剣の番犬

 その昔、戦があった時代の事だ。
 海の国カリフォスにおいて、末端の小貴族に成り上がりその名を連ねた、犬獣人の男が居た。栄華に誇った伯爵家や侯爵家などと比べれば、領地も小さく蓄えも決して多いとは言えず、雲泥の差だとよく笑われていた。本土の貴族たちとは最早比べるべくもない。けれど当主であった彼は決して卑下する事はなく、その立場を受け入れていた。
 だが、当時の動乱の世において、小貴族であったはずの彼の名は、島国を超え遠い本土にまで知れ渡っていた。その所以は、彼が非常に高い剣術の使い手であり、戦で様々な武功を勝ち取った事が大きいとされる。
 切磋琢磨し得たという高い剣術の力は、隊を率いた長たちからも信頼を寄せられるほどで、多くの武功で貢献したという。また、それ以上に大きかったのは、彼の身に流れる犬の血の本能だった。厚い人情と忠誠心を持つ彼は祖国の為にと奮起し続け、何の影響力もない小貴族でありながら、ついた名は《剣の番犬》であった。
 そんな彼の功績は目覚ましく、当時の国の両陛下からは感謝の言葉を賜り、その武功に見合う爵位を授けようと言われた。だが彼は、それを丁重に断ったという。私は国の為に働いただけ、国の為の番犬であったと言われただけでもう十分です。彼は多くの褒美を得る機会を、自ら辞退したのだと記録されている。その後動乱の世は終焉を迎え、彼は小貴族のまま以後を過ごしたという。

 そんな彼の血が現在にまで生きている理由は、一族の者たちに語り継がれている。
 《剣の番犬》と褒め称えられた剣術を扱った、犬獣人の男――――数代前の当主は、後世の一族へ手紙を残していた。

 立場が大きくなり、金も名声も増えてゆけば何れ必ず手折られ衰退する。そうでなくとも、その名を維持する為にどれほどの犠牲と労力を切り捨て、一族の血というしがらみに捕らわれるか。考えただけでもぞっとしない。ならば、繁栄し富みに溺れるよりも、今の立場で実直かつ堅実に生きてゆく事の方が何よりも尊い。何れ分かる、貴族社会がいつの時代かに必ず衰退し、意味を無くす事を。その時には、この血が後の子孫たちを捕えるようであるならば、消えてしまって構わない。

 彼の言葉通りに、現在貴族たちの力は未だ影響力があるとは言っても、全盛期と比べればその力を無くし、貴族たちの半分は時代の経過と共に消えていった。計らずも、番犬の予想は当たったのである。
 そしてその時代の必然は、祖国にも降りかかった。けれど祖国の場合は、本土のような絶望感はこれっぽっちもなく、それどころか斜め上へと向かって新たな時代を喜んだ。これを機に、身分も血筋も関係ない、新しい国を築こう。民と貴族が壁も過ごせる、もっと自由で朗らかな風を取り込もう、と。

 彼の一族は、番犬と言われたかつての当主の教えに従い、国に対する忠誠と地位を確立させた剣術を高め、現在にまで残った。武功で成り上がった小貴族、今も昔も変わらぬその肩書きを、笑う者はもう既に居ない。
 一族の名の持つ力は薄まったが、それでもその立場は現在も変わらず貫かれ、番犬の血は今も国の為の剣であれとされている。

 それが、海の国で戦闘部隊の隊長を務める、シュバリオの家名――――ダレフ家の、歴史であった。



 そんな歴史がある家に生まれた、シュバリオ=ダレフ。彼にとって、生まれた家は確かに小貴族ではあるが、影響力は既に薄くなっており持てはやされるような立場ではないという認識を実直に抱いていた。けれど、この国……カリフォスにおいては、ダレフ家の名は特に多くの人々の間で知られているのも事実である。彼自身が双剣の名手であり戦闘部隊の長の一柱である事も要因だが、ダレフ家という名はそれだけ重きものであるのだろう。それをいずれは正式に当主として継ぐであろう事も、シュバリオは既に知っていた。
 《剣の番犬》と呼ばれた、ダレフ家を確立させた数代前の当主は、消えてしまって構わないと書き残してある。それに則り、シュバリオの両親――――現当主夫妻は、シュバリオに対し「お前の好きなようにしなさい」と幼少期より言っていたのを覚えている。ダレフ家の歴史に縛られなくて良いと、当代で潰えようと構わないと、暗に告げていた。
 けれど、国の為の剣であれ盾であれと今日のシュバリオの姿があるのは、彼なりにその歴史と誇りを持っているからである。幼少期から剣術を習ったのは自らの意思であるし、その後幾度も本土の剣術大会で勝利を勝ち得たのも自らの意思である。ただ彼は極めて真面目で、私利私欲に評価を豪語し回るような性格でなかっただけで。
 武功で成り上がった小貴族、その名に縛られているとは思っていなかった。

 要するに、シュバリオという犬獣人は、とてつもなく真面目で、実直さを形にしたような男だったのである。

 周囲の評価も大体、貴族の出というところではなく、その性質を口にする事が大多数だ。大海を挟んで隔絶された海の国カリフォスの、戦闘部隊第三部隊長。職務にも真面目で勤勉、双剣の名手だが驕る事もなく。信頼厚く、国王両陛下からの覚えもあり、非常に高い評価を獲得した人物。
 ただ反面、その生真面目な性格が災いする事もあり、融通の利かない面白味に欠ける男とも同時に揶揄されている。それは、彼自身もよくよく理解している事であった。
 年若い若造が上に立てば面白くない者の一人や二人は出てくるだろう、シュバリオは陰口に対し気にした素振りは全く見せなかった。陰口結構、今後も己はこの国の為に働いて尽くすだけだと、彼はそれだけを思っていたのだ。
 今となれば、それがどれだけ味気なくつまらない日々だったのか、痛感する次第であるが。


 そんな生真面目さを寄せ集めて塗り固めたような男であるシュバリオに、転機が舞い込んだのはある日の夕暮れ時。
 シュバリオはその日、盛大に文官長と一悶着を起こした。と言っても殴り合いの暴力沙汰を起こしたとかそういった類ではなく、文官長と多少言い合いを演じてしまったのである。先に食って掛かったのは向こうで、曰くシュバリオの提出した書類が気に入らなかったという、馬鹿げた理由だが。シュバリオは書類作成についても非常に実直である、部下たちがこぞって真似ようとするくらいには非常に出来が良い。不備などないが、要するにいつものやっかみだ。剣を振りまわす武官職の若造に負けたのが腹立たしかったのだろう、向こうの方が幾らか年上であったし。事を荒立てるまでもないと、みっともない喚き声は軽く聞き流した彼であったが、其処にシュバリオだけでなく部下までも引き合いに出された時、百の雑言を言った文官長をただの一言で絶句させてしまった。さすがに其処で周りの制止が入り、険悪な空気は阻止されたが、文官長は最後の負け惜しみに呟いた。


 ――――真面目さしか取り柄のない男め、それだけでやっていけると思うな


 彼にとっては、本当に負け惜しみだったのだろう。だがシュバリオ個人に対しては、渾身の暴言であった。これ以上この場に居ると何を言うか分かりはしない、シュバリオはようやく退室した。書類は当然不備などないからそのまま受理されたが、彼の片隅には澱が残されてしまった。いくら彼が物静かな性質といえど、人並みに傷つく事はある。実際その通りであるから、ぐうの音も出ない。
 それだけでやっていけると思うな、か。
 シュバリオは、久しく自嘲した。確かにその通りだと納得すると同時に、心の澱が増した。そうだとしても……この性格が今更変わる訳でもないだろうに。
 気にする必要などなかったはずなのに、この日だけはその言葉を流す事が出来ずに居た。仕事にならないと判断した彼は、何処かで息抜きをしてこようと思い至り、向かった場所は……王宮敷地内の一角にある、庭園であった。
 広大な敷地を持つ王宮。その入り口から王宮本殿までの間には大きな煉瓦の道が整然と敷かれており、両脇をその庭園が飾っているのだ。これと言った理由は無く、何となしに思い出したからである。今までちらりと横目にはしても進んで行こうと思わなかったが、彼の足はふらりと目指していた。


 夕暮れの色に染まった庭園には、花の香りが満ちていたが物静かな情緒に包まれていた。荒れていた気分が、いくらか凪いでゆく心地を抱く。ただ、シュバリオは犬獣人……鼻がよく効く種族性ゆえに、良い香りではなく強烈な匂いという印象が強く、落ち着くというより気が紛れるといったところも否めなかったが。
 遠くで見る分には良いかもしれない、と薄ぼんやりと眺めていた時だ。視界の中でゆっくりと動いた人影を、シュバリオは見止めた。先客らしいその人物は、手入れの行き届いた花壇の前に蹲って、花を眺めている。文官管轄内の、事務官の制服。様々な雑事を請け負う部署の制服だ。細い背だから人間の女性だろうなと思い、シュバリオはそれから直ぐに庭園を去った。その時は別に取り立てて気にする事など無かった。敢えて言えば、自分が居ると邪魔になるな、という程度の認識である。


 その後日、同じ時刻にシュバリオが庭園を横切った時だ。彼の見た同じ姿が、其処に在った。細い背の、事務官制服。この日は花壇ではなく、蔦の巻き付いたアーチをしげしげ見上げていた。
 先日も見ていただろうに、何をしているのだろうか。シュバリオは灰色の毛が覆う首を傾げさせたけれど、その細い背が楽しそうにしている事は理解し去った。


 その後もシュバリオは何度か庭園を通りかかったが、あの細い事務官の姿も何度も目にした。
 その頃になると、あの姿があるのは夕暮れの時刻だけなのだと気付いた。そういえば一般職員の終礼はこの時間であった、その帰りに寄っているのだろう。よほど彼女は、庭園が好きらしい。傍目に見ても、随分と楽しそうにしている事が窺えるのだから。
 しばらくキョロキョロと見た後、彼女は庭園を去っていった。シュバリオは、その時初めて庭園へと踏み入れた。そんなに引き寄せるものがあるのかと、一片の興味が宿ったのである。足を進めた途端に、季節の花や植え込み、整えられた花壇やアーチの景色が広がった。満ちた花の香は、相変わらずややきつく嗅覚を刺激する。それが王宮の一角を彩るのに相応しい美しい場所なのだとは思ったけれど、国の為の剣であれ盾であれと振る舞ってきた己には似合わない気がした。
 当然だ、こんな長身で屈強な獣人が、そもそも居るべき場所ではない。居るべき場所は、此処ではない。まして、花を愛でるような顔でも性格でもないのだ。彼女のような、細く柔らかな空気の女性にこそ相応しいと分かっているくせに。

 剣しか取り柄のない男――――久しぶりに、そんな言葉が過ぎった。上官たちから時に疎まれてきた性質を思い出したのは、これが久しぶりだった。
 驚く事にシュバリオは、あの彼女の姿を見止める間は、自嘲も苛立ちも忘れていたのである。


 その後も、何故かシュバリオは庭園へと何度も足を訪れていた。同じ時刻、昨日と同じ事務官の女性が、花壇の前でこじんまりと座っているであろうあの場所へ。

 ……何故、私は此処に何度も来るのだろう。

 立場上、腰に携えている銀の双剣は、庭園などという美しい場所ではなく、殺風景な場所で発揮されるもの。植物を愛でて、彼の第三部隊長の役目も、《剣の番犬》と名を冠した家の役目も、果たせるわけでもない。これまでも、これからも、其処は全くの無縁であるはずだった。
 なのに。
 何時の間にやら、此処へ訪れるのが彼のくせになってしまった。何故。不釣り合いだろう、他でもない私が既に知っている事だ。
 そう思った時に、シュバリオはやはり彼女の姿を見つけていた。向こうは相変わらずシュバリオに気付きはしないけれど、珍しいものでも見つけたのか今日は一段と上機嫌な様子だった。
 獣人とは異なる種族、人間。細く小さい、まして女は容易く折れてしまいそうなほど繊細で、花に伸ばす指先は頼りない。なのに、薄く色づく爪は優しげで、花弁を撫でている。
 ……何で彼女の指を追いかけている、とシュバリオはハッとなる。後ろめたさ、或いは浅ましさが過ぎり、かぶりを振った。大体、向こうは知らないでいるのに遠くから見ているなど大の大人がすべき事だろうか。自らを叱りつけてやりたくなりながら、シュバリオは静かに退く―――その拍子に、彼はそれまで背中ばかりを見ていた名の知らぬ人間の女性の、顔を初めて垣間見た。
 橙色に色づいた頬に浮かぶ、繕わず飾りもしない純朴な微笑。二十歳を過ぎているだろうが、シュバリオよりも年若い印象を受ける、朗らかな佇まいを見せる女性だった。その面持ちに、細い背に見た同じ落ち着きと柔らかさを見出して。
 シュバリオの普段は鋼鉄じみた心臓が、唐突に音を立てて跳ねるのを、彼は身の内で覚えた。続けざまに灯った温もりに、さすがの彼もらしくもなく絶句して、急ぎ足にその場を離れた。

 どうやら自分は、勘違いをしていた。それをようやく知った瞬間――――どっと、汗が噴き出した。真っ直ぐと伸びる背が情けなく震え、頭の後ろに目眩が差す。
 あの場所へ行き続けたのは、植物に癒されていたのではなく。不釣り合いな場所に惹かれていたのでもなく。

 ……まさか。まいったな、これは。

 鼻の頭を手で覆い、自らのここ最近――と言っても既に数週間以上も経過していたりする――の行動を思い起こした。羞恥で悶絶しそうになりながら、我が身に訪れる無縁と思っていた感情に、彼はある意味では初めて冷静さを欠く。シュバリオの耳と尻尾は、落ち着きなくパタパタと跳ねていた。
 あれだけ不快に感じた花の香が、消えず残っていれば良いなどと、現金にもほどがある。


 名前すら知らない、声も仕草の一つだって知らない、小さな人間の女性。向こうはシュバリオの存在など気付かないというのに、勝手に救われ、勝手に追いかけ。
 生真面目で融通の利かない、剣と忠誠だけが取り柄のような鋼鉄の犬獣人が、その日ようやく自覚したのである。


 ――――帰り際、楽しげに庭園を見て回る事務官へ、勝手に。本当に勝手だが。

 シュバリオは、懸想していた。



 知りもしない彼女を初めて見止めてからも、彼女の名前や配属されている部署を知ってからも、シュバリオはしばらく声を掛ける事など出来なかった。情けない話だが、この性格でただの一度も異性へ想いを寄せる事など無かった彼だ、齢三十を目前にして何処の少年だというような葛藤をするばかりで距離が埋まる事などあるわけが無い。
 犬という獣の顔を持つくせに、細い小さな人間を捕える身体と力を持つくせに、シュバリオが願う事は彼女を得たいという事ではなく、彼女の目に映りたいという事であった。剣と真面目さしか持たず、時に煙たがれながら生きてきた己が、許されるのであれば。

 だから正直、交際を願い出ても受け入れられるとは思っていなかった。せめてこれがきっかけで、彼女と繋がりが持てればそれだけで構わない。半分はそう既に覚悟していたシュバリオが、今日遠くで眺めるだけだった彼女を隣に見るのは、殆ど奇跡、人生に二度もない僥倖であると現在も噛み締めている。
 種族も違う、立場も違う、どちらに負荷が掛かるかと言えばそれは間違いなく彼女であると、シュバリオも知っていたのに。
 それでもどうか私をと、望んでしまったのも彼であった。

 冷静さを張り付かせ、心は鋼鉄で出来ているのではないかと言われてきた、かつて《剣の番犬》と冠した血脈の獣が。



 あの日見初めた彼女の名前を口にするだけで、この上なく満足し。

「はい、シュバリオさん」

 目一杯に見上げて何気なく笑い、己の名を告げてくれるだけで、最上の喜びを感じているのだと。
 シュバリオという男が常抱いている事はきっと、彼女はまだ気付いていない。



要するに、シュバリオは夢主に一目惚れからのベタ惚れ、という話。
齢三十を目前にして。

2014.03.21