出す惨い攻撃手段、多くの人間を死に至らしめた、恐ろしいほど美しい蒼の女神。
綺麗とは思ったが、別に好意的ではない。神機使い――ゴッドイーターとしてアラガミ討伐の最前線で戦っていただ、その印象を戦いに持ち込んで情に流されるような事はない。

とは、言ったものの。
何故その女神の姿になってしまったのか、依然として不明である。
しかも部分的に、かつての人間の要素を取り込んで。



「……さっぱり分からない」

今日も今日とて、雪が舞う【鎮魂の廃寺】近郊。覗き込んだ水池の水面には、蒼いサリエルがくっきりと映りこんでいる。毒をばら撒く、美しい女神。しかも、かつての自身の顔を持っている、サリエルだ。というより、サリエルになってしまった自分、という言葉の方が適切である。
は、比喩なく陶器のような蒼白い手を、頬に重ねた。冷たくはないが、温かくもない。人の肌の感触に近いが、何処か無機質の滑らかさがあった。

サリエル討伐指令――単体ならば、難しい内容では決して無かった。
だが、数多くのヴァジュラテイルやオウガテイルを引き連れた、帝王ディアウス・ピターの乱入は、あの状況を一転させた。
通信機で、別神機使いへの緊急要請を入れたものの、到着を待たずに自らの身が限界に到達し、結局相討ちだったあの日。最後に戦った相手は、この女神であった。
神機を失い、腕輪を失い、神を喰らう者からただの無力な人間となってしまったは、最期の覚悟を決めてついに荒廃した大地へ伏した。

……の、だが。

目覚めたら、あの女神の姿になっているのだから、言葉も出なかった。

神機使い達の、暗黙の定めと掟。アラガミ化したゴッドイーター諸侯の末路と、処分方法。
公には明かされていないが、誰もが既に知っている事だ。ゴッドイーターがアラガミ化すると、まず一般のアラガミよりも強力な存在となり、神機ですら殺せなくなる。唯一確実に殺すには、アラガミ化する以前、そのゴッドイーターが使用していた神機を用いる事だけである。
そうしてその処分を行うのが……同部隊の、仲間たち。
当然だ、アラガミ化したなど情報漏洩は士気に関わるし、何よりフェンリルへの信頼問題に関わる。秘密裏に執り行うのが、処分の鉄則であろう。

覚悟は、している。

しているが、怖いものは怖い。

これならばいっそ、自我など無かった方が良い。一体、何時自我を失うのか。自分が自分で無くなり、同僚を襲い、人間を襲い、アラガミを貪るようになるのは何時か。いっその事、早くそうなってしまいたい。そうすれば、この焦燥感から解放されよう。だがしかし、そう暗く思いながらも、人間の心のままでありたいとも願っている。守っていた人たちを襲うようになるなんて、堪えられない……彼らに殺されるのも、その後悔を与えてしまうのも、回避したい。
ゴッドイーターの末路とは、我が身に降りかかって初めて理解する。なんて、気が狂いそうになるほど、呪いじみているのだろうか。二つのジレンマが、常に付き纏って、を苛む。

は、キュッと唇を噛む。水溜りからさっと離れて立ち上がると、ふわりと宙に浮いてその場を後にした。

本能が理解している、とでも言うのだろうか。本来ならば知り得ないサリエルの生態を、はアラガミとなってから一週間余りで手に入れていた。
翼を用いず宙に浮く事。翼を使えばより高く、速く移動が出来る事。上手く飛べなくて落下しても、身体は丈夫で怪我なんて滅多にしない事。それでもやはり、痛覚はあるという事。
そして、これは人間がアラガミ化した影響であるとが勝手に思っているが、同じアラガミに対して捕喰本能が湧かない。同時に、人間にも抱かない。色々口にしては見たが、どうやら偏食因子が備わっているのか、草花、その辺の木の実等自然の食物しか口に入れたくなかった。不幸中の、幸いだ。

職場の、とあるアラガミ研究をする博士が言っていた。アラガミは人類の敵であり、ともかく何でもよく喰べる。だが彼らは、喰べる事を通してその知識と細胞を取り込み、凄まじい速さで進化と増殖を繰り返している。人類は彼らを知らなければ生きのびられない、故に研究は必要だ、と。
依然としアラガミは変化を続け、多種多様な種類がなお発見され続けている。ゴッドイーターのアラガミ化も、それと同等に不明瞭な点も多く、未だ正確な研究はされていない。当然か、大半のアラガミ化したゴッドイーターは早期に処分しないと危険なのだから。が知らないだけで、きっと恐らく、そんなゴッドイーターたちはこれまで存在していたのだろう……。
そのような事は、も知っている。ただ、アラガミ化したゴッドイーターが、何時まで経っても自我を失う兆候無くアラガミの姿で過ごしているなんて。きっと誰も、予想出来ないだろう。
似たような事例はあるにはあるが、どうもの身に起きている事象とやや異なる。高度な知能と言語能力を持つ、少女の姿をしたアラガミとか。一度アラガミ化しながらも、再び人の姿と意思を取り戻し帰還したゴッドイーターとか。似てはいるが、完全にサリエルになったとは、少々合致しない。
常に変化する細胞が何の道を選んだのか、蒼白い四肢と肉体は人間のものだし、顔に至ってはのそれそのものだ。自由に動く指、素の二本の足、喉から奏でられる声も……自由に扱える。

ほぼアラガミに変化しながら、人間の要素も忘れなかった結果。そんな感じだ。
良いのか悪いのか、全く分からない。

……そこまで思って、あの博士ならばきっと迎え入れてくれそうだなと、は僅かな期待もした。だが、同僚たちからどのような事を言われるか分からないし、その手段もない、あったとしてもこの姿を見せる事になる。蔑む? 怯える? もしくは、問答無用で武器を持つ? それがゴッドイーター、神を貪ってなんぼの職業だ。
よって、戻りたいというの儚い願いは、結果として奥深くにしまい込まれてしまっていた。


そんな風に考えながら、人の気配のない廃れた世界を彷徨う事、早数週間というところが、現状だった。

それよりも、だ。分かってはいたが、四六時中アラガミ跋扈する世界に身を置く危険を、ほぼ毎日噛み締める事の方が今は重大であった。
サリエルとなっただが周辺を荒らす気やアラガミたちとわざわざ喧嘩を起こそうという気は無いけれど、正真正銘のアラガミたちには関係ない。わりと直ぐに喰べようとして飛び掛るし、追い掛け回してくる。気付けば背後をアラガミが着いてくるのだから、ぞっとしない。しかもアラガミたちの脳というものは、基本的に獣と同じで、強いものには牙を向けない。弱いと判断したものにのみ襲い掛かる。この分かりやすい法則のおかげで、は完全に弱者扱いだった。さすがに、鋼鉄の鎧を纏ったサソリの騎士――ボルグ・カムランが四体くらい一斉に駆け寄ってきた時は、全力で逃げた。
が、伊達に激戦区の討伐班に所属していたわけではないので、戦う事に関しては負けていないつもりだ。かわす事と追い払う事くらいは、容易である。なにせ我が身はアラガミ、神機はなくとも対抗は出来る。全く……嬉しいやら悲しいやらで、は溜め息をつく。

フェンリルの関係者と、同僚と、何度も共闘した仲間たちが恋しくなる。

白雪漂う空をふよふよと舞いながら、は現在寝泊りしている無人の家屋のある場所へと向かった。
もとは神仏を信仰する人々が暮らしていたという、この区域。今ではすっかりアラガミに追い立てられ、信仰の名残など野晒しにされた仏像等でしか見て取れない。周辺には木材で造られた民家も点在しており、この白雪に覆われた無音の世界にもかつて人が暮らしていたのだと、歴史のみを今に伝える。
その中で、比較的綺麗で、雨風と雪を防げて、周囲もよく見える小高い場所にある家屋を選び、ひっそりとは過ごしている。ただ寝る為だけにあるようなものだが、そうやって人間みたいな暮らしをする事で、私は今も心は人であるのだと……言い聞かせたかった、のかもしれない。いや、むしろそうなのだろう。

ほどなくし、目的の家屋へ到着した。宙に浮いていた身体を地面へと下ろす。本来のサリエルであれば金属の棒のような足なのだが、は素足で雪を踏み、家屋内部へと踏み入れた。
出迎えるものは、歪にへこんだり削れたりした物品と、薄暗さ。余計なものは全て脇に寄せて片付けたので、入り口から正面には玄関と、畳の小上がり。そしてあちこちから掻き集めた、毛布や敷布といったもの。所謂、ベッド代わりだ。そう呼ぶには、かなり質素だけれど。おまけに、家屋内部は隙間風が入ってるし、一部分に崩れた天井や破けた窓があるので雪は積もり放題。が、これでもまともな部類なので、既に気にはしていない。
孔雀色のスカートを引っ張り上げ、よいしょ、と畳部屋に上がる。そのまま積み上げた布団と毛布の群集に座り、横たわった。邪魔にならないよう、折り畳まれたスカートは緩め、翼の形状となったそれで自らの身体を覆う。掛け布団代わりだ。
思い出したように、肩に掛けた鞄を取り外し、中から日記帳を引っ張り出す。パラパラ、と無造作に開き、が自ら書いた記録を読み返してゆく。一日一日の記録も、一文は短くても積もれば量も多くなる。いつの間にか、残りの白紙のページの方が少ない。それを追いかけながら、新しい記録を書き綴る。ペンを握り、横向きのまま歪んだ文字を書き入れる。

「鎮魂の廃寺郊外……今日は雪。だが、寒さはない。特別な事もなく、比較的安全な日だった」

そして、今日も私の自我は残っている。何時まで、この自我は残っているのだろうか。

決まってその一言を最後に書き入れて、日記帳を閉ざす。本当に、何時まで残っているのだろう。
明日には消えているのか、それともまだ少し先の事なのか、知りようがない。この日もは、人間で居られた安堵と、何時まで人間で居られるのか分からない焦燥の、二つの感情に捕らわれながら、気持ちばかりの休息を取った。



元々、睡眠を必要とはしないアラガミ。ぐっすり寝た、という感想も特に無く瞳を開いて、明朝から活動を始めた。
といってもふよふよ漂って、お腹を満たしたりする程度だ。まさに暇人の図。此処でストレス発散に暴れまくったら、それこそ同僚たちが押し寄せる事態にもなるし、他アラガミたちから目を付けられる。
神機を持っていた時は、それこそ昼夜問わずに任務を言い渡されて出撃するのも、珍しくはないほどの激務だった。それでも生きがいを感じていたのは、あの場所の仲間たちが好きで、自分なりに……ゴッドイーターという職と向き合っていたからだ。今の状態も覚悟はしていたが……あの激務を思うと、こうやって何もしていない事が少々、もどかしい。
心は人間ゆえに。身体はアラガミゆえに。

……今日も私から、【私】は消えていませんよ、と。

は胸の中で呟いて、孔雀色の鮮やかなドレスを冷たい大気にはためかせた。こんな姿になって空を飛びながら、未だ人の心が残るなんて。ゴッドイーターに課せられるものは、大概酷いものだ。
白く染まった木々の群集を眼下に見下ろし過ぎ去る事、数分だろうか。討伐任務の為に足を運んでいた、荒廃してから野晒しにされた神仏を奉る寺院跡が近付いてきた。凍てついた雪に覆われ無音の静けさの中存在する佇まいは、人間が居なくなった事でより荘厳さを増している。張り詰め、息をするのも緊張を覚える、美しさ。信仰する人々が居らずとも、見る者に不可思議な落ち着きを与える場所だ。
遠目であっても、その様子が読み取れる。女神サリエル種の視力はかなり高いとは前々から思っていたが、本当によく見えた。寺院跡までまだ数百メートルも距離があるというのに、崩れた天井の様などがわりとくっきり窺える。その分、聴力は並みのようではあるけれど。
……どうしようかな。行って、みようかな。
普段は極力避けている場所だが、はほんの少しの気まぐれに押され、向かう事にした。何かあれば、大事が起きる前に直ぐに去ればいい。そう、言い聞かせて。

この気まぐれが、後になって非常事態を引き起こしてくれるのだが、それに気付くのは現地に到着してからであった。



捨て去られた、かつて神仏の信仰が厚かった寺院跡の敷地内。
深々と降る雪は、音さえ吸い込み沈黙の世界を生み出すのが常であるが――――この日は、どうやら違うようだった。
小高い場所に佇む、寺院最奥――仏像が今尚奉られている建造物内部から、激しい銃撃の音が響いている。その中には、獣の唸り声も混じっており、凍えた大気を乱暴に揺さぶっている。
敷地外の塀の影にへばりついたは、それを全身で感じていた。言った矢先に、まさか本当に大事に出くわすなんて。しかも、恐らくこれは……。

「神機使い、よね……」

見ずとも、耳で既に理解出来ていた。
絶えず連続し射撃する音……これは、アサルトの特徴だ。スナイパーならばそこまで発砲音は響かないし、ブラストは一発が非常に高威力でその分反動が大きく連射性は低い。そしてそれ以外の音が聞こえない事から、ソロミッションを受注したアサルトガンナーという事は想像がついた。
気には、なったのだが。此処でもし見つかってしまえば、もののついでに一緒に討伐されてしまいそうでもあって、は塀の影に隠れたまま動けなかった。困ったように隠れているサリエルの姿は、傍から見れば不可解そのものだろう。今もなお響いている、銃撃と唸り声の攻防戦。やはり此処は素直に撤退するのに限るか。

そう思った時だ。
絶え間なく鳴り響いた発砲音が、突然止まる。そして、次いで聞こえたのは鈍い打撲音と、微かな悲鳴。まるで勝利に喜ぶような、獣の咆哮。

は無意識下で、行動を起こしていた。それは人の心ゆえの、当然の感情だったのかもしれない。
予感めいた不穏な気配に、は顔を上げて寺院最奥の建造物を見上げる。塀の影に隠れていた身体を宙に浮かせ、普段は閉じているスカートを翼の形へと広げ、急いで向かった。塀を越え、崖の傾斜に沿い上昇する。天辺に到着した時、崩れ落ちた屋根から、中の様子が見えた。そっと降り立ち覗けば、倒れこんでいる神機使いと、中型のアラガミが一頭を確認する。逞しい猿神――コンゴウだ。青い体色から、極地型の堕天種であると直ぐに分かった。
後ろ足で立ち上がり、膨らんだ丸い腹を叩いている。相当お怒りらしく、活性状態にあった。単体ならば難しくはないが……なるほど、群れで現れたらしい。建物内部と、その向こうの石畳の階段に倒されたコンゴウが複数見えた。これが恐らく、最後の一頭だったのだろう。
と、事態を頭上で把握したが、コンゴウ堕天は正しく怒り狂った獣の顔つきで、神機使いを睨みつけている。荒く吐き出した獣の呼気が、冷たい空気を白く染める。
これは不味いかな、と眉を寄せ、は神機使いを見下ろす。「……?」ぴん、と張り詰めた糸が微かに音を立てたような、違和感がした。金色のの目は、まじまじと見下ろす。その姿をしっかりと視界に納め――――ドクリ、と存在しない心臓が、飛び跳ねた感覚がした。

だって、あれは。

身の丈ほどもある、アサルトガンの神機を、ボロボロの身体で手繰り寄せる神機使い――否、彼。
記憶の中のかつての日常で、いつも金儲けの事ばかり口にしていた、彼の姿。今ではもう辿り着けない、あの目まぐるしく輝いていた日々の風景に居た、仲間たちの姿の内の一人。

コンゴウ堕天が、吼える。太い腕を振り被り、彼に向かい拳を叩き落した。は天井を即座に飛び降りると、細い身体を捻り回転させ、同時に鮮やかな孔雀色のスカートを広げる。内側で放たれている妖しげな金色の燐光が、旋回する動きに合わせてその軌跡を描く。
猿神の拳が彼の身体をへし折る、その直前に割り込んだは、あらゆる剣撃をも跳ね返す鋼より強靭なスカートで、怒り狂うコンゴウをその真横から打ち据えた。屈強な青い猿神は、突如割り込んだ別アラガミに驚いたのか、呆気なく吹っ飛んだ。壁に叩きつけられ、軋む床板に落ちる。数秒後、ブルブルと頭を振って、木屑を払い落とす。その目は、今度はを敵と認識した。
だが、伊達にコンゴウより恐ろしいアラガミたちを相手にしてきたわけではない。目があえば死ねる代名詞の、スサノオやハンニバルともやりあった。逆にその獣の視線を睨み返してやり、普段は堅く閉ざしている頭部の魔眼を開いた。ぬるりと瞼の膜が上がり、金色の巨大な眼が一つ現れる。精神より先に、肉体の方が覚えてしまった使い方。憎らしいがしかし、彼を助ける為ならば。は、頭部の魔眼に意識を集中させる。

コンゴウ堕天が攻撃に転じるより、俊敏に。
その瞳から、何本もの赤いレーザーが放たれた。

正面から全てのレーザーを穿たれ、コンゴウ堕天は焼き貫かれた身体を、どう、と崩した。
呼び戻された沈黙の中、は、本当に人間ではなくなってしまったのだと自らを苦く感じた。が、それよりも、まずは気掛かりだったのは、彼の事だ。
慌てて振り返り、倒れたままの彼のもとへと駆け寄る。薄いピンクのシャツはボロボロで、首へ巻いたネクタイは力なく胸に落ちている。ジーンズも雪だか土だかで汚れており、眼下に見下ろすその様子から、かなり無茶な状況で戦っていたのだと理解した。
単体ならばさほど強敵ではないコンゴウ、けれど群れとなれば一気に脅威のレベルが跳ね上がる。彼の性格を思えば、群れに一人で挑みはしないだろうに……単体と思っていたら、実は群れであったとか、その辺りの不測の事態に見舞われた。それが妥当に思う。

その彼の身体は、微かに呼吸をし上下している。出血もないから、強く打ち付けてしまっただけなのだろう。

は、手を伸ばす。だが、否応なく映り込む今の自らの手の色に、それを躊躇した。蒼がかった、白磁器の肌。ビロードのような、青い孔雀色の鮮やかな袖を纏う、人外の腕。見た目こそは人だが、既に本質はアラガミ――八百万の神々だ。
彼にとっては、もうきっとは滅ぼす敵である。最後に彼と顔を会わせたのは、何時だったか……月日の経過が曖昧ではっきりとしないが、少なくとも短い日数ではないはずだ。という存在は、フェンリルではきっと殉職扱いになっているだろう……。それくらい、想像がつく。そんな中で、の顔そっくりなアラガミが出現すれば……一体どのような波紋を呼ぶのやら。

それに。

(……驚くより先に、きっと、銃を向けるんだろうなあ)

薄ぼんやりと、彼を見下ろす。かつての仲間にアラガミを屠る神機を突きつけられ、殺される。今の現状も恐ろしいが、その予想される現実の方が、同じくらい堪えられないと思う。
は、何度も宙で手をさまよわせる。触れるか、触れないか、震えた指先は躊躇うばかり。白い素足が、空足を踏む。

「う、ぐ……ッ」

くしゃくしゃの金色の髪が掛かる、彼の頬に、苦悶の表情が滲む。切り傷のついた、端正な頬。日常で、生意気な笑みを浮かべている彼が、過ぎる。
しばしそれを見て、迷っていたけれど、結局は立ち去る事が出来なかった。
横たわる身体の隣へ、そっと膝をつく。雪が淡く積もった軋む古い床板の上に、孔雀色のスカートが静かに広がった。腕を伸ばし、恐る恐るとその身体を起こして、足の上に抱える。青年のしなやかな身体が、ずっしりと圧し掛かる。それが妙にじわじわと嬉しくて、の方が次第に泣きたくなった。

久しぶりの、人の、温もり。仲間の、温もり。生きているという、温もり。

「……カレル」

涙を堪えて呟いた言葉は、きっと彼には届いていない。
それでも、構わなかった。背中を支えている右腕を持ち上げ、上半身と頭を胸元へと寄り掛からせる。近付いた彼の顔に、自らの蒼白い顔をそっと下げた。

「大丈夫……?」

返事の代わりに、呻き声が返ってきた。閉じた彼の瞼が、揺れる。意識が、戻ろうとしているのだろうか。右腕は、彼の背中をしっかりと包んで支えて、左腕は彼の顔へと翳す。

「何の任務だったか分からないけど、無茶、したら駄目だよ。カレル。君はいっつも報酬ばかり気にしてるから、アラガミ深追いするんだもの。ちゃんと……命は大切にしないと、駄目なんだから」

その時、恐らくポケットからこぼれ落ちたであろう通信機が、の視界に入った。随分と久しぶりに見たような気さえした。それを左手で取り、顔の前に持ち上げる。ランプが点滅しており、通信が入ったものの応答出来なかった場合の通知である事は分かった。何処からなんて、考える必要もない。
現地の神機使いより連絡が途絶えれば、増援を寄越す手筈になっている。通信機を勝手に操作して確認すると、数十分ほど前のものだった。……最後の通信からそれほど時間は経過していないから、怪しいな。は、カレルの為だ、と覚悟を決めて、その通信機のボタンを押した。連絡相手は……一番面倒が無さそうな、ヘリコプター操縦者か。どうせ会話は記録されているだろうし、短く伝えよう。
画面を操作し発信する。ピピピ、と接続音が響いた後、通信機より声が響いた。懐かしい、人の肉声。けれど感慨深くならないよう、全て聞き終える前には一方的に告げた。

「……こちら、第三部隊防衛班所属、カレル=シュナイダー狙撃兵。至急、帰還要請します」
『は……あ、貴方は……?』
「コンゴウの群れに遭遇したようで、カレルは現在負傷しています。寺院最奥で待機。……急いで」

ピ、と通話を遮断する。通信機は、そっと彼の胸に置いた。

「だ、れか……居んのか……?」

胸に寄り掛かる彼の頭が、動く。微かにその瞼が持ち上がる動きを見せた。は咄嗟に、空いている左手でその視界を覆った。

「……ッい、て……はあ、誰だよ……そこに居んのは」
「……」
「……増援か……ッたく、報酬が減る、な」

……彼らしい、カレルらしい、皮肉めいた言い方だ。それに第一に報酬とか、何処までも金の亡者め。は、笑ってしまいそうだった。久しぶりの、仲間の声。

「俺がやるから、誰か知らないが手を出すなよ。群れを片づけたのは俺だ……横取りされちゃ、たまったもんじゃない」

は、口を開きかけた。だが、ゆっくり、閉ざす。その代わりに、腕の力を強めて、彼を抱きすくめる。

「……? なあ、アンタ、誰だ……何処の所属だ……つーか何人の事抱きしめてんだ」
「……」
「チッ……だんまりかよ……訳分かんねえ……ッうぐ」

打ち付けられたであろう身体が、軋み、痛みに呻く。は労るように、カレルの背へ回した右腕をずらして、僅かに動く手のひらで肩をさする。そっと、何度も緩慢に、撫でる。
その仕草に戸惑ったのか、カレルの苦しげな声には困惑が混じった。

「……なあ、本当にアンタ、誰だよ」
「……」
「増援に来たなら、こんなとこで油売ってて良いのか。アンタ、神機使いじゃねえのか」

何も、言えない。は飛び出しそうになる言葉を、必死に押しとどめる。
第一部隊所属の強襲兵であると。任務を相討ちで終わらせてしまったと。こんな姿になったと。全て吐き出して、その後どうなる。一斉に討伐指令が出るのか、それとも幻想であったと笑われるか、が思い浮かべる結果は全て最悪の事態ばかりだ。

「……冷てえ、手。変な、奴だな……」

それを呟いた後、腕と足の上に掛かるカレルの重みが、ずしりと増した。
あっと声を漏らし、彼の瞳を覆っていた手を外して覗き込む。瞼は下ろされたままで、薄く開いた唇からスウッと息遣いが聞こえる。
……気を失った、ようだ。は喉元に絡みついた緊張を、呼気に乗せ吐き出した。ほんの少しの安堵が残った。
再び戻る無音の静けさに、白い雪が崩れた天井から舞い落ちる。鈍色の空にざわめきもなく、帰還用のヘリコプターはまだ到着しない。
降り積もるそれを払いつつ、一度カレルを抱え上げ隅の角へと移動した。少々ふらついたものの、床板の上に彼を寝かせて膝をつく。何か手当て出来そうなものがあれば良いが、とポケットやポーチをペタペタ触って探ると、回復球を一つ見つける。それを彼に向かって落とした瞬間、カバーが外れて蛍光緑の球体が浮かび上がり、カレルに吸い込まれる。
ひとまずは、これで安心だろう。後は支部に戻ってからの休養と――これ以上、怪我を負う事が無ければ。
は、顔を上げる。霧散し消えてゆくコンゴウの亡骸の向こうで、複数のオウガテイルを確認する。二本足のその獣たちは、グルグルと唸り声を上げ――サリエルと、カレルを見て近付いてくる。爛々と輝く、餓えた獣の眼光。本来ならばも、あの瞳をして、捕喰本能むき出しで辺り構わず喰い散らかしているはずだ。それでもやはり、あんな風になりたくないと思ったのは。

「……駄目よ。この子は、食べちゃ駄目」

人間でありたいと、今も願っているからだろう。

直後、飛び掛るように跳躍した数頭のオウガテイルが、頭上で顎を大きく開いた。
それを自身でも驚くほどに冷静に見据え、カレルを庇い立ち塞がる。孔雀色の硬質なスカートを開き、翼の形へと展開させる。内側から放たれる金色の燐光が、周囲の陰りを妖しく照らし出し。閉ざした頭部の金色の魔眼が、再び目覚めた。



それから、一時間は経過しただろうか。
寺院最奥に現れるアラガミを片っ端から追い払うの耳に、ヘリコプターのプロペラ音が届いた。どうやら、ようやく極東支部の帰還ヘリが到着したらしい。バラバラ、と鳴り響く音が近付いてくるのを察知し、は安堵の溜め息をついた。額の魔眼を閉ざし、スカートを戻す。
抜け落ちた天井を見上げる。雪がちらりと、視界を横切った。鈍色の空と、その淡さに、は目を細める。
再び横たわるカレルを見下ろすと、一度彼の側に膝をついてじっと眺めた。整った造作な顔立ち、少し顰めた眉、しなやかな青年の肉体。斜に構えた性分ゆえに、何処か生意気な面持ちをしていたが、今は年相応のあどけなさが感じられた。怪我している時に、思う事ではないだろうけれど。
仲間として、防衛班とも任務は共同で行ったし、空いた時間には他愛ない話だってした。と言っても彼の事だから、まず第一に金儲けが出てきた。なあ、今度高額の任務にでも行こうぜ、山分けで勘弁してやるから。言葉こそはかなり厭らしいが、その表情は本人も気付いていなかったのか妙に機嫌の良い笑顔だった。
次から次へと、過ぎる記憶。騒がしい日常。今ではそれも、この容姿も、程遠いというのに。
は、蒼がかった白磁器の手を伸ばす。五本の指で、くしゃくしゃの金色の髪をそうっと撫でる。人の体温はない、冷たい人外の指先から、その感触を脳に覚えさせる。する、と流れ落ちた毛先の柔らかさも見つめ、それから立ち上がる。

「……それじゃあ、ね。カレル」

呟いた言葉は、彼には届かない、精一杯の別れの言葉であった。
背を向け、古い床板を蹴る。宙に浮かんだ孔雀色の肉体に、何度も言い聞かせて抜け落ちた天井から外へと飛び出した。
これ以上この場に居ないように、これ以上名残惜しくならないように、と。叱責するほどの強さでないと、足はその場に留まってしまうから。
の頬に、冷たい大気が掠めた。凍えた風の吹き抜ける屋根に上がり、足元は決して見下ろす事無く、前を向いたまま崖下の白い世界へと飛び降りる。スカートを広げ、緩やかな滑空をしながら遠ざかるは、一度たりとも振り返らず、岩陰や木々の影などに身を潜めて離れた。

その数分後、小高い場所にある寺院最奥――先ほどまでが居た建造物の頭上には、バラバラと音を立てプロペラを回すヘリコプターが現れる。渋い緑色で染められたそれには、見覚えのあるシンボルマークが刻まれていた。
ようやく、フェンリルからの応援が駆けつけたらしい。
ヘリコプターは空中で浮いたまま待機をし、数人の人影が扉を開けてロープを掴み降りてゆくのが見えた。きっと、神機使いだろう。ともなれば、の知っている人物である可能性が高いが……。
はその光景をまじまじとは見ず、直ぐに身を翻し雪深い山中へと隠れた。否、離れないとどうにかなりそうだったのは、の方であったからだ。

遠くへ、ただ遠くへと進んだは、捨てられた廃寺が全く見えなくなったところでようやく立ち止まる。手ごろな樹木の上に登り、座れそうな枝に腰掛け、通ってきた道を初めて振り返った。勿論その風景は、雪が白く染め上げる木々の群集と暗い海だけで、先ほど見た廃寺やヘリコプターは無い。無いが、けれど、の脳裏には鮮明に残されている。
きっと、ヘリコプターはもう極東支部へ引き返している。負傷したカレルも、支部で休めば直ぐに治るだろう。応援として駆けつけた神機使いたちも、きっと――――。

……そう、思っている間に。

の両目からは、雫がこぼれ落ちていた。白い頬を滑り落ちて、ぱたぱたとスカートを濡らすそれは、ひっそりと、それこそ撫でる雪と同じくらいに淡々としていて。
妙な違和感を抱いてそっとまなじりを手で拭った時、自らが泣いていた事に気付く。なんだ、泣けるんだ。こんな姿で。こんな形で。は、口角を上げて静かな笑みを浮かべた。
流す涙とは裏腹に、笑みは穏やか。その理由は、もよく分からない。
懐かしい仲間と再開したから笑っているのか、彼らとは違う姿形になってしまったから泣いているのか。
カレルが無事に帰還出来るから泣いているのか、彼らは帰還出来て自分は出来ない事を自嘲しているのか。
……どれも正しいような、どれも違うような。
つまり今、自分はとても混乱しているのだと、そう結論付ける。それ以上、頭は回らなかった。

ただ、とても。
久しぶりに見た仲間の顔に、安堵したのは……事実だった。


「カレル……」


荒廃し、誰もいなくなった世界で一人きり。
泣きながら笑うアラガミ化した人間に差し伸べられるのは、何の代わり映えのない静けさだけであった。



カレルとの出撃率は、結構上位にあります。カレル好き。

(お題借用:as far as I know 様)

2013.05.29