伝わらないのは、貴方だけ

――――この顔を見れば、おおよそどんな事態に見舞われていたのか、想像がついた。
さすがのであっても、だ。

てんやわんやの夕暮れの漁港で、大々的な交際宣言をしたあの日から、数日が経過し。今日という休日、久しぶりに貸し出し自由の自転車を走らせ、手持ち篭を持って悠々と魚市に足を運んだであったが。
まず彼女を出迎えたのは、漁業関係者と思しき人々からの、熱烈な歓迎だった。「お、あのジゼルの彼女だな!」「彼女さん、恋人価格で安くするよ!」などなど、気付けば至るところから謎の彼女コールが巻き起こっていた。それはそうか、勢いで返答した場所があんな人が大勢居る場所だったのだから。おかげで顔までしっかり覚えられ、邪気のない陽気な笑顔を向けられている。はどう返せば良いか分からず、曖昧な苦笑いをこぼした。
今になって思う、何であんな真似したものか。羞恥心と自らの過ちに死んでしまいそうだったが、関係者方々の様子を見るに……本当に、悪気はないようだ。むしろ、彼らなりの、ちょっと陽気すぎる歓迎なのだろう。

そんな風に、着いて早々に頭を抱えるであったが。
こんな状況を恐らく数日間も味わっていた、この男性の苦悩に比べれば、きっとささやかなものであったのだろう。

熱烈な歓迎を受けながらコソコソと魚市を進むと、ある意味と同じくらいに渦中の人物である、ジゼルが現れた。陽の下が似合う褐色の肌に、無造作に整えた黒髪、ざんばらな前髪の向こうに見える金色の切れ長な眼。しなやかな筋肉に恵まれた体躯は、タンクトップとカーゴパンツを纏って動きやすい身なりをしている。シャチの魚人姿ではなく、人の姿の彼だ。
が、唯一普段と違うといえば、その精悍な顔つきと言おうか。見るからに疲れ果て、眉間のシワも色濃く刻まれた、その面持ち。普段から彼の表情はあまり変化がないだけに、も思わず「うわあ」と引きつるほどである。何故、なんて理由を訊くまでもない。この状況が、その理由である。

「お、本命の登場だな!」
「よッ! 恋の一本釣り漁師!」


……私より、ジゼルさんの方が不憫だ。


のは、まだ陽気な歓迎であると思われる。向けられている笑みは、悪意無く和やかなそれだった。だがジゼルについては、「弄繰り回してやろう」という悪戯心が関係者方々の言葉より透けて見える。
……もしやあれから、ほぼ毎日言われ続けていたのではないだろうか。そう思ったら、何だか申し訳ない気分になってくる。発端を担いでいるのは、他ならぬであるのだから。

「……あの、ジゼルさん、大丈夫ですか……?」

何が、とは言わずとも、察しただろう。ジゼルはの正面で眉間のシワを指で解しながら、「ああ」とだけ呟いた。しかし思う、恐らく大丈夫ではない、と。
あらゆる意味を含んで心配そうに眉を下げたへ、ジゼルは妙に力弱く告げた。

「……周りは、もう良い。気にすんな。で、魚でも買いに来たか」
「はい」
「……そうか」

疲れたような面持ちが、その時ふっと緩んだ。静かに上がった口角に、も安堵の笑みを返す。

「彼女に会えたらその仏頂面も緩むってか! 可愛いとこあるじゃねえかジゼル!」
「さすが、恋の一本釣り漁師は違うな!」

「……本当に大丈夫ですか」
「……正直、あまり」

周囲からわっと響く、無駄に元気な声。
ジゼルが思わず吐露した呟きは、想像以上に精神的ダメージを感じさせるものが滲んでいた。



むせ返るほどの魚介類の匂いがこもった、今は魚市の開かれている巨大倉庫を抜け出すと、潮風が清々しく吹き抜けた。
昔から嗅ぎ慣れているとは言え、特別好んでいるという訳でもない特有の臭いから解放されると、はほっと息をつく。朝から力強い、潮の香り。それに反し、風は涼しく心地良い。
ほっとするの隣には、げんなりと表情を歪めるジゼルの姿がある。

「……くそ、あいつら、いつにも増して喧しい」

忌々しさたっぷりに、低い声が這うように響く。それだけで、彼の身にここ数日間起きていた事が手に取るように分かる。漁港で勤める人々は、きっと、悪い人たちではないのだ……きっと。とは思いながらも、にも苦笑いが浮かんでいた。
その頭上を、朝から賑やかなうみねこの影が、悠々と過ぎ去ってゆく。朝の陽射しに羽ばたく翼が、きらりと輝く。それを仰ぎ見て、とジゼルの足は釣られるようにゆったり歩き始めた。
賑やかな魚市も、離れてしまえば朝方の涼やかな空気が感じ取れる。ゆらゆらと揺れる漁船が整然と並んでいる光景も、今では妙に見慣れた気がしていた。魚市の倉庫から離れても喧騒の余韻はあるが、小波の音はいつ耳にしても不思議な落ち着きを与えてくれる。決して珍しいものではないのだけれど。
ただ、やはり、何となくだが。妙な気恥ずかしさが、にはあった。

(お付き合い、かあ……)

彼女自身でも決めたが、よくよく思ってもこの隣に立つジゼルが世間一般でいう【彼氏】という存在になったのは。何故かこう、くすぐったい。
ふと、横目に彼を見る。朝方の目映い陽の光に、褐色の肌がよく映える。漁師という肉体労働の職業によってだろう、引き締まった筋肉質な腕や肩は同年代のわりにとても恵まれていると思うし、伸びた背丈はすらりとしたシルエットだ。黒髪も金色の目も、何処を見てもと同じ人間であるが、これでいてシャチの魚人姿も持つという亜人なのだから不思議だ。
……色恋に疎い、とんと初心者なでもそれくらい分かる。非常に整った造作の顔立ちと、目を惹く外見。何故、彼は自分を選んだのか、今も疑問である。

「――――なあ」

ぼんやりと見ていたに、ジゼルの声が不意に掛かる。互いの眼差しがバチッとぶつかり、からは上擦った声が出た。

「な、何でしょう」
「いや、な……こないだから、ろくに言えなかったけど」

ジゼルが、を見下ろす。ちらり、と微かに向いた動きはぎこちなさがある。

「その、俺と付き合う事、なんだが」
「あ……はい」
「……どうして、受けようと思ったんだ」

そう尋ねられ、は少しだけ言葉に詰まる。どう言えば良いものか、と悩んでいると、ジゼルは自らの頭の後ろを掻いて続けた。彼の持つ黒髪が、荒っぽく揺れた。

「別に、責めてる訳じゃねえよ。ただ、自分でも分かってるけど俺はこの通りの性格だし、近寄りづらい格好とか空気とか持ってる。漁師仲間からも、今まで散々言われてたしな」

自らをそう認めているジゼルの顔に苦々しさはなく、至って平然。だが、を見下ろす金眼は、困惑が浮かんでいる。
数歩進んだところで、ジゼルは腰を下ろししゃがむ。膝の上に両腕を乗せ伸ばした格好は、タンクトップシャツとカーゴパンツのラフな服装もあって、中々やんちゃしている男性にも見えた。彼の言うように、も頷けるところは正直あったのだが、かといってそれはジゼルの元々の性格と職業柄がほとんどなので、今ではさほど気にしていない。……まあ、最初は確かに怯んだけれど。
は同じように、ジゼルの右隣へいそいそとしゃがんだ。手提げカゴも下ろし、地面へ置く。海上へ伸びる波止場からは、漁港の様子がよく見える。ほとんどが整然と並ぶ漁船であるが。波の穏やかなカリフォスを取り巻く海原も、朝陽を受け煌く。うみねこが風に乗ってゆらゆら飛ぶ姿を頭上に見ながら、は口をそっと開いた。

「そしたら、私も聞きたいんですが」
「何だ」
「ジゼルさんは、どうして私と、その、付き合いたいって言ってくれたんですか?」

途端、ジゼルの動きがビタリと止まる。あれ、とは小首を傾げ、左にいるジゼルを覗き込もうと近付く。が、顔を背けられてしまった。尖った耳の裏と、黒髪しか見えない。

「ジゼルさん?」
「ッ理由なんて、お前……ッそ、それは」

尖った声が、珍しく狼狽し震える。もごもごと声を濁し、終盤は言語すら不明だ。こっち向いてよーねー、とばかりには何とかジゼルの顔を見ようとヒョイヒョイ覗き込もうとする。だが「うわ、止めろ馬鹿ッ」ジゼルの腕が伸び、の頭はがしりと掴まれる。荒仕事を普段する、ゴツゴツした大きな手のひらと五本の指の圧力に阻まれ、はそれ以上動けず頭を引っ込めた。仕方無さそうに頬杖をついた彼の顔が、やけに赤かった事にはその時気付く。

「ジゼルさん、赤いですよ」
「ッいちいち言わんで良い……誰のせいだと」
「え、私ですか」
「お前な……ッチ、それは良いから、質問の返事」

ジゼルの手が、の頭から離れる。吹き上げる潮風に、くしゃりと跳ねた髪が撫でられる。
ジゼルは不機嫌そうに顰めた顔をしているが、あまり怖く感じないのはもジゼルという男性に慣れてきたからだろうか。
横目に見てくる彼は静かに待っているので、それ以上は考えるのを止め彼女自身の心を改めて明かす。

「……こう言ったら、ジゼルさんはもしかしたら怒るかもしれないんですけど」

の視線が、目の前の海へと向けられる。

「お付き合い、と言っても何をするのか分からないですし、ジゼルさんの事もまだあんまり知らないような状態です。だから、今も、えっと……どうして私なのかなって、思ってたりします」

ジゼルは何も言わず、の告げる言葉に静かに耳を傾けている。

「でも、ジゼルさんが良い人というのは、前から知ってました。何だかんだ、世話を焼いてくれてましたしね。それに」
「……それに?」
「一緒に居て、楽しいですし」

小さく笑うと、隣のジゼルは驚いたように目を丸くする。

「楽しい?」
「はい、楽しいです」

プロの知識はいつ聞いても頷いてしまうし、見た目はエグいが味最高の魚の発掘は目から鱗。魚市でのジゼルの講座は、には貴重な体験だった。
そう告げると、ジゼルは何度も瞬きを繰り返し、「そう言われたのは初めてだ」と呟く。そんなに変な言葉は、言っていないつもりなのだが……。不思議がる彼を一度見て、静かに続ける。

「だから……ゆっくり、ですけど、ジゼルさんの事を知っていって、前向きにお付き合い出来ればなと、思って」

言いながら、何だか恥ずかしくなってきた。思えば男性とこういう話をするのも、にとっては初めての事だ。一人内心で叫び顔を覆ったが、返って来るジゼルの声といったら。
ただ「そうか」の短い一言。
せっかく恥ずかしい思いを堪えて明かしたというのに、この反応! はバッとジゼルへ向いた。もし興味無さそうな顔をしていたら、顔から海水をかけてやる、と思ったほどであるが、ジゼルの表情を見てそれも治まってしまう。

ジゼルは、何故か片手で口元を覆っていた。
耳まで、赤くなって。


「……ジゼルさん?」
「いや、何と言うか……」
「あの、気に触りました?」
「違う」

鋭い金眼が、泳ぎまくっている。随分珍しい、とが遠慮なく眺めていた為か、ジゼルは咳払いをして誤魔化す。

「じゃあ、さ。もう一つ聞きたいんだが」
「はい」
「……アンタは、俺がシャチの亜人だってのを知ってるけど。【人間じゃない】って事も、ちゃんと理解してんのか」

中々、難しい質問が来た。は、少し考える素振りを見せる。
これは、どういう意図で出た言葉なのだろうか。彼がシャチの亜人で、そして普段は人間の姿であるけれどひとたび海水に触れてしまえば屈強な魚人になってしまう事か。それとも、単純に怖くないのかという事か。はたまた、見た目は同じでも種族がまるっきり異なる事か。を見つめるジゼルの目は、真剣だ。どれも含まれているような気がしたが、の返答は思いの他あっさりと出てきた。

「分かってますよ」

ジゼルの目が、見開く。は、口元を綻ばせ笑っていた。

「ジゼルさんだって、私が【亜人じゃない】種族だって知ってるのに、言ってくれたんでしょう? それにもう、こないだ見てますし。あの魚人姿」
「……怖い、とは思わなかったのか」
「驚きは、しましたけど。でもきっと」

フフッと、は笑い声をこぼす。

「――――驚いたり、怖いと思う事なんて、なくなりますよ」

ジゼルはしばらく、呆気に捕らわれ呆けていた。変な事を言ってしまったのかな、とは不安になるが、彼女の目の前でジゼルは、不意に呼気を漏らす。溜め息のような、気が抜けたような、静かな息遣いだった。直ぐ近くで鳴り響く小波の音色に、の心臓が跳ねる音が混じった。

「変な奴だな、アンタ」
「そ、うですかね」
「ああ。でも、まあ――――ありがとうよ」

ジゼルは呟いて、腕を再び伸ばしてきた。大きなその手のひらはの頭へ乗ったが、今度はくしゃりと柔らかく指先を曲げ、の髪を撫ぜる。小動物にでも触れるような、ぎこちない指先……神経なんて無いはずなのに、妙にくすぐったい。わっと肩を竦ませると、隣のジゼルが笑ったような気がした。
ジゼルの手は直ぐに離れたけれど、の髪にはまだその感触が残っている。心臓が不規則に飛び跳ねて、頬も熱を帯びている。恐らくジゼルに気付かれているのだろうが、はわたわたと頭を整えた。

「私も言ったんですから、ジゼルさんも教えて下さいよ」
「あ?」
「私に、付き合おうって言ってくれた理由」

ジゼルは、口を閉ざしてしばし考え込む。だが、まるで思考を巡らすのを止めたように、「言わない」と急に味気なく告げた。

「ええッ?! 何ですかそれ」
「今アンタに言うのは、何かもったいないから、言わないでおく。それだけだ」
「それだけって……」

私、さっき恥ずかしい想いをしたのに。の目がそう訴えるも、ジゼルは普段の鋭い目を取り戻して、彼女の視線を跳ね返す。

「アンタが言ったからって、俺も言うなんて口にもしてないしな」
「う、うわ……そんな無理矢理な」

事実そうであるけれど。けれど、そうは言っても納得も出来ない。
が唸り声を漏らすと、ジゼルはふと呟いた。

「大体、始まったばっかだし……アンタも今は、俺の事を可も無く不可も無く思ってるってところだろ。なら、今は言わねえよ」

頬杖をついた顔が、へ向く。言葉は粗暴なのに、金色の目に不思議な柔らかさが浮かぶ。は、素っ頓狂にジゼルを見つめた。

「……もしも。もしもアンタがこの先、俺の事を多少なり異性と意識してくれるようになったなら。
その時は、言ってやるよ――――俺がアンタに付き合ってくれって言った理由」

低い声が、小波の音の中で響く。密やかな約束を交わしたような錯覚がして、は胸を震わす。
ジゼルは言い終えると立ち上がり、砂を払う。がっしりとした長身な肉体を、つられて見上げるの前に、ジゼルの手が差し出される。意図を理解してそうっと手を伸ばすと、大きな手が包みグッと立ち上がらせた。ありがとう、と小さく礼を告げたが、この日は彼の手は離れず握られたままだった。
あの日――交際の返答をした日、彼の手は震えていた。その表情も強張り、普段少ない口数がさらに少なくなっていた。
けれど、今は。
は、握られた手を見下ろす。特別色白、というほどでもないが、元々の肌色の差異によって自分の手が妙に白く見える。机仕事の細い手とは違う、筋張って武骨な手。陽射しの下が似合う、褐色の肌。単純に手を握り合っただけで、互いの体温が重なる。
色も感触も大きさも違うジゼルの手を見下ろし、それからは彼へと視線を上げた。

「……ま、今はこれくらいで良いか。お望み通りに、ゆっくりと、な」

そう告げたジゼルの表情に、はあっと小さく声を漏らした。
彼は気付いていたか分からないが、その時彼は――――。

「……さて、魚市に戻るか。俺もそろそろ今日の漁の、」



「あ、おーいジゼルー!!」



……今まで二人の間に、それとなく甘い空気があったとするならば。
恐らくこの瞬間に、その全てが波に呑まれてしまった。

唐突に割り込んだ第三者の声と共に、波止場へ近付くドドドッという船の音。振り返るよりも早く、直後襲い掛かったのは、波止場を乗り越える小津波であった。
ギョッとなっただが、なんと手が濡れただけという奇跡の生還を果たしたものの……。その代わりなのか、の目の前にいたジゼルは頭から被って飲み込まれた。
こんな至近距離で、ピンポイントにジゼルだけ。

小津波が乾いた波止場を遠慮なく濡らしていった後、その横を少し通り過ぎた一隻の漁船がゆったりと停まった。そして中から男性が現れて、呑気に手を振る。

「やー彼女と一緒のとこ悪いね! 漁に行く前に俺も、一度拝んでおこうかと思って。なんせこないだ、俺お前に意味もなく殴られてるしな!」

あ、あの人、こないだジゼルさんに張り倒された人だ。(嫌な覚え方)

漁船の甲板に出て、悪気ゼロの朗らかに笑う男性は、にも覚えがあった。だが、しかし視界の大部分に移りこむ巨大な影の存在感に、今は冷や汗が止まらない。
ポタポタ、と雫を滴らせるの手が、体積の増した大きな黒い手に包まれる。冷たく、滑らかな、人間ではない感触。に覆い被さるような大きな影を目一杯見上げ、彼女はただならぬ気配に喉が引きつった。

……こないだ、学んだ事だが。
ジゼルは普段、黒髪に褐色の肌、切れ長な金色の目に整った造作の顔立ちと、何処を見ても人間の男性の姿をしている。けれどその実、彼の出生と種族は、人間ではない。
海の国カリフォス在住の獣人たちの中でも、限りなく人間に近しい容姿を持っている【亜人】の生まれ。
特に彼は、古くから海と所縁のある種族。進化の過程で陸に上がって二本の足で歩き始める道を辿ったが、その身体はかつて生まれて過ごした場所を覚えている為、触れてしまうと本来の姿が表へ現れる。
曰く、彼が持ち合わせている、裏側に隠した獣の姿。

つまり。

海水に触れると、彼本来の【シャチ】の姿が表へ出てきてしまう。

「あ、の……ジゼルさん……」

狙ったような小津波に襲われ、全身海水まみれになったジゼルは現在。
海の恵みを一身に受け、屈強で大柄、の頭三個分は飛びぬけた背丈の、魚人の姿になっていた。首の後ろから背にかけて立派な三角の背ビレが生えた、黒と白の表皮の、シャチの魚人の姿に。

ジゼルの魚人姿に、冷や汗が出ているのではなくて。
目の前に微動だにせず立ち尽くすシャチの魚人からは、言いようのないオーラが放たれているからで。

「…………」
「ジゼル、さん? あの……え……」

「あれ、ところでジゼル、お前魚人の方の格好になってるな。お前身体デカイから彼女さん全然見えな……え、何、そのおっかない顔。ちょ、待っ


――――その日漁港の一角より、何処からか男性の叫び声が響き渡り、市民と関係者問わず慄かせたという。
この絶叫の数十分後、両頬をパンパンに腫れさせたとある漁師の男性が「俺何かしたっけ」と呟きながら、湿布と氷嚢を当てている姿が目撃されているものの、事の真相は不明である。




「……ま、今はこれくらいで良いか。お望みどおりに、ゆっくりと、な」

そう告げたジゼルの表情に、はあっと小さく声を漏らした。
彼は気付いていたか分からないが、その時彼は。

穏やかな、年相応の笑みを浮かべていた。

それはが初めて見た、ジゼルの柔らかな仕草であった。



一話に一回、ジゼルの魚人姿。

と思ったら、どうしてもギャグ化するんだが、どうすればいい。
クールにしてあげよう甘くしてあげようと思うたび、衝動的に出る雰囲気をぶち壊したい感情……。
何かもう、俺はこうしたいんだ……

あと一度のみならず二度までも張り倒された彼には、飴ちゃんあげたい。

2013.06.27