多分きっと、それは恋

「ねえ、ラナ。私って、話やすい?」

巨大な書庫へ古い綴りを片付けている、最中だった。
二、三メートルはくだらない蔵書を収めた本棚が、整然と並ぶ広大なその一角で、とラナは作業を行っていたが。
珍しくがそのような事を呟いたので、本棚へ梯子を掛けて張り付いていたラナは手を止める。
「なに、急に」バスン、と書類綴りを棚へ入れて、梯子の下のを見下ろす。
梯子を押さえているは、心此処にあらずといった風に何処かを見ている。少なくとも、ラナの目は見ていない。

「ははーん、弁当仲間のダレフ隊長と何かあったわけかい?」
「何かあったというか、私の方があったというか」

妙に気落ちした声だった。ラナは「おや」と首を傾げ、ひとまず手元の綴りを全て仕舞うと、梯子を降りる。
見た目こそは普段通りのであるけれど、職務中に別の事を考えるのは珍しかった。

「なあに? 言ってみなさいよ、作業のBGMくらいには聞いてあげる」

普段のざっくりした性格に似合う、ラナらしい言葉だったが、その気さくさがやはりありがたかった。美人で、スタイル良くて、けれど一切嫌味は言わない自慢の友人に、はようやく笑みを浮かべた。
書類を片付ける傍ら、小声で昨日の件 ――シュバリオの実技訓練を目の当たりにした事だが―― をラナへ伝えると、彼女は珍しく穏やかに微笑んだ。

「なんだ、弁当仲間みたくなって心配だったけど、案外良いかもね本当に」
「え?」
「ああ、こっちの話。で、ダレフ隊長とのお付き合いして良かったかどうか、だっけ?
そんなに身構えなくていい……わけもないか、でも信頼しても良いんじゃない? ダレフ隊長の事」

は、小さく目を見開かせる。
「そんな、信頼してないとか、そんな事は……」彼女はそうこぼしたけれど、ラナはきょとりとして告げる。

「だって信頼云々とか、それを吹っ飛ばしてはダレフ隊長からのお付き合いを受けたんでしょ?」

は、目を丸くした。

「相手が部隊長で、普通の人なら臆するところだけど、アンタ変に物怖じしないところあるし、言わなかったけど凄いなと思ってたのよ私。
無意識だろうけど、相手を知ろうとするアンタのそういうとこ、私結構好きよ」
「ラナ……」

不意に告げられる友情に、はぐっと込み上げる喜びを噛み締めた。

……が、一転しラナの笑みが悪戯っぽく塗り変わる。

「それに、ダレフ隊長が高物件である事は間違いないしね!
隊長で収入良し、家柄も良し、さらに人格も良し評判も良し! アンタ良いの捕まえたじゃなーい!」

結局、いつものラナだった。

あれだけ込み上げた感情は、急に引いていき冷める。ラナはいつものラナである、このザクザク感は。
だが、少し肩も軽くなって、息苦しさから楽になったような気がする。
は苦笑いを浮かべたが、「ありがとう」と告げて、残り一冊となった書類綴りを持ち上げる。

「ああ、でも、そうだ。さっきアンタが言ってた、話しやすいってヤツ」
「うん?」

書類綴りを受け取ったラナは、梯子を再び昇っていき、棚へと収める。

「確かに、アンタと話すのも一緒に居るのも、気が楽よ。ダレフ隊長が選んだ理由、ちょっと分かる気がするかな」

にこり、と本日一番の綺麗な微笑みを見せたラナに。
はどう応えれば良いか分からず、顔を真っ赤にしてしまった。
それをこっそりと窺って、ラナは胸を撫で下ろす。もしかしたら、ようやく弁当仲間から一歩前進なのかしら、と彼女はそう思い、ダレフ隊長へ密やかなエールを送った。



――――― その後、空が透き通った青さから茜色へと塗り変わり、広大な王宮に愁う静寂が斜陽と共に満ちる頃。
王宮の一角、しかもとんと華やかさから縁遠い場所にある事務官たちの集中する建物は、それぞれ終礼を行い帰路につく者たちが静かに席を立つ。
そんな中、初級事務の執務室では、机に向かうの姿が一つだけ残っていた。室内も暗く、事務用のランプを燈しているので、終礼後に長居をする準備をしている事は明白だ。
すっかり帰り支度を済ませたラナは、不思議そうにへ声を掛ける。

、アンタ帰らないの?」

は、顔を上げて苦く笑う。

「明日郵送する紙の、封詰めやっておこうと思って」
「ああ、市民向けのお知らせ版? でも、明日でも間に合うじゃない」
「明日は明日で、別の封詰め頼まれたしねえ……今のうちにやれるとこまでやっとこうと思って」

ラナは、ふうんと声を漏らし、肩から下げたショルダーバッグを直す。

「手伝おうか?」
「ああ、平気よ。少しくらいやってから帰るだけで、完全に鍵が閉まる前には出るよ。
室長にも渡すのがあるんだけど、その前には戻ってくるだろうし。ラナは、帰っても大丈夫」
「そう? それじゃあ帰るけど……アンタ本当に頼まれる性質ねえ」

私なら、面倒で断ってるわ! と豪語するラナは、冗談っぽく笑った。

「気をつけてよー? 此処、本当に真っ暗になるんだから。明りなんて廊下の小さい明かりくらいで」
「うん、大丈夫。ありがとう」
「一応じゃあ、私見回りの人が居るだろうから声を掛けて……」

ラナはそこまで告げて、急に言葉を打ち止める。
は「ラナ?」と呼びかけるも、彼女は何かを考え、そして。

ニヤァ、といかにも悪事を思いついた、意地の悪い笑みを浮かべた。

な、何よその顔。は、言葉にならない嫌な予感に身構えた。
だがラナは「別にィー?」と否定はしているけれど……とてもじゃないが、その顔から安心感を得る事は出来ないだろう。
訝しむをよそに、ラナはそのまま「お先に失礼~」と褐色の肌色の手をヒラヒラと振った。
……本当に、何もしないだろうな。一抹の不安に駆られたものの、「お疲れ様」とその背に告げ、再び机に向き直る。机上には空封筒と、書類と、チラシの束。は一度息を吐くと、封詰め作業を始めた。
昼間の賑やかな声も、多くの人の気配が去ったこの執務室も、入り口から見える回廊も、妙にひっそりと静けさが漂うが、茜色の空を窓に見つめながらする一人作業も悪くない。


夕暮れの時間は短く、ほんの僅か没頭しただけで、気付けば周囲は藍色の夜を迎えていた。
一層静けさを増した事で、遠くで聞こえる虫の鳴声や、王宮の何処かで作業、あるいは見回りをしている兵たちの足音などの小さな音さえもの耳へ届ける。
ジジ、と揺れるランプの明りが、を照らし出す。大陸本土であれば、最新技術で夜も真昼のように明るくさせているというが、それを思えばカリフォスはやはり田舎だろう。この静寂も、夜の暗さも、嫌いではないので構わないが。
ダンボール箱が二つほど出来上がったところで、は手を止める。腕時計を見下ろし、ラナと別れてから二時間ほどが経過している。ちょうど、七時を過ぎた辺りである。さすがにそろそろ室長も来るだろうから、この作業はこれまでにしておこう。は紙の束を避けて片付けを始めたが、ふと改めて執務室を見渡した。

……本当に、暗い。

ランプの明りがあるから、一層濃さを増す影が不気味でもある。
回廊などには幾つか明りが灯っているけれど、執務室は皆無であるのも要因だろう。部屋の明かりを付けられるけれど、一人しかいないのにそれもな……と思っていたが。これだったらもう一個くらい、ランプを置けばよかった、と思った。


――――― カツン


執務室の外の回廊より、足音が響く。視線を移すと、入り口にぼんやりと明りが浮かび、それが徐々に近付いてくる。
室長も、戻ってきただろうか。上の職というものは会議だらけで大変だろうから、今回は何も言わずに書類だけ渡してさっさと帰ろう。
は書類を取って、身体を向き直らせた。
が、現れた人物は、ポケットにお菓子を必ず忍ばせている室長ではなく。

「……なにもこんな暗い中で、わざわざ作業をしなくてもいいだろうに」

やや呆れたように告げた声は、にも聞き慣れたものだった。
二メートル前後のしなやかな長身と、姿勢よく伸びた背が特徴の、軍服纏う犬獣人。青灰色の毛色の、ピンと耳の立つ犬の顔立ちと長毛の尻尾が、ランプの明りでそのシルエットを照らし出される。

「シュバリオさん」

の声は、驚いた風に跳ね上がった。
そのシュバリオは、ランプを片手にしていてもやはり姿勢良く佇んで、「お疲れ様」と礼をした。も軽く頭を下げると、彼へ駆け寄る。

「どうして、此処へ」
「少し前に、部下に言伝を貰ってな。貴方の友人が、『が一人残ってるから見回り強化と、ダレフ隊長に宜しく』と」

ラナァァァァーーーーーー!!!!

嫌な予感は、的中した。
ザクザクした性格の友人ラナが、脳裏でニヤァッと意地悪く笑っている。
声には出なくとも胸中で大絶叫するは、表情を引きつらせた。

「す、すみません、その友人とやら、多分ラナという人なのですが、あの、何だかすみません」

もうそれしか言えない。ラナの事だから、気を利かせてなのかもしれないが、半分ほどは面白そうとでも思っているのだろう。今頃、呑気にテレビでも見てるに違いない。
申し訳なくが頭を下げると、頭上ではシュバリオが首を振る。

「いや、実際にこの建物はほとんど明りが無いから、暗くなるのも分かっていたし、気にしなくとも良い。それに……」

シュバリオが、咳払いをする。

「その、私の方も仕事は終わって、心配でもあったし……貴方の顔を見たかったから」

はきはきと話すシュバリオの声が、次第に小さくまごつく。が、周囲が音の無い静寂のおかげで、そんな彼の小さな声でもしっかりの耳に届く。
は、ドキリと肩を揺らしたが……少しの空白を挟んで、彼に窺う。

「あの……ご迷惑では、ありませんでしたか」
「……何故?」

不思議そうに、シュバリオが返す。は躊躇いながらも、そっと告げた。

「ラナが言いに行った事もですけれど、忙しいシュバリオさんがこんな遠くに……」
「私が好きでしている事だ、貴方が気にしなくても良い」

緩やかに首を振り、の肩をそっと撫でる。が、彼女の表情が晴れないものだから、シュバリオは怪訝に窺った。

「何か、あったのか。やはり同僚たちから……」
「い、いえ、そうではないんです」

バッと顔を上げたが、シュバリオのダークグレーの瞳を見て、少し視線を逸らす。

「……ただ、その」

モゴモゴと、は語尾を弱める。シュバリオの眼差しが、頭の天辺に突き刺さるのが分かった。
どう、告げれば良いものか。この不安を。

( ……ん? 不安? )

は自身で思っておきながら、疑問も抱いた。
不安、といえば不安だけれど……この不安は、が今までの人生で初めて覚える《不安》である。さて、何と呼ぶ感情だろうか……と悶々と思っていると、の頬にスッと何かが伸びる。ふわふわとした、大きなシュバリオの手である。の頬に触れる感触は人間と異なる事は明白だけれど……ひどく、心地よい。が、同時に居心地も悪い。

「シュバリオさ、」


「おーい誰かまだ居るのか……って、シュバリオ=ダレフ隊長ォォォオオオ??!!」


突如として響きわたる、中年男性の上擦った悲鳴。
夜の静寂も二人の間の空気も、一瞬にして余すことなく破壊していった。
シュバリオの手が離れ、振り返る。も視線を入り口へ向けると、その手前で硬直して立ち尽くしている室長の姿が。

「あ、室長」

は呑気に呟いていたが、室長は出会い頭とんでもないものに出くわした顔で、パクパクと口を開け閉めしている。随分と奇妙な顔だなあ、と失礼な事を想ったけれど、こんな隅っこの建物に国のトップ高官にもあたる第三部隊長が現れればこうもなろうか。きっと、誰も予想しないだろう。
しかし、極度の緊張に声も動きも不自然で、こんな室長は初めてかもしれない。シュバリオが「すまない、部署の違う者が勝手に入ってしまって」と律儀に頭を下げると、彼の何倍も年上の室長はバッと踵を合わせて背を直角に曲げている。

……少しだけ、スカッとした。

普段、お菓子を添えてゴツい書類綴りを置いていくので、少し気分が良い。
だが、シュバリオの年齢は……その室長の半分ほどの若さ。年功序列という時代ではないけれど、シュバリオがやはり年齢に関わらずに高い地位にあるという事実を改めて見たようで、は少し陰った笑みを浮かべた。

「で、あ、、何か用が……?」
「え? ああ、室長が今日言っていた表が出来たので、手渡ししようと思いまして」
「……残業しながら、それも作っていたのか?」

シュバリオが小さく呟くたびに、室長から声にならない悲鳴が上がっている。さすがに可哀想なので、「いえ、私が勝手にそうしたかっただけです」とフォローを入れる。
シュバリオは特に気にする風もなく「そうか」と口元をあげた。恐らくそれ以上の他意はないだろうが、今の室長には「叱られる」とでも聞こえたのだろう、とても嬉しそうに安堵している。
明日はきっと、シュークリームが持ち込まれるかもしれないな。は思いながら、事務用ランプと書類をセットで室長へ手渡し、鞄を抱えて礼をする。

その時の、室長の顔といったら……。ようやく緊張から解き放たれた、と言わんばかりだった。
そんなに怖がらなくてもいいのに、と内心思いながら、とシュバリオは並んで執務室を離れる。その外の回廊は、小さな明かりが灯っている程度のほの暗さで、二人の足音を静かに彩る。

「シュバリオさんは、これからまだお仕事で?」
「いや、上がりだ」
「そうですか、良かった」

シュバリオはしばしの頭の天辺を見つめると、静かな声で「良ければ少し歩かないか」と告げる。その時のシュバリオの声と視線が、普段とは異なって真剣であった事をさすがのも気づいており。
首をゆっくりと、縦に振った。



回廊を点々と彩った仄かな明かりから外れ、建物の外へと出た。
様々な人が普段行き交う、王宮の豪奢な敷地内も、明かりが落ちて夜の藍色に包まれ、静かな厳かさを抱いている。
目も直ぐに慣れ、その濃い影にも順応する。今晩は、白い月明かりがとても目映いから、足下もはっきりと映し出される。
静かに進む、とシュバリオの姿も。

口を噤んでいるわけではないが、は沈黙を保っていた。
隣へ並ぶ、長身なシュバリオは姿勢良く進み、一点を見つめている。
肩に下げた鞄が、妙に重い。普段と、中身なんて変わらないのに。

( ……何か、話さないと )

いつもなら、意識しなくても会話を楽しんだのに。
何だろう、今はとてもこの静寂が気まずい。
のそんな想いも、シュバリオは読みとっているのだろうか。時折見下ろす眼差しは、ひどく穏やかだ。
会話はないまま進んだ先には、外門から内門まで続く広大な一本道を彩る、整備された庭園である。
明かりが動くのは、見回りの兵だろう。時折、シュバリオへ礼をする仕草が見えた。シュバリオも、それに応じて手を上げる。

……そうだよね、隊長だものね。

最初から分かっているのに、何で最近はこうもそれを考えてしまうのだろうか。

いつもは目を輝かせて見ている庭園も、胸中の曇りの方が強く意識がそちらへ向いてしまう。

「……今日は、月がよく見える」

不意にそう呟いたシュバリオに、はハッと顔を上げた。
白い月が照らし出す、緑と花の輪郭はやはり藍色に包まれているけれど、静けさの中でも慎ましく美しい存在を示す庭園はやはり見事なものだった。

「は、はい。そうですね、月も綺麗で……」
「……

シュバリオが、静かに振り返る。シャリ、と腰に差した双剣が冷たい音を立てる。

「何か、気にしている事があるのか」

ぐ、との息が詰まる。シュバリオは、静かにそれを見下ろし、彼女の言葉を待った。

「そ、の……」

けれど、の口から、それに対する言葉は流れ出てはこない。想いはこみ上げてくるけれど、それが声になる事はない。
そよそよ、と静かに通り過ぎる夜風の音が、二人の間で響く。

「……すまない」

囁くような、低い声だった。
は驚いて、目を見開く。弾けて顔を上げると、普段の彼とはとても思えないほど、気弱であった。ピンと立っている耳は下がり、視線も伏せがちで……。彼は普段から表情を崩す事がないが、今は誰が見ても明らかに―――――。
が、唇を開き掛けた時、シュバリオの低い声が先を紡ぐ。

「私は、口が上手くない。貴方が思っている事を計る事も出来ないし、慰める事も出来ない。
……剣しか取り柄のない男である事を、私は今、もっとも悔やむ」

そう言って、彼は手を伸ばした。だが、に触れる前で、ぐっと手のひらを握り、力なく下ろしてしまった。

「……剣を握ってきた手では、貴方に寄り添う事も出来ないだろうな」

そう告げて笑った彼は、自嘲したそれでもあった。
は、恥じ入る想いでもあった。彼はこれだけ私の事を考えてくれているのに、その私は何も出来ていない、と。

……彼が、優しい人柄である事は今までも分かっていた。
けれど、それが普段隠れてしまいがちになるほど、戦闘部隊長の一人とし規律や職務に真面目で忠義に厚く、重い責務をその若さで背負っている事実。

果たして、たかだか初級事務官のに、彼の隣に立つ事は出来るのか。
けれど、あのシュバリオの、そうやって苦しげに崩す表情は。

見ていたくない、と思った。

頭上で厳かに輝いた静かな銀色の月が、夜雲の影に隠れる。月明かりが途絶え、周囲の影が増す。

「違う、んです」
「……ん……?」
「違うんですよ、シュバリオさん」

は言い、シュバリオを見上げた。その語尾はやや荒げて、彼女も自身の声量に驚いてしまったけれど、呼吸を整えて声音を改める。

「シュバリオさんが何かしてしまったとか、そういう事はないんですよ」

では何故、とシュバリオの瞳が暗がりで瞬く。はキュッと手のひらを握ると、小さく呟いた。結局言葉はまとまらないので、あるがまま話し出した。

「……私、こないだ、シュバリオさんの実技訓練を、拝見したのですが」

シュバリオの目が、微かに見開く。陰でこっそり見ていたなんて、今初めて明かしたのだから、驚くだろう。は、けれど続けて話していく。

「剣を取っている姿なんて、シュバリオさんに関わらず兵の皆さんの姿も初めて見ました。事務官の私とは、違う世界だと思ってしました。でもそれだけじゃなくて、シュバリオさんの立つ場所は……私が思っている以上に厳しくて、カリフォスという国の本当にトップに居るんだなって、今更ですが思いました」

シュバリオの表情は堅く、けれどの言葉を静かに聞き入っている。暗く陰った中でも、それが妙にはっきりと分かった。
美しい庭園が、今はまるで聴衆人のように息を潜めて取り囲んでくる。

「……私は、隣に並んで良いのかなって、少しだけ、思います」

小さく、息を吐き出す。の正面で、シュバリオが重く口を開いた。

「やはり、私は……」
「違いますよ、逆ですよ」

そっと、は遮った。

「私の方が、貴方の仕事と立場に、邪魔にならないかって」

の声が震えたのを、彼女だけでなくシュバリオも気付いた。
怯えた様子なから、彼女の普段の穏やかさと笑みが遠ざかる。

……自分が、彼女に寄り添えるか窺っていたように。
彼女もまた、自分と隣り合って良いのかという事を、考えている。

シュバリオは、場違いであるかもしれないが。不謹慎であるかもしれないが。
そうやって考えていてくれた事に、途方もない喜びを感じていた。
人間でいうところの、赤面した顔を今絶賛浮かべていたが、犬獣人特有の獣の顔のお陰で彼女には伝わっていない事が、救いであった。

「……
「は、はい」
「……それは、その、私との交際を……前向きに、真剣に考えていてくれているという事だろうか」

はしばし考え、「あっ」と声を漏らすと顔を真っ赤にした。
彼を知るところからという条件のもと、始まった弁当仲間のような交際。
それが今、様相を変えていっている事をはようやく気付く。いや、先の実技訓練を見ていた時から変わっていたのだろう。
まるで友達のようなお付き合いから、男女の真剣なお付き合いへ。
それがどういう事であるのか、自分の心が最初のあれからどう変わっているのか、いくら経験に疎いでも分かってしまう。

「あ、わ、私」

月明かりが遮られた中で、の慌てふためく様子がシュバリオにも分かった。白い肌が、赤みを帯びている。シュバリオもらしくなく、動揺に視線を揺らす。それが表に出てこないのは、さすがと言えよう。

、私は……」

シュバリオの手が、今一度伸びる。の細い指先に触れ、長さも太さも違う彼の指がそっと握る。

「嬉しいと、思う。貴方がそうやって、私の事を真剣に考えてくれるのは」
「そう、ですか……? でも、面倒とか、そういう事」

が赤い顔のまま窺うと、その指先が先ほどよりも強く握りしめられた。まるで自分の手が、玩具のようだった。けれど、何て事のない、むしろ玩具にも見えるの手を、恭しく大切に触れるシュバリオの指こそが、恐る恐ると気遣っていた。

「……私が、身勝手に突然願い出た事だった。それでも貴方は、知ろうとしてくれたし、今もそうやって真剣に考えてくれている。嬉しいのだ、それがひどく。
この立場上、真に信頼出来るものは少ない……けれど」

ふ、と。シュバリオの張りつめていた声が、今までになく穏やかに緩まった。

「そうやって私の事も考えてくれる貴方であって、今も本当にありがたいと思う」

ドクリ、とは心臓が飛び跳ねた。夜風の涼しさが、火照った頬を宥めてくれたが、身体を冷ましてはくれない。の指を握ったシュバリオの手にも、その熱さはきっと伝わってしまっているだろう。
急に恥ずかしくなって、は上手く言葉を紡げない。

「そ、その、シュバリオさん」

静かに、けれど表情を穏やかにさせて、シュバリオはを見下ろした。目一杯に顔を上げてしばし見つめ合った後、はシュバリオの指を不意に解いた。
あ、と名残惜しげにシュバリオは無意識の内にその手を追いかけたが、は一度背を向けると、すぐ後ろの三十センチ程度の高さである花壇の縁に上った。よいせ、とバランスを取って振り返ると、シュバリオと視線を合わせる。
二メートルを越えているシュバリオと、標準的な背丈のの瞳が、初めて同じ高さで交わった。一方は見下ろすばかりで、一方は見上げるばかりで、妙に不思議な違和感でもあったが、決して悪い気分ではなかった。
は、何度も呼吸を整える。ドキ、ドキ、と心臓が落ち着くどころか一層激しく動いて、身体の内側から叩かれる。

――――― その時、藍色の雲がゆったりと流れていき、再び銀色の月が姿を見せる。
厳かな白い光が、とシュバリオの横から注がれ、静かに映し出される。
その光景に、互いに息を飲んだが、が意を決して口を開いた。

「シュ、シュバリオ=ダレフさん」

真っ直ぐと、の瞳がシュバリオを見据えた。
意気込んで予想外に上擦った声が出てしまったが、構わずは続けた。

「結局、私は初級事務官で、貴方は第三部隊長という国のトップの方で。それが、やっぱり分かりました。
――――― でも、貴方と一緒にいる事もやはり楽しいですし、真剣に考えてくれる事も、う、嬉しいと思います」

ドク、ドク。
今までの人生で、こんなに激しく鼓動が打つ事はなかったというほどに、は心臓の動きを感じていた。

「……だから、どうかこれからも。
隣に並んで立つ事も、お昼を一緒に取る事も、同じ高さで視線を合わせて話す事も、許してくれますか」

――――― いや、少し違う。

「……シュバリオさんとお付き合いを願う私を、受け入れてくれますか」

戸惑いと、恥じらいの混ざった声の中に。
普段には見ない、の女性らしい甘い笑みが浮かべられていた。
シュバリオは、軽い目眩を後ろ頭に感じて、部隊長らしかぬふらつきを起こしたが、仰々しく背を伸ばすと、ありったけの感情を込めて頷いた。

「……私が、断るはずもない」

ふっと緩まった瞳に、は緊張に張っていた肩がストンと下りる。そして、ここ最近彼女の胸中で居座っていた疑念などが、この瞬間に全て払拭される。

……あの時は、困惑したけれど。
今は、そうやって頷いてくれた事がとても嬉しかった。素直に、そう思う。

「……ありがとう、ございます。良かった」

緊張が抜け、ふわりと笑みを綻ばせる
シュバリオはしばし、じっと見つめた。

「……
「はい」
「……すまない、今ものすごく」

急に声を低くさせた彼に、はどうしたのかと目を丸くする。
だが、次いで飛び出した彼の言葉に、これでもかと瞳を見開かせた。

「――――― ものすごく、貴方を抱きしめたくなったのだが、良いだろうか」

あんまりにも真面目な声で、普段通りで、そう告げるものだから。
は、ブハッと噴き出すにも噴き出せなかった。
( これがラナであれば、躊躇なく噴き出しているだろうが )

「え、あ、う」意味不明な声を断片的に出すが、その目の前で、同じ高さになったシュバリオの顔はひたすらに真剣であった。ピコ、ピコ、と犬耳が時折揺れているものの、その瞳はを見据えたまま逸らさない。
一言も聞き漏らさないという、意志の現れだろうか。あの耳のピコピコ感は。
その真摯さに、ますますは上手く言葉を返せない。

「――――― それ以上は、しない。貴方が困るような事は、絶対に」

シュバリオは、誓いを捧げるように恭しく言った。その瞳に、普段にない煌めきが宿っている。
無理強いをする乱暴さはないのに、決して断る事の出来ない強さである。少なからず、この強さが部隊長である事を物語っているけれど、その中にへの懇願も混ざっている事が彼女を戸惑わせた。
嫌悪感など、微塵もない。ただ、これは……―――――。

( お、男の人に抱きしめられるとか……! )

今更、阿呆な事を思っていた。
都会に染まる事のない田舎育ちで、質より量、高値より安値、私生活はこざっぱりな彼女も、女であった事を改めて知る。



律儀に待っているシュバリオを前に、は言葉にならない悲鳴をぐずぐずと漏らしていた。
が、覚悟を決めて、小さく口を開く。

「ど……どう、ぞ……」

ふしゅう、との顔から湯気が吹き出る。たかが一言呟くのに、一生分の勇気を費やしたような心境だった。
ドキドキ、と激しく鳴る心臓の音が、胸を苦しく圧迫する。それでも、不快だとは思わないのだから不思議な事だ。

「……良いのか」
「う、は、はい。だ、大丈夫で―――――」

大丈夫です、と告げようとした時には。
の手はシュバリオの大きな手に引かれ、身体が静かに前へ倒れる。花壇の縁から落っこちる事なく、の身体はシュバリオに抱き留められたが、不意に包み込まれる感覚に半ばパニックでもあった。
熱さを増す頬に、ギュウッと目を硬く閉じる。

「……は、小さいな」

シュバリオの呟きが、耳元で聞こえる。ピクリ、と肩を揺らして視線だけ横へ向く。

「……いや、人間と獣人の差か。なかなか、怖いな」

は其処で気付いたが、彼女の背と腰に回された大きな手が、微かに震えていた。力加減を計って、躊躇っているようでもある。抱きしめる力も弱く、どちらかと言うと色っぽいものでなく文字通りに抱き留めたという感じでもある。
次第に、の心も落ち着いていき、思考もゆっくりと平常を取り戻す。

「大丈夫ですよ、苦しくないです」
「そう、か」
「だから、もう少し強くても平気です」

シュバリオの身体が、微かに揺れる。長い沈黙をもった後、彼は恐る恐ると腕を動かし、の腰を今度はしっかりと抱く。細い背に回していた腕は、一度離れて、の後ろ頭に添えられる。
僅かに空いていた距離が、ぐっと詰められる。
は、ゆったりと瞼を下ろして、瞳を細めた。見た目通りの、背が高く恰幅はないが屈強な身体付きは、触れた事で改めて理解した。軍服越しであるが、シュバリオの胸の広さと腕の逞しさ、手のひらの大きさは、異性の差だけでなく顕著なものだった。獣人という種族だけでなく、剣を取る者の力強さだろうか。
の身体なんて、軽々とすっぽり両腕に埋まってしまっている。彼女も、ゆっくりとシュバリオの背に腕を回そうと試みたが、届かずにせいぜい肩甲骨の少し下辺りで指先が止まってしまった。やっぱり、広い背であった。見た通りに。
けれど、何だか初めて発見したような気分で、少し楽しかった。
は、ゆったりと力を抜くと、シュバリオの首に頬を寄せる。ふわふわな青灰色の毛の感触に、思わずうっとりとした。

「シュバリオさんは、やっぱり大きな身体ですね」
「そう、だろうか……貴方の身体が、きっと細いからだ」
「ふふ……」

クスクスと笑うの声が、シュバリオの耳をくすぐった。その振動に、ぞくりと背が震えた。
困った事に、想像以上の彼女の感触に、恥ずかしいやら気まずいやら嬉しいやらで今シュバリオは狼狽えていた。抱きしめた彼女の身体の、細さと小ささと、柔らかさ。容易に折れてしまうのではないかとさえ、思えた。自分で言っておきながら酷く怖くなったが……身を任せてくれるから、心臓の音が微かな振動になって伝わってくる。温もりも、身体の輪郭も、全て。
……事務官の制服は、身体の線が出る事はない。視覚からは分からなかった、彼女の感触を今ようやく知り、戸惑いと同時に安堵もしている。

( ……細いな、本当に )

この細さで、獣人の自分と交際を承諾した。の心の深さに、心底驚かされる。
……いや、自分も同じく、彼女の事を知らないだけだ。
穏やかで優しいだけでなく、人並みの不安だって抱く。交際を受け入れる事も、本当に自分で良いのかと悩む事も、ごく普通の女性だ。

「……改めて、思う。
「はい……?」

の後ろ頭に重ねられた大きな手のひらが、さらりと髪を撫でる。不器用げな仕草が、妙にくすぐったい。髪に感触などないはずなのに、ひどく安らいだ。

「……私は、剣しか取り柄のない男だ。今のように、上手く伝えられないし、不安にさせる事もある」

はうっすらと開いた瞳で、シュバリオの首を見つめた。

「……けれど、貴方の世界に入る事が許されたのなら。
私は、貴方の事をもっと知りたいと思う」

サアア、と風が過ぎ去る音が通っていく。
心地よい静けさと、シュバリオの温かい腕の中で、は微笑みを深める。

「……はい。私も、知りたいと思いますよ」

だから、これからもよろしくお願いしますね。
そう告げて、首にすり寄ると、シュバリオは一瞬身構えたけれど、その直後には腕のちからを強めてをギュウッと抱きしめた。
心臓の鼓動も相まって息苦しかったけれど、その苦しさが満たされていくようで気にならなかった。

ふと、視線を下げると。
シュバリオの長毛の素敵な尻尾が、緩やかに横へ振れていて。
は今一度、安堵と笑みに力を抜いた。




「――――― ふーん、で、結局元通りってわけ」

ラナが呆れたような笑みで、を見据えた。もちろん彼女は、来て早々により叱られたが、もう既にそんな事も忘れている。
正午のベルが執務室にも響く中で、はいそいそとお弁当と室長が持ってきたシュークリームの箱を持ち、席を立つ。

「うん、まあ、そんな感じ」
「すっきりした顔しちゃって。これからお昼ご飯、隊長と?」
「忙しくなければねー。そんな感じで、やっぱりちょうど良いのかなって思うから」

ヒラヒラと手を振って執務室を出て行ったを、ラナはしばし見つめて。

「……ふふ、何だかんだで、良い組み合わせなのかもしれないなあ。案外」

ラナは楽しそうに微笑んで、昼食を机の上に広げた。
しかしところで、は何故室長からシュークリームなんて貰ったのだろうか。それに、昨日と比べてに対する室長の態度も妙によそよそしいが……。

「……ま、いっか」

ラナはあまり深く考えずに、フォークを握りしめた。
昨日の発端はラナであるが、その最中にあった出来事のおかげでの仕事がやや落ち着いたのを、ラナは知らない。



「――――― 何故シュークリームを?」

ひたすらに長い回廊に寄り添った、日溜まりの中庭。
奥まった場所にあるベンチには、今日もとシュバリオのでこぼこの姿があった。
ただ、以前と異なったのは……。

「室長から貰いまして。多分、昨日の事じゃないかなあって思います」
「……何か、あっただろうか」
「いえ、シュバリオさんが気にする事ではないですよ。室長の、ちょっとした気まぐれです」

が微笑むと、シュバリオの瞳も穏やかに細められた。

「お昼も食べましたし、デザートにどうぞ」
「ああ、ありがとう」
「いえいえ」

は箱からシュークリームを取り出して、シュバリオへ手渡す。
その時の二人の距離は、腕が触れ合うほどにまで縮まっており、流れる空気も穏やかさを増していた。微かに混ざる甘い気配は、シュークリームに紛れてしまったけれど、自然に触れた指先はぎこちないながらにそっと握りしめ合っていた。

「それにしても、シュバリオさん、もしかしてお昼のあの野菜、苦手なんですか?」
「! 分かるのか……?」

ピン、と耳が立つ。微かに見開いた目が、驚いてを見下ろしている。

――――― 分かりますとも。素敵な耳も尻尾も、垂れ下がってました。

とはさすがにも言わなかったが、「分かるようになりました」と返す。
シュバリオが声を緩めるので、良しとしておく。
そして彼に表情の変化はないけれど、尻尾は激しく振れてビシバシとの腰に当たっているのも、良しとしておく。


――――― 唐突に始まった交際であったが。
改めて続けていこうと願う、正午のお昼であった。



夢主とシュバリオ、かなり前進の巻。
隊長がんばったよ、がんばったけどやっぱり尻尾はサンバ状態だったよ。
隊長は顔こそ分かりづらいですが、別の部分が感情豊かなので、多分直ぐ分る。
そんな二人に、幸ありますように。

ポケットには必ずお菓子の何でも頼んじゃう室長が、隊長見てびっくらこいたシーン、書くの楽しかったです。こっそりと。

2012.08.12