マイペースな彼らに、幸あれ

若くして、戦闘部隊の一つを統べる隊長の地位に就いている、青みを帯びた灰色の犬獣人。
獣人という種族の中にありて、恵まれた体格と背丈を持ち、狼にも通じる輪郭はっきりと鋭さを秘めた犬の顔をした彼。
双剣使いの第三部隊長、シュバリオ=ダレフの名を知らぬ者は、少なくともこの王宮敷地内には存在しない。
遙か昔、戦で武功を上げて成り上がった小貴族一族が彼の生まれで、次期当主とも言われている若きエリート。だが、決してその生まれや立場を笠に着て他人を見下しはせず、極めて対等な姿勢を貫いている事は多くの兵や上官などからの信頼も厚い。

が、それの反動か、職務や規律に対し非常に忠実な面が多々見受けられていた。
また、親睦を深める酒の席には滅多に付き合う事はしないし、公務の内の一つでなければまず出席する事もまずない。いや下手したら、公務或いは貴族のパーティーに出ても、寡黙でとにかく楽しむ姿勢もなく、催しの一つのダンスさえも静かに拒むとか。
外見は人の身体と犬の頭を持つ長身な獣人であるけれど、彼自身の容姿は獣人という中でも十二分に端正なものであると異性も同姓も評価するのだが、色恋沙汰すらも進んで遠ざけるような性格で。
良くも悪くも、非常に生真面目な男であるとも、同時に評価される人物であった。

……そんな彼が、ある日突然、王宮の隅っこに居る初級事務官――所謂雑用係に交際を申し込んだという話を聞いた時の周囲の反応といったら。
彼を知る人物は皆驚愕し、何か変なものでも食べたのではないかと ( 失礼 ) 予想外な反響を呼んだのは言うまでもない。
実際それは、現在でも変わらない。あのシュバリオ=ダレフという男を陥落させた女は一体どのような人物なのかと、もっぱら最近の噂話であった。

が、シュバリオがそれを明かす事は、勿論あるわけがない。
好奇心で尋ねたところで、「それは職務に何の関係がある」と逆に不必要なお叱りを頂く事になるのが関の山である。
そうなると、周囲の人物たちはどうするかと言えば。
シュバリオの様子、そして噂の初級事務官を、観察する事であった。
勿論、大っぴらにしてしまえば倍のお叱りを頂くので、こっそりと影から見守るように。むしろ見ている事すら隠くしてしまうように。
下世話の極みにならない程度の、ちょっぴりとしたささやかな感じに。

――――― これが最近の、周囲の反応と動向である。



シュバリオは基本的に、職務中でも無駄口を開く事も無く、表情を変える事も滅多に無い。決して機嫌が悪い訳ではないのだが、非常に生真面目な彼は黙々と机に向かうのである。トップになるほど回される仕事量も多いが、それを文句も言わずにテキパキとこなす彼を周囲も信頼している。
だがここ最近では、彼が明らかに顕著な反応を示すようになった。
それは、不意に響き渡るある音をきっかけに変化する。

シュバリオが普段職務を行う場所は、他の武官たちが事務を執り行う執務室の中で、第三部隊所属の一角にある。
多くの部隊所属の部下たちの前にて、ポンポンッと判子を押して書類を回す彼にもちろんいつもの静けさだけがあり、同執務室内の者たちもテキパキとこなしていく。
その姿に、些かの綻びだって生じる事は無い。
だが、この音が聞こえると、シュバリオのある部分はもの凄い反応を示すと、最近部下たちは知った。


ガロガロ、ガロガロ


運送屋の業者でも来たのだろうかという、台車を押すゴツイ音。この執務室に近づいてくるその音色は、王宮の一角にも到底似合いそうもないものだ。

だが、この音を微かに聞いた武官たちは。
皆一斉に、まるで意志を交わしていたように耳をそばだてる。そして、バレない程度にチラッと横目で第三部隊長のシュバリオを窺う。


ガロガロ、ガロガロ


その音は次第に大きくなり、ある意味巡らされていた緊張も存在感を増していく。
だが武官は皆、黙して作業を続ける。片目で、ある一点を見つめながら。

( ……隊長の耳、ピコピコ揺れてるな )
( ああ、揺れてるな )
( おっと……動く頻度が多くなってきた )

職務を滞らす事無く、眼差しだけで語り合う彼らの先で、シュバリオも職務を滞らす様子はない。
――――― だが、そんな彼の耳は、それはもう激しくピコピコ、ピコピコ、と揺れている。あらゆる音を拾おうという、堅い意志すら感じさせるくらいに。
部下たちは皆それを、こっそりと、こっそりと窺って、そしてふわっと空気を和ませる。勿論表面は、真面目に仕事をこなしながら。
そうして、近づいてくる台車の音は、この執務室の直ぐ隣の廊下でついにピタリと止まった。

( 台車が止まった )

誰もが心の中で呟くと、期待と好奇心がせめぐ内心を表に僅かも出さず、手元の書類を手際よく片づける。だが、廊下から「よーいせッ」とか「どっこいしょ」とか気の抜けた独り言が漏れると、途端に全員が顔を伏せた。机の上で握りしめた拳は、小刻みに震えてまるで何かに耐えるように唇もしくは顎をきつく噛む。

その原因は、何か。

( 隊長……! 尻尾が、今日も大変な事に……! )

あまりの微笑ましさに、全員がクッと顔を逸らす。
ダレフ隊長の表情はいつも通り、作業もいつも通り、だが明らかに見えて分かる第三部隊長の立派な犬の尻尾は、ビシバシと横に激しく振れている。
あんなに、表情は静かに沈黙しているのに、尻尾だけが。

可愛らしい花が飛び交うような、そんな和やかな空気の中に、ガロガロと台車の音を響かせた張本人……否、この執務室の今もっとも注目を浴びる人物が、そっと顔を覗かせた。
控えめに扉を叩いた音に、今度は全員の意志がその方向へと向かう。

「し、失礼致します。書類を届けに参りました」

何て事はない、檜皮色の地味な初級事務官制服に身を包んだ、人間の女性が佇んでいる。やや緊張しているのか、最初言葉を噛んだが、その声は決して大きくはないのに不思議とよく通る澄んだ響きを持っていた。
彼女の名も、もちろん全員が知っている。
初級事務官の……最近は書類運搬係のようになってしまっている女性だ。
そして、ある意味渦中の人物でもある。

やや強張った表情でじっと佇む彼女の後ろには、この執務室へと届ける書類が積み重なって見えた。
もっとも近くに座っていた武官が、椅子から腰を上げて向かおうとする。
だが、それを静かに制するように素早く立ち上がったのは、シュバリオであった。一切の無駄な動きなく足を進めると、立ち上がろうとした武官に片手を出し眼差しで押し止め、椅子に座らせる。
規律を纏ったようなシュバリオが、へと真っ直ぐに向かってゆく側で、部下も皆、その姿を追ってゆく。横目の、微かな視線だけであるが。
いつになく、シュバリオの双剣はシャラシャラと忙しない音を奏でている 。もちろん、尻尾の動きは一向に止まっていない。

そんな彼が、静かにのもとへと向かえば。

「――――― シュバリオさん」

緊張していた彼女の声は、耳で理解出来るほどに穏やかな微笑みを浮かべた。それに返すシュバリオの言葉も、「ああ」と素っ気ないくらいに短いが、明らかに笑みがこぼれている。
あのシュバリオ=ダレフという男が、このような声を発するものかと恐らく誰もが思うところだろう。
この場が執務室であり、職務を勤勉に行う場というものを、シュバリオもも理解している為、事務的なやり取り以外を交わす事は無い。けれど、武官たちがそっと盗み見たの笑みと、シュバリオの穏やかな瞳は、ドキリとするくらいに優しい温もりが溢れている。

という人間は、こう評しては失礼であるけれど、取り立てて美人ではない。真面目で堅実な性格らしいと評価されているものの、それに見合って華美な装飾も化粧もしない彼女は、何処までも平凡である。
だからこそ、あのシュバリオが何故、彼女という初級事務官に交際を申し出たのか一時期は本当に疑問でもあった。
たびたび肩を並べる二人を目撃している誰もが、ふと思う事といえば「なんてデコボコな組み合わせなのだろう」である。実際、の身長は人間の女性の標準的なもので、対してシュバリオは獣人という枠の中でも長身に部類される。二メートルは、超えてしまっているだろう。それに加えての、獣人と人間の体格差、男女の差、それは顕著に現れていて、首を傾げるものがほとんどだ。
海の国カリフォスの大らかな象徴、獣人と人間との間に隔たりがない……とは云っても異種族は異種族、これについては覆しようがない。
それでも何故、シュバリオは彼女を選んだのだろうか。

なんて、当初は周囲は思っていた。
だが、興味本位で窺っていた二人の様子を重ねて合わせ、ああそうかと、いつの間にか自然に周囲は納得していた。そして、シュバリオが何故を選んだのか、分かった気がした。
一部の同役職のものたちのように、アイツは面白味がないと邪険にする素振りは見せず、生真面目なシュバリオの性質にも理解を示して接している。当初の評価の通りに真面目で実直で、けれど不愛想ではなくむしろとても澄んだ笑顔の綺麗な人物であった。また、何故か書類運搬係に任命されてより、何度も見る機会が多くなり分かった事だが、取っ付き難さのない、不思議な柔らかさを彼女は纏っていた。
彼女とよく話す、とある猫の亜人の女武官は語っている。話しやすい人柄である、と。

そして何よりも。
周囲が評価するよりも、あのシュバリオ=ダレフという男の瞳こそが、全てを雄弁に語っている。
ピクリと目元さえ動かさない冷静な男が、彼女をその視界に入れた時だけ、彩を手に入れたように豊かな感情を見せるのだから。
あれを見せつけられ、もはや疑問になんて思う者なんて居やしないだろう。

こっそりと二人を窺う武官たちは、口元に笑みを浮かべ、順調に仕事をこなしていく。
書類の説明をしシュバリオに手渡してから、二言程度の言葉を交わした後に、は礼をして入り口より去ってゆく。
――――― だが、彼女は思い出したように再び振り向くと、テテテッとシュバリオへ駆け寄って、そっと背伸びした。その仕草を片隅に見たものは、頭の上にふわっと花を咲かせる。
周りには聞こえないよう、小さな声で告げる。が、ほとんどが獣人の為に、人間とは異なる聴覚の良さで、ダダ漏れでもあるのだけれど。

「シュバリオさん、お仕事頑張って下さいね」

……ふわりと微笑んだの瞳は、心地よいくらいに暖かかった。
周囲がそう思うくらいなのだから、正面から向けられたシュバリオ本人はと云えば。

ただでさえ横に揺れていた尻尾が、次の瞬間にはビャッと毛を逆立てて。
千切れんばかりに、ブンブンと嬉しそうに揺れ動かしていた。

机に向かう武官たちの数人が、たまらず誤魔化すように咳払いを始めたり、意味もなく眼鏡を拭いたり外したり、空っぽのカップを傾けたりし出す。
( この行動に、何の意味も持つわけがない )

そうしてシュバリオは、あくまで普段通りの低い声で、静かに「ありがとう」とうっすら笑う。が、尻尾は丸わかり。それは、勿論の視界にも入ってしまっているので、楽しそうに笑っていた。今度こそ去っていたは、軽くなった台車をガロガロと押して廊下の角を曲がった。

シュバリオは、しばし其処に佇んで見送った後に、カツカツと姿勢よく歩いて自らの机に戻り、再び作業を始めた。から受け取った書類の束を、まるで宝物でも扱うように丁寧にそっと置いて。
ポン、ポン。判子を押すシュバリオの表情は、先ほどよりも格段に緩まっていた。止まらない尻尾は、しばらく別の生き物のようにブンブンと揺れたままで部下たちに目撃される事になるのだが、それに気付いていないのかシュバリオはご満悦で仕事をしていたという。


――――― こんな二人の様子を窺うのが、武官たちの最近の趣味であるが。
それは決して、彼らを嘲笑したりなどという嫌味ったらしい意味は全くない。
二人を見守る周囲なりの、ちょっとした愛嬌であり、そして応援したいという親しみの念の表れでもあった。

( 隊長、途端に機嫌がいいな )
( つき合い始めたばかりの彼女に会えて、嬉しいんだろう )
( あの方は、真面目な分ちょっと奥手だからな )

微笑ましく見守りながら、時に観察しながら。
そうして周囲も和んで、仕事がはかどる今日この頃の、海の国カリフォスの王宮の一角である。


――――― 余談だが、その日の正午には、でこぼこカップルのシュバリオとが、肩を並べて回廊を歩いていた。
ベタベタにくっついているわけでもなく、かといって気まずくはなく、歩幅を合わせてのんびりと、彼らなりの談笑を楽しんでいるようだった。

、今度……その、貴方の都合が良い時の、話だが」
「はい」
「食事にでも、行かないか。同僚から、美味しいと勧められた場所があるのだが」
「へえ、良いですね是非! 何処ですか?」
「中心通りの、パスタの店らしいのだが」
「あ、友人が最近新しく出来たお店があるって言ってたのですが、そこでしょうか。 美味しいって言ってたんです、行った事はないので楽しみです」
「……その、嬉しい、だろうか」
「はい、とても」
「そう、か……私も嬉しい」
「はい、私もですよ」

がふんわりと笑うと、シュバリオの尻尾は踊り狂わんばかりに横に揺れた。

……もう端から聞いている限り、完全なるバカップルである。

彼らの後ろでは、武官も文官も等しく、ほんわかと頬を緩めていたり。顔を真っ赤にして膝をついて倒れたり。意味もなく近くの柱を叩いたり。
恐らくもっとも忙しないのは周囲の反応であるが、当の二人はのんびりとマイペースに、静かに笑い合っていた。
この日の瞬間から、彼らを見守りたい同志がまたも増えたと云う。

重ねて云うようだが。
今日も今日とて、海の国カリフォスは至極平和である。



そんなシュバリオと夢主を見守る、もしくは観察する周囲の反応。
いじめる人や邪悪な意味で笑う人なんか皆無。まるで父母、あるいは祖父母のように見守る優しい人々ばっかりで、今日も平和です。

むしろ忙しいのは、隊長の尻尾。
やっぱり尻尾が凄いよ隊長。
周囲にもばれちゃってるよ隊長。

2012.10.17