それは賑やかな願い事

「――――よーし、せっかくだ。ジゼルのとっておきな面白い話を聞かせてやる」

 そう笑って正面に座る漁師――以前をジゼルのもとへ案内してくれた人間の男性は、ぐっと身体を近寄らせ告げた。身を乗り出すように距離をつめる仕草には、彼の強い意思のようなものを感じさせたが、その顔が明らかに悪戯を閃いた笑みを浮かべているものだから果たしてこれは聞いて良いのか悪いのか。椅子に腰掛けたは良いが置物のように硬直するは、思わず考えてしまった。だが曖昧に声を漏らすも、の返答はわりと大した意味が無いようで、彼は話し始めてしまう。この場に居ない、ジゼルのあれこれを。
 止めるべきか、それとも便乗してしまうべきか。どちらを取るかと考えたものの、好奇心には勝てずも一緒になって身を乗り出し聞く事にした。
 そんな二人が居るのは、海岸部に展開する漁港敷地内の、軽食の取れる休憩施設。仕事の終わるジゼルをが待っている、ほんの僅かな間の事である。


 世界地図を開いた時、大海原のド真ん中にある浮島諸島ひっくるめた海の国カリフォス。その中心島で事務官をするが、漁業を生業とするシャチ亜人の漁師ジゼルとお付き合いをするようになり、早くも数週間が経過していた。
 当初と比べれば落ち着いたと思われる……のだが、相変わらずお祭り真っ只中のような熱烈な歓迎を受けている為に、ジゼルの普段が気遣われる日々が続いている。
 さてそんな中、漁師とお付き合いすると耳に入るのが漁業事情。もともと漁師という職業を詳しくは知らなかったであるが、ジゼルと親しくなりその仕事を垣間見る事が増えた。素人のかなりかいつまんだ見解では、漁業は基本的に、狙う魚の種類によって漁の仕方も時間も時期も、全て変わってくるという。近場で行う近海漁業に、その反対遠出する遠洋漁業。日中行うものもあれば、真夜中に船を出す場合もあるとか。多少偏った素人の覚え方であるが、つまりが学んだのはジゼルも不定期な環境に身を置いているという事だった。
 は出勤、休日がはっきりと定められているものの、ジゼルはそうでない。その日の天候にすら左右される為、基本的に彼が休みの時にのみ会ってのんびりと話をしている。人の職場に顔を出すのは、あまりするべきでない行動であるし、は不満を感じた事はない。どちらにもそれぞれ生活とプライベートがあるのだから、尊重し合うのは当然の事だと思っている。ただ、魚市が開く日と、分かりやすい待ち場所に選ぶ時は、了承を貰っているが。
 ほっとしたように、仏頂面の硬い眉を緩めたジゼルに、も安堵していた。

 ただ不憫なのは、周囲の漁業関係者から、彼がいじられる事か。

 この日も、こそこそとやって来たはずのを、この漁師の男性がめざとく見つけ、ジゼルの話を始めてしまっていた。
 そもそもの、この漁業関係者各位から構われる原因を担いでいるのは、である。声を大にして交際の返答を叫んでしまえばこの状況にもなるが、陽気な彼らの荒削りな構い方と思えば、今となればもう過ぎた事。あまり気にしないよう、心がける事が多くなった。


 さて、人のまばらな、休憩所。
 椅子に座るの向かい、机を挟んで正面に腰かける男性は、ジゼルにまつわる面白話を聞かせてやると上機嫌に笑っている。見るからに、話したくて仕方ないと言った風だ。ジゼルは二十代半ばほどの印象だが、こちらは三十歳を超えて更に働き盛りな身体つきで年上の風格がある。耳は尖っていないし人間の男性であると思うけれど、何処か少年のような快活さがあって清々しい人物だと思う。あれ以来声を掛けてくれるようになった人である彼は、手に持った冷たいコーヒーの入った紙カップに口を付け、一気に飲み干す。とん、と置くと、「でな」と早速身を乗り出した。

「あ、その前に、一つお尋ねしても?」
「……ん? 何だ」
「お名前を、聞いても良いですか? 何度もお世話になってるのに、私まだ存じてなくて」

 そう尋ねると、彼は思い出したように「おお」と笑った。忘れてた、と告げる声は爽やかで憎めない。

「ヤマトだ。ジゼルなんか見てると分からないかもしれないが、アンタと同じ人間な。そういや、言ってなかったなー」
「いえ、私こそすみません」
「別に気にしていないさ、カミさんにも言われてる。アンタはいっつも大雑把で肝心なところを忘れがちだって」

 広い肩を揺らして笑った後、男性――ヤマトは、話を戻す。

「でな、アイツ可笑しくてな。これは絶対彼女に話さなきゃならん! って思った事があって」

 にこにこと、上機嫌に。けれど随所に、ジゼルを弄りまわしてくれようという魂胆が開けっ広げに窺える。なんて分かりやすい方だろう、此処まで悪戯心が堂々と見えているといっそ清々しい。

「あの大胆な告白シーンの前な、アイツ馬鹿みてえに調子悪くてよ。変な様子だったなあ」
「え?」

 調子が悪い、と。あのいかにも平常心が張り付いていそうな、ジゼルが。
 がぱちりと瞬きをすると、ヤマトは一層笑みを深めて「でな、それがクソ面白かったんだけど」と嬉々とし語りだした。




○ヤマトの証言:ジゼルの肉体改造

 告白シーンの、一週間前の事。
 シャチ魚人の姿のジゼルと、人間ヤマトの会話。

「……はあ」
「お、ジゼルー。珍しく溜め息だな、またその仏頂面のせいで女に逃げられたか!」
「うるせえよ!!」
いきなり怒鳴った?! 何だよ、情緒不安定だなー。何かあったのか?」
「別に……ただ」
「ただ?」
「人間になりたいって思っただけだ……忌々しい」
ブフォッ!! それ、男が言う台詞だったっけか?」
「うるせえ、マジで背びれ取りたい……尾びれも取りたい……」
「え、おい、どうした本当に……おい待て、解体用のナタなんか持つなよ! 物騒だな!」(慌てて没収)
「……もう少し、時間掛けてから言えば良かったな……」
「は?」

 その日ジゼルの目は、ナタを見つけてはヒレを取りたいと呟いていた。さすがに無表情の鬼気迫る目をしていたから、あの時は本当に怖かった。




「いやもう、あれはマジでびびったけど、よくよく考えると爆笑もんだな。ナタ持って背びれ取るじゃねえよアイツ!」
「……」

 どうしよう、笑っても良い話だろうか。
 の両手で包まれるように持たれたコーヒーの紙コップが、ぷるぷると震える。
 好奇心には勝てなかったが言うのは何だが、うんうんそうだね! と力強く頷ける話題ではなかったように思う。そうですか……と曖昧に返事せざるを得ないような気さえした。ジゼルが亜人姿を気にしているらしいのは、も知っているので、これは果たして笑い転げて良いのか。がそう硬直している正面では、ヤマトは思い出して一層笑い声を高らかにし、勢いに負けた紙コップが手元をすっぽ抜け何処かへ吹っ飛んでゆく。荒削りが彼らの良いところだが、ちょっとざっくばらんとしすぎでは……。

「お、何だ。楽しそうな話で盛り上がってるな」

 ヤマトの笑い声に釣られ、居合わせた漁師たちが机へ近寄って来る。はすっかり顔を覚えられてしまっているので、彼らはを見た途端に「お、あのジゼルが釣りあげた子だな!」と屈強な身体をわいわい寄せる。耳が尖った人や、獣人、見るからに水棲の魚人といった様々な種族が集まり周りを囲まれると、の視線はさすがに泳ぎ始める。異種族に偏見はないものの、筋骨隆々な男たちに集まられると、さすがにその圧迫感たるや。
 さすがにがたじろいでいると、見かねたのかヤマトが「あんまり怖がらせるなよー」と一応の制止を入れてくれた。

「わり、この生臭い職場に若い子なんて居ねえしよ」
「おい止めろ、ジゼルに殺されるぞ」

 それでも変わらず圧迫感は凄まじいが……皆、気さくな人々なのだとは小さく笑った。

「そうだぞ。大体アイツ、ヤマトがさんを連れてきた時凄い顔してただろ。あれ絶対、嫉妬とかもあったぜ」

 ……? 嫉妬? は視線を動かす。それと同じく、ヤマトも振り返り仲間の顔を見た。頭から背中にかけ尖ったひれを持つ魚人で、屈強な肉体は滑らかな鱗に覆われている。ジゼル本来の姿、シャチのそれよりは小柄であるが、女、それも人間に比べれば断然大柄だ。

「あーなんか凄い顔してたな、確かに」
「だろう? ジゼルも可愛い事するんだなーとか思ったけど……あ、そうそう、それでな」

 不意にニヤッと笑うと、彼はヤマトの隣の椅子を引きドカリと座った。その顔は、先のヤマトと同じ堂々たる悪戯心が表れている。

「告白シーンの、その前な。アイツめちゃくちゃ調子悪くてな、それがクソ面白かったんだが」

 何だかさっきも聞いたような台詞だな、とが思う傍らで、集まった漁師たちも興味を引かれたらしくぐっと肩を寄せ身を乗り出す。の周囲の圧迫感が、三割増した。




○魚人の証言:ジゼルうっかり屋さん説

 告白シーンの、三日前の事。
 人間の姿のジゼルと、魚人のやり取り。

「ジゼル、顔死んでるぞ」
「……別に、何でもない」
「ははーん、いつも魚市に来る子と何かあったな?」
「!! 違う!!」
「(こういう事については分かりやすい奴だよなあ)」
「別に、俺は……ガフッ?!」(コンテナへ激突)
「ジゼルーーーー!? 大丈夫か、おい! デコから血が……!」
「……いや良い、放っておいてくれ。半分くらい抜いた方が良い」
「死ぬぞ」

 その日ジゼルは、額に絆創膏を張り付け仕事をしていたようだ。今になって思う、多分あれは交際の返答が気になりすぎてテンパっていたのだ、と。




「ギャーッハッハッハ!!」

 休憩所に響き渡る、屈強な男たちの全力の笑い声。笑いすぎて、ヤマトに至っては椅子から転げ落ちる手前である。
 ただ、野太い声に囲まれるは、相変わらず硬直して返しに困っていた。これは笑っていいのか、それともそんな風にさせた己を叱るべきなのか。
 彼らはヒーヒーと本当に言いながらも、激しく揺れる身体を何とか正し、目尻に浮かぶ涙を払った。笑いすぎて出てきたようである。

「く、あ、アイツ、周りなんか興味ねえみたいな顔してる癖に! そ、そういうとこ分かりやすいな! ブハァッ!」
「きったねえ! コーヒー吹きかけんじゃねえよ!」
「あ、わりい。でもな、確かにアイツ他にも……」

 その一言をきっかけに、彼らからジゼルの細かな行動記録が発表され、最早どうにもつっこみしきれない状況になってしまった。此処は確かに休憩所ではあるが、気を抜きすぎてるような、とは一人オロオロする。屈強な男たちが壁の如く囲う、その真ん中で。正しく、椅子から僅かとも動けない、肩身の狭さよ。頭上で飛び交う笑い声ばかりが、元気に響いている。

「――――いやあ、でも、まあ、あれだな」

 ヒーヒーと息をしていたヤマトが、ふと声音を落ち着かせて呟いた。呆気に捕らわれていたは、ヤマトの眼差しに一瞬反応しなかったものの、数秒の後に「へいっ」と妙な返事を返した。

「ジゼルはさ、さんと同じくらいの、若い奴だろ? それで漁師をやってるんだ、腕も良いし、大したもんだと思ってる。でもいかんせんあの性格だし、仏頂面がほとんど。俺たちはアイツの事分かってるけど、多分知らない奴からすれば……面白くないだろうな」

 穏やかな笑みだった。先ほどとの悪ふざけのような仕草とは全く違う、その年齢に相応しい落ち着きも感じさせる。は固まっていた背を、そうっと正した。周囲の漁師たちも、そうそう、と何処か苦笑い混じりに告げる。

「顔は良いんだ、顔は。寄って来る女の子も居たし、あんな無愛想でも一応男だしな。ただ、まあ、大抵は逃げるな」
「普段の見た目は人間だけど、水棲の亜人がアイツの生まれだ。シャチのでっかい魚人姿なんて、皆怖がっちまって駄目だったんだと」
「わりと本気で、気にしてたっぽい時期もあったんだよなあーアイツ。自分が見た目だけは人間で、本当はシャチだっていうのをさ」

 そう口々に言った漁師たちを、はじいっと見つめた。脳裏に浮かんだジゼルは、いつもの、無愛想なのに目は穏やかに笑う表情をしていた。

「アイツ、本土で昔暮らした事があるとかなんとか……それのせいだろうなあ、気にするようになっちまったのは」
「えっ?」

 思いの外、大きな声が出てしまった。けれどそれを繕わず、は「本土に?」と尋ねていた。ヤマトたちは少し苦く笑い、頷いた。

「生まれはカリフォスだけどな、漁師になる修行みたいなもんだ。本土で暮らす間に、すっかり今のアイツだ。此処は隔離された田舎の国、別に獣人も魚人も人間も、関係なくごっちゃになって暮らしてるけど、本土じゃあ、やっぱそうじゃなかったんだろうな。この辺は俺らも詳しく聞いてないが……さんも、いずれジゼルの口から聞くだろうから、それまで待っててくれな?」

 それはつまり、今聞いた事は忘れてくれ、と。そういう意味があるのだろう。気になったのも事実だが、は静かに頷いて、それ以上尋ねる事はしなかった。

「まあ、だからさ、俺らみたいな喧しいおっさん共が口出しする事じゃないけど」
「アイツはあんなんだけど、どうか一つ、宜しく頼む」

 年下であるに向かい、彼らは頭を下げた。小娘より何倍もがっちりとした身体を曲げて、頭の天辺が見えるくらいに、だ。慌ててその顔を上げさせたが、がその先で見たのは穏やかな笑顔であった。

 ……ああ、そっか。そうなのか。
 は内心で、納得し、そして再確認した。ざっくばらんで陽気で、些事は気にしない荒削りな彼らは、その実ちゃんと、ジゼルを知り理解しているのだ。無愛想で仏頂面、何処となく近寄りがたい鋭さを持ちながら、不器用すぎる実直さも持ち合わせる、彼の分かりにくい性質を。それこそ、ほんの数週間前ようやくお付き合いの決心をしたなどよりもだ。そんな彼らだからこそ、近寄りがたいジゼルを笑い話に出来るのだろう。まあ、少しばかりそのやり方については強引かもしれないけれど、この笑い顔を見ていると、本当に細かい事に捕らわれるのが恥ずかしくもある。そしてそんな彼らが、少しだけ……羨ましくもあった。

 は、声を漏らして笑みを表わすと、ヤマトたちから不思議そうな眼差しが寄せ集まった。

「いえ、すみません。ジゼルさん、愛されてるなーって思ってしまって」

 はあ、と息を吐き出す。は一度ヤマトたちをそっと見やり、それからぺこりと頭を下げた。

「こちらこそ、漁業とかにはド素人な私ですけれど……よろしく、お願いします」

 下げた頭を上げ、顔を起こす。壁の如く取り囲む漁師たちは皆、一瞬面食らった顔をしたものの、ニカッという表現の似合う快活な笑みを返してくれた。

「いやー、自分で言っておいてなんだけど、ジゼルにはちょっと勿体無い気がしてきたぞ」
「よーし、ジゼルの印象をもっと悪く砕いてやろう!」
「おっし、じゃあもう一つ話を聞かせてやろう。アイツな、こないだ……」

 一瞬でも、感動を抱く温かな空気があったはずなのだが。既にもう、悪戯心が堂々と顔に出ている。これは、本当に、彼らの優しさという理由で片付けても良かったのだろうか……。若干の迷いが再びに生まれたが、気分が舞いあがってしまっている彼らは先ほどより暴露話に熱が入ってしまっている。

「いやもう、本当アイツって笑えるわ! あんな顔して、ちょいちょいやる事が子どもくさい!」
「ちょ、ヤマトさん、笑いすぎて椅子がガタガタ言ってますよ……!」
「いやいやさん、本当にジゼルってアンタが思ってる以上に子どもで」





「――――俺が、何だって? 野郎ども」





 あらゆる空気と声を凍てつかせる、冷徹な低い声が、這うが如く響き渡った。
 立ちはだかっていた壁が、その瞬間に左右へ開き、妙に懐かしさを抱かせる休憩所の全貌が其処から見えた。が、の視界に映ったのは、それだけではない。
 自らの年齢より一回り二回りも年上な男たちを前に、現れた長身な男性は気後れせず佇み、むしろ視線で射殺さんばかりの眼光を放っていた。褐色の肌に、荒っぽく跳ねる黒髪、捕食者の金色の眼。見るまでもなくド怒り状態な、海の帝王シャチの血筋――――ジゼル本人が、満を持して降臨である。

 賑やかだった喋り場が、瞬く間に沈黙で制圧される。姿こそは若い人間の男性であるが、背後に海洋最大級の肉食動物、事実上の食物連鎖の頂点に座すかの姿が見えた。
 ヒイ! と悲鳴の上がる男たちの壁の内側で、も引きつった悲鳴をこぼした。普段の仏頂面もやや威圧はあったものの、現在のそれはおよそ三割増し。さすがの仲間たちも、怖くないわけがない。

「……もう一回聞く。俺が、何だって」

 その尋ね方は、完全にカタギの人じゃないよ! ジゼルさん!
 というの叫びは、「あ」だの「う」だのしか言えない呻き声では言葉にならなかった。

「いや、なに、さんが待ってるようだったから、ご挨拶をと」
「わざわざ囲ってか」
「いやーほら、な、お前の話でもしつつ時間潰し、とか」

 魚人の漁師が言うや、ジゼルの眉がぴくりと震えた。張りつめた気が、爆発する手前の前触れ。明らかに彼の纏う空気がユラリと動き、全員が次に来るものを予想した。だから、ジゼルの口が微かに動いたその瞬間。

「よーし! 逃げろー!」
「わァァァーー!」


 蜘蛛の子を散らす、と形容するに相応しい散らばり方で、壁は四方八方へと逃げ去った。
 屈強な男たちが、体格に似合わぬ軽いフットワークで休憩所を飛び出し、猛スピードで遠ざかる。休憩所の窓から通路や外を窺っていると、中には海へ飛び込んでゆく影もあった。なんてアグレッシブな逃走の仕方……恐らくあれは、あの魚人だと思われる。

 立ち塞がる暑苦しさが全て無くなり、静けさを取り戻した休憩所。其処に居るのは、とジゼルだけとなった。壁は無くなっても硬直していた、逃走者たちの背を追いかけたジゼルの狩人の目が前へと戻ってきた時、一瞬次の獲物は私かと失礼にも身構えてしまったものの、その瞳はいつもの調子に戻ったのでほっと安堵する。といっても、相変わらずの笑みの欠片もない目つきではあるが。
 気付けばすっかり冷たくなってしまったコーヒーを、ぐっと全て飲み込んでから、「お疲れ様です」とひとまず声を掛ける。彼は「ああ」と返事をした後、直ぐ様「何か言われたか」と尋ねて来る。案じている、或いは、余計な事を吹き込まれていないだろうかという一抹の不安が、その声にあった。まさか暴露話を聞かされたなんて言えそうにないが、どうやら表情には出てしまっていたようで、目の前のジゼルはやや首を傾げる。

「何か、楽しかったっぽいな」
「え?」
「笑ってる」

 そう言われてから、ようやくは自身の顔が緩んでいた事を知った。自覚すると、その笑みが今度は声となって込み上げてきて、ますますジゼルは首を捻る。

「……ふふ、はい。楽しいお話を聞かせて貰いました」
「……変な事、は、聞かされてないだろうな」
「さあ、秘密です」
「おい」

 でも、とは付け加えた。

「皆さん、良い人たちですね。さっきの漁師さんも、ヤマトさんも、勿論ジゼルさんも」

 ジゼルの鋭い金色の眼が、丸く見開く。急になんだ、と言わんばかりの眼差しだったが、は上機嫌に笑ってクシャリと紙コップを潰す。立ち上がってごみ箱へと入れ、その足でジゼルへ近付いた。タンクトップとカーゴパンツのラフな姿ではなく、着替えたのだろう、Vネックのシャツとズボンの姿だ。服が変わるだけでも随分印象が改められる、すらりとした足と身体は、言ってはなんだが漁師に見えない。

「いえ、ただ」
「……ん?」

 見上げるジゼルは、今日も今日とて涼しげに整った顔ばせで、表情は薄いが目はを見下ろしている。は口を開きかける、が、その口を再び戻して笑った。

「やっぱり、秘密です」

 気になるジゼルの視線には、知らないふりをして。は足取り軽く、休憩所を出た。その後ろに続いたジゼルは、やはり首を捻っていた。



 この仏頂面で無愛想で、そのくせ不器用で優しい、シャチ亜人の彼の事を、仲間の漁師たちのようにもっと知りたくなった、なんて。

 まだまだ口には出来そうにないのだから、今はそれで勘弁して貰いたいな。ジゼルさん。



今後漁港で語り継がれる告白シーン前の、ジゼルの様子。
完全にギャグ化しつつある彼のラブストーリーに、幸訪れますよう。

当分は無理のような気がする執筆者です。

2013.11.10