今でも時々後悔する君の事

広大な農場の奥には、立派な樹木が佇んでいる。それは昆虫が大変集まりやすいと言われている種類の一つで、特に歳月を掛けて成長し大木となったそれは空高くまで枝を伸ばして葉の茂みを豊かに纏っていて、昆虫にとっては最良の寝床であった。勿論、その穏やかな自然の豊かさは、昆虫だけでなく人やアイルーにも惜しみなく分け与える。
陽光の輪郭を滲ます茂みから、降り注いだ木漏れ日をは見上げ、懐かしむように笑った。思い出すのは、ユクモ村の社会見学で、一飯の礼と称した過酷な労働でこの樹木の天辺まで放り投げられた事だ。

「ふふ、あんなに上まで飛んだのね。人間に戻っても、高さは変わらないわ、やっぱり大きい」

首を目一杯上げても、その高さを推し量るのはなかな難しい。が、地上十数メートルまで、よもやシーソーで飛ばされたとは、今考えてみても不思議な体験だった。

「あの時は『影丸引っかく!』なんて思っていたけど、案外もう一度やりたくなるものねー」
「――――― さすがにそれは、無理があるニャ」

落ち着いた口調で紡がれた言葉が、足下で響く。男のものだが、その声音は人間とはやや異なり多少高音の響きがある。そして独特な語尾から誰しも容易に察するだろうが、の隣では漆黒の隠密模様と呼ばれる毛色をした、メラルーが佇んでいる。
が、世間一般のメラルーの憎めない愛らしさは僅かもないほど鋭い眼差しで、流暢な人間の言葉を使うところなど、このメラルーが人の世界に入り長い事を体言していた。
実際に彼は、ハンターの厳しい狩猟にオトモするメラルーであり、素人のから見ても経験豊かである事が普段から伺えていた。

「ふふ、やっぱり無理よね。逆に影丸の方が飛んでしまうかも、私が乗ったら」
「それは、まさか」

は、メラルーのヒゲツを見下ろし、悪戯っぽく笑った。そして、樹木の根本に腰を下ろすと、足を揃えて横座りになる。正面に佇んだヒゲツは、《覇竜》と呼ばれる溶岩峡谷に住むと囁かれるらしい飛竜の端材で作られるアカムトネコ装備を一式纏い、全身を漆黒に染めて和やかな空気には不釣り合いな存在感を放っているが……を見つめる金色の目は、穏やかである。

「……不思議なものだ、貴方があの桜色のアイルーであったと言うのは」
「うーん、そうね、私も今でも不思議な気分だけど」

は手を見下ろし、ぐっぐっと握ったり広げたりと繰り返して見せる。

「……ヒゲツと今まで話をしていたのは、アイルーの姿だものね」
「まあ……」

ヒゲツは、妙に人間らしく首を捻った。は笑みを一層こぼし、トントンッと自らの隣を叩いた。

「せっかくだし、座って下さいな」

ヒゲツは、一瞬僅かに動きを止めたけれど、しばらくしおずおずと足を勧めると、の隣にちょこんと座り込んだ。

「……今でも、変な感じ」

そよそよ、と優しすぎる風が通り抜けた。
それは、何ら変わった印象など受けない、長閑な風景を彩るものの一つであるのに、には心ごと包まれたような錯覚さえした。

「……こういう時は、」

ヒゲツは、ぽつりと呟いた。妙に戸惑う、困惑した声は彼らしくもなく、はやや驚いて隣の彼を少し視線を下げ見つめる。

「良かったな、と言って良いのか。それとも、今までアイルー扱いして済まなかった、と言えば良いのか」

金色の目が、宙を見つめる。
はしばし口を開いたまま動きを止めたが、次の瞬間にはブハッと息を吹き出して笑った。

「良かった、て言ってくれて大丈夫よ。今はあんまり、それを気にしてないもの」
「そう、か」
「ふふ……いきなり笑ってごめんね、でも何だかやっぱり貴方はメラルーっぽくないわ」
「可愛げがない、という事か?」

違う違う、とは目尻を指先で拭う。

「年上というか、そうね、落ち着いた人と話してるみたい。良い事よ?」
「そうか……」
「きっと、セルギスさんに似たのね」

そう言って、はあっと口を覆う。
彼の旦那様は、今は影丸だ。急に思い出して、「そうじゃなくて、その」と言葉を繕ったが、ヒゲツはやはり落ち着いた笑みを浮かべて首を横に振った。

「俺の大部分を構築しているのはセルギスさんだ……それで、間違いではない。今は影丸が旦那だが、な。それを、貴方が変に気にする必要はない。俺が影丸の元へ残る事を、セルギスさんは承知している」

そう、ね……。は、小さく声を漏らして、ふと先日の一件を思い出した。
セルギスが、杖を片手に歩行のリハビリをするようになった当初の頃。
セルギスは影丸の自宅で過ごすようになり、必然的に影丸とヒゲツは側について七年の空白を埋めるように会話をしていたらしいが、ジンオウガの姿の時の戦いの一件が蟠りとなって残され、それが影丸を曇らしていた。それだけでなく、彼がこの七年どのように振る舞って来たのか、知られた事の恐怖も含まれていたのやもしれない。セルギスが死んだ事で正当化された、モンスターへの復讐心。だがセルギスが生きて戻った事で、それはハンターとし異常な戦いへの執着心という本質だけが剥き出しに取り残された。
まるでそれを、セルギスは全て知っている上で。
彼の七年間を、否定せずに、むしろ笑って受け入れた。彼のオトモアイルーはもう居なくなってしまった事も、含めて。
影丸との間の蟠りを解消するように、彼は確か、言っていた。


――――― お前が俺と戦った事は、正しい事だ。気にする必要はない。
そしてお前がこれらかも、そうやって強くあろうと狩猟に挑む事は、間違ってはいない。それもまた、モンスターとの向き合い方だ。

――――― 俺は当分は、このザマだ。まともな生活を出来るようになるまで、まだ時間は掛かる。
だから、これからもユクモ村のハンターとして、存分に力を示してくれ。
ヒゲツも連れて、だ。
それが俺への、最良の報いる方法だと思ってもらえればいい。


ぎこちない手が、影丸を小突いて。
ヒゲツの頭を、大きな手で撫でた。

ヒゲツは、あの瞬間、ある意味では本当の別れをしたのかもしれない。
ふと見つめたヒゲツの横顔は、変わらず静けさを纏っていたが、その金色の目の奥で思う事は分からない。

「……セルギスさんが戻って来た、それだけで十分であるし。今後は一層、彼の目を感じながらオトモを務めねばならない。それだけだ」
「そう……」

彼らしい、誠実な言葉だ。は素直にそう感じ、笑みを小さく浮かべた。

「……だが、確かに……変わってしまって戸惑う事はある、かな」
「え?」

その言葉は、明確な意味を指し示してはおらず、に理解は出来なかった。ジンオウガから人へ変わった事だろうか、それともセルギスから影丸へと本当の意味で旦那様が変わった事だろうか、はたまた環境の事か……あらゆる仮定が正解でもあるようだったが、ヒゲツの金色の目がを見上げた為に打ち止められる。

「近くなったようで、遠くなってしまったな」

じっと、あの獅子を思わす眼差しが、に注がれる。

「えっと……ヒゲツ……?」

が首を傾げると、彼はハッと首を振り、何事も無かったように振る舞っているのか座り直して声音を改める。

「いや、何でもない。気にしないでくれ」
「そ、う?」
「ああ」

語尾を強くしながら、頷かれてしまった為、はそう理解させられストンと胸を撫で下ろす。

「あーあ、でもシーソー、また飛んでみたい気はしたんだけどなあ」

クスクス、と笑って、は顔を上げた。その遙か先の空で揺れる柔らかい木漏れ日は、瞳に映され、そして彼女の横顔を照らした。
こっそりと、ヒゲツはそれを見て、肩を竦める。

( ……変わってしまった、な )

この黒い小さな手には、彼女の手は白くて眩しすぎる。
この黒い小さな足では、彼女の歩幅に合わせて歩く事は出来ない。
この視線も同じ高さで合わせられなければ、この身体はとても小さく彼女の方が大きい。
その手も、足も、顔も、身体も、何もかも。
……ユクモ村で過ごした、あの桜色のアイルーとは、とても離れている。

それを悪い事と言うつもりはないが、今になって虚無感が胸の片隅に掬う。あの頃自覚してれば、良かったと。

……人間の姿の彼女では、小さなメラルーの自分では。
落ちてくる彼女を抱き留める事も出来やしない。

などと、鼻歌を口ずさむには、到底言えそうにないので、ヒゲツは金色の目を閉ざしてその穏やかさに身を委ねる事にした。



アイルー、メラルー組がやたら人気である事に気付いたので、調子に乗って書いてみました。
後悔とは、呼んで時の如く、後になって覚えるものなのです。

( タイトル借用:ロストブルー 様 )


2012.02.08