ほころぶ口元を隠しきれない

月に数回しか開かれない、海岸部の大きな魚市場。
珍しい種類の魚介類も安価で入手出来るとあって、一人暮らしには懐に嬉しいとはたびたび買い物に出掛けていた。アパートで共有されている、カゴ付き自転車を走らせて。
そこで知り合った、漁師という魚介類プロフェッショナルのシャチ亜人・ジゼルから助言を貰う傍ら、魚をさばいてその場で試食する。
賑やかな魚市場を抜け出し、船が停泊している海岸部の隅っこで広がるその光景は、ここ最近ではお馴染みになりつつあるものだった。

手馴れた動きで、サラサラと身をさばくジゼルの褐色の手。男性らしい筋張った武骨さもあるが、長い指は柔らかく動いてゆく。
は、感心深く見つめ、そしてあの平べったく細長い不気味な魚がこうも鮮やかな白身を持っているのかと驚いていた。

「身が少ないから商品向けじゃあないが……味は良い魚だ。見た目がエグくても、食えば案外美味いものが多い。ほら」

スト、と爪楊枝を透き通るほどに白い刺身へと突き刺す。は手を合わせてからそれを受け取り、爪楊枝の先でふるふると揺れる白身をそうっと口へ運ぶ。

「……! ん~ッ美味しい!」

脂っこくなく、さっぱりした身。見た目のエグさから想像もつかない、クセのない淡泊な味と感触。またこの日も、見た目はエグいが味は美味しい魚を、は一つ発掘した。
モグモグと咀嚼するの正面で、ジゼルもしゃがんで刺身を口へ運ぶ。彼の口元も微かに緩まり、「やっぱり捌いたばかりが美味い」と呟いている。
早朝の爽やかな海風を感じながら、海の幸にあやかる。この国では至極普通な光景であるだろうに、その平凡さこそが満ち足りる安堵感でもあるように思う。もぐもぐ、と頬を動かすは、少なくとも幸せであった。

「……それにしても、アンタ魚市によく来る気になるな」

ジゼルが、不意に呟いた。は最後の一枚を食べると、彼の鋭い目を見つめ返し、「変ですか?」と首を傾げる。

「女は、あまり来たがらないだろう。魚市なんて」
「まあ、そうですけど……私はわりと平気ですよ。実家が田舎で、子どもの頃遊び場所がなくて港で走り回ってたもので」

周りに何も無い上に、目立った観光ポイントでもなく、こじんまりとした街があるくらいの孤島……エルド諸島。
とりあえずその辺の野道やだだっ広い海しか遊び場が無かった、幼少期の賜物かもしれない。取り立てて好んでいるわけではないけれど、苦手な意識はさほど少ない。
がごく自然にそう告げれば、ジゼルは「はあー……」と不思議そうに声を漏らした。そんなに、変だろうか。

「アンタみたいな女、少なくとも漁師仲間の奥さんくらいにしか居ないと思っていた」
「一人暮らしの懐に優しいなら、私は何処にでも行きますよ。それに、都会の空気に慣れていく良い機会ですし」
「……都会、か……?」

ザバーン、と特に風流もなく打ち寄せる波の音と、賑やかなざわつき、そして冷たい空気と魚介類の咽せ返る匂い。その上、男女二人で地べたにしゃがみ込んだこの光景に、都会どころか雰囲気もあったものじゃあないと、確かにも思ってしまったが。
しばし不思議そうにするジゼルへ、は「都会ですとも!」と強く言い笑う。彼女に釣られるように、ジゼルのまなじりがふっと緩んだ。

「……まあ、アンタみたいなのが居るなら、面白いか」

その時、ジゼルが普段浮かべている愛想の良いとは言えない仏頂面が、の前で笑みをこぼした。海風に揺れた黒髪の向こうで、切れ長な金色の瞳が穏やかに細められ、への字に曲がっている口角も自然に上がっている。
普段から、そういえば笑った表情など見た記憶がない……もしかしたら、今初めて、その表情を目撃したのだろうか。
はしばし呆気に捕らわれたが、彼女の目の前のその表情も「何だ」と直ぐキリリと戻ってしまった。は首を横へ振ると、にこりと笑って「ご馳走様でした」と両手を合わせた。
笑った顔なんて珍しい、なんて言った日には、不機嫌になる事間違いないだろう。

「それにしても、やっぱり漁師さんは詳しいですね」
「……職業柄、な。別に、自慢にはならない」
「……ふふ、そうですが。そういえば、こっちに来てからずっと仕事ばっかりだったなあ、そういう事だって全然知らないや」

そう呟くと、ジゼルがふと口を挟む。

「……アンタ、何処出身って言ったっけか」
「え? ああ、エルドですよ。そういえば、話して無かったですね」
「エルド……エルド諸島か、またずいぶん遠いな」
「初級事務官の試験に、運良く受かって。それでこっちに」
「へえ……」

は、座り込んで三角座りになった膝の上に、肘を立てて頬杖をつくと漁船の向こうの海を見つめる。

「……小さい頃は、よく近所の漁師さんが船に乗せてくれたし。まさに孤島って感じだったけど、今思うと良い場所だったなあ、なんて思います」

船に乗せて貰って、近海を走ってくれた。はしゃぎ過ぎて、船酔いで早々にダウンしたけれど。
何だか懐かしい、話していたらまた乗りたくなる。

停泊する船が並び漂う、朝方の白い海。
子どもの頃から見慣れて、海風にも慣れていたはずなのに、不思議な懐かしさ。思いのほか、事務仕事に熱心になっていたのかもしれない。それか、少しホームシックにでもなったか……。
船で数十時間掛かるけれど、決して戻れない距離ではない生まれた島なのに……。
ふわ、と揺れたの髪が、頬を撫でる。彼女の白い横顔を、ジゼルが見つめていた事には気付かず、しばし海原の姿に視線を送っていた。



―――― 柔らかい光が、白く注ぐ中心島の朝。
王宮の広大な敷地内の最初の入り口である、巨大な外門を潜ってゆく役人たちは、皆朗らかに声を掛け合った。や、今日も宜しく。良い天気だな。そんな何気ない会話も目映い、この景色の中。
暗く淀むオーラを纏う、いかにも幸薄い人物が一人。である。トボトボ、いやズルズルと、あまりにも億劫な歩み。衛兵の瞳も、思わずギョッと怪訝に歪む。
爽やかな早朝には不釣り合いな、非常に縁起の悪い光景である。
だが、彼女本人はとてもそれどころではなくて。

……結局考えても、それらしい答えが見つからなかった。

そういえば、と思い出すところでもないが、は恋愛初心者。残念な事にこの年まで全く色恋沙汰に出会った事はなく、考えたところで上手い言葉も出るわけでもない。
何について。先日の、ジゼルからの突然の交際申し込みについてである。
今も脳裏に過ぎる、彼の姿。海の国の漁師に相応しい褐色の肌をした身体は、荒作業に揉まれ鍛えられ、二十代半ばほどにしては逞しくそれでいてしなやか。タンクトップとカーゴパンツというラフな格好が、何だか不思議と似合っていて。初対面から、無愛想な表情をしていた顔。ざんばらな短い黒髪が潮風に揺れ、切れ長な金色の瞳とピクリとも動かない口元は、張りつめた冷たさすらも漂わせた。それでいて、他人に対し素っ気ない言動と裏腹に、根っこは優しい。
不器用な、とても不器用な、彼。

―――― 急にこんなところで、悪かったが

そう一言挟んで。

―――― 返事は、今じゃなくても良いから

珍しく、緊張に強ばった声は、呆然としていたを気遣っていた。
そんな人物へ、いつまでもグズグズしていては悪いだろう。とて、そうは思っているのだ。ただ、何をどう伝えるべきか……。ジゼルの事は、嫌いではない。むしろ、何だかんだを気にかけてくれて好意はある。それが異性的な意味か否か、今一つはっきりとはしないが、ただ、彼の申し出を聞いて嫌悪はなく――――。

「びっくりした、ていうか……」
「何が?」
「ギャァ!!」

唐突に割り込む、女の声。しかも耳元で。の口から、女とは思えない色気のない悲鳴が飛び出した。驚いたあまり前につんのめり、脚がもたつく。が振り返ると、美人と評判の友人がケタケタ笑って佇んでいた。ラナである。
「い、今こそ、びっくりした……」肩を落とすに対し、ラナは口では謝って見せているが、別に悪いとも思っていないようで楽しそうな眼差しをしている。これだから、友人が大好きだ。

「声かけてんのに、ったら少しも気付かないから。何よ朝から、辛気くさい。便秘? それとも、生理二日目?」
「ラナ、一応ここ、人が通ってるからね……」

現に、眼差しが背や肩、頬に突き刺さる。
……本当に、何で彼女が、初級事務の影のマドンナなんて言われているのだろう。こんなに、バサバサ物を言うのに。世の中、不思議である。
けれど、ラナはやはり懲りた様子も無くとびきり綺麗な顔で笑ったまま、「まあ、ほら、行きがてら話してみなよ」とへ告げた。高く結い上げた、ラナの豊かな亜麻色の髪が泳ぐ。陽の光が似合う、小麦色の肌。事務制服が、豪奢な衣装のように裾をはためかせた。
は頷き、ラナの隣へ並び合い、足を進める。二つ分の足音が、赤煉瓦の敷き詰めた道に響く。

「そういや、前にアンタが言ってた、例の漁師さん? どうなったの」
「あーっと……まあ……」
「いつだったっけ、一週間くらい前? 休みの日の、魚市って言ってたしね。で、どうなの?」
「その事でまだ、悩んでいるというか」

がモゴモゴと告げると、ラナの目が真ん丸に見開く。「アンタ、まだ考えてたの」
だって、そんな適当に返事しちゃ駄目じゃない。そう返すと、ラナは何処か感心したように息を吐き出す。

「……アンタ、本当、真面目よね。それが良いところだけど」
「ちょっと、どういう意味よ」
「いやー、むしろ私が今感心してんのは、その相手の漁師さんね」

ポリポリ、とラナは自らの首を指で掻く。
何故そこで、ジゼルが出てくるのか。が不思議がると、ラナは「全くもう」と肩を落とす。

「だって、一週間よ? 一週間も待ち続けるなんて相当でしょ、私だったら返事が気になって頭掻きむしるわ」

あ、とはようやく気付いた。

「その漁師さんとやらがどういう人か知らないけど、普通に考えたって、気になるじゃない。付き合って下さいって言って、何の音沙汰もなければ『嫌われたかもしれない』って思い始めるだろうし、私だったら小言の一つは漏らすわ! あんの野郎、ってね!」
「そ、そっか……そう、だよね」

真剣に考えるあまり、ジゼル本人の気持ちまで及ばなかった。あれから気まずくなって魚市にも出向いていない。いくら、返事はいつでも良いと言ってくれた、見た目に寄らず優しい彼とて、今頃……ラナの言う通りに、自分を待っているのだろうか。はふと思い浮かべ、口を閉ざす。
そんな彼女を横目にチラッと見て、ラナは「ともかく」と声音を改める。

「真面目なのは、アンタの良いところ。もう十分に考えたでしょ、そろそろ返事してあげな」
「う、うん……でも……」
「まだ、よく分からない? 相手が好きかどうか」

……あっけらかんとしてはいるが、ラナはの事をよく見ている。
戸惑いが色濃いの横顔をじっと見て、それから色づいた唇を開いた。

「……別に、付き合い始めが必ず両想いでなければならないとか、無いと思うのよね。私。
だって友達だってそうでしょ、初対面からそうなるわけじゃないし。話して、お互いを知って、それから好き嫌いの判断もあって『友達』ってなるだろうし。恋人だって、そうじゃないかなあ。時間をかけるものだと思うのよね、私としては」
「……そ、うかな」
「そうそう。ねえ、ってさ、その漁師さんの事嫌いなの?」

いきなり的をつつく言葉で尋ねられ、は口ごもる。けれど、よく考えてみても、嫌いではなくて。

「人として……好きだよ、あの人」

ぶっきらぼうで、無愛想で、仏頂面の漁師。そのくせ、言葉の悪さに反して他人を気遣う優しい、不器用な性格だ。でなければ、ド素人のにわざわざ時間を割いて魚を捌いて見せたり、魚市の道案内を毎回してはくれないだろう。
そこは、は迷い無く、思っているところだ。彼は、ジゼルは、外見と不器用な性格で損をしてしまう人物だ、と。
はっきりと告げたに、ラナは満足そうに微笑む。女でさえ胸が高鳴る、とびきり綺麗な笑顔。

「ね。なら、良いんじゃないかな」

やっぱりこの友人が大好きだと、は改めて思った。



その日、は仕事を定時で終えて着替えを済ませるや、普段は真っ直ぐと帰る足を別方向へ向け進ませていた。
夕暮れの茜色が、やけに眩しく海の国の街並みを照らし出す。覚悟を決めて、海原が広がる沿岸部にまで来たものの、漁船が停泊する港を見ると……なんだか早くも帰りたくなってくる。叫んでしまいたくなる衝動を抑え、港に向かう。多くの漁船が集まり、また同時に魚市が開かれる、あの馴染みの港へと。

……自分で来ておきながらだが、ジゼルが居なければ良いな。

などとは気弱に思いつつ、賑やかな声と汽笛の音色に近づいていった。

そういえば、いつもはカゴを引っ提げて魚市目的でやって来るけれど、漁業目的で開かれる港は、初めて見たかもしれない。確か、カリフォスの中心島は、別沿岸部に巨大な交易船収容目的の港がもう一つあると小耳に挟んだ事がある。そこは一般人がほいほい入れる所では無く、それこそ関係者だけの領域だ。
魚市が開かれるほど、一般市民に開放的なこの港だが……やはり、入りづらい。
実家のあるエルド諸島の記憶を引っ張り出す限り、漁師というのは狙う魚の種類や穫る場所なんかで、海に出る時間も時期もかなり変動がある。朝早く出掛ける人も居れば、夕方から働く人も居るとか。ジゼルはどうなのだろう、漁師である事以外を知らなかったが、彼は居るのだろうか。魚市が開かれる時にやって来た方が、まだ良かったかもしれない。は早速後悔し、どうすべきか遠巻きに窺っていた。

「―――― アンタ、何か用かい?」

そう声を掛けられたのは、直ぐの事であった。あっとが振り返ると、束ねた網を担ぐ人間の男性が気さくな笑みを浮かべ見下ろしていた。
邪魔になっただろうかと謝ったが、男性は気にする様子もなく首を振る。

「別に構わねえさ。色んな奴がわりと自由に出入りしてるし。ただ、アンタみたいな若い子は珍しいけど……何の用だった?」
「えっと……その、此処に居る漁師さんに、少し」
「漁師? まあ漁師だらけだけど、誰だい」
「ジゼルさん、なんですが」

が、名を告げた途端に。
目の前の男性が「え、アイツ?!」と表情を一転させた。心より驚いたと言わんばかりの、その表情。も一緒になって驚いてしまった。

「あ、いや、わりぃ。まさかアイツに用がある子なんて、珍しいからつい……って事は、アンタ、あれか。ジゼルの彼女さんか」
「え、あ、いえ、違います!」
「何だ違うのか。てっきり、あの仏頂面にも色恋が……」

言い掛けて、男性はふとを見つめる。何かを思い出したように考え始めた男性の前で、は立ち尽くし首を傾げる。

「あーアンタ、市場の日にはジゼルの隣に居た子か」
「えッ?!」
「あっはっは、話のタネだぞ、あの光景は。『ジゼルの奴が、まともに女子と話してる!』ってな」

あーなるほど、へー。男性は勝手に話を進めて、自己完結する。
ただとしては、あの恒例風景が周囲の目に留まっていたのかと知ってしまい、妙に恥ずかしくなる。俯き加減で佇んでいると、男性は「おっと悪い」と謝った。悪戯な、けれど清々しくて決して不快にならない笑み。友人の、ラナを思い出した。

「ともかく、ジゼルの奴に用があンだな。ついてきな、連れてってやるよ」
「は、はい、ありがとうございます」

歩き出した男性を追いかけ、も足を動かした。
普段は魚市が開かれる時にだけ踏み入れていた巨大倉庫の中は、漁業関係者と思われる人々が行き交っている。魚市のような、人と人のせめぎ合いはないけれど、それでも十分な多さだ。響く声も、身体に伝わってくる。

「あ、あの、一般人が入っても、大丈夫でしょうか」
「はは、さっきも言ったろ、色んな奴が出入りしてるって。さすがに一人で突撃されたら困るけど、適当な奴に声を掛けて貰えればわりと平気だ。
それにしたって、あのジゼルに用があるなんて……本当珍しいな」

……それはどういう意味なのだろうか、ともは思ったけれど、あえて口にはしなかった。

「さて、ジゼルの奴は何処に行ったかな。アイツは今の時間、もう海には出ないだろうし……その辺に居ると思うんだけどなあ」

しばしの間きょろりと見渡した後、男性は「おっ」と声を漏らす。ゆったりと進んでいた足が小走りになり、太い腕を高く上げた。その後ろを、も慌てて追いかける。

「おーいジゼルー! ジーゼールー! お前に可愛いお客さーん!」

賑やかな倉庫内でも、それはそれはよく響き渡る声であった。
探し人を名指しで、しかも多くの人々が行き交う中で呼ばれて。そこまで豪快に呼び出してくれるとは、思っていなかったものだから、は胸中で叫ぶ。悲鳴が出なかっただけ大したものであるが、その瞬間からの全身には一斉に集まった視線が突き刺さった。むず痒い恥ずかしさが、足下から這い上がってくるようだった。(彼女が此処にやって来た理由も、少なからずあるだろう)大した効果も無いのに、こそこそと男性の背に隠れるように移動する。

開け放たれているシャッターの向こう側には、停泊する船と穏やかに揺れる茜色の海に面しており。十人ほどの関係者が、各々休憩しているようであった。だが、男性が大らかに叫んだおかげで、その眼差しが全て集まるのをも見て分かった。逃げ出したくなって一層縮こまるが、そんな彼女に対し、男性は良かれと思ったのか、二の腕を掴み引っ張り出して隣に立たせてくれる。それこそ、の爪先が勢い余って空足を踏むくらいに。
わっと声を漏らす彼女の前に、漁業関係者たちの、驚いたような不思議そうな眼差しが、一斉に向けられる。
……何だか、泣きたくなってきたぞ。

「ほら、ジゼルはそこだぞ」

清々しい笑みが、頭上にある。複雑な気分になりながらも、は勇気を振り絞って顔を上げた。が、きょとりとする人々の中に、が思い浮かべたジゼルの顔は無く。
「あれ……?!」と目を剥いているを余所に、休憩していた人々は一斉に驚いた声を漏らす。

「マジかよ、ジゼルに女子のお客さん?!」
「お前いつの間に……って、あれあの子、いつも魚市の日にジゼルの隣に居た……」
「あーそういう事かー。何だお前、最近調子悪かったのって……へー」

飛び交う言葉は、の耳には今は入らなかった。
え、一体何処にジゼルさんが。あの褐色の肌と黒髪をした仏頂面の男性は、一向にの視界へは入ってこない。
懸命に姿を探す、その時だ。大柄な影が、勢いよく立ち上がった。微笑ましく笑う面々の中、その人物だけは酷く驚いて、狼狽しているようだった。を真っ直ぐに見つめ、言葉を無くしている。
が、同時にもまた、すっかり言葉を無くしていた。

と、いうか、あれは……。

パチパチ、と何度も瞬きをする。立ち上がったその影は……人間ではなく、水棲の獣人――魚人であった。
二メートルは優に超えているであろう、非常に恵まれた長身。肩幅もあり、胸も厚く、筋肉質でしなかやかな肉体は、人間の男性とも比べるべくもない屈強なものだった。少し長い腕は太く、海で生きてきた彼らの特徴でもあるヒレが肘から鋭く延びている。当然、の腕よりも、ずっと何倍も逞しい。がっしりとした腰の後ろには、魚人の特徴でもある尾ビレが生えている。力強く水を切るヒレも、今は海風を撫でていた。
獣人と人間が友好的に暮らすこの海の国では、彼ら――魚人もまた、珍しい存在ではなく。むしろ、往々に見られる。も、別に特別視はしていない。だが、彼女が驚いていたのは、その容姿。
人間と同じように二本足で立つその人物は、顔はシャチのそれと同じで、体色もまた同じ黒と白のツートンカラー。露わになっている上半身は少し猫背になっており、その背には立派な三角の背ビレが生えていた。
海原に君臨するあのシャチを、そのまま立ち上がらせた姿。目の前に佇んだ屈強なシャチの魚人を、はびっくりして、ただただ見つめていた。

というのも、魚人に驚いたのではなくて。

恐らく、この魚人は……。

「―――― ジゼル、さん?」

だって、見覚えのあるシルバーチェーンが、太い首に下がっている。あの、カーゴパンツも。

が、小さく呟く。シャチの魚人は、その声にハッとなって意識を戻すと顎を開いた。ズラリ、と生え揃った鋭い牙が覗く。けれど自らの身体を見下ろすと、その顎を閉ざし、クルリと背を向けるや何かを探し始める。
幾つもの視線が、だけでなくシャチの魚人にも集まる。
彼は、転がっていたホースを大きな手でわし掴みにすると、それを辿って水道のもとへ駆け足で向かう。蛇口を捻り取らんばかりの仕草で一気に解放すると、ホースの先から勢い良すぎるほどに吹き出す真水を頭からかぶり始めた。カーゴパンツが濡れるのも厭わずに。
ぽかん、と驚いたままのの隣で。案内をしてくれた男性が、やけに楽しそうに笑っていた。広い肩をくつくつと震わせ、おかしそうに口角を上げる。

「別に気にする事じゃねえだろ、お前」
「―――― うるせえよ」

聞き慣れた無愛想気味な声が、耳へと届いた。
が見つめる中、真水を浴びる屈強なシャチの魚人の姿が、次第に変わり始める。全体的に体格が小さく萎み、あの白と黒の体色と滑らかな表皮が褐色の肌へと変化してゆく。腕と背中に伸びた立派なヒレは無くなり、人間の男性と同じ筋張った肉体になる。まるで、動画の一つを流しているような、現実味のない不思議な感覚だった。
筋張った褐色の手が、ギュッと蛇口を捻り止める。屈んでいた身体を伸ばした魚人は、既に人間と同じ姿をしていた。パタパタ、と雫が滴り続ける黒髪をかき上げれば、精悍な横顔がの前に現れる。乱暴に水を払い、切れ長な金色の瞳が開かれる。額から頬、首筋へと伝い落ちる雫の軌跡をそのままに、を見つめた。
彼女の記憶にもある、あの漁師のジゼルがそこにいた。
けれど、少し怖いと、思った。

(……怒ってる、よね)

冗談なく、機嫌が悪い。突然足を運んだ事と、一週間も音沙汰無かった事の、二重の意味できっと怒っているに違いない。
はそう思って、表情を曇らせる。覚悟なんて決めるもんじゃない、と彼女が後悔にかられていると。
状況に居合わせていた人々は、そんなを知ってか知らずか、変わらず笑い続けている。

「そこまで気にするなよ、ほら、お客さん驚いてるじゃねえか」
「ッ別に、」
「お前本当、分かりづらいな……度が過ぎた照れ隠しは嫌われるぞ」

ジゼルは仲間のもとへ戻ると、タオルを引ったくり軽く肌を拭う。剥き出しの上半身に掛けると、ついでに衣服も掴み上げ、ジゼルはのもとへと歩み寄った。隣に立つ男性をやや睨むも、その男性は気にした様子なく肩を揺らして笑う。

「言っとくが、俺は案内しただけだからな。別に手は出してねえぞ、カミさんに怒られるし」
「聞いてねえよ」
「いやお前、顔が聞いてたぞ? あんまおっかない顔してないで、とりあえず、ほら」

男性は、の背を唐突に押した。ひえッと情けなく悲鳴を漏らしたの頭上で、無言なままの金色の瞳が鋭く光っている。
うわああ怖い。
何の目的で此処に来たのか忘れるほどに、は心よりびびっていた。初めて、ジゼルが怖いと思ったのである。だが、つんのめっているの腕を、彼は不機嫌な顔つきに反してそっと掴むや、ぶっきらぼうに短く。

「……場所、変えるぞ」

小さく呟いて、足早に視線の集中砲火から離れる。連れて行かれるはようやくそれを思い出して、再び恥ずかしさに消えてしまいたくなった。
その背には「じゃあなーお嬢ちゃん」「ジゼルを宜しくー」などと、複数の漁業関係者と、案内をしてくれた男性の声が掛けられる。振り返ってペコリと会釈をすると、彼らは清々しい笑みを向けてくれた。面白い人たちだとしばし見ていると、グイッとジゼルに腕を引かれる。その強さに思わず謝りそうになると、見上げた先にあった尖った耳が……赤く、染まっていた。

……あれ?

は不思議に見つめながら、連れて行かれるまま倉庫を離れた。




―――― しばし歩く事、数分。
賑やかな港を遠ざかり、人の居ない漁港沿岸を歩いていた。目映い茜色が真横から照らし出し、二人分の影法師が伸びてゆく。打ち寄せて引いてゆく、小波の音色が、夕暮れの切ない静けさを煽る。
先を歩くジゼルの背を、はぎこちなく見つめて足を進める。どう、声を掛けたものか。先ほどの不機嫌な表情もあって、言葉を探す。沈黙だけが、二人の間を埋め尽くした。タンクトップシャツを着た広い背ばかりが、視界に入る。
薄ぼんやりと、は思考を巡らす。その途端――――先を歩いていたジゼルの足が、突如とし止まる。

「……何しに来た」

おっとっと、と止まったに掛けられた言葉は、思った以上に素っ気なかった。冷たい、強い語尾。それが彼なのだが、先ほどの事もあって今のには重くのし掛かる。
上手く答えられずに形にならない声ばかりをこぼすと、ジゼルの背が振り返る。まだ濡れる黒髪が、海風に揺れて泳ぐ。

「……いや、悪い。そういう事じゃ、ねえんだ」

そろり、と顔を上げる。茜色に染まった精悍な顔ばせが、困ったように歪んでいる。

「別に、アンタを……怒っているとか、そういう事じゃない」

どう告げたら、良いものか。まさに今のと同じ、そんな気持ちが透けて見えた。
そうだった、彼は見た目はやんちゃしているように見えるが、その実とても優しくて、ただもの凄く不器用なだけで……。はジゼルの困惑する横顔を見て、ふっと笑みを浮かべる。まとわりついていた緊張が、解けたようだった。

「……お仲間さんでしたか? さっきの人たちは」
「あ、ああ……まあ、同じ漁師仲間だ」
「そっか……素敵な人たちですね。私みたいな無関係者にも、声を掛けてくれて」

ジゼルの瞳が、に向いた。

「私、ジゼルさんの事全然知らなくて……ごめんなさい、急に来てしまって。迷惑、でしたよね」

小さく笑って見せた。ジゼルの目が、その途端に見開く。

「別に迷惑だなんて、思っていない」
「だって、さっき怖い目をしていたから」
「ッあれ、は……」

ジゼルの頬が強張る。泳ぎ始めた金色の瞳が、普段に無く慌てている事を雄弁に語っている。珍しいなあ、なんて呑気に思っていると、ジゼルは大きく溜息をつき、その場にしゃがんだ。ズルズルと、まるで力が抜けきってしまったように。折り曲げた膝の上に自らの腕を立て、クシャリと前髪を掻く。
も彼に近寄ると、ほんの少しの距離を置き、同じようにしゃがんだ。右隣から、ジゼルを窺う。

「……あんま、人には、見せたくねえんだ」

そう告げたジゼルの声は、いつになく沈んでいる。覇気がなく、海風にそのまま乗せられ、飛んでいってしまいそうな。
「え?」首を傾げたに、ジゼルの目がじとりと向いた。

「さっきの、あれ」
「あれ、って言うと……」
「……シャチの、あれ」

の脳裏に、浮かぶシャチの魚人の姿。長身で、屈強な身体つきの、あの大きな魚人の姿。
ジゼルは以前、へ告げている。自分はシャチの亜人であるという事を。ただ、その姿を見たのはも初めてで。

「……亜人ってのは、普段は人間に近い性質が表に出ている種族なんだが。一部分に獣の要素のある、奴らとかな。その姿のまんまの奴らも居れば、俺みたいに……本来の獣の部分が裏側から出てくるのも居る」
「裏側……?」
「……家族とか同じ魚人から、小さい頃に聞いた。大昔の祖先が、海だけで生きていた頃の名残らしい。進化を重ねて陸地で生きるようになっても、身体が海水を覚えてる。浴びれば、あの姿になる」

はあ、と。再び、重く溜息をつく。
それの何が気落ちするのか、今一つには分からなかったが、その後に続いたジゼルの言葉にようやく合点がついた。

「普段は人間に近いけど、どちらかと言えばあっちの魚人姿の方が、本当の俺でもある。漁師仲間は良いんだが、知らない奴はほとんどが驚く」
「あ……」

は、声を漏らした。人間であるには分からないが、彼らには彼らの……葛藤があるらしい。魚人の姿を見せたくない、というのは、きっとジゼルの処世術なのだろう。幾らカリフォスが、獣人や魚人、人間の種族の壁が無くとも、異種族である事には変わらないのだ。互いに。

「……あとは、個人的に」
「え?」
「個人的に、アンタには見られたく無かった」

そう呟いたジゼルの顔が、へと向いた。その鋭さに、ドキリとは胸を震わす。その先を、ジゼルは告げなかった。

「……で、俺に用って?」
「え……あッ」

そう振られ、は思い出した。今の今まで忘れていた。
先日の件の、返事。
覚悟を決めてきた心だったが、間を置いて、しかも忘れてしまって、すっかりゼロに戻っていた。

「あ、の……えっと、その……」

顔が、熱くなる。絶対に返事をしよう、しなければ、そう思っていたというのに。ジゼル本人を前にしたら、尻込みしてしまう。

「……いや、何となく、分かってるんだけどな」

呟いたジゼルの声は、少しだけ笑っていた。いや、限りなく苦笑いに近い。もしくは、誤魔化し。の見つめた先で、彼は困ったように眉を寄せている。不器用げな、不格好な仕草。それが妙に、ジゼルに似合う。

「……今じゃなくて、良い。急いではいないから」
「ジゼルさん……」
「よく考えてくれてからで、構わない」

不器用にも、そう言って。は、申し訳ないような恥ずかしいような気分になる。

「……なんて、な」
「え?」
「返事を待ってるくせに、聞きたいような気もするし、聞きたくないような気もする。……多分、俺の方が、返事を聞く覚悟がねえんだろうな」

彼はそう言い切って、立ち上がった。困惑するの前に、ジゼルの手が差し出される。褐色の肌色の、大きな手のひら。長い五本の指の先が、へと向いている。
男性そのものの、筋張った褐色の手をしばし見つめ、それからジゼルを見上げた。ぎこちなくそうっと伸ばした手を重ねると、ギュッとのそれを握り返し、彼は立ち上がらせた。

「……後で、思い切り笑ってくれて構わない」

そう言ったジゼルの手は、らしくもなく、微かに震えていた。
緊張か、それとも別の感情によるものか。きっとの手も、震えていただろう。



ジゼルは再び、港へと戻るらしい。を、住宅街へと続く大通りの手前にまで見送ると、素っ気なく、けれどうっすらぎこちなく笑い、背を向けた。
大きな道路を渡って行ったジゼルの姿が、その向こうへと遠ざかる。砂浜へと続く階段を降りて、茜色に染まる港の巨大倉庫へと進む。しばらくそれを見つめていただったのだけれど、そのまま踵を返して家路には……つかなかった。

ほら、ジゼルは見た目によらず、良い人だ。最初に会った時から、そうだった。今もそう思う。

は、自らの手のひらを見下ろす。やけに熱い、震えた感触が残っている。それを包むように、手のひらを窄めて握りしめる。彼自身が言う、本来の姿であるというシャチの魚人の姿でも……あれほど、温かいのだろうか。

不器用げに緩めたジゼルの笑みが、不意に過ぎる。

今朝から、ずっと考え、そして構築した覚悟が、再び形になる。
は、ジゼルの背を再び追いかけて、走り出した。肩に掛けた鞄がやけに重いと感じながら、魚市が開かれる、あの巨大倉庫にまで一直線に向かう。ろくに運動しない身体のものだから、たった数分走っただけで、既に肩が激しく上下した。

「……ん? あれ、アンタさっきの」

またも偶然に見つける、あの案内をしてくれた男性。は息を散らしたまま男性に近付き、「ジゼルさんは?!」と詰め寄った。その勢いに男性は、抱えていた箱を頭上に掲げてたじろぐ。

「え、用事は、まだだったの?」
「はい! ジゼルさんは、どちらに?!」
「あ、アイツなら、多分船のとこじゃないかな……確か、別の奴の助っ人に行くって」

言い終わる前に、は頭を下げて礼をすると、横を過ぎ去り走り抜ける。行き交う人々は呆気に捕らわれ、顔を見合わせて首を傾げあった。男性も「何だったんだ……」と不思議そうに見送ったものの、それから楽しそうに笑って、を追いかけた。

船が一列に、整然と並ぶ風景。その中にジゼルの姿を探してみたが、どうも見当たらない。は肩を上下させたまま、忙しなく窺った。

――――その時。
の視界の片隅で、人影が動いた。

あっと急ぎ見れば、漁船の一つに乗り込む漁業関係者の姿と、ジゼルの姿があった。は追いかけ、息も絶え絶えに名を呼んだ。

「ジ、ジゼルさん!」

日頃の運動不足を恨めしく思いながら、腹の底から。恐らくその時の声は、あの案内をしてくれた男性並によく響いたのだろうが、今のはそこまで考えが今及んでいない。何度も情けない息を漏らし、漁船に近づく。
だがの努力も虚しく、ボオオ、と汽笛の音が鳴り響く。
別の意味で、口から悲鳴が出る。たかが知れる程度でも速度を上げ、半ば飛び込むように漁船を覗き込んだ。樽や網などを積み込んだ甲板で、それはもうこれでもかと驚いた顔のジゼルが中腰体勢のまま固まっていた。そりゃ送ってきた相手がいきなり出戻りしてくれば、そうもなるだろう。

……どうし、」
「言っていない事があったので、それを伝えに!」

ぜえ、ぜえ、と息が上がったまま、勢い込んで言い放つ。ジゼルの仏頂面が、微かに強張る。
漁船が動き出す手前の、激しい駆動音が鳴り続ける。

「あのですね、私、別に」

はあ、と大きく息を吐き出して。飛び跳ねる心臓を、必死に押さえつける。

「ジゼルさんのさっきの、シャチの魚人の姿……怖いなんて、思っていないですから!」

眼下でジゼルが、金色の瞳を見開かせた。それをも認知しながら、震える声で続ける。

「は、初めて見て、別の姿を見て、驚いただけです。本当に。でもジゼルさんがどっちの姿でも、全然、怖くないです」
「いや、おま……」
「どっちの姿でも、ジゼルさんだって、ちゃんと覚えましたから」

ジゼルが、はっきりと分かるほどに、狼狽えている。
「いやお前、ここでそれを言うか普通!」と叫ばれた時、もようやく「あ」と思い出す。

……この場所が、人目のある港であるという事を。

周囲から、突き刺さるがごとくの眼差しが、全身に覚える。不思議そうに、もしくは面白がっている人々の中には、見れば案内をしてくた男性までも混じっていた。冷静になって思うと、羞恥を極めた状況とはこういう事を言うのだろうと後になって理解する。あのジゼルも、普段の冷静さを消し去って慌てるのも当然である。

「め、迷惑だとは……今まさに思ってますけど……」
「いや、だから……ッ違うだろ、そうじゃなくて、おま、」

整ったジゼルの顔ばせが、赤く歪む。とその時、もう一人乗っていたのだろうう、気付いていないらしくで「ジゼル、出発するからなー」と呑気に告げて。
漁船が、ついにゆっくりと動き始めた。
これはこれで映画のような演出であるけれど、当のとジゼルはギョッと目を剥いて。

「ちょ、おい! 今動くな、停まれ! 停まれって言ってんだろが!

背を向け、ジゼルが操縦者のもとへと喧嘩腰に翻る。
だが、船の速度では緩慢であっても、遠ざかる距離は大きい。もう既に、船は数メートルも先行している。さすがにこの場所から追いかけるわけにもいかないので、はしばし考える。
周囲の目が次第に、「まさか」「もしかして」とにわかに色めいてゆく。さざめいた声が、大きくなる。

ええい、どうにでもなれ!

今逃したら、確実にこの覚悟は消えて復活しない。は震えた身体を叩きつけ、息を吸い込んだ。

「ジゼルさーん!」

甲板に、再びジゼルが現れる。辛うじて、の耳にも彼の声は届く。きっと、この声も彼に聞こえているだろうと、は思って。

「こないだの、ジゼルさんから言われた、お付き合いの件ですけれどもー!」

ざわり、と周囲の声で空気が震えた。ところどころから、「え、あのジゼルが?」などと聞こえる。
申し訳ない事に、ついでに公で先の件――――ジゼルからの交際申し込みの件も、明かしてしまった。
その瞬間、遠目でもはっきりと分かるほどに。当のジゼルは激しく狼狽えていた。「馬鹿野郎、だから、それは今言う事じゃ」と叫んでいるように思う。
ついでに操縦席から、何事かとようやく別の漁業者が出てきた。「え、何、どうした」「うるせえ、今すぐ船を戻せ」と言い合っている、ような気がするが定かでない。
漁船はようやく留まり、穏やかな海の上で心地よさそうにゆらゆら揺れているが。とジゼルの間では、止まるべきものを見失ってしまっており。
恥を忍び、は息を吸い込む。


「先の件ですけれど――――」

頬が、これでもかというくらいに熱い。頭から、爪先まで、緊張で今も震えている。
けれど、不思議と。あの悩み抜いていた心が、嘘みたいに軽い。

それはきっと、先ほどのジゼルの、らしくもなく怯えた様子があるからだろう。が悩む通りに、ジゼルもまたこの空白の時間で、真剣に待ち、考え、精一杯に言葉にしたのだろう。


「まだ、ジゼルさんの事、全然……し、知らないので」


だから、今度は。


「す、少しずつ、ジゼルさんを知るところから、お、お願いしますー!」


―――― 声に出すのは、私の番だ。


言い切り、はどっと肩で息をした。
港に、不自然なほどの無音の静寂が、満ちてゆく。けれど、その数秒後――何故か、歓喜の拍手喝采がわき起こった。
どうにでもなれと諦めたには、もう怖いものはない。あるとすれば、ジゼルの反応であるが。



「……は……?」




甲板で、呆然としていた。
驚き等の感情を通り越して、素の顔になっている。

「だッだから! お付き合い、よろしくお願いしますー!」

やけくそになって、が告げると。
その後のジゼルの行動は、予想以上に早かった。
隣にいた同業者を勢いよく張り倒すと(どういう理由かは不明である)、甲板の縁に長い足を掛け海面へと飛沫を立て飛び込んだ。浮かび上がる黒い影が、猛スピードでのもとへと向かってくる。穏やかな波を切る黒い背ビレが、一度静かに沈み込み。
その後、激しい音を立て、大きなシャチが飛沫を纏い飛び上がった。
思わず尻餅をついたの前に、片腕をついてシャチの魚人が着地する。体積の増量変化に耐えきれなかったのだろう、先ほどまで着ていたはずのタンクトップシャツが何処にも見当たらない。筋肉質な上半身が全て露わになっており、厚い胸や割れた腹部が惜しみなく晒されている。
夕暮れの明かりがの視界から遮られ、代わりに黒い影が覆い被さる。恐る恐る、伏せた顔を上げる。の視線が、目の前のシャチの瞳――彼の金色の瞳とぶつかる。

その刹那、大きなシャチの顔が、容赦なく頭突きをかましてきた。

ゴッと鈍い音が、辺りに響く。仰け反ったが痛みで呻くのも無視して、シャチの顎がゆったりと押し開いた。覗く鋭い牙が、ガチガチと鳴る。

「おい、これはあれか、何かの罰ゲームか。それとも、俺に対して恨みでもあるのか」
「べ、べひゅに、ちが……ッ」
「この阿呆、人前で、とんでもない事叫びやがって」

ぐいぐいと、頬肉を掴まれ引っ張られる。大きな、滑らかな黒い手。人間とは違う、魚人の表皮の感触。
けれど――――。

「……馬鹿だろう、アンタ。心臓が、止まるかと思った」

鋭い牙の生え揃う顎が開いて、あのぶっきらぼうな声がこぼれた。
正面から、再びそのシャチの顔を寄せた。容赦のない頭突きではなく、ぎこちなくすり寄るように、額を重ね合わせる。ジゼルの全身を包む海水が、にも落ちてくる。冷たい、塩辛い水。それを纏うシャチの顔が、笑っているように見えたのは、気のせいだろうか。
の身体よりも、遙かに大きく屈強な魚人の身体が、目の前でに合わせ縮こまる。

海水で濡れた彼の大きな身体は、温かかった。

それを小さな手で触れ、知った彼女は、濡れた顔に笑みを綻ばせ。シャチの漁師であり異性である彼へ初めて、身を寄せた。

「よろしく、お願いします」

彼の耳にだけ届く程度の、小さな声でもう一度呟くと。
クルル、と喉を鳴らしたシャチの彼は、掠れて消えそうな声で。

「……こっちこそ」

やっぱりぶっきらぼうに短く、告げた。


多くの人々の視線が集まり、よく分からないまま祝福し歓喜する関係者たち。うみねこの甲高い鳴声も、それらの声にはさすがに適わずに遠くへと逃げてゆく。
この後しばらくの間は、このとんでもない場面が漁業関係者たちの間にて「あの無愛想なジゼルが彼女を一本釣りした」などともっぱら語られるようになってしまうのだが。

――――それはまた、別の話である。

人間と亜人、異種族の同士のカップルが今まさに成立し。
カリフォスの美しい夕暮れの海原は、彼らに祝福あれと穏やかに凪いでいた。



――――正真正銘のクールなキャラで居て欲しい。
それは儚い願望になってしまいました。クールさとはほど遠い。ギャグ担当に、この日を持って命名致します。

ジゼルの話を書くに辺り、実は最初からこんな場面が頭か離れなかったんです。公に叫ぶ交際の返答。ジゼル、きっとこの後状況を思い出して憤死しそうになってると良い。
クールなキャラほどいじり回したくなる不思議。
ちなみに人間の姿の彼と、シャチ魚人の姿の彼、お客様はどちらがお好きでしょうか。
そして尻尾隊長の人気に追いつけるか。(結構これ大事)

実はジゼルの魚人姿、隊長よりも身長や体格もデカくてかなり筋肉質な設定です。シャチだもの。

(お題借用:as far as I know 様)

2013.04.19