願いも眩む、午後の二時

最近変わった事と言えば、やはり職場環境だろう。
初級事務官という、下っ端の事務担当の。執務室から出る事はあまりなく、まして武官の集中する建物に出向く事など本当に数えられる程度しか無かった。
だが、嬉しいのか悲しいのか、シュバリオ=ダレフという官職のトップクラスに部類する《カリフォス》軍部隊の内の一つ第三部隊を率いる隊長とお付き合いを始めるようになり、のもとには仕事が舞い込むようになった。

武官の建物への、書類運搬という力仕事が。

当初危惧していた、やっかみや嫌味、虐めなどは全くと言って良いほどなく安堵はしたのだけれど。同僚も室長も皆「あんな怖いところに行く必要がなくなったラッキー」とでも本当に思っているのだろうか、の机へ書類を置くようになった。そっと、チョコレートやキャンディーを一粒添えて。
室長が頼む時、常に何かしら食べ物をお駄賃に渡していたのが伝染したのだろうか、に頼む時はお菓子を置くと良いなどと思われ、書類+チョコレート一粒が最近定番になっている。お前ら、お菓子置けばええと思うなよ!と胸中叫びそうになりながらも、理性と身体は別物で、仕方ないので頼まれてあげる事にする。何だかんだで、は頼まれると断れない性質である。

に頼みごとする時は、お菓子を置くと良いわよ。あの子、甘いものに弱いから」
「ラナァァァァァ!!」

その原因は、案外近くにいたりするが。

事務官と武官、特別に仲が悪いだとか、壁があるだとか、無いのだけれど……やはり武官というものは剣を持つ事を許された唯一の職。自然と敬遠してしまうものだろう。
だからと言って、何もに頼まなくても良いだろうに。そんな事だから、最近武官たちからも変に覚えられ、《ダレフ隊長の彼女》に加えて《書類運搬係》と言われてきているのだ。
さすがに重要な書類については自分たちで持っていくし、あんまり持ち込まれると非常に困るので断る時もあるが……

まあ、でも一つ分かった事がある。
武官の人々は、何も事務官たちが思うほど恐ろしい存在ではない。むしろ、同じ島で生きる者同士なのだから、とすら感じさせる。


「――――― はい、じゃあこっちは貰って、これをお願いね」
「はい」

書類を手渡されたの目の前には、軍服を纏う美しい女性が佇んでいる。乱れなくぴっしり髪を纏めて結んだその頭には、猫の耳が付いており、尻尾も視界の片隅でくるりと回っている。いわゆる、猫の亜人の女性だが、凛とした勇ましさが男性以上に魅力的だ。
けれど浮かべた笑みは穏やかで、決して相手を見下す様子もない。帯剣してはいないがこの女性もれっきとした武官である。地位はそう高くはないけれど、初級事務官なんかとは比べては失礼な立場である事は間違いがない。

「いつも、持ってきてくれてごめんね。私達が自分で動けば良いのだけれど」

苦笑いをこぼし、女性は申し訳無さそうに告げた。は勢い良く首を振ると、「これも事務官の仕事ですから」と思わず返した。
多分こういうところが、自分で仕事を増やしているのだけれど、迷惑とは思っていないのも本音だ。主に、この武官の女性に対し、だが。
ここぞとばかりに頼んでくる、同僚や室長とは訳が違う。

「そうだ、さん。良かったらこれ、午後にでも食べて」

二つしかないけど、と告げた女性は、軍服のポケットを探る。しなやかな手で取り出したものは、小さなパイの菓子が二つ。は恭しくそれを受け取ると「良いんですか?」とこぼす。
それに対し女性は、やはり凛とした声で「お駄賃みたいで申し訳ないけど、いつも運んでくれるもの」と綺麗に微笑んで告げてくれた。
は礼をして、ポケットへ菓子をしまう。執務室へ戻るべくあの無駄に長い回廊へと身体を向けた、瞬間、不意に聞こえる賑やかな掛け声に、歩みを止める。

「これは……?」
「ああ、さんは普段こっちには来ないものね。聞くのは初めて?」

頷いたを見て、女性はしばし考えた後に彼女の腕を取って歩き出した。勿論、無駄に長い回廊とは別方向、さらに武官たちの建物内部へと進む。
わたわたと着いてくとは違い、女性の足はとても真っ直ぐである。コツコツ、と踵を鳴らす音さえも女性を引き立てるようだった。身なりや仕草だけでない、魅力も放たれている。

……何だか、自分がみっともなく感じてしまう。
そう思ってしまうのは何故だろうか、とは思ったものの、女性が何処へ向かおうとしているのかそれの方が気になった。

「あ、あの、何処へ」
「ん? 勿論、この声の発信地へ」

次第に、耳に微かに届く声も徐々に大きく響き、盛大な声に混ざって剣の刃が弾き合う音色も聞こえる。
普段の居る建物は、事務官などが集中しているので、基本的に静寂で満ちている。だが、対照的にこの建物内に漂う空気は振動を孕んでいて、は胸がドキドキと震えるのを覚えた。

さん、だけっていう事も無いけれど。武官と事務官なんて言っても国に仕える意味では同じなんだから、もっと気軽でも良いのにね」

女性はそう呟くと、へ振り向いた。

「ダレフ隊長と、お付き合いしているんでしょう? もっと気軽に、来てくれても構わないんだから」
「でも……お邪魔になったら、いけないですし。私なんかよりも、お仕事だって大変なはずですし」
「まあ、そうね、ダレフ隊長のお立場も、つい考えちゃうわよね」

凛とした、けれど決してを蔑ろにしない声音は、不思議との緊張を解いていく。
二人の進む回廊は、ほどなくし平にならした大地があるだけの広大な庭園へと辿り着く。その時には、の身体にも響く剣撃の音色と鼓舞する声援が、刃を煌かせる陽射し注ぐ高い群青の空にも響き渡っていた。
真剣、ではなくそれによく似たレプリカかもしれないが、鞘から引き抜いた剣を握り、互いに戦う武官と、兵たちが居た。人間も、獣人も、入り混じっての実技訓練だろう。決して、お遊びではない事は容易に感じ取る事が出来て、汗が伝う彼らの横顔も、周囲で見守る人々も真摯であった。
事務官などが不真面目というわけではない、だが職務においての役割が違うだけで、一気に世界が逆転したような心境であった。

「週に数回はね、実技訓練があるの。帯剣を許された唯一の職だから、怠慢のないようにっていう、隊長方のお達しね」

女性は、そっとの腕を引いた。だがは、思わず踏ん張って足を止めた。

「わ、私、場違いな気がします」
「何故?」
「わ、私……初級事務官で……」

しどろもどろに陥るへ、女性は穏やかな笑みを浮かべて見せた。

「大丈夫よ。実技訓練の日なんて、野次馬は多いし。ほら、向かいの回廊とか、二回の窓からとか、見ている人多いでしょう?」

そう言われれば、そうなのだけれど……。
の気後れは、なかなか明るくならない。それでも女性は構わず、「いいからいいから」と背を押した。

「それに、今はちょうど、第三部隊の実技訓練の時間なの」
「え゛ッ」

悲鳴のような、潰れた声が漏れた。ならなおさら、そんな野次馬みたいな事をしたら、ご迷惑になるではないか。の腰が次第に引けていくものの、女性は穏やかさを増した笑みで。

「少しだけ見ていって、ね?」

まるで、怯える子どもを宥めるような。
そのような綺麗な微笑を見せられたら……断る事こそが愚行ではないか。
せめて隅っこで、目立たないところで、という条件では窺う事になった。だが、酷く悪い事をしている気分になったのも事実である。自分は心底、肝が小さい人間だ。は、思わずに居られない。

すると不意に、剣撃の音が止む。金属音の余韻が微かに伝う空気が、静寂に張り詰めていく。
その場にいた兵たちは、皆剣を鞘に収めると、現れた人物へ礼をする。
は、陰で見えない柱に身を寄せて、その姿を追った。
多くの視線の集まる中を、臆する事なく進んでいく人物は、兵達の前で止まると同じように礼をし顔を上げた。獣人という、横幅はなくとも十分に身の丈の突き出た屈強さがあるのに、礼節と静けさが纏われて圧倒的な存在感がある。
青灰色の毛色をし、豊かな長毛の尻尾を持った、犬獣人。腰には、二本の剣を携えていて、華美な装飾は無いのに不思議な煌きが放たれている。
知らぬ人など、この王宮の中に居やしないだろう。

海の国カリフォスの剣であり、盾である、戦闘部隊の内の一つを統べる部隊長。
シュバリオ=ダレフ。
若くして、部隊長を務め上げる、立派な高官である。

彼は兵達に二言程度の言葉を放つと、指示を出していき、再び訓練が再開される。
彼もまた、腰に差した剣を兵へ手渡して、代わりにレプリカの剣を二本受け取る。中心へ向かった彼は五、六人の兵と向き直った。
普段も、何処か鋭い気配と立ち振る舞いをするシュバリオも、今はより一層の気迫を纏い、見据えている。隙も無く、静かに剣を構えて切っ先を持ち上げる。

――――― それからの光景は、素人のには何が起きているか分からなかった。

あの屈強な獣人の容姿から、とても予想のしていなかった俊敏な踏み込みと、兵たちの振り被られる剣先を全て滑らかにかわしていく身のこなしに、は息を呑むしかない。
ダークグレーの瞳が、祖先であるという狼の凶暴さを感じさせながらも、はシュバリオの剣舞を見つめていた。いや、恐らく見ていたかったのもあるだろう。
思えばは、このような訓練の風景など、一度も見た事は無かった。シュバリオに関わらず、武官たちのこの訓練を。
目の前で踊る剣と、真剣な横顔、許された帯剣の意味、兵たちとて十分に重きを背負うに値するだろうに。
シュバリオのそれは、一体いかほどなのだろうか。
言葉少なく、別の兵たちと手合わせを続ける彼の姿からは、に何かを訴えるけれども重責までは分からない。若くして双剣使いと名高く、第三部隊を統べる隊長……重い肩書きと立場に、彼は何を思っているのだろう。
……そんなであっても、彼は彼女を選んだ。どういう訳か。
この光景だけで、普段でも感じていた彼との世界の違いを、否応無く突きつけられる。

……彼が、に気付いていなくて、良かった。今、酷い顔をしているような気がしてならない。

「……私はね、さん」

不意に届く、凛とした声。
ふわり、と長い素敵な猫の尻尾が、の腰部をつついた。

「ダレフ隊長が誰かとお付き合いして、そしてそれが武官ではなく事務官で、安心しているわ」

が顔を上げると、穏やかな微笑みが視界に映る。

「例えば、同じ立場の武官、あるいは部下の兵……それであれば、あの方の責務の重さを知るのは容易だと思う。
けれど、知っていれば其処で終わる。その向こうにあるものを、知ろうとはしない」

部隊長だもの、そう話す事も出来ないでしょうし。
女性は呟き、少しだけ苦く眉を下げた。

「だから、貴方で良かったと思う。武官などと関係がなくて、きっと、気を許せたのよ」
「気を、許す……」

は、言葉を反芻した。その隣で女性は、「もちろん、それだけじゃなくてね」と付け加える。

「ダレフ隊長が貴方に交際を願い出た理由も……私、分かる気がする」
「え?」
「そんなに会った事が無いのに、変な事を言ってしまうかもしれないけれど」

にこり、と女性は目を細めた。

「貴方、凄く居心地が良いもの。話しやすいし、隣に立ちやすいし」

は、しばし意味を理解せず首を傾げていたが。次第にそれが伝わり、顔をそらしてやや俯いた。赤くなったの横顔を、女性は楽しそうに見つめて、笑い声を漏らしている。
何だか、物凄く気恥ずかしい。そういった言葉を掛けられたのは、初めてかもしれない。

居心地が良い……そうだろうか、意識した事など無かったが。
仮にもし、恐れ多くもシュバリオが自分に対しそういった事を思っているのであれば、自分は彼に何が出来るのだろう。
ああやって剣を振り、きっと真面目な彼の事だ、国に対して我が身すら差し出す事も厭わない。
彼の職務などについて、聞いた事はない、そういった事は聞きだす事でもないとも思っていた。
けれど……。

( ……何だろう、凄く、ドキドキする )

シュバリオ=ダレフという国のトップに所属する男性に、ある日告げられた、交際の申し出。
彼の事を知らないあまりに、知る為にもそれを受け入れたが、楽しければそれでいいという気持ちだけでなく。


今はもっと、以前よりもっと、真剣に知りたくなった。


それと、同時に。
初級事務という、本当に下っ端の下っ端な自分が出来る事も、知りたくなった。


――――― 貴方の世界に入る事を、これからもどうか、許してもらいたい


夕暮れの庭園で、そう告げたシュバリオ。
あの言葉は、むしろこそが告げるべき言葉だったのかもしれない。

( ……許しを貰うのは、私の方かもしれない )

キュ、と胸の前で手を握ったの視線の先で。
シュバリオが、コート状の武官制服を翻し、剣で空を裂いた。



尻尾を振らない隊長の巻。

尻尾振る隊長が好評過ぎるから、謀反を起こして剣を振ってもらった。
これはこれで、素敵な隊長と思いたい。 ( 願望 )

2012.08.07