何かが始まる音

狩猟生活に必要な道具のほとんどを収納している、巨大なボックス。蓋を開けて中身を確認すると、思いのほか罠や閃光玉などの元の材料となる道具は減っている事に気付いた。
そういや、狩猟依頼に行くだけ行って、その後の補充作業はあんまり最近していなかったな。
床に座り込み、ボックスの中を漁っている男性―――影丸は、面倒くさそうに一人ごちた。
言わずと知れた、ユクモ村専属ハンターである彼。現在村の外部に危険なモンスターが出没した情報はなく、比較的安定した時期に入っているので、普段好んで纏っている迅竜ナルガクルガの一式防具は外している。今はユクモ村の人々が纏う衣服と同じ形式の、漆黒の生地で仕立てた着物を身に着けている。
休憩がてら、珍しく自室でハンターらしく道具の在庫確認をしていたのだが……思いのほか少ない事を知り、頭を掻く。ゆっくり温泉に浸かって過ごす計画は先送りだ、仕方ない買いに行こう。影丸は立ち上がると、財布を袂にしまって自宅を出た。
といっても、歩いて数分のところにユクモ村のほとんどの店が並ぶ中心通りがあるので、ハンター向けの品を取り扱う道具屋には直ぐに辿り着く。
此処にいるのは、もう馴染みの店主なので、いつものようにカウンターに肘をついて軽く声を掛けたが。

「――――― はい、いらっしゃいませ!」

返って来たのは、聞き覚えのある、若い女性の声だった。
カウンターの内側から、ぴょこりと飛び出した頭に、影丸は思わず素っ頓狂に見やった。

「……?」

影丸の漆黒の生地とは対照的に、真っ白な生地で仕立てたユクモ村衣装を纏う、
影丸の顔を見て、彼女も少し驚いた風にもしたが、直ぐにいつもの笑みを浮かべる。

「ふふ、こんにちは。なあに、驚いて」
「あ、いや……そうか、アンタそういえば此処の通りでも働くなんて言ってたな」
「まあね、と言っても集会場の掃除婦の方が本当のアルバイトだけど……」

は苦く笑うと、手元のメモ帳を開いて見せた。不器用げな文字で、どうやら扱っている商品の名前と棚の位置などを書き込んであるらしい。
そういえば、彼女の出身地はそもそもとても遠い場所にあるらしく、読み書きが不自由な面はアイルーの頃より度々見られていた。共通公用語さえも読めない書けないというのは不思議に思ったが、特に気にはしていない。もっと原始的な暮らしを送る人々や、モンスターを神と呼ぶ者たちも存在しているのだから。口で意志が問題なく交わせればそれで良い。
びっしりと隙間なく書かれたメモの様は、彼女の涙ぐましい努力が滲んでいるので、むしろそちらの方が気になる。

「ほら、本当は私、此処の通りで働くって言ってもお土産とかそっちの一般客向けのとこなんだけど、お店の人が今ちょっと急用で出ちゃったものだから。代わりに店番してるのよ……そうしたら」
「分からねえだろ、ハンター向けの品なんか」

影丸が笑みを含んで言うと、は小さく頭を垂れる。

「薬なんかはまだ辛うじて分かるわよ、ラベルあるから。だけど、ボウガンだとか弓向けの、ビンだの弾だの、怖くて触れないじゃない。おまけに種類が細かくて分からないし。そっと触れば問題ないとか言われたけど……」

恐々とする彼女を見て、影丸は意地悪げに笑いながらカウンターに頬杖をついた。

「だろうな、中にゃ猛毒の入った毒ビンだとか、弾の中の針が飛び散る散弾とかもある。ま、せいぜい死なないように」
「ちょっと、もう、止めてよ。本当に今ドキドキしてるんだから」

ふう、と息を吐き出すは、頭の後ろに下げたユクモ笠を直す。
そして、あっと声を出すと、「それで、何を買いに?」と店の従業員らしく言葉を改める。
影丸は着崩した衣服の胸元に手を入れて、紙切れを取り出すとそれを見下ろす。

「あーっと、回復薬20個と、研石30個ってとこか。それと、トラップツール10個」
「ふむふむ、回復薬20個と、研石30個、トラップツール10個ね……」

慎重に何度も復唱しながら棚を数え、指で商品を追っていく。そして、メモ帳と睨めっこをしつつ箱を取って下ろす。
彼女のその懸命な後ろ姿が妙に笑みを誘うので、頬杖をついた体勢のまま影丸は窺っていたが、不意に思った。
あの女性が、かつてアイルーの姿で渓流で暮らしていたとは、誰も思わないのだろうな、と。

……今でも、時々不思議に思う。
あれは本当に現実であったのか、と。もしかしたら夢であったのではないか、と。

ドキドキノコを口にしたジンオウガとアイルーが、人の姿になるなど……恐らく誰も信じないだろう。
話したところで「そんな訳あるか」と笑われるか、呆れられるかが 、関の山。
影丸もそう思う為か、あれが現実であった実感が、今も薄い。
あの瞬間から、七年も姿を消したセルギスが戻ってきたのは、事実なのだが……。

( ……もともと俺が、そういう類いはからっきし信用しない頭だからかな )

先輩としても、同じ人間としても、信頼を寄せていたセルギス。
彼が消えてから、影丸からはそれまで煌々としていた青臭い情熱も野心も、英雄への憧れも全て地に落ち汚れた。
そんなもの、何の役にも立たない。最も身近な人物を救う事の出来ないただのお飾りに、何の得もない。
輝きを無くしたそれまでの価値観は、ただの不必要な飾りとなって、彼が捨てるまで時間は掛からなかった。代わりに彼が得たのは、強さへの欲求。名声や勲章だって興味ない、彼自身が冒した罪とあの時覚悟した死への恐怖に勝る、真の強さと肉体、技術への貪欲さをただ抱いた。それが時に、狂ったのではないかと囁かれるほどに。
あれから数年、恐ろしいほど現実的な思考になった事は、影丸も自覚していた。

かくして目の前の女が、アイルーであったという実感は……今もなお薄いままであった。

「はい、お待たせしました。回復薬20個と、研石30個。トラップツール10個。
良かった、ビンとか弾とか頼まれなくって」

ふと気付けば、カウンターにデンデンッと箱が置かれていた。
頬杖をついた影丸の前に、が不器用ながら料金を計算し合計金額を掲示している。

「……なに? どうしたの? あ、もしかして何か間違ってた?」
「ん? ああ、いや、そうじゃねえよ」

不思議そうにするを前に、影丸はごそりと袂から財布を取り出して、合計金額ジャストを差し出す。
それをまた不器用げに数えて、しっかりとレジへしまってから、今一度影丸を見る。やはり彼は、ぼんやりとを眺めていた。変なところでもあっただろうか、と彼女が口を開きかけた時。

「……アンタ、元アイルーなんだよな」

しみじみと、影丸が呟く。
その声は周囲のざわつきで消え、人の耳へ届く事は無いけれど、は少しだけ慌てて声を潜める。

「な、何よ、急に」
「いやー……未だに実感が無いなと思って」
「もうッ。だからって外じゃないの」
「大丈夫だ、どうせ聞こえない。聞いても『変な話してるな』くらいだろう」

それはそうだけど、と渋るの様子から、ああやっぱり元アイルーだったのか、なんて確認する影丸である。

「……いや、気にするな。どうも、アンタとあの桜色アイルーが繋がらないだけだ」

そう告げた影丸は、まるで自らを笑うように、肩を竦めた。
はしばしそんな彼を見つめたが、カウンターの上の物をそのままにしてはおけず、一度それをそっと押した。

「ところで、これはどうする? 影丸の家に、送った方が良いかしら」
「ん? あー、そうだな……いや、自分で持って行く。どうせ直ぐ其処だ」

回復薬20個と、研石30個、トラップツール10個という大量の道具の入った箱を、軽々と片手で持ち上げる。流石は、普段から太刀ではなく大太刀と表現してもよい巨大なあの武器を担いでいるだけある。

「今日は道具の調達?」が尋ねると、彼は少し笑った。

「まあな、最近道具の在庫も見ていなかったし。後で、渓流にも行かなきゃならない」
「そっか……ん、あ、そうだ。影丸」
「ん?」
「良かったら、行く時になったら私も連れてってくれないかな」

両手を合わせ、がそう告げた。
渓流へ、か。ユクモ村を出て馬車を走らせれば数時間程度で到着する近場であるし、まあ構わないので良いとするが、「お前も何か用があるのか」と尋ねる。彼女は曖昧に笑って、また後で話すから、と返した。
影丸はそれ以上聞かず、一度と別れ、自宅へ道具を運び込んだ。
たどたどしいながら詰めていた道具たちは、予想外に全て綺麗に整列し収められていた。

それから再び彼女と会ったのは、アルバイトの時間が終わる夕暮れ時の頃だった。


は、大通りの一角の惣菜屋で購入してきたガーグァ肉の唐揚げと、ペピポパンプキンのサラダを手土産に、影丸の自宅を尋ねた。隠密模様と呼ばれる漆黒のメラルー……ヒゲツが玄関より現れ、中へ入れてくれた。普段目にしている、アカムネコ装備と呼ばれる漆黒の鎧と兜は外し、簡素なチョッキを羽織っている。金色の獅子に似た眼光も、この姿を見ると不思議と可愛く見える。

ヒゲツは階段から上に向かい影丸を呼んだ。彼の声は、二階の自室からだろう、そのまま上がって貰えと返ってくる。誰が来たのか、分かるのだろう。ヒゲツに導かれるまま、はトントンと軽い足で木の階段を昇る。

「突然ごめんね、さっきの事だけど……って、うわッ?!」

は、開いた口から悲鳴を上げた。ビクッと全身を飛び跳ねさせた為に、手土産の袋がガサガサといやに大きな音を立てて揺れた。

なにせ、が自室へ踏み入れた瞬間、目の前には鋭利な太刀の切っ先が。

目を見開いたの足下で、ヒゲツが腕を広げてを押し止める。「旦那、先に言った方が良いニャ……」と呆れたように彼が呟いたが。

「――――― ちょっと待ってろ、直ぐに終わる」

家主の影丸は、特に気にしていないようだ。
は動きを止めて硬直していたけれど、徐々にその緊張を緩めて、ようやく一歩引いた。
文句でも言ってやろうかとも思ったのだが、自室の中で太刀を引き抜き、視線と同じ高さで刃を見つめる影丸の横顔に……その声も、スウッと引いた。

……なんて、真剣な横顔。
普段の邪悪な笑みも、悪戯じみた仕草も、嘘のように消えている。
は、微かに心臓が飛び跳ねたのを覚えた。
刃の光を反射させる彼の黒い瞳は、静寂の中で鋭く細められており、引き結んだ口元は一切の音も息も漏らさない。
の方を決して見ないけれど、きっと今の彼の眼差しは人を縫い止めるほどの鋭利さがあるのだろう。も自然と、声を押し殺した。

影丸の、筋の浮かぶ腕が袖から覗く。真っ直ぐと顔の高さへ持ち上げた太刀を、雪の結晶に触れるように静かに指を走らせ、添えられた手は一つの糸が巡ってピンと伸びている。男性らしく無骨な手には、長い指の先まで、鋭く意志があり、いっそ美しかった。
それだけでなく目を惹いたのは、その太刀。露を纏うように濡れた錯覚すら抱かせる、透き通るほどに輝く白刃だ。涼やかな音さえも、その刀身から響いてくるようである。

……その光景は、とても無遠慮に踏み込めないと、思わせるほど。

は、ぼんやりと、彼と、その光景を見つめてしまった。

「……こんなものか」

掠れた声で呟くと、影丸は長い鞘を取り、手慣れた動きでカシャンッと刃を納めた。
その瞬間、張りつめた糸がようやく解けて。
影丸の表情に、普段の笑みが浮かんだ。

「……なに固まってんだ」

はハッとなって、意識を戻した。
ニヤニヤとする彼の表情に、あの張りつめた緊張と美しさが、一瞬で褪せていくのを覚えた。はあ、と溜息をついて、二つの袋を掲げて見せる。

「道具屋での話の続き、しようと思っただけ。今は平気?」
「ああ、ちょうど手入れも終わったとこだし。適当に其処座りな」

影丸は、身の丈を越える太刀を持つと立ち上がり、壁に立てかける。
は、とりあえず妙に存在感を放つ釜戸から幾らか離れた場所へ座り、袋を置いた。

「手入れか……昼間買った、いっぱいの研石? 全部の武器をしているの?」
「ああ。けどま、よく使う武器だけな。一度には出来ないし、本格的な手入れは加工屋に持ってくのが一番だが」

影丸はそう言いながら、の横へと座り込んだ。いつの間にかヒゲツが茶を持ってきたようで、お盆に湯飲みを乗せて影丸へ差し出す。

「で、渓流に用があるんだっけか?」
「ええ」

は、そっと服の中に隠していた首飾りを取り出した。鈍い銀青色な獣の爪が、の手のひらでキラリと光る。

「この子に、挨拶がしたくて」

の眼差しは、首飾りをそっと見つめている。とても、無機物を見る瞳ではない。まるで大切な人を想うように、切なくも穏やかな瞳だ。
その品が、にとっての宝物である事は、今までの行動で分かる。肌身離さず、常に首に下げたそれは、何でも彼女がアイルー時代で共に過ごしたモンスターの遺品らしいが……。

「ふうん……まあ、別に良いが。アンタ、明日も午前中にバイトか」
「え? あ、うん」
「なら、明日の……アンタのバイトが終わり次第、此処を出発するか」

それまでには足と準備を済ませとくから、アンタも忘れるなよ。
影丸はそう言ってを見る。すると視界に映る彼女の笑みが、一層穏やかに深まっていた。

「ありがとう」

そう告げた彼女の声は、影丸へ告げているのに、酷く遠くで聞こえた気がした。それとも、彼女の声は自分にでは無く、もっと別の場所へ向かって響いているのだろうか。

……何だろうな、やはりは人間であるのか、アイルーであったのか、酷く曖昧なように思えた。
影丸の中でのは、どうにも一線を引いた向こうの存在である。
いや……自分が引いているだけかもしれない、か。影丸の薄ぼんやりとした言葉は、へ向かう事はなく澱となって彼の中に残った。



――――― その翌日の、昼下がり。
約束の通りに、と影丸は渓流へと向かった。
はいつものユクモ村装束にくたびれた大きな鞄を背負い、影丸は着慣れたナルガ装備一式を纏い、留守番となるセルギスとレイリンに見送られた。
影丸は今回、渓流への素材採取ツアーという名目で、アプトノスの馬車を借りて歩かせており、荷駄にちょこんとが座っている。
そんな彼らの、お共には……。

「久しぶりの渓流ニャー!」
「……落ちるぞ、しっかり座っていろ」

テンション上がりっぱなしなカルトと、お馴染みヒゲツ。
いつものどんぐりハンマーを背に、ジャギィの端材から作られる警備隊の制服のような赤いジャギィネコ装備を纏うカルトは、十分に既にオトモアイルーの出で立ちである。そういえば、最近はセルギスのリハビリを兼ねた採取ツアーに出かけていた。
その初々しいカルトの隣で、アカムネコ装備のヒゲツが寡黙にどっしり座っている。正に、先輩と新人の図だ。
ゴトゴトと、長閑に進むアプトノスの馬車は時折賑やかな声を放ちながら、滞りなく公道を進み、渓流へと到着した。
はギュッと、首飾りを握り締める。思えば、人間に戻ってからこの地へは足を運んでいないような気がする……ちゃんと、最後まで終わらせなくちゃ。
静かに馬車から想いを馳せ、ゆっくりと見え始める壮麗な自然……渓流。それをじっと見据えるんの横顔を、影丸は視線だけ動かし窺っていた。



渓流に到着してからは、は先に影丸の採取活動に着いていく事にした。
直ぐにでも向かって良かったが……何だかそれどころじゃないはしゃぎっぷりな子が一人居るものだから、まずは落ち着かせようと思ったのである。
が苦笑いになる視線の先には、馬車から飛び降りるや興奮気味なカルト。両腕を上げ、妙に気合いが入っており、鼻息荒く周囲を見渡している。だがその数秒後、彼の背へ歩み寄ったヒゲツより静かなゲンコツが頭の天辺に落ちてゆき、カルトの浮かれていた目は涙混じりになる。
( それにしてもヒゲツのゲンコツは、誰に対しても平等である )

しばし影丸の、虫取りや鉱石探しなどに着いて行き、時折手伝いながら場所を移動していく。地図もなく進む彼の足は迷う事もなく、広大な渓流をくまなく見ていく傍らで、はその空を見上げた。
澄み渡り、青く染まる空。アイルー時代も高いとは思っていたが、今見ても十分に高い。
静寂と、鬱蒼と満ちる森林、命を育む水、荘厳な景観。今も昔も、きっと変わらない。変わる事はない。がアイルーの姿で体験した事も、様々な出来事があった事も、この悠久の地はただ見つめて過ぎていくのだろう。
きっとの思う事さえも、ささやかな過日の記憶となって。

……らしくもなくそう思ってしまうのは、この地があまりにも大きすぎて、厳しすぎて、自身が取るに足らない存在である事を理解させられるからだろうか。

そっと握った爪の首飾りは、物言わず手のひらに収まる。

「……ま、こんなとこだな」

ピッケルグレートを岩の亀裂に立て掛け、影丸は採掘した鉱石を見定めポーチへ入れる。パンパン、と手の土を払い、周囲を見渡すへ不意に視線を移す。

「懐かしくなったか?」

影丸は意地悪げに告げた。は笑みを返し、「懐かしいっていうか、此処で起きていた事が嘘みたい」と呟く。

「……アイルーの姿になって、カルトと出会って、アオアシラと仲良くなって。ジンオウガ……セルギスさんに出会って。レイリンちゃんやコウジン、影丸にヒゲツ……色々、あったはずなのに」

まるっきり、嘘みたいだった。
此処であの壮大な物語があったとは、とても思えないほどに。

「私が覚えてるから、良いんだけどね」

此の場所に、一時の壮絶な記憶は既に無くとも。
自らの中へ残り続けてゆく事も事実であるから、それを願わくば抱いていたいものだ。

涼しく吹き抜ける風が、の髪を揺らし、影丸の肩を撫でてゆく。
その静けさを払うように、「さて」とは手を合わせた。

「素材集めは終わりそう?」
「ん? ああ、もうこのくらいで十分だな。後は道端の薬草でも採れば良いから、アンタの用事を済ませれば良い」

はパッと嬉しそうにはにかんで、飛び跳ねるカルトを見下ろした。
そう言えば、今思い出したが。
彼女がアイルーとして暮らしていた風景などを、影丸は全く知らない。もちろん、彼のオトモアイルーであるヒゲツも。
いや、それ以前に。

( ……と二人になるのも、そういや初めてかもしれねえなあ )

影丸が、静かに思う事も知らず。
はやや歩幅を大きくし、目的の場所を目指して進んだ。



――――― 移動を始めて、数十分だろうか。
汗の滲む肌が涼しさを覚える、渓流の木々が密集する森林部に到達した。
太古の気品も漂わせる巨大な大樹が佇み、広がった大地は苔や草花が生し緑で覆っている。空をも遮る立派な木々の生み出す木陰の下を、踏み入れたと影丸たちは厳かに進んだ。
周囲には、野生のガーグァが数匹草を啄んでいる。危険なジャギィや ブルファンゴは居ないが、影丸は何時でも太刀を引き抜けるよう気を緩めなかった。が、とカルトは一般人らしくトコトコと無防備に進んでいくものだから、彼は肩を竦める。

「お前ら、もう少し緊張感持てよな」
「あ、ごめんなさい。でも、此処にプロが二人も居るから、安心しちゃって」

ふふ、と笑うは、影丸とヒゲツを見る。影丸の側にいたヒゲツは、無言で顔を背けているけれど、分かりやすく尻尾が踊ってるので感情がダダ漏れだ。満更でもないのだろう、頼られて。

「で、此処には何が?」

影丸が尋ねると、は少しだけ笑みを曇らせた。トコトコ、と進む足が止まって、顔を上げた。仰いだ先に空は無いけれど、それでもじっとして見つめるを、影丸はしばし眺めた。

「……やっぱ、辛かったか」

予想外な言葉でもあったので、はパッと影丸に振り向いた。
彼は「何だよその顔」と意地悪げに呟いたものの、その瞳は冗談めいたものは感じさせない。

「そりゃあね。突然人間の姿じゃなくなって、いきなり大自然でサバイバル生活だもの……きつかったわよ」
「そうだろうな」
「でも……」

は、少し瞳を細めた。

「セルギスさんに比べれば、ずっと私は幸せよ。生きたブルファンゴやガーグァを口で裂く事も無く、同じ人間に襲われる回数だって少なく、しかも七年もその苦痛を味わう事は無かったんだから」

それに比べれば、本当に私は恵まれていた。
今でこそ、言える言葉であるが。

「それに、良い事ばかりじゃなかったけど、悪い事だって同じくらいあったわけでもないし。無事に戻れた今なら、あれはあれで良い経験だったように思えるよ」

カルトも、今こうやってオトモアイルーを志したわけだしね。
笑うの前で、カルトは軽い足で地面を蹴って走っている。

「……そう思わないと、私を助けてくれた小さなあの子に、顔を向けられないしね」

一転し、の笑みに切なさが過ぎる。ふと目に付いた牙の首飾りが、胸元で鈍く煌めく。

彼女の言葉の意味を影丸とヒゲツが知ったのは、それから直ぐの事だ。
は首飾りをギュッと握ると、再び歩き始めた。とカルトの後ろを、影丸らも導かれ着いてゆくと、この場所で最も目に付く巨大な大木の前で立ち止まった。

サァァ、と天を覆う木々の豊かな茂みが、何かに呼応するように音を立て揺れた。

口を閉ざして沈黙したは、一心にその木の……根本を見つめる。少し草が伸びて、こじんまりとした野花が小さく咲いているだけの、何もない平らな地面。

けれどその向こうに、あの日の光景が鮮明に蘇る。

二人のハンター。
小さなアオアシラ。
真っ赤な地面。
そして。

……僕、頑張ったんだよと、笑った少年の声。

込み上げる感情の波が、を震わせる。けれど、何処か落ち着いてそれを受け止めていた。

静寂の中、想いを眼差しで馳せ。

「……アシラくん、遅くなって、ごめんね」

うっすらと緑で覆われたその地面に、膝をついた。撫でるように白い手を重ね、冷たい湿った土に額を寄せる。

その光景は、懇願のようでもあり。
祈りのようでもあった。

陰った景色の中で、のそんな後ろ姿は淡い光を纏うように、影丸の視線を惹いた。
その細い背中から、知らぬはずの彼女が過ごした日々が如何なるものであったのか……ほんの僅かだけ、嗅ぎ取れた気がする。
しばしの間、その地面に祈りを捧げたは、ゆったりと顔を上げて身体を起こす。さらりと揺れた黒髪に、落ちてくる木の葉が掠めていく。

「……貴方がどう思っていたのか、今も分からないけど。私、頑張るからね、貴方の分も」

はそう言って、立ち上がった。
その側に、もぎ取ってきたらしい蜂の巣をカルトが抱えて駆け寄り、地面に置いた。

「――――― もう、良いよ。ありがとう」

そう告げて振り返った彼女の瞳には、僅かに涙が貯められていたけれど。
それ以上に、優しい笑顔に浮かぶ覚悟が、その表情を彩った。
影丸の、今も昔も変わらず抱く苛烈な覚悟。それとはまた違うものであるけれど、根っこを辿ればきっと同じに違いない。

――――― 生かされた者の、覚悟と願い。

きっとも、それを確かに細い身体へずっと宿していたのだろう。
影丸はこの時、そう直感的に思った。そして、に対し薄ぼんやりとしたイメージがようやく色づいて確かなものとなり、彼の奥底に残っていた澱を全て洗い流した。



その後、双方の用事を済ませたと影丸は、休憩を取るべく大河のほとりで腰を落ち着かせた。
すすきが風に揺れる様は、此処がモンスターの闊歩する自然であるとは思えないほど穏やかな静けさだった。木の下の影に座ったと影丸の肩を、ほっと落ち着かせる。
その向こうでは、ヒゲツとカルトが、水辺で魚を追い求めバシャバシャと走り回っている。「おやつニャー!」と叫ぶカルトの声が、少々美しさにそぐわないが。
遠くに聞きながら、が小さく笑うと。
その隣で、影丸が不意に簡易椅子を組み立てて座り、グルグルと肉焼き機を回し始めた。あの鼻歌を、交えながら。

「――――― 上手に焼けましたー! って事で、ほい」

こんがり上手に焼けたサシミウオが、に手渡される。いつ見てもこのナルガ一式装備のクールな横顔と出で立ちから、想像つかない軽快なメロディー。笑いを通り越し、慣れの境地に到達してしまったけれど。
は有り難く受け取って、チラリと影丸を見る。彼はまたも、器用にクシへサシミウオを刺し、肉焼き機へセッティングする。グールグール、と火の上で回す事数秒、上手に焼けましたー!のメロディーが流れて、彼もこんがり魚を持った。
はむ、とお腹に食いつくの視界の片隅で、ナルガヘルムを外しに掛かっている影丸が映り込む。
片手でシュルリと留め紐を解き、後ろから剥ぎ取るように脱ぐ。しばらくの間隠れていた彼の素顔が、渓流の柔らかな光に晒された。
少し汗で張り付いたのだろうか、黒い髪が頬に張り付いており、それをガシガシと無造作な仕草で掻いて端正な横顔をの隣に見せる。何気ない仕草が、女にはない力強さを含んでいるせいか、妙に視線を惹くが……影丸は、気にせずあぐりと魚に食いつく。その食いっぷりもまた、豪快で。

「……どうした、生焼けだったか」

影丸が不意にを見て呟いたので、彼女は慌てて大口で食べた。

「ううん、何でもない。美味しいよ」
「? そうか、なら良いけど」

あむ、あむ

しかし、魚の美味さもそうだが、グルグル回しただけで此処まで美味しくさせる影丸の技術は何なのだろうか。
しばしの間、こんがり魚に夢中になっていたであったが。
隣から、ぽつりと影丸の声が漏れて、咀嚼の動作が一度止まる。

「アンタさ、人間だったんだなー」

まるで、再確認するように。
そう言えば、村でもそのような事を言ってたか。は魚を口元から下ろし、影丸へと顔を向き直す。

「そんなに、アイルーの姿の私の方が良かったかしら」
「ブッ……別にそういう意味じゃねえよ。ただまあ、ちょっとは実感無かったが」

クシを持った手を、膝の上に乗せる。もう片方の手で頬杖をついて、少々気だるくを斜に構え見た。

「今日のを見てて、あれが現実であったと改めて思った次第だ」
「ふふ……現実よ。でもそうよね、あんな事絶対、普通誰も信じないし」

……そういえば、ちょうど、この場所だろうか。
影丸が、セルギス―――ジンオウガと対峙し長きに渡る宿縁と決別を終わらせた場所。

どのような効果があるか分からない謎の動植物の一種、ドキドキノコを口にしたジンオウガとアイルーが人間の姿になるなんて、自身今も不思議だ。本人が摩訶不思議に思っているのだから、周りなんてその倍を感じているかもしれない。影丸だけでなく、きっとレイリンも不思議に思っているだろう。

「……夢じゃねえとは、思ってたが。セルギスが戻ってきて、あの最大金冠サイズのジンオウガはあれからぱったりと消えたし。
ま、今ようやく薄かった実感が湧いてきた」

は、そんな彼の言葉にただ笑みを浮かべた。
否定するでもなく、理由を聞くでもなく、穏やかな心は何故かとても安堵していた。

まるでその言葉で、自身が肯定されたように、思えたからだろうか。
もちろん、この影丸に其処まで気遣う器用さがあるとは思ってもいないけれど。

そよそよ、と。心地よい風が吹き抜ける。居心地の良い静寂が、共に流れた。

「……なあ」

影丸が急に、声に悪戯っぽさを含んで、に尋ねた。

「アイルーの生活の時の話とか、何か秘話とか、あったら話せよ」
「アイルーの生活の時?」
「ジャギィに追いかけ回されたとか、何か無いのか」

何よそれ、とが楽しそうに笑う。
それを見つつ、もう一言付け加えた。

「後は……セルギスの奴が、ジンオウガの姿でアンタと暮らしてた時とか」

途端に、妙に歯切れが悪くなり、低い声もそっぽを向いてしまった視線と一緒に明後日の方角に響く。
だが、は笑みをいっそう深めて、顔を覗き込む。

「ふふ、気になる?」
「まあ、そりゃ……別にアンタの事じゃねえぞ」
「はいはい」

じとり、と影丸の瞳がを見たが。
今のには、怖くも何ともない。
「そうねえ……」が記憶を思い起こして語り始めようとした時、ふと思い至り言葉を変えた。

「……ねえ、そうしたら、影丸の話も聞かせてよ」
「……はあ?」

何で俺、とばかりに彼の目が見開く。
はクスクスと微笑んで、良いじゃない、と瞳を細めた。

「七年前の事も、その間の事も……教えてよ。貴方が言っても良い範囲で」
「……七年前って……前に、話しただろうが」

今でも、あまり良い記憶ではない。
それに以前、アイルーの姿であった彼女に話をした。今さら言う事でも無いだろうに、と影丸は呟くが、肩を並べた隣の彼女は。

「――――― 人間の姿に戻ったからこそ、もう一度聞きたいのよ。貴方の事も、セルギスさんの事も」

微笑んだ瞳は、影丸の不器用な心を静かに捉える。まるで奥深くを見つめようと歩み寄るような、そんな優しさも含まれており、影丸の居心地は妙に悪くなる。
嫌悪感ではなく、ムズ痒さで。
不必要に、手に持ったこんがり魚を揺らしていたが。

「……つまんねえぞ、前にした話なんか。同じ事しか、言えないし」

ただ一言、短く呟く。
はそれを聞き、嬉しそうに頬を緩めた。それでも全然構わないよと、は笑って返した。

思えばその表情は、ユクモ村に彼女がやって来てから影丸が初めて見たとびっきりの笑顔で。
アイルーの顔のそれとはやっぱ違うな、とぼんやり思う事で視線を逸らした彼の横顔は、珍しく穏やかであった。


これを切っ掛けとしてか、今一つ不明瞭であった影丸との爪先の位置が翌日より並んで揃うようになるのだが。
今の彼らはもぐもぐとこんがり魚を食べる、飲み食い仲間になろうとしていた。それはそれで、良い傾向であるのかもしれない。



意外や影丸が人気であった事に驚いたので、彼との話も書いてみた。
いや書く予定ではあったんですがね? 執筆者が「影丸、マジ嫌な奴(笑)」とか思ってたので。でも最高の誉め言葉。
でも意外や彼、人気があって、良かったです。

影丸は、在る意味モンハンという世界観の小説を書く際に一番動かしやすいキャラですしね。
良くも悪くも現実の象徴だから、ぶれる事が滅多にない。
……最初の頃はキャラが立たず、「軸が無い」というも言っていましたが。

そして此処からふんわり夢主と仲良くなれば良いと思うこの頃。
その頃、カルトとヒゲツは一生懸命魚を追っかけてました。

( お題借用:悪魔とワルツを 様 )


2012.09.11