最上級に、始まりの感謝を

ある日、何て事はない日常の中に降りかかった、突然の非日常。
という名の、異性からの告白。
しかも相手は、国のトップに属するお方……青みがかった灰色の毛並みの、犬獣人の男性。
かくして、それを受けたのは、何て事はないごく平凡な一般事務官の人間である

……聞くだけであれば、ドラマチックな話ではあるが。

これが現実であるのだから、人生何が起きるか本当に分からないものだ。


――――― さて、当事者のは、相手も相手であるのだから真剣に考え悩んでみた。
だが、午後の部門にもなれば忙しさが舞い戻ってくるので、一瞬にして第三部隊長の告白は彼方へ消えてしまっていた。

の職場は、王宮のある敷地内ではあるけれど、建物のえらい隅っこで、王宮の高貴な空気は香ってきそうなこないような、要するに高貴さとはほど遠い環境であった。
一般事務担当の同僚たちと、その上司、十数人の執務室は広々としているものの、なだれ込むように雑用が舞い込む。近くに中級執務室、さらに奥には上級執務室と続いている。事務官の主に職場となる建物は長い回廊を挟んで武官の職場となる建物に続いているが、此方には頻繁に出向く事はない。たまに上司が「面倒だから届けてきてー」というお願いをされた時くらいだ。

「……あ」

は、思わず声を漏らす。
急に思い出した頃には、空はもう既に橙色の斜陽に染まって、執務室もまたうっすら染められていた。
そろそろ、終礼の時間になるだろうか。
何やら、普段にも増して時間が猛烈な速さで過ぎた気がする。そう思っている彼女の机に、本日最後の仕事が置かれた。

、悪いけどこれ、武官の執務室に頼む。今日中にって言われてたの忘れてたー」
「……室長、自分で行ってきたらどうですか」
「ちょ、なんか今日はやけに食いつくな……頼むよぉ、俺これから会議で呼ばれたんだもん」
「他の人は……」

と、周囲を見れば、馴染みの同僚たちは揃って「ゴミ出し行ってきまーす!」「戸締まり行ってきまーす!」と総退出していた。
ちょ、ゴミ出し行く奴ついでに行ってこいよ! 通るだろが!
美人と評判の友人ラナは、「ごめん、私も隣の中級事務のとこに呼ばれちゃって」と申し訳なさそうに片手を上げた。
武官の集まる建物は、やはり空気が違う為か、敬遠される事もしばしばあるが……だからと行ってが行き慣れているというわけではない、断じて。
むむ、とが唸ると、良い年したおっさんが両手を合わせて「お願ーい」と頭を下げるので……。

「……分かりました」

は、そう言わざるを得なかった。
お駄賃は、下町で一番人気お菓子屋の、特製イチゴプリンになった。



上司から渡された書類一式を抱え、筆記用具などが詰め込まれた鞄を肩に掛けて抱えて、コツコツと回廊を進む。大柄な獣人が、横へ十人並んでも脇を通り抜ける事だって出来る、無駄に広々とした長い豪奢な回廊は通り慣れてはいるが、今は誰ともすれ違う事はない。
この時間、事務官たちの大半は定時で上がるからだろう。そして人の少ない建物へ、文官がやってくる事も無いから、静まりかえっても不思議でない。
そこから臨む、日中は日溜まりとなる中庭も、今は夕暮れの暖かな橙色へ静かに染まっていた。
は一度足を止めると、爪先の向きを直し、中庭へ向かった。
元々、広々とした敷地内だけに、事務官の集まる建物と武官の集まる建物の間のこの中庭も、大層立派なものだった。丁寧に手入れが施れた花壇と、豊かに茂った大木、その近くにはベンチもある。此処で働く者たちの憩いの場であるが、夕暮れを迎えると閑散とし寂しさも漂っているが、こういう情緒的な風景も好きだった。

この誰もいない中庭と、王宮への外門から内門までの間の庭園を見て回るのが、のちょっとした日課であった。日中は何かと建物内での仕事なので、帰る時くらいしかゆったりと散策出来ない。

「……おっと、あの人から仕事頼まれてたんだ」

うっかり眺めてしまったが、遅くなっては後々上司が怒られるだろう。
は書類を抱え直して、くるりと向きを変えた。
が、その視線の先で飛び込んできた人物に、思わず動きを止めた。
橙色の穏やかな空気に、はっきりと浮かび上がるような存在感。灰色の毛色の、長身な犬獣人がを見つめていた。
コツ、と彼の長い足が、へ向かって進む。

「今、上がりか」

シュバリオ=ダレフ。
低く心地よい声で、彼はへ話しかけた。
急に思い出す、彼からの告白。あまり見かけた事の無い人物であっても、意識してしまうのは致し方ないだろう。
は、出来る限り平常を装った。

「はい……あ、帰る前に、そちらへ書類を持って行こうと思ってまして」
「書類?」

シュバリオは、からそれを受け取ると、ペラリと見ていく。
その間、はじっと彼を見上げてみた。改めて思ったが、彼の身長はどれほどあるのだろうか。は、一般的な160センチ程度だろうか。平均的な、背丈であると思う。それに対し、シュバリオは……2メートルあるかもしれない。屈強さの伺える身体つきだが、暑苦しくなくスラリと伸びやかな印象を受ける。が、いかんせんデカい。獣人と人、まして人間の女と獣人の男の差など歴然である。

「……ふむ、これは、私の方から本人へ渡しておこう……? どうかしたのか、殿」
「あ、いえ、すみません。改めて思う事も無いのですが……ダレフ隊長は、やっぱり大きいですねえ」

などと笑うと、シュバリオは、パチパチと瞬きをする。
ゲッ失礼だったか! は慌てたが、彼は「獣人など、大体これくらいだろう」と特に怒る様子もなく、の頭を見下ろした。

「あ、すみません、書類……」
「いや、構わない、私がそうしたいだけだ」

ダークグレーの瞳が、細められる。厳しさはなく、笑うようだった。心なしか、口元も緩やかに上がっている。は、少しだけドキリとしながらも、「ありがとうございます」と頭を下げる。にこりと微笑んだに、シュバリオはしばし黙りこくった後、小さな声で告げた。

「これから、帰るのだろう」
「はい」
「……その、」

迷うように、シュバリオが顔を背ける。
何だか珍しいものを見てしまったような気分になったへ、再び彼の低い声が落ちる。

「……外門まで、私も一緒に良いだろうか」

は、本日二度目になる、素っ頓狂な表情をしてしまった。
察するに難しくない意味を、とて分かっている。肩に掛けた鞄の紐を握りしめ、「はい」と頷いた。国のトップに所属する部隊長を前にする緊張感は、とても表現のしようがなかったが……それも、次の瞬間薄れた。

「……」

ブンブンと、楽しそうにシュバリオの長毛な尻尾が横に激しく揺れていたのだ。



特に何かをするわけではないが、日課でもあるのである場所へと向かった。王宮へと直接続く内門から、広大な敷地の玄関となる外門の間には、ひたすらに長く続く赤い煉瓦で敷き詰められた道が厳かに王宮まで飾っているのだが。その両脇には、職人が業と手間、そして日々の丁寧な手入れを込めて造られた美しい庭園が広がっている。
色とりどりの季節の花々、上質なビロードのような芝生と植木、さすがは王宮の庭園だと思う。吸い込んだ空気は夕暮れの静けさも相まって、甘くの鼻腔へとそっと入ってくる。
表情の緩まった彼女の横顔を、シュバリオはじっと見つめる。

「すみません、ダレフ隊長」
「いや、構わない。……殿は、花が好きなのか?」

尋ねられ、は笑みを湛えたままシュバリオを見上げた。

「見るのは、わりと好きなんです。育てるまでは、いかないのですが……私の実家が、周りに緑が多くて。田舎だったんですが」
「そうか、田舎か」
「はい、この島の、南の……エルド諸島の街から」
「エルド……それでも、遠い場所だな。船で何十時間もかかってしまう」
「はい。でも、とても素敵な場所でした。この島も、とても素敵です」

少し、思い出す。カリフォスという一つの国に属する諸島の内の一つにあるの実家は、本当に小さな街で田舎であった。けれど、それを苦に思った事はないし、今も自慢の故郷だ。初級事務官といえど、仕事はなかなか忙しくもあるので、休日に帰郷する事はないし、そういえば滅多に数年帰っていない。だが、手紙のやりとりはしているし、家族が息災である事は知っている。
が微笑むと、シュバリオは「そうか」と言葉少なく返す。だが、不思議と……嫌な静けさではなく、ゆったりと穏やかな静寂であった。
この時、はシュバリオに対し、当初の緊張感は薄れていたのだ。それを、彼女自身はまだ分かっていないが。橙に染まった微笑みの横顔を、シュバリオがじっと見つめているのにも、気づいていないように。

サク、サク。
二人分の足音が、静かに響く。ふわり、と花の香の混ざった風に、の髪が揺れ、事務官衣装がはためく。じっと見ていくの横顔は穏やかで、シュバリオを警戒する様子もなく、ゆったりと歩を進めている。
シュバリオは、ダークグレーの瞳を細めて、気づかれぬよう息を吐く。檜皮色の事務官の制服が、夕暮れの庭園にやはり似合っていた。

「……いつも、此処に来ていたな」
「え?」

は、シュバリオを見上げた。

「誰もいない夕暮れの庭園を……いつも、一人で見て回っているだろう。最初は、何をしているのかと思ったが……散策なら、頷ける」

は、あっと小さく声を漏らすと、恥ずかしげに頭を掻いた。

「あ、はは……不審者でしたよね、誰もいない庭園を一人でなんて」
「いや……私は」

シュバリオは、そこで一度声を止めると。

「――――― 私は、貴方によく似合う風景だと、思っていた」

そう告げ、の瞳を見つめた。
剣を持つ者だけでない真摯さに、は年甲斐もなく慌て、そっと顔を逸らす。

その時ふと気づいたが、とシュバリオは、もうずいぶんと外門にまで近づいていた。
しばし会話は止まったが、大きな外門のすぐ近くでシュバリオは姿勢良く佇むと、へ言った。

「中庭に貴方が居て、思わず声をかけたが……迷惑では、無かっただろうか」

は、「そんな事は」と首を振った。
彼は安堵したように表情を緩めると、ピンッと立った耳を少しだけ下げた。

「……楽しい時間を過ごさせてもらった、感謝する。殿。帰りは、気を付けて」

そのように紳士的な態度で言われた事は無かったので、妙には落ち着き無く視線を泳がせてしまったが……ふと、首を傾げる。

「……ん? 気を付けて? ダレフ隊長は、帰りではないのですか?」

二人でのんびり散策して、てっきり彼も帰るのかと思ったのだが。
が不思議がると、シュバリオは何でもないように「いや、私はまだだ」と返してくる。さらに尋ねてみれば、何と彼……。

「きゅ、休憩時間だったのですか?!」
「ああ」
「け、結構な時間が経ってますよ。大丈夫ですか?!」
「ああ、大丈夫だ」

いや大丈夫って、此処から武官の建物まで距離あるぞ?
は言いそうになったが、狼狽えた声しか結局出なかった。
そんな、彼だって多忙な身だろうに、長い事付き合ってくれたのか。何と申し訳ない。
なんて慌てるの前のシュバリオは、相変わらず冷静に佇んでいる。乱れの一切ない、美しいまでの姿勢で。

「……ち、ちなみに本日のお勤めは何時までで?」
「いつもは大体、夜の七時ほどだが……今日は、さて。九時に帰れるだろうか」

……武官といえど、やはり忙しいものは忙しいらしい。
はサアッと背筋が冷たくなるのを覚えたが、肩に掛けていた鞄をゴソゴソと探り出すと、手に取ったものをシュバリオへ差し出す。

「ダレフ隊長には、少ないかもしれないですが」

短い灰色の毛が覆っているシュバリオの手を、さっと取る。
シュバリオは不思議そうにし、渡されたものを手のひらで包んだ。

「午後のおやつに、食べようかと思っていたサンドイッチです。タマゴのサンドイッチと、スパゲティのサンドイッチが入っています。もしお嫌でなければ、夜食にどうぞ。無理はいけないですよ、お仕事の時は。ちゃんと食べませんと」

の手には大きかったが、シュバリオの手に渡されると、何て小さい事か。まるで玩具のようだった。それだけ、彼の手は大きいということだろう。

「……あっ、あの、差し出がましい事だったかもしれませんが、その」
「――――― 殿」
「は、はい」

は、肩を竦めた。失礼が過ぎただろうか、お立場が違う身分で、気分を害してしまっただろうか。悶々と考えたの頭上へ落ちてきたシュバリオの声は。

「感謝する、ありがとう」

語尾が穏やかに緩まった、低い声だった。
はそっと、窺うように顔を上げると、その頬にふわりと暖かい手が触れた。灰色の毛が柔らかい、大きな手。シュバリオのものだった。

「……私の事を、恭しく扱う必要はない」
「え?」
「……シュバリオと、気軽に呼んでくれないだろうか」

は、それは、と声を出しかけた。だが、彼の目は真にそう訴えているので……彼女は断りの言葉を引っ込める。

「……畏まりました、シュバリオ隊長」
「畏まる必要もない。出来れば、隊長もなしで」
「ええっ? では、えっと……シュバリオさん、で」
「……ふむ、もう少し気軽でも良いが……十分だ」

は視線を下げ、またも見つける。長毛な尻尾が、フサフサ揺れている。
何だかおかしくなって、は笑みをこぼす。

「……では、シュバリオさん」
「何だ」
「私の事も、気軽にと、呼んで下さいな」

ぴく、との手に触れていた彼の手が、震えた。

「私も、ダレフ隊長ではなく、シュバリオさんと呼ぶのですから、どうか」

彼はしばらく黙りこくっていたが、ついには観念したように「分かった……」と呟く。表情がないように思え、その実とても分かりやすい。は、クスクスと微笑んだ。

シュバリオ=ダレフ。戦闘部隊の第三部隊長を勤める、若き双剣の使い手。
冷静で、真面目で、職務と忠義を優先する男。
普段そう聞いてこなかった彼の、本来の部分を垣間見た気がした。

さわ、との頬を撫でたシュバリオの指が、ふと力を増した。

「……その、
「はい」
「……昼間の、件だが」

……あ。
は、またもうっかり忘れかけており、思い出した。
正面に佇んだシュバリオは、やや緊張の吐息を噛むと、静かに告げた。揺れていた尻尾が、ピタリと止まって、ピンと張りつめて下がっている。

「男女交際を、望んだが……私というつまらない男は、の隣に寄り添う事はやはり許されないだろうか」

シュバリオの、真剣な眼差し。
冗談のはずがないだろう、この人に限って。
昼間と同じ事を考えたが、あの時と違ったのは、の心は比較的落ち着いており、シュバリオの眼差しを受け止める事は何とか可能だった。
夕暮れに染まった空気に、涼やかな風が流れる。花の香を含んだそれが、人間の女と長身な犬獣人の間を撫でて過ぎていく。

「……シュバリオさん、私」

シュバリオの身体が、まるで身構えるように揺れた。
変に繕う事は、も出来ない、ので。素直に、思った事を口にする事に決めた。一言、一言、ゆっくりと、彼女自身にも告げるように。

「しがない初級事務官で……一般事務をしている、平凡な女です。
正直に言って良いのかも分かりませんが、今まで……とんとこのような事は体験した事がありません。だから、その、男女交際とか……よく分からないです。
私が知るシュバリオさんも、第三部隊長である事くらしか、ないです」

でも、とは声を強くした。

「シュバリオさんと居るのは、とても……楽しいと、思います。今日、そう感じました。だ、だから、その」

ふしゅう、との顔が赤く染まる。

「あ、貴方を知るところから……お願いします……」

まだ、恋も愛も何もあったもんじゃない言葉であるのに。
そう告げるのに、あまりにも多大な勇気を要した。

のその言葉を、シュバリオは沈黙したまま聞いており、そしてそれは妙に長い時間続いた。奇妙に思って、が顔を上げると。
明らかに、動きを硬直させをガン見するシュバリオがそこに居た。悲鳴が、出そうになった。

「……それは、私と交際を、してくれるという事か」

す、と頬に触れた手が、の顎へと下り、そっと撫でられる。
ぞく、とは震え、必死に返す。自分は、こんなに乙女であったのかと不思議に思うほどであった。

「こ、こういう事は、曖昧で良くないのかもしれないのですが、でも、シュバリオさんを私は知らないので、あの、だから」
「―――――

そっと、シュバリオの声が遮る。
「分かっている」と告げる低い声は静かで、の慌て始めた心を宥める。

「それで良い、十分だ……。後は、私が頑張れば良いだけだ」
「は、はい」
「……

頬に触れていた手を下ろすと、の細い指先を微かに握った。

「嬉しい」

フサフサ、と彼の尻尾は、横に激しく揺れているのが見え、もようやく笑みを浮かべた。

後ろ髪を引かれるような、奇妙な感覚を覚えながらそっと離れると、シュバリオが静かにの背へ声をかけた。その大きな手には、玩具のようなサンドイッチを大切そうに抱えて。

「……私は、が庭園を通り帰る姿を、いつも見ていた。先ほどと同じように、優しい笑顔の貴方を。ずっと探しては、遠くで見ていた事を、貴方は気づくわけがないし、不気味に思うかも知れない。
だが……願わくは、真面目さしか取り柄のない私が並び立つ事を」

シュバリオは、美しい礼を見せた。シャラリ、と腰に差した双剣が冷たい音を立てる。

「……貴方の世界に入る事を、これからもどうか、許してもらいたい」

一層、赤みを増した夕暮れの光は、等しくその色で染め上げていく。
とシュバリオも、例外ではない。
けれど、真っ赤になったの表情は、誰が見ても丸わかりであった。

シュバリオが望んだ位置は、存外近くにあるかもしれないが、頭を下げていた彼には彼女の分かりやすい表情に気づいていなかった。



シュバリオが、素で女たらしみたくなった。
何てなめらかなお口なの、このこの。

そんな二人の物語が始まるとか、始まらないとか。

2012.07.15