他愛ない安らぎを

 その日の影丸は、恐ろしいほど不機嫌だった。
 瞳孔が極大まで開き、眉間にはしわが深く刻み込まれている。うなじがひりつくような険悪な空気が噴き出し、彼の背後にはどす黒く濁った憤怒のオーラが見えた。
 遠目からでも分かるその機嫌の悪さに、誰一人として彼に近付こうとしない。避けて通られる光景は、呪われた心霊スポットのよう。あの周囲だけ空気が違う。

 人間よりも遥かに強大で、かつ巨大な獣や竜とやり合う狩人とて、一応は人の子。ユクモ村専属の腕利きハンターである影丸にも、そんな日もあろう。しかし、だとしても……。

「……本当に、機嫌が悪い。何があったんです?」

 意気揚々と狩猟へ出かけたのが早朝。そして帰還したのは、正午が間近になったつい先ほどだ。たった数時間の間で、一体何をしてきたのか。
 は隣を見上げ、傍らに並んでいたセルギスを窺った。

「狩猟対象外のモンスターが邪魔してきて、入れたと思った道具を忘れてきて、小型モンスターが執拗に足を狙ってきて、欲しい素材は無くて」
「うわあ……」
「まあ、ハンターあるあるを軒並み制覇してきたらしい」

 セルギスの精悍な面立ちには、何処か同情するような感情が滲んでいた。
 なるほど、度重なる不運に見舞われたのか。
 依頼自体は成功だったと聞いたが……あまり後味は良くなかったらしい。野生の獣のように苛立っている。軽々と近付こうものなら、がぶりと噛み千切られてしまいそうだ。

「あの状態の師匠は、ヤバいです。本当にヤバいです。しばらく置いといた方が良いです」

 レイリンの表情にも、常にない緊張が張り付いている。いつもならば影丸の文句を口にする、彼女のオトモアイルーのコウジンも、レイリンの細い足の後ろに隠れていた。

「ヤバいって、危険物みたいな扱いだね」
「はい。不用意に近づいたら、絞め技を食らいますので」
「待ってまさか食らったの???」

 こんな可愛い子に締め技なんて。あいつ馬鹿なんじゃない?

 セルギスやレイリン達は、触らぬ神に祟りなしとばかりに、早々に立ち去った。ほとぼりが冷めるまでは、影丸を放っておく事にするらしい。命が惜しいも、不用意に近付いたりはしないが……。

「…………ふむ」



 ユクモ村の市場でのんびりと買い物をした後、は影丸の住居を訪ねた。もうそろそろ沸騰した頭も、落ち着いている頃合いだろう。しかし、出迎えてくれたのは家主の影丸ではなく、彼のオトモアイルーのヒゲツと、プーギーだった。

「あれ? ヒゲツ、影丸は?」
「旦那は今、外に出ているニャ。も、行ってやったらいい」
「外? 何処かな、農場?」
「それは――なら、想像がつくんじゃないか?」


 そして、がユクモ村の奥まった場所に佇む自宅へ戻ると――居間の中央で、黒髪の男が仰向けに大の字で寝転がっていた。
 考えるまでもなく、影丸である。
 互いの住居で寝泊まりをし、セルギスやアイルー達の居ない二人きりの時間を過ごす間柄とは言え、すごい寛ぎ方をしている。おまけに黒色のユクモ村装束は着崩れ、上半身が丸見えだ。別に構わないのだけれど。

「来てたんだ、影丸」
「……ん」

 短い声と共に、ひらりと手のひらが力なく揺れる。寝そべったまま起き上がろうとしない。囲炉裏には火が熾き、吊り下げられた鉄瓶からはシュンシュンと蒸気が立ち上っている。の住居に転がり込んでから、それなりの時間が経っているようだ。

 不機嫌の最高地点からだいぶクールダウンしたようだが、それでも随分と参っている様子だ。市場で買ってきた野菜を、氷結晶などが敷き詰められた貯蔵庫へ入れている間も、彼に動く気配はない。

「ほら、影丸。お茶淹れたよ。置いとくからね」

 湯呑みを置いたところで、ようやく影丸は起き上がった。と言っても、のそりと緩慢な動作で、表情もしかめっ面だ。せっかく綺麗に整った顔なのに、色々と台無しである。

「相当、疲れたみたいだね」
「……ああ」
「ねえ、影丸、こっち見て」

 獣のような棘を放ちながら、影丸はねめつけるようにへ視線を向ける。それを怖がるでもなく、はにこりと笑ってみせた。薄い座布団の上で正座をし、両手で太ももをぽんぽんと叩く。

「……あ?」

 片方の眉をつり上げ、不可解そうに低い声が唸る。

「見たままよ。膝枕。疲れた時にはよく効いて、さらには遠足前のカルトも爆睡させる快眠効果があるよ~?」

 後半のカルトの件はもちろん冗談だが、は朗らかに笑う。影丸の事だから膝枕など所望しないだろうが、そのむくれ顔が少しでも緩んでくれれば良いという、なりの優しさだ。

「……」

 影丸は溜め息を吐き出すと、いつもの捻くれた物言いを放つ――事はなく、へのそのそと近付いてきた。

「……あ、あれ? 影丸?」

 両目を細めた彼は、一言も喋らないままの前へ来ると、頭を下げる。膝枕に寝転がるかと思いきや、の胸目掛けて頭突きをかました。たまらず、はふぐッと息を漏らし、後ろへ倒れ込む。影丸は、そのままの上に被さると、うつ伏せで突っ伏した。

 これは、予想の斜め上を行ってしまった。アホか、と鼻で笑うかと思っていたのに、まさか全身で突撃してくるとは。

 の胸元に、影丸の顔が埋まる。温かい息づかいが、衣服越しに伝わってくる。さながら、大きな動物のよう。ずっしりと体重が掛かっているものの、不快な重みではなかった。

(これは……まさか、甘えているのだろうか)

 口には出さない。が、行動では雄弁に語る。
 なんという不器用か。
 そう思うと、彼の重みと温度が、妙に愛おしく感じた。は密やかに微笑み、彼の背に腕を回し、撫でるように叩いた。

「お疲れ様、影丸」
「……ああ」

 愚痴を言うでもなく、ただ小さな声を、ぽつりと。
 こぼれた微かな音は、の服に吸い込まれて消えてしまう。
 しかし、稀に見るへこみ方をしてはいるが、泣き言を言わない辺りが妙に影丸らしい。大酒飲みだし、通路のど真ん中で寝始めるし、人を煽るのが好きだし……人として最悪だが、こんな日もきっと誰にだって訪れる。

 あの影丸の、弱みを見せられる相手になれたという事でもあるのだ。それなら、いくらでも敷布団になってやろう、とは思う。

「ちょっと遅いけど、お昼ごはんにしようよ。何か食べたいものとかある?」

 胸元に埋まる影丸の頭が、ぴくりと揺れる。

「市場で色々買ってきたし、食べたいものがあれば作れると思う。レイリンちゃんの味には敵わないけど」
「……なんでも、か」

 お、ちょっと気分が浮上したかな?
 見え始めた復活の兆しを絶やさないよう、はさらに言葉を重ねる。

「頑張って作らせてもらいますよ。何が好きだっけ? いつも肉ばっかりだし――」
「いや、作る必要はねえよ」

 影丸が、そう告げた瞬間だった。
 を敷布団にしもたれ掛かっていた身体が、ぐんっと起き上がる。影丸の背に回していた腕は床板に落ち、頭上には彼の顔が飛び込んだ。不器用げに甘えていたはずなのに、何だか押し倒されてしまったような心地がした。

「影丸?」
「別に、飯じゃなくても良いぞ。手っ取り早く慰めてくれるのなら」

 ニイイ、と口元が吊り上がる。爽やかさとは程遠い、底意地の悪そうなあくどい笑み。それは、普段よく見る、影丸の笑顔である。
 急に元気になってしまった。それとも、最初からだろうか。騙されたような気分だ。

「……ちょっと、言い方がいやらしい」
「事実を言っただけだろ。飯よりも、よく効く」

 こつり、と額が重なる。鼻先が触れるほどの距離で、影丸は意地悪げに笑う。くつくつと、愉快そうに。

「慰めてくれるんなら、最後まで存分に甘えさせてくれ。

 気が滅入っていた人間のものとは思えない、態度と台詞だ。
 それくらい、素直にしてくれても構わないのだが……いや、これが影丸らしさというものだろう。

「仕方ないなあ。ほら、ぎゅーっと抱きしめてあげますよ」

 腕を持ち上げ、影丸の肩へと回す。少し驚いたように目を瞬かせた後、彼は笑みを深め、顔を傾けた。

「お前、そこはキスの一つでもする場面だろうが」

 笑いながら言った影丸の顔は、子どものように、上機嫌に緩んでいた。



久しぶりの影丸の話でした。
あいつ以外と引きずりそう、な気がする話。
そして、たぶん気を許した相手以外にもめったにその弱った姿を見せないような気もします。
手負いの獣か。

疲れた時は、思う存分休もうぜ。


2021.05.03