君に捧ぐ劣等

「――――ちょっと、やだ、! アンタ酷い顔よ!」

職場である、王宮の隅っこの隅っこにある初級事務官の事務室に、ラナのそんな声が響いた。
朝から賑やかな彼女に、同僚たちは「またラナか」と呆れた風に振り返ったけれど、直ぐにその表情は一転する。というのも、珍しく慌てて駆け寄るラナの先に居た人物――が、入り口で鬱屈した空気を醸していたからで。
爽やかな朝から、淀んだ空気。薄暗い中へとそのまま融けてしまいそうな実に縁起の悪い気配に、誰しもたじろいだ。そして一同の脳裏に過ぎったのは、がお付き合いしているある意味有名人の、シュバリオ=ダレフ第三部隊長――ピンと耳の立った青灰色の犬獣人の横顔であった。
もしや隊長と何かあったのか、そうなのか。
同僚たちは、いつぞやの【菓子折り氾濫事件(※私の死期を捏造しないで下さい参照)】を思い出し、あれを減らす為各部署へ奔放した記憶の再来に恐々とした。(結局初級事務官全員で消費し、皆等しく体重増となった)
別の意味でヒヤヒヤする彼らを余所に、ラナは友人の側へ駆け寄る。覗き込んだは、明らかに、顔色がおかしい。扉にもたれ掛かる身体は重いし、肩が上下している。何より、息遣いが荒い。虚ろな目と視線を合わせて、ラナは今一度尋ねる。

「どうしたのアンタ、凄い顔よ」
「う……やっぱ、り……?」

普段のと比べれば、覇気の無い気だるい声が返って来る。これは、つまり。

「風邪?」
「そ、うみたい……ゲホッエホッ」
「みたいっていうか、完全に風邪じゃない」

何してんのよアンタ、とラナは呆れて告げる。全くもう邪魔になるから早く入りな、と言いながらもの肩をそうっと抱く手は柔らかく、優しい仕草だった。こんがり焼けた友人の手に安心感を覚えながら、はのろりのろりと事務室へ入る。泥が這うような足取りの彼女に、ラナは一層溜め息をついてみせる。

「ほら、とりあえず座って。にしたって、そんな状態で来るなんてアンタってクソ真面目ね」
「いけるかと、思って……。でも着いたら、ゲホ、急にしんどくなってきて」
「でしょうね。顔も赤いし……熱あるんじゃないの? どれ」

ぺとり、とラナの手のひらがの額に触れた。あー冷たくて気持ちいい、とが呟けば、対照的にラナからは「あっつい!」と大袈裟なまでに荒げた声が飛び出す。そこまでじゃないと思うけど、と言おうとしたが、ぼんやりとする思考では出るはずの声も曖昧だった。

「馬鹿、これ絶対微熱も超えてるわよ」
「そうかなあ~……そんな事ないよ、ラナ今日も美人だねえ~」
「……駄目だこいつ、話が通じない」

呆れて額を覆う仕草も、見目麗しい美人がやれば何とも言えない魅力がある。と、は見当違いの事を思っていた。グラグラと、身体が左右に揺れ始める。

「医務室行きなさいよ、連れてってあげるから」
「……来たんだから、意地でも仕事していく」
「馬鹿タレ、こじらせるわよ。大体、仕事でヘマしたら他の人にも迷惑でしょ?」

それも、そうなのだけれど。這いつくばりながら職場にまで来たとしては、浪費した体力の為にも仕事はしていきたい気持ちの方が上回った。(こういうところを、ラナはクソ真面目と言っている)
仕事机の並ぶ一角で、二人がそんなやり取りをしている時、初級事務のトップである事務長の男性が入ってくる。のんきに「おはよ~」と言って、トコトコ自らの席に向かい椅子を引く。腰を下ろそうとした時、ラナとを除く事務官たちがザザザッと一斉に男性へ群がった。押し寄せる部下たちの顔に彼は動きを止め、椅子の背もたれを掴んだまま声を震わせた。

「え、な、何、どうした」
「室長、が風邪をひいたみたいですよ」
「早く部屋から隔離してしまいましょう」
「え、風邪?」

いかつい事務長なんて肩書きヤダ、室長でいい――そうごねた経緯により、室長と呼ばれる彼(御年五●歳)は、へと視線を向けた。顔を赤くし咳をこぼす様子を見て、「あ、本当だ」と呟く。真面目だねえ、とのんきな室長へ、事務官たちはこぞって告げた。

「いや、室長、それもそうなんですけど……」
「え、他にある?」

きょとりとする彼に、事務官たちは顔を見合わせ、小さな声で告げた。

「……武官たちが」
「……第三部隊長が」

潜めた声に、室長は表情を強張らせ、ハッと思い出す。



が無理に仕事をしてぶっ倒れる

武官たちから次々に送られる、見舞い品の氾濫

むしろそれより、第三部隊長自ら来訪する可能性大

何  を  言  わ  れ  る  か



室長の恐怖心1.5割り増しの脚色が入っているものの(実際その第三部隊長に悪意の欠片すらあるわけない)、そんな考えが思考を一巡するのに要した時間は、僅か0.5秒。
室長は鞄を置くや、のもとへと高速で駆け寄った。足を上げ腕を振った体勢を整えるより早く、その口からは妙に鬼気迫る声が発せられていた。

! 風邪ひいたなら無理しちゃいかん!」
「あ、室長」
「え……でも……簡単な仕事くらいは……」
「いいから、休め! ね? はい決まり、今日は早引きね!」

休暇簿書いてあげるから、と普段より数倍も俊敏な動作を見せる室長に、ラナは薄ぼんやりと「これ絶対が心配なんじゃないな」と感じ取り、半眼になる。
当のは頭をグラグラさせながら、「簡単な仕事くらいしていきます」と言い張る。此処までくると、本当に意地なのだろう。頑として動こうとしないので、室長は「君真面目過ぎるよ」と眉を下げる。

「じゃあ、医務室に行ってなよ。少し休んで、大丈夫そうならまた出てきておいで。あんまり大丈夫そうじゃないなら、早引きにするからね」
「そうしな、本当。ていうかそのまま休んで貰いたいくらいだけど」
「医務室行きます……」
「是が非でも仕事する気か」

ふらふら、と立ち上がるを、ラナは仕方無さそうに支える。だらりとするの腕を肩へ担ぎ、文句を言いながらも事務室を出ていった。その手に、そっとキャンディー二粒握らされて。(これは室長である)
「全く、アンタ無理するんだから」と心底呆れた風にぼやいていたが、医務室へ運ばれるは、ラナの纏う柑橘系の爽やかな甘い香りに意識を取られ小言は全て聞いていなかった。

賑やか担当のラナとが去った事務室に、ようやく静けさが戻る。ほっと何処からか安堵の溜め息が聞こえたが、「無理しないで休めば良いのに」と苦く笑い合う様子は同僚を案じる気遣いが確かにあった。

初級事務官という響きこそは立派な事務雑用と、国のトップに位置づけられている戦闘部隊の部隊長。二人がまさかのお付き合いをするようになって、早数週間……未だ周囲は二人へ視線を向け、噂話も尽きない。
何せ、かたや浮ついた話など欠片も無い、むしろ撲滅してきたような生真面目な第三部隊長と、かたや名も出てこなかったような事務官だから、仕方ないのか。
同僚たちはどちらかと言うと、に酷いやっかみや嫌がらせがこないか、それが心配であった。仕事も真面目にしてくれる、頼めば何だかんだ手伝ってくれるを、皆口にはしないが信頼している。もし万が一に嫌がらせなんてものを浮け、変に気を病んだらどうしようか、と影では案じていた。
が、それも杞憂だと実感したのは、ようやく最近の事である。というのも、その嫌がらせをしてくると予想していた武官たちが、その素振りが全くなく。

むしろ、花咲かせてほんわか見守っているではないか、と。

うちのに嫌がらせをしてみろ、室長のポッケのお菓子がどうなるか分からないぞ! と物陰でコソコソ見張っていたらしい事務官が、それを目撃した。噂の第三部隊長とが並んで回廊を歩いていると、通り過ぎる武官たちが振り返り、そして途端表情を緩めて花を撒き散らしている姿を。もしくは、近くの柱に頭を押し付け静かに身悶えする姿を。
あれを見た瞬間、直感的に思った。「あ、多分大丈夫だ」と。
(後になってさらに知ったが、最近武官たちの間で二人を見守り隊なるものが増えているらしい)
背丈も横幅も種族も全く異なる二人を噂するのは、彼らを面白がっているのではなく、武官たちなりに気に掛けて見守っているからなのかもしれない。人と獣人の間に壁がないこの海の国の土地柄といえど、異種族は異種族、上手くいくようにと願っているのはどちらも一緒という事だ。

――――まあ、それはそれ、これはこれ。
職業柄、事務官と武官が何となく変にぎこちないのは別問題だ。

とりあえず襲い掛かるであろう、武官たちの見舞い品の氾濫はこれで回避された。ふう、良かった良かった、と彼らは笑い、時間もきた事だし朝礼を始めた。
だがその時、一人の事務官が何かを思い出し、「あ」と眉を顰めた。
じゃあ今日はこの会議とこの会議があるから出て、別部署から大量郵便の封詰め作業があるから各自協力して、と日程を確認して朝礼を終えようとした室長の視線の先で。おずおずと伸びる、一本の腕。

「ん? どうした」
「いや、あの……ふと、思ったんですが」

妙に言い淀んだ口振りに、他の事務官たちも「何だ何だ」と振り返る。いいよ、遠慮なく言ってよ、と室長は笑ったが――――次の瞬間、全員の顔がひきつった。

が居ない、となると……誰が、武官棟へ書類を運ぶんですか」



朝礼を終え早速仕事へ取りかかろうと動いた、別室の事務官たち。彼らが直後に目撃したのは、とある事務室で繰り広げられていた、鬼気迫る全力過ぎるじゃんけん大会であったという。
大の大人たちが、揃いも揃って本気の顔で。
何を賭けて運と戦っていたのか、彼らは知る由もない。




――――その一方、ラナとは医務室へ到着していた。
医務担当の人間の女性職員へ事の説明をしながら、ラナがをベッドに寝かす。真新しい清潔なシーツと、使い慣れた雰囲気のない硬いベッド。他人行儀で、正しく【医務室】という文字が浮かび上がってくる質感に包まれる。だが、横になるとようやく張った気が抜けて、だるい身体はシーツに埋まる。ふう、と息を吐くの隣に、ラナと医務室の職員が近付いた。

「利用簿は私が書いといてあげるし、午前楽々休んじゃいな」
「でも、少しだけ休んだらまた行くよ……」
「まあ、無理しないで横になって。常備薬ありますし、飲んで休んで下さい。丁度、今誰も居ないですから」

はい、と錠剤と水の入ったコップを差し出したのは、医務室の職員だ。は上体を起こし、薬一粒と水を流し込む。ぽすり、と再び枕に頭を埋めると、ラナの手が数回ぽんぽんと撫でた。

「本当は、直ぐ休んだって良いくらいなのに。アンタ普段からクソ真面目だから、そうしたって別に誰も怒んないわよ」

呆れたような言葉なのに、の頭に触れるラナの手のひらは温かい。それに、優しい。こういうところが、何だかんだラナの柔らかい性質を表していると思う。

「じゃ、私は戻るわね。仕事の事は気にしないで、少し休んでな。お昼休み、見に来てあげるから」
「うう……ごめんね、ラナ」

が見上げた先で、ラナが笑った。美麗な顔立ちに映える、無邪気さのある微笑みだ。彼女は一言「馬鹿」とだけ呟くと、医務室を去っていった。ラナには珍しく、扉をパタリと静かに閉じた音を、ぼんやりと耳にする。
仲が良いんですね、と笑った医務室の職員も、ゆっくり休んでてねと告げて静かに下がった。ありがとうございます、とその背に告げて、は仰向けに寝姿勢を直す。見上げた視界に映る天井は高く、綺麗な赤茶色に染まっている。ふう、と漏らした呼気さえいやに大きく響く医務室内の広さと静けさを、改めて感じ入った。
……そういえば、医務室に入るのは初めてだ。
超ド田舎のエルド諸島の街に舞い込んだ、中心島の事務官募集のチラシ。あれを受け見事合格し、中心島で一人暮らししつつ働いている現在だが、医務室に入るほどの体調不良は初めてだと思う。ケホ、と咳を漏らして、は瞳を細めた。
まあ、原因は分かりきっている。最近どうも昼夜の寒暖差が激しくて、つい窓を開けっぱなしで夜寝てしまっては、朝方の激寒な空気に心底震えた事が度々あった。何これ寒冷期?とベッドの中で絶叫し飛び上がった事は、記憶に新しい。あれだろう、原因は。考えるまでもなく。
結局迷惑を掛けているのだから、素直に休んでいた方がまだ良かったかもしれない、とは反省する。


――――アンタってクソ真面目ね


そう言ったラナを思い起こし、は小さく噴き出す。本当にそうだと思う。
……少し休んだら、今日は帰ろう。それでしっかり休んで、明日からまた頑張ろう。きっと自分の分まで仕事をしてくれるラナだから、明日は今日の分も含めてちゃんと働かなくては。
ぼんやりとしていた思考が、次第に溶けてゆく。瞼を下ろしたから、寝息が響き始めたのはそれから間も無くの事であった。




ガロガロ、ガロガロ

今や多くの人々が聞きなれた、台車を押す音が武官棟の回廊へ響き渡る。
またお馴染みの彼女が運びにきてくれたのだろう、と思い、耳にした武官たちは各々反応し振り返る。が、ファイルやバインダー、書類諸々を乗せている台車を押すのは……彼らが想像していた人物では、無かった。
おや、と顔を見合わせる武官たちの視線が集まる中、物怖じした様子のないその人物は颯爽と足を運ばせる。
第三部隊の執務室前に止まると、テキパキと書類を分けて腕に持ち、入り口に向かう。

「――――失礼します、書類を届けにあがりました」

不意に響いた声は、執務室の武官たちの予想したものとは随分異なっていた。
怯えのない、凛とした声。女のものだが、普段運びに来る彼女と比べると格段に勇ましい。執務室内に居た武官の多くが「ん?」「ん?」と声を漏らし、思わず顔を上げる。
そこに佇んでいたのは――――豊かな亜麻色の髪を高く結い上げた、小麦肌の人間の女性だった。それも、かなり美人。

ただ、いつも運びに来る、彼女ではない。どう見ても。

あれー? さんはどうしたんだろう?
武官たちは、ここ最近でメキメキ技術を高めた視線による会話を交わす。不思議がりながらも、近くにいた亜人の女性が駆け寄り、書類を受け取る。

「ありがとうございます。えっと……」
「ああ、私はの同僚の、ラナと申します。以後、お見知りおきを」

背を折り礼をする女性――ラナは、何処と無く棘の感じられる声音で告げた。「これはご丁寧に」と亜人の女性は頭を下げる。

「それにしたって、武官棟でも、の名は有名ですね。何処に行っても聞かれてしまいましたよ。『はどうした』って」
「あ、ええ……」
「これと、これと、あとこれもお願いします。……は、体調不良で今医務室で休んでます」

バインダー等を受け取った亜人の女性は、まあ、と頬に手のひらを重ねた。

「私は、その代役です。
……にしたって、じゃんけんに参加しなかったって理由で無理矢理押し付けてくるなんて。後で覚えとけよ野郎ども
「え?」
「あ、いえ、こちらの話です」

輪郭のはっきりとした、美しい顔ばせに笑みが浮かぶ。綺麗だが、妙に凄みの感じられる威圧もある。
……それに今、耳を一瞬疑う言葉が、聞こえたような気が。
亜人の女性は、気のせいという事にしつつも、背筋を若干震わせて笑みを返した。

「それで、さんは大丈夫ですか? 体調不良なんて」
「ああ、結構な熱出してましたよ。本人は仕事する気満々ですが……もし大して良くなってなかったら、力ずくで帰らせるつもりですけれど」
「まあ、そうね。それが良いですね」


……と、二人の女性は入り口で言葉を交わしていたが。
周囲の武官たちは聞き耳を立てながらも、ほぼ全員の目は決まってある場所へ向かっている。
この執務室内どころか、国のトップであらせられる、真面目に判子を押している第三部隊長シュバリオ=ダレフへと。
ぽん、ぽん、とリズムよく押印する顔は、普段の通りであるが……。

(……隊長、今露骨に落胆したな)
(ああ、さんじゃなかったからだろ)
(てゆうかあの人、他の奴らが噂してた、美人な初級事務官じゃないか?)
(多分そうだけど……いや、隊長にはそんなのどうでも良いみたいぞ、ほら)

表情の変化や姿勢こそはまるで無いが、その代わりに耳と尻尾が心情を雄弁に語っている。
すっかり折れ曲がってしまった耳は、彼女たちの会話を明らかに拾っており、横から覗く尻尾などそわそわしてそれどころではない。
顔立ちに反しての、忙しないその様子に。部下たちはこぞって空気をブフッと噴き出し、微笑ましさに赤面しそうになった。こっちはこっちで、今日もバレないよう努め忙しい。


「――――じゃあ、私はこれで」
「はい、ありがとうございました。さんに、お大事に、と伝えて下さい」

周囲の武官たちの反応は余所に、運搬係代役のラナは一礼し退室する。ガロガロ、と台車を押し遠ざかるその姿を亜人の女性は見送り、受け取った書類を分配してゆく。
何処と無く空気がざわつく、執務室。だが、長であるシュバリオが大きく一度咳払いをすると、皆慌てて職務へ戻り、空気が水を打ったように静まり返る。
シュバリオの様子も、普段の静けさを取り戻しており、淡々と自らの仕事をこなしてゆく。だが、その作業速度がやや速くなっている事を、恐らくこの場に居た誰もが気付かなかっただろう。




――――正午を告げる鐘の音が、遠くで聞こえた。
意識は薄ぼんやりと浮上していたが、はっきりと覚醒するには至らず。はしばらく瞼を下ろしたまま、糊の効いたシーツに包まれまどろんだ。薬の効果もあるのだろう、少し眠いが、幾らか調子がいい。

……思いのほか、寝ちゃったかなあ。

いくら医務室が広くベッドもたくさんあると言えど、あんまり長い時間を使うのも申し訳ない。そろそろ起きなくては。は身動ぎし、だるい腕をシーツから出す。ぱたり、と力なく再び落ちてしまう。

「まあ、ダレ……い長……どうかし……」

誰か、来たのだろうか。医務室の職員の、声が聞こえる。
薄ぼんやりとした意識が、ようやく定まってゆく。音を立てず静かな気配が近付いてくるのを感じた時、の瞼が震え持ち上がった。

――――ふわり、と温かい何かが触れたのは、その後だ。

視界を覆われ、仄暗く何も見えないが。ふわふわした、柔らかい毛――犬を彷彿させる感触が、額に触れている。かといって柔らかすぎず、どちらかと言えば武骨さが滲んでいる。誰かの手だ、とても大きな手のひら、とても長い指。の頭だってきっと持てるだろう、それは大きな手。
身動ぎし声を漏らすと、慌てたようにその手が離れてゆく。少しもったいなく思うと、の頭上で響く、低い男性の声。

「――――すまない、起こしたか」

の頭が、熱を出しているとは思えないほどやけにはっきり覚醒する。カッと目を見開くや、間髪入れずに飛び起きたが、グラッと倦怠感に襲われ上半身がふらついた。後ろへ再び倒れそうになるその背に、今しがた額に触れた大きな手が添えられる。ふわふわとする身体には、その力強さが普段以上に頼もしく感じられた。

「シュバリオさ……ッゴホ、どうして」
「貴方の同僚、いや友人が、そう話していたのを聞いて。ああ、無理せず横になった方が良い」

の居るベッドの、右隣。二メートル近い長身でありながらしなやかな体躯を併せ持つ、隊長服を纏う犬獣人――シュバリオが佇んでいる。その腰には銀色の剣が二本装着され、動くと涼やかな音を立てた。
シュバリオの声は普段と変わらず静かで、生真面目な性質の表れる低い声音は淡々としていたけれど。今は、特にそれが心地良くの耳を撫でる。眩暈に似た重さが圧し掛かった頭を押さえて礼をすると、彼は微かに首を横へ振る。そして、の背をベッドへ寝かせた。
背に回った彼の腕は一本だけなのに、楽々と支えるその強さ。遠慮なく体重を掛けてしまっているはずなのだが、苦にも感じていない様子がある。男女の差異、付け加えて人間と獣人の種族差は、明確らしい。人間の男性の腕を知っているわけではないが、シュバリオのそれと比べるべくもない事は、でも分かる。
ぽすり、とシーツに埋まって、は今一度シュバリオを見上げる。

「今、お昼休みですよね……お忙しくは、ないですか」

小さな声で尋ねると、シュバリオは少し苦笑いを浮かべた。「ほんの少しだけ、様子を見に来た」
本当は仕事もあるんだろうな、とは直ぐに察する。そもそも、国のトップに所属する彼の仕事内容や仕事量が如何なるものか、詳しくは定かでないもののなどと比べてはならないのは明白だ。わざわざ足を運んでくれる彼は、やはり真面目である。
仕事の隙間の中での事に、心苦しさもあって。同時に、弱っているからか酷く嬉しくて。は、シュバリオへ微笑んだ。
彼はぎこちなく口角を上げ、ベッド脇に置いてあった丸椅子を引っ張り出す。背を伸ばし静かに腰掛ける様にも、実直さが光って凛々しかった。

「シュバリオさんに、うつさないようにしなくちゃですね。風邪」
「私の事は、気にしなくて良い……自分の身体を、気遣ってくれ」

は、思わず噴き出した。その音を聞き、不思議そうにシュバリオがモコモコの太い首をやや傾げる。

「ごめんなさい、友人にも、そう言われてしまって。『アンタは真面目過ぎる』って」
「そうか……」
「でも、確かにその通りかなって、思いました。此処に来てから、ずうっと仕事一色だった気がするんです」

ケホケホ、と咳を漏らしながら、その合間には笑みが混じる。見下ろすシュバリオの顔は、何処となく元気が無い。

「私が言っても、あまり説得力がないが、体調不良の時は素直に休むべきだと思う」
「そうですね、そうするつもりです……周りにも、迷惑をかけちゃいますから」

そう告げれば、シュバリオは何処か安堵しているように見えた。

「シュバリオさんも」
「……ん?」
「シュバリオさんも、無理しちゃ駄目ですよ」

もそり、とは身動ぎする。

「部隊長のお仕事なんて……想像も、出来ないですけれど。適度に、休んで下さいね」

なんて、今の私が言ったら、なおさら格好付かないですね。
小さく肩を揺らして笑う。隣に座るシュバリオは、やや驚いた顔をし、それから少し口元を緩める。

「……そうだな、出来る限りは、そうするべきだな」
「……はい」

よかった、と内心では思ったが、ふと見上げると彼は急に思案するような眼差しをしていた。医務室の静けさが、存在を色濃くしとシュバリオを取り囲む。

「……私も、自らの職務ばかりを優先するような男だ」

数十秒の空白を挟んで、彼は告げた。静かな声、だが単純に静かなだけではなく、何処か重みも含んでいるようには思えた。

「今の立場も、国の為に働く事も、何一つとして不満はないし誇りだが……いや、これは今の貴方には鬱陶しいかもしれないな」

すまない、と。シュバリオは謝った。は気にしていないのだが、やはりそういった細事も気にかけるのが、彼なのだろう。あるいは、部隊長としての気高い精神か。今のには正直、まだよくよく理解は出来ないけれど、関係を持つ者として言葉をかけるくらいは出来る。

「――――じゃあ、一緒ですね」

短い一言が、静かに落ちる。シュバリオの目が真ん丸になり、を見下ろす。

「私と、シュバリオさん。一緒ですよ」
「そう、だろうか……」
「はい、仕事優先にする辺り、似てると思いますよ」

シュバリオは動きを止めた。は小さく笑い、続ける。

「だから、良いんです」
「そうか」
「はい」

何を、など具体的には言ってもいないが、シュバリオの普段より緩んだ口元には満足していた。


「それに、私は――――真面目なシュバリオさん、好きですよ」


何気なく。
何気なく、本当に他意なく、むしろ何も考えず。
そう告げた、瞬間だった。シュバリオの大きな身体が、狼狽えたように飛び跳ねたのを、は不思議そうに見上げた。

「どうか、しましたか……?」
「い、いや、その……ッ」

鋭い目が泳ぎ、耳が忙しなく跳ねる。あの尻尾も、同じように跳ねているのだろうか。
は薄ぼんやりと思った。だが、それ以上の事を察するには至らない。今一度尋ねようとしたが、不意に咳が飛び出してしまい、は身体を揺らす。それを見て、シュバリオはハッとなって腕を伸ばす。シーツの上からの丸い肩へ広い手のひらを重ねる。

「すまない、長居が過ぎたな……」
「ん、いえ、大丈夫です……ゴホッ」

次第に落ち着いてゆき、の口から呼気が吐き出される。
シュバリオはその後、ゆっくり立ち上がった。カシャリ、と携えた剣が音を立てる。

「様子を見に来ただけだったのに、すまないな」
「良いんですよ、それより、もし仕事があるなら……私に、気にしないで下さい」

寝てれば治りますから、と気の抜けた笑みを向けると。シュバリオは不意に、の瞳を見つめた。じっと、真っ直ぐ。

「……無理せず、休んでくれ。それと」

シュバリオは、自らの胸に右手を重ね、左手を背後に回し、一礼する。

「……ありがとう」

普段から慣れているのだろう。とても綺麗な、規律正しい礼だった。
けれど、礼を言われるような事なんて、していないのに。のそんな感情がぼんやりする顔に浮かんだのか、彼はただ「私がそう言いたかっただけだ」と付け加えて、背を向けた。
静かに去ってゆく長身な犬獣人の姿を、視界から見えなくなるまで送り、程なくして。ラナが医務室へと入ってきて、を見下ろした。

「どう? 帰る気になった?」

もうその一言から、首を振れば無理矢理連れて帰るからな、というラナの意志が透けて見えた。は苦く笑い、「うん」と首を縦に振る。
ラナは何故か面食らった表情をしたものの、「それなら良し」と細い腰に手を当てて笑った。




――――医務室を去ったシュバリオは、執務室へと直ぐには向かわなかった。
正しくは、向かえなかった、というべきか。長い足の爪先は、執務室とは正反対の、書庫や保管庫の集まる区画へと進んでゆく。必然的に、昼休憩となって賑わう人々から離れ、シュバリオの耳からもその和やかな声が遠ざかっていった。いつの間にやら、独特の静けさが彼を包み、コツコツと鳴る踵の靴音が響いている。
昼時間に、この区画へ来る者は滅多に居ない。昼にも関わらず、不思議な無人の気配。それを確認し、ようやくシュバリオは足を止める。ぴたり、と止んだ靴音の余韻が空気に残る。
左右を見ても誰も居ない、物静かな廊下。広い背を壁に寄りかからせた彼の姿は、少し埃が溜まった窓硝子より差し込む淡い陽射しで微かに映し出される。普段から規律と勤勉を絵に描いたような男、何人につつかれても崩れない冷静な部隊長の横顔が、今は明らかに動揺していた。恐らく、多くの武官たちが見た事はないであろう、表情だ。
シュバリオは、大きく息を吐き出す。ピンと立った三角の犬耳が、途端に困り果てたように折れた。

別に、他意があったわけではない。
何せ彼女は熱を出していたわけだし、ある程度思考が不明瞭になっていても可笑しくはないし。
だから彼女の言葉は、ついて出たものであり、それ以上か以下かの細事は気にするものではないし。

などと、シュバリオの思考は面白いくらいに回転していた。回転というよりは、とにかく力ずくで理解し落ち着かせようと沈黙の中で試みていた。午後からの公務も考えてみるか、と記憶の限り午後どころか翌日や明後日まで頭に叩き込んだスケジュールを引っ張り出していたが、どうしても上辺だけで回ってしまい、の声ばかりが余計に思い起こされる。



私は――――真面目なシュバリオさん、好きですよ



努力虚しく、その一言で再び顔が焼けそうになった。
実際にこの獣顔が赤くなる事はないが……シュバリオの口からは、またもらしくない溜め息が落ちる。

戦争がまだあった時代、武功を立て忠義を貫いた功績を讃えられた小貴族――――それがダレフ家。彼の生まれた家だ。
以後、地位が大きくなる事も十分に許されていたダレフ家だが、それ以上の発展は望まずあえて小貴族の成り上がりの地位に留まっていた。
戦争が無くなり新しい時代となれば、どうせ貴族など意味を持たない。地位と富み、権力に溺れ没落するのならば、剣と忠義だけを携えて死んだ方が良い。
現在にまでダレフ家の名を残すほどの、基礎を築いたとされる当時の当主に習い、シュバリオもそう教わりそして剣を幼少期から叩き込まれてきた。そのお陰なのか、国の戦闘部隊の一つを任される長となり、海の国ながら本土にも実のところその名はよく知れ渡っている。

武技に関しては、並ぶものは少ないが。
反動なのか、それ以外の日常に対して無頓着になっているのも事実である。
色恋沙汰など、既に論外の範疇だ。

こういう時、どういった顔をしていれば良いのか、分からなくなる。
時間を作りの様子を見に行ったというのに。逆に自分の方が背を押された。安堵と情けなさが、半分ずつ残っている。
じゃあ一緒ですね、と笑う彼女に、もっと他の事を言えたのではないかとも、思えてくる。

小さくて、細い身体。少女みたいな小さな手。力を込めればそのまま折れてしまいそうな、あまりに頼りなさ過ぎる背中。
男女差、しかも付け加えて獣人と人間の差異は、恐ろしいほどはっきりとしている。
それなのに、見上げてくる目は。伸ばしてくる腕は。隣を歩く足は。
大きなシュバリオよりも、迷いがない。

彼女が以前抱いていたように、怯えているのは私の方かもしれない。
シュバリオは、自覚していた。

「……まいったな」

呟き、瞳を閉ざす。顎を上げ、視界を閉ざした中で天を仰ぐ。
その横顔は、遠吠えを放つ狼にも見えた。


彼女を見初めたあの時から、留まらず惹かれ続けているのは。

他ならぬ――――私なのだろう。



尻尾は活躍しないけど、隊長フィーバー。
むしろやっぱり周りが(水面下で)騒がしい隊長編である。
夢主宅へお見舞い行って欲しいけど、堅物な彼は中々行かないだろうな……とは思ってもよぎる、友人のニヤリ顔。

2013.07.30