精一杯に、強がった

――――― 世の中、不思議な事が起きるもので。

月に数回、早朝にのみ開かれる海岸の魚市に向かう途中の、出来事であった。じゃっかん眠かった目が、おかげで一瞬で覚めた。
空っぽのカゴを手に握って呆けるの姿は、もしかしたら第三者からみれば間抜けであったかもしれないが。

「――――― 俺と、付き合って欲しい」

少なくとも、彼女と、彼女の正面に佇んだこの男性の間には真剣が糸になって繋がっているようだった。
周囲を海原に囲まれている国に相応しく、太陽の陽射しを一身に受けて焼けた褐色の肌が、ラフなタンクトップシャツから見える。黒いカーキー色の、ゆったりしていながら複数のポケットが付いた事でゴツゴツしたシルエットのカーゴパンツから覗く、その足からも。丈の長さは七分丈ほどだろう、現れているふくらはぎにもピンと緊張が走っているように思う。
その男性を、はじっと見つめた。の白い肌と軟弱な細い身体と比べれば、男性は圧倒的に筋肉質であるし、精力的である。身長や体格も、二十代半ばの男性という事を思えばとても恵まれていて、若々しく納得もするが……今は、緊張を身に付けをじっと見下ろす。黒い髪もざんばらで、やや跳ねた毛先が首筋にかかる程度の短い黒髪の向こうから、早朝の眩い朝陽でさえ鮮烈に裂く鋭い眼差しで。
空気に含まれるさざなみの音と微かにざわつき始めた空気が、緊張を増していくのが分かった。は、しばし呆然と暮れた後、間の抜けた声で尋ねる。

「……えーと、付き合うって……」
「……ああ」
「友情的な意味で……」
「……そう返されたのは、初めてだな。何処の世界に、真面目な顔でそんな事言う奴が居るんだ」

逆に尋ね返され、は「そうですよね」と言う他無かった。
男性は、より一層視線を鋭くさせると、カーゴパンツのポケットに両手を無造作に突っ込んだ。
多少なり粗暴な仕草であったが、不思議と恐れは抱かせない。ただ、彼が纏う鋭さは……一見すれば人間のように見えるけれど、話すたびに覗く鋭い牙のような歯や人とは異なる異質な気配は隠せない。

「……急にこんなところで、悪かったが」

男性は、声を潜めて呟く。
魚市が開かれる、朝方の海岸部。漁師たちの船を停泊させる港でもあるその場所は、今は魚市が開かれ活気に満ちている。其処から外れた、波打ち際の岩場が現在のの立ち位置で……まあ、雰囲気がないといえばないが。

「い、いえ、そういう事じゃ……」
「その、なんだ、つまり……」

男性は、今一度の目を捉える。

「……返事は、今じゃなくても良いから。考えてくれないか、

男性はそう言い終えると、へ背を向ける。普段の通りに素っ気無く振舞っているのだろうに、今はそれが照れ隠しのようにも、緊張しているようにも見える。あの彼が、だ。
だが、それを口にする事は今のに出来るはずもなく、魚市へと向かって歩き始めた長身な彼をぼんやりと見送るだけに終わった。
結局は、そのまま魚市には行かず、男性から突然告げられた言葉をグルグルと考えながら帰路につく。空っぽなカゴを、揺らしながら。



――――― 仕事の始まる、週始め。
初級事務官という、いわゆる一般事務員であるが王宮の隅っこに出入りする事を許されたしがない立場のは、いつ見ても立派な外門を潜り、門番でもある衛兵へ事務官証を見せ煉瓦で整備された広い道を突き進む。左右は職人の手入れが行き届いた立派な庭園で囲まれ、朝から豊かな花の香りで満たされる。その突き当たりはさらに内門があり、これを超えれば王宮のいわゆる本殿。やんごとなき方々と官職の中でもトップの者達が唯一入る事の許された区域だ。が、はその突き当たりをカクッと曲がり、別に存在する広大な建物へと踏み進んだ。
其処が、の職場である事務官の建物……初級事務官の執務室が、ある場所だ。

早速入るや、は同僚たちに挨拶をしつつ、友人へと報告をした。何か、もちろん安くていっぱい魚介類が手に入る魚市に行けなかった、先の件だ。
檜皮色で丈の長い、なんて事はない事務官衣に埋もれるとは違い、ファッションのようにパリッと完璧に着こなす、この友人ラナ。と向かい合った机の関係上、もっとも親しくなった人間の女性で、少し焼けた肌に亜麻色の豊かな髪の見目麗しい美人と評判だ。も素直にそう思う、自慢の友人である。
だが、如何せん……

「お付き合いを申し込まれた?! やっだ、何の前触れかしらアッハッハッ!!

見た目に寄らず、ザクザクした物言いで、大口開けて大爆笑する性格であったりする。
初級事務官には、隠れた美人がいると噂されているものの、当のこの政務室には彼女に対し鼻を伸ばす者ははっきり言って皆無である。

「もう、ラナってば、直ぐにそうやって笑うんだから」
「だ、だってアンタについに春が来たと思うと……ッブフッ!」

あからさまに、肩を震わせて笑っている。
自身でも、よもや異性よりお付き合いを申し込まれるとは思っていなかった。だが、何もそこまで大きなリアクションをしなくても良いだろうに、と小さく溜め息をついたものの、ラナの様子についまで笑ってしまう。
「おーいラナー、うるさいぞー」同僚の気の抜けた注意もいつもの事で、隅っこの事務室ならではの和やかなのんびりした空気の中、はペンを走らせながら声を潜め告げる。

「びっくりしてね、その日の魚市に行けなかったもの」
「そっちかよ! ……で、どうすんの?」
「どうするって」

の戸惑った様子に、ラナは肩を竦め頭を振った。

「その男の人からの、返事。どうすんのよ」
「どうするって……どうしよう」

呟いたを見るや、ラナは形の良い瞳を丸く見開かせた。
「見ず知らずの人だったの?」と尋ねた彼女は、やや訝しげに声を潜ませた。
カリ、カリ、と緩慢だったペン先が、ピタリと止まる。
知らない人であったならば、戸惑う事も無く「ごめんなさい」と言えたのだが……。生憎、それの逆なのである。

「……その人、私がこっちの街で暮らすようになってから、色々教えてくれた漁師さんだもの」
「へ?」
「だから、漁師さん」

ラナが、何とも言えない不可思議な表情になった。彼女が予想にもしていなかった職業の男性だったからだろう。
「は、漁師? え、な、漁師?」何度も尋ねてくるが、は「うん」と頷くしかない。

……そう、漁師。
このカリフォスの中心島の周辺海域で漁猟を営む、若き漁師だ。

焼けた褐色の肌に、毛先が跳ね首筋に掛かる程度な短さの溌剌した黒髪、そして鋭い切れ長な眼光。
一見すれば、人間と同じ姿をしているが、だがその実ああ見えてシャチの亜人である。いわゆる、普段は人の性質が強く現れた獣人の事だ。
と言っても、もそのシャチとしての姿は見た事は無いが、本人がそう言っていた。

「……漁師が、何でに??」

ラナは、心底不思議だと呟いた。
は、ペンを止めて、くるりと回す。
何故彼が、へそう言ったのか。理由など、分からない。それよりも、自分が彼にするべき返事の方が、分からなかった。



大陸本土から離れ、大海のド真ん中に存在する浮島諸島《カリフォス》。それに含まれる島でありながら、カリフォス中心島から船で数十時間かけて南へ進んだところの、地図でもゴマ粒くらいの小さな島《エルド諸島》が、の生まれ育った地である。
周囲を海で取り囲まれただけでなく、本土どころか中心島にすら気軽に出掛けられない距離という最大の事情が常に付き纏う、とてつもない田舎。だが其処で、平凡ながらすくすくと成長したは、たまたま王宮の初級事務官の求職記事を見つけ、そして運良く採用してもらい、事務官として働く事になった。
だがそうなると、当然実家通いなど出来るわけもない。船で十数時間も掛かる大移動を毎日行っていては骨が折れる。行き着く答えとしては、一人暮らししかない。あれよあれよと準備をし、長年暮らしなれた実家と島から離れる時はもの悲しかったが、新しい生活の第一歩を踏み出したわけである。

そんなが、まだ中心島の華やかな街並みと活気に慣れない当初の頃に、彼と出会った。
安いアパートを借りて細々と働きつつ生活していたわけだが、なにせ心は田舎者、美しい街で過ごしても染まる事はない。
大陸本土の大都市などに比べれば、ずっと田舎なのだろうが、の基準は生まれ育った街の環境なので、十分に都会である。
節約第一に掲げて華美な食生活はしないように、と胸に刻んでいるだけに、彼女の暮らしぶりは慎ましい。そんな彼女だからこそ、月数回しか海岸部で開かれない魚市の存在を知った時、竜宮城の門を開いて貰ったような気分であった。
早速、魚市の開かれる日には早起きし、カゴを持って借りた自転車を走らせて見に行った。それが何という事か、想像を遥かに超えた海産物の市場の大きさと賑わいに戸惑う他無かった。
海岸部で開かれる、なんて聞いたから海の家的なこじんまりとしたものかと思っていたのだが、とんでもない。正確には、海岸部にある漁船の港で開かれるようで、大きな交易船から個人船まで見事に整然と並んでいた。これから祭りでもあるんですか、という人の多さと、活気ある呼び声に、は一種の眩暈も覚える。

「……でか!」

出る言葉など、それくらいであった。交易船なんて、生憎見た事なんて片手で数えられるくらいしかない。
魚市場特有の生臭さもあったが、それは慣れっこでもあり気になりはしなかったが……この人の多さの事。いかにも専門の業者から、買出しに来た主婦など、客層の幅広さに圧巻される。

「はあ……いきなり都会の風景に出会ったみたいねえ……」

は呟いて、とりあえずは見てみようと、カゴを取り自転車を外に停めておく。踏み入れた巨大倉庫の中は、氷を敷き詰めた箱と露店が立ち並んでいる。
海に囲まれ育った彼女であっても、見知らぬ巨大な魚が吊るされていたりする、あれは恐らく専門料理店などが買うのだろうが、それにしても珍しい海鮮物ばかりだ。こうやって見る分にも、故郷を思い出させるけれど、あくまでも目的は安く魚を買う事なのでしばし人の間をすり抜けて店先の箱を覗いていく。

「――――― 何か、探し物か」

その時、の隣に誰かが佇んだ気配がした。彼女が顔を上げると、褐色の肌と黒髪の男性が佇んでいた……のだが、真っ先に視線を引いたのはその肩に担いでいる冷凍巨大魚だった。
あまりの大きさと迫力に、またの口からは「でか!」と飛び出す。

……周囲はざわついて賑やかであるのに、と男性の間には気まずい沈黙が流れる。

「……えっと、すみません」
「……ああ、いや」

男性は首を緩く振った後、改めて尋ねた。

「何か、キョロキョロして、熱心に探しているように見えたけど……」
「あ、探しているというか」

安く魚を買えると聞いたので来てみたのですが、あまりに種類があって戸惑ってます。
と、素直にが告げると、男性はしばし彼女を見つめ、「こっちだ」と呟く。言葉短いので直ぐに反応出来なかったが、付いて来いと告げる眼差しに、慌てて駆け寄る。
肩に担いだ冷凍巨大魚のお陰で、後ろからでは男性は見えないし生臭さ満天だったものの、慣れた足取りで進む男性の足をは追いかけて歩いた。

「アンタ、此処に来るのは初めてか」
「はい」
「そうか……このエリアは、大体業者向けの品が多い。一般人向けは、こっちだ」

へー、なるほど。道理で不思議な海の幸にばかり目にしたわけだ。

「ほとんど島馴染みの連中だから、看板だとかもないしな……分かりにくくても仕方ない」
「いえ、ありがとうございます」

がそう告げると、男性は僅かに振り返り「いや」と短く返す。愛想は良いとあまり言えない人物のようだが、わざわざ案内してくれるのだから悪い人ではないだろうと、はのんびりと笑っていた。
「この辺りから、一般向けだ」と彼は言うや、背を向けて踵を返す。はそれを、思わず止めた。

「あの、ありがとうございました」

ぺこり、と改めて頭を下げ礼をすると、彼はやはり朗らかさの無い声で「いや、別に」と呟くだけであったが。

「アンタ、名前は。また魚市に来たりするんだろう」
「え、あ、です」
「……そうか、アンタいかにも素人だしな、分からない事があったら声掛けろ」

やや上から物申す態度であったように思えたが、魚市場の事をよく知る人物が居るなら心強いと、は頷いて彼の名を尋ねた。彼はわりとあっさり、教えてくれた。
男性がシャチの亜人の漁師――プロと知ったのは、それから数回ほど魚市場でレクチャーを受けたりなどし会った後であった。

この漁師の名を、ジゼル。今日、へ交際を申し出た人物である。



「――――― で、その漁師とやらは、別に悪い人じゃないんでしょ?」

休憩時間でもある、華の正午。
今朝の相談の続きを、昼食後ジュースをジュルジュル飲みながら語らっているとラナの間には、ほっと気の抜けた空気が流れる。

「うん、まあ、むしろ良い人だと思う。愛想はあんまり良くないけど、何だかんだで色々教えてくれるし」
「でも、アンタってエルド諸島出身でしょ。魚なんて珍しくもないじゃない」
「いやあ、それがねえ……」

は頭を掻く。
確かに、多少なり知識はあるが、なにぶん交易など未発達な地域の為に見る魚なんてほぼ決まっているようなものだった。よって、中心島の大陸本土との行き来はもちろん周辺海域でより高い技術で獲る魚など、恥ずかしながら初めて見たものだってあった。
以前うっかり見た目がグロテスクな、チョウチンアンコウを潰した顔と泥をぶちまけたような体色の魚を目にした時、思わず顔を逸らした。が、その漁師――ジゼルに「見た目はエグいけど、普通に食うと美味いから」とその場でさばいて食べさせて貰った事もあった。その時のジゼルの、冷ややかというのか、呆れたというのか、ともかくそのような眼差しが妙に沁みた。

「まあ、島国だからって、全部知ってるわけないしねー。私なんかお店で出てるのしか買わないわよ。匂いがまず無理だもの、魚市なんて!」
「そう? わりと平気。遊ぶところとか無くて、平気で港で遊んでたからかな。それに此処の市場って、種類が豊富だし、安いし、一人暮らしには嬉しい料金だよ」

がそう言えば、「アンタ勇気あるわねえ」と妙に感心される。別に、勇気は必要ないけれど……。

「まあともかく、悪い人じゃないなら考えてみなよ。知らない人ってわけでもないんだから」
「もう……ラナ、楽しんでる?」
「バレた? だってアンタいっつも目立たない生活してるから、ここでようやく明るくなると思うと楽しいのよ」

すぐそうやって面白がるんだから、とが漏らすも、彼女はコロコロと笑ったままだ。

「でも、私なりに相談に乗ってるでしょ? 私は別に付き合っても良いんじゃないのー、とは思うもの。
――――― ま、結局アンタがどうするかだけどね」

そこなのよねえ……。
は、紙パックのジュースを全て飲み終えた後も、ストローを吸い込みズルズル音を立てていた。



今度は、シャチ亜人の漁師、ジゼル。
見た目は、ちょっと鋭い尖った感じのお兄さんだけど、海水に触れるとシャチの姿になるらしい。
犬獣人シュバリオ=ダレフ隊長とは異なる、静かなキャラ。こう、あんまり笑ったり何だりしない無愛想な感じで。

隊長人気に追いつく事が出来るかは不明ですが、こっちは正真正銘クールなキャラであって欲しい。
と、願うこの頃であります。

2012.07.31