英雄のとある一日

 大陸本土の末端――――其処は、人の知識など及ばぬ、大地の叡智とあらゆる命に満ち溢れた世界。
 渓流、孤島、砂原、火山、凍土、大砂漠……環境も景観も異なる大自然に君臨するのは、巨大な獣や竜――モンスター。時に彼らと共存し、時に彼らと争い、その過酷な環境の一部に居を構え人間たちは暮らしていた。
 やんごとなき貴族たちの、尽きぬ噂や見下した微笑み。黒い政や、富みと貧しさの区別。便利な利器と暮らし。そういった大陸本土の豊かさと生々しさは何処にもない、彼らの心の豊かさに多くの人々が感動さえもした。いつ何が起こるか知れない過酷な環境だからこその、友愛精神の賜物なのだろう。

 大陸本土において、そんな彼らの暮らしは多くの詩人たちが歌い、話の種であった。特に、多くの詩人が熱を込めたのが、人ならざるモンスターと過酷な自然に挑んで未知を切り開いてきた狩猟者――モンスター討伐専門の職業の人間たちである。
 彼らの命知らずな戦いと、過去に英雄と呼ばれたハンターたちの功績は、大陸本土でも羨ましがられ。特に、若い少年少女にとっては憧れであった。
 自分も、竜を倒したい。巨大な獣を倒したい。そして、それを人々に自慢してやりたい。
 そんな可愛らしい願いのもと、たびたび過酷な世界に踏み入れてくる者も、決して多くはなかった。


 ……そんな願いが、時に憧れの的たるハンターたちの邪魔になる事を。彼らは、露とも知らないが。




 ユクモ村近郊に広がる、緑と水源に恵まれた比較的気候も穏やかな渓流は、この日も木漏れ日の優しい晴天に恵まれた。
 海苔の生す大地も、天を覆うまでに茂る太古の大樹も、陽射しに柔らかな反射をしきらりと輝いている。人の手が入らず、踏み荒らされないからこその美しさ。なんて雄大な景色だろうか。

 ……などと、自然の在りきについて語っていられるほど、今その地に立つ影丸は心穏やかではない。

 しなやかな長身に纏う、漆黒の鎧――ナルガ装備の向こうで、影丸の全身は不機嫌に構え、決して見えぬ表情も嫌悪感に歪めていた。組んだ両腕も、面倒くさそうにやや投げ出し佇む足も、別の意味での鋭さが張り巡らされている。たとえ他愛ない冗談であったとしても、今吹き掛けようものなら、その背に負った大振りの薙刀《断牙刀》は迷い無く引き抜かれるだろう。
 もともと愛想は良くない性格であるが、現状はそれを上回る。彼が纏う防具が、かつて自然で生きていた頃の主――迅竜と恐れられた漆黒の竜そのものだ。
 要は、下手に手を出せば、噛み付かれる。

 ――――クソったれが

 影丸は忌々しさたっぷりに、胸中で呟く。もう何度目になるか分からないが、一向に治まり切らない。人としてするべきでない舌打ちだって、構わず盛大に鳴らす。
 その音は、足元で苦く笑うばかりの、アカムトネコ装備を身に着けたメラルーのヒゲツにしか聞こえないが。

「旦那……受けてしまったものは仕方ない。今日この一日だけなのだから、最後まで果たすニャ」
「別に俺が受けた訳じゃない。ギルドマネージャーが勝手に俺の名を書いただけだ、あんの酔っ払いめ」
「そう声を荒げたら、依頼主が何を言うか分からないニャ」
「クッソ……腹が立つ。俺は絶対に、この手の《依頼》は受けたくねえって、何度も何度も言ったってのに」

 ゴゴゴ、と怒りの炎が背後で立ち上ってるようにさえ見えた。渓流の涼しい緑が、彼の周囲にだけ火が燃え盛り焦げている。
 ヒゲツは「やれやれ」と首を振ったけれど、影丸は乱暴に息を吐き出した。
 そんな彼らの先では、何の緊張もなく突き進む、一人のハンターが居る。いや、纏う防具も武器も姿形こそはハンターであるが、その身のこなしや緊張の欠片のない自尊心の塊は、とても影丸の同業者とは懸け離れている。あれがまさに彼の不機嫌さを煽っているのだが、強く言えないのも現状である。

 なにせ、これが今回の《依頼》なのだから。

「グズグズするな、さっさと着いて来てくれないか」

 ハンター……の身なりをした、影丸よりも年下の貴族の青年が、声を荒げた。
 うるせえ、ろくにこの地帯の地理も詳しくないくせに進みやがって。
とは思いながらも、影丸はギリギリのところで堪えて、「分かってます」と答える。そうすると青年は「本当はこんな付き添いハンターは必要ないのに」とか何か好き放題に言っているが、完全に無視。出来るものならば今すぐにでも「そうですかじゃあ一人で頑張って下さい」と放り出して帰りたいところだ。だがそんな事をすれば、ギルドとハンターの信用問題に関わる。しかも特にこの手の依頼は、粗雑に扱えば後で厄介事が必ず報復がやって来ると決まっている。
 適当に散策して、大型モンスターに遭う事無く帰るしかない。
 影丸は再び溜め息を吐くと、青年に歩み寄った。尊大な態度に構えているが、本職連中と比べれば断然軟弱な身体つき。多分ブルファンゴに突進されたら、防具があっても喚き散らしそうだ。

「……早く村に帰りたい」
「何か言ったか?」
「いいえ、何も申しておりませんよ」

 ゆったりと、けれど棘を含んだ声で。
 影丸の足元のヒゲツが、再び苦く笑ったが気にしなかった。

 モンスターの脅威を取り去る唯一の職であり、末端のこの世界では人気職である、ハンター。
 死も厭わずに自ら危険の中に飛び込む彼らを、多くの詩人が歌った。巨大な竜と獣に立ち向かい、未開の地を切り開く彼らこそ勇者であれ英雄であれ、と。
 だが、そんな勇者たちも「絶対に請け負いたくない」と。滅多な事がない限り首を縦に振らない依頼が、世の中に存在している。
 それが今回、影丸が意図せず了解もしていないまま受けさせられた、この依頼だ。
 ハンターに憧れる、あるいはそういった話をステータスにしたい、大陸中央貴族の若いお坊ちゃまお嬢様の護衛と案内。
 多くの依頼の中で、もっとも過酷でしかもくたびれ損と名高い依頼である。

 モンスターに立ち向かう唯一の人間、ハンター。彼らは普段から大型モンスターばかりを相手にしているという思われがちな見解は、そもそも間違っている。勿論、大部分はその狩猟依頼である事には変わりないけれど、人々の生活を支えるのはそれだけではない。例えばその地域限定の草花や流通しない食用キノコの納品依頼、珍味でもある竜のタマゴの運搬依頼など、そういった狩猟から離れた依頼も多くあるのだ。
 ただ、その類の依頼はまだまだ経験の浅い新人ハンターに回されたりして、ベテランともなれば殆どが狩猟依頼を好んで受注するだけなのであって。
 一般人が向かうには危険な自然を歩ける、という事でも、ハンターは重宝されているのだ。
 他にも、商隊の護衛であったり、公道の確保であったり、はたまたユクモ村のように温泉施設拡大の依頼だったり。まあ依頼内容は、多種多様でかなり雑用にも近い、それがハンターである。
 さて、そんな中異彩を放つこの依頼――貴族の息子や娘の、ハンター体験の護衛兼道案内の依頼。一見簡単そうだし、初めて見聞きしたハンターはその高額な報酬金に目が眩み、嬉々として受けるだろう。案内すれば良いだけなのだから、別に楽勝じゃん。
 だが、そういった者は決まって依頼を終えた後、疲弊しきった死者の顔で帰って来る事を彼らは知らない。
 何せこの依頼、さすが裕福層からの依頼だけあって報酬金は高めに設定されているが、なんてったって依頼主は貴族。モンスターと隣り合わせのこの世界において、大して役にも立たない自尊心と気位の高さだけは飛び抜けており、これを傷つけようものなら烈火の如く怒り狂う。その上、護衛対象のお坊ちゃまお嬢様に何かあろうものなら、その家から大変なお叱りを頂く事になるのだ。その辺についてはギルドも面倒くさい事を分かっているので、ハンターを咎めはしないが、その家がその後ねちねちと報復じみた嫌がらせをしてくれば、ハンター生活あがったり。お飯の食い上げ状態に陥る事だって、可能性としてはあるのだ。
(伊達にハンターではなく、モンスターの素材は売れば非常に高額なので、財源はさほど問題ではないのも事実だが)
 ハンターに憧れる事は、一向に構わないと思う。だが、いつ何時、何が起こるかも知れない未知の自然で、経験ゼロの坊ちゃまお嬢様が先頭きって進むのはどう考えたって自殺行為だし、それを咎めた熟練ハンターが怒られるのもおかしな話だ。
 金は良いが、精神的疲弊も絶対的に約束される。それが、貴族の体験依頼。

 経験者は、かく語る。
 これなら裸一貫でブルファンゴの群れに突撃する方がまだマシだ、と。

 そんな風に重く語った知り合いのハンターに、影丸は今なら激しく同意出来る。今の今まで狩猟依頼ばかりを受けていた影丸が、当然そんな案内役をする依頼なんて過去受けた覚えは無く経験は無いが、あの顔を見ればともかく厄介な依頼である事は容易に理解出来た。だから今まで、絶対に受けるつもりはなかった。

 ……それなのに。

 ……それなのに、だ。


「とある良いとこの貴族から、そのご子息の護衛依頼があるんだけど。誰か行ってくれない?」

 ――――数週間前の事。
 突然そう告げたギルドマネージャーが、真っ先に影丸を見た。
 その時は、影丸は目も合わせず「絶対に嫌だからパス」と告げて温泉に入りに行った。だがその後、きっと足を理由に前線を退いてリハビリ中のセルギスに断られ、お人好しだがろくな失敗をしないレイリンは候補から消去され、最終的に影丸に決定したのだろう。しかも、了解もなく。
 これには影丸でなくても、きっと誰だって声を荒げただろう。しかしながら、ギルドマネージャー曰く「貴族方の依頼は早く消化した方がこっちとしても気が楽」という言い分も分からないでもない。だが、何でよりによって自分。他に回せ。山ほどハンターは居るだろう。しかし影丸がそう言った時には既に遅く、その数日後噂の貴族がやってきた。
 そう、今影丸の前に居る、この青年だ。
 集会浴場に現れた彼は、下位の防具であるが真新しいピカピカな火竜の装備を纏い、片手剣を腰に差していた。その様子はハンターらしい出で立ちだった。だが、軽薄な構えと尊大な態度に溜め息が漏れたものだ。あれじゃあ、ジャギィともまともに戦えないかもしれない。いや、ケルビに蹴られて吹き飛ぶのが関の山だ。
 大方、武器と防具は金銭で入手したのだろうな、大した財力だ。あのヘルム一つを造るのに、どれほどの危険と渡り合い、どれほどの大金が必要となるのか、ハンターならば誰もが知っているというのに。

 今回は、近郊に広がる渓流に向かい、周囲の散策とハンター生活の体験をする予定だ、という説明をギルドから聞く傍ら。
 影丸は、セルギスとレイリンを思い切り睨んでいた。が、セルギスは気にする風もなく「頑張って来い」と笑い、レイリンはセルギスの身体の後ろに隠れて「気をつけて下さい」と遠い応援をした。
 この時の影丸の目は恐らく、狂暴竜イビルジョーをも越えた憤怒に満ちていただろうから、レイリンの胸中を思えばいじらしい勇気に溢れている。が、そんなもの影丸にも通用しない。
 さて、そのハンター体験をするという貴族の青年は勿論、聞きもせず物珍しく周囲を眺め斜に構えていた。何の根拠があってか、大丈夫とでも思っているのだろう。自分が剣の扱いを心得ているし、盾になる為に存在する案内役がいるのだから、と。
 ちなみに盾というのは、何か起きた場合に露払いをする影丸の事であるが。
 酷く先が思いやられながら、影丸と青年、そしてオトモアイルーのヒゲツは旅立った。
 その杞憂は、渓流にやって来てからまざまざとはっきり形になっているのだが。

 ……こうなれば影丸も腹を括って、さっさと終わらせるべく奮戦する。
 しかし、彼がここまで苛立ちを露にしているのも、今日という日にこんな依頼をさせられている事が要因であった。
 今日は、先約があったのに。思う影丸の脳裏で、彼女が笑った。
 仕事なら仕方ないよ、明日でも良いから。そう気にした風もなく告げた彼女に対し、申し訳が立たない。

(……悪い、

 出来る限り早く戻る、と心の中で何度も思う影丸は、珍しく誠実に謝罪の念を抱いていた。
 それを、目の前を突き進んでブルファンゴに突進されるお坊ちゃまが、知る訳が無く。喧しい悲鳴を喚き散らす青年に、痛い頭がさらに痛みを増す中、仕方なく太刀の柄に手を掛け、駆け出した。

 陽は未だ、昇りきらず。長い一日となりそうであった。




 ――――影丸がその頃、貴族の青年のガイド兼護衛を渋々している時。

 観光客や湯治客で賑わう、ユクモ村の大通り。それを横切りなだらかな傾斜を登ってゆくと、ユクモ村の長閑な住宅地へと踏み入れる。民家が点在するその区域の奥まった場所に、の借りている家屋があった。
 太陽はすっかり登り、朝の静けさが昼の賑やかさへと既に変わっており、耳を澄ませばこの場所にも湯治客やハンターたちの声が聞こえてくる。

 影丸が依頼に出かけてから、もう二時間近くは経っているのか。今頃は、渓流に到着しているのだろう。

 はふと思い、自ら用意した茶を啜った。
 今日は、影丸と過ごす予定であった。これといった計画を立てたわけではなく、最近狩猟依頼が続いていた影丸のたまの休み、のんびりとの家で過ごそうという約束を交わしていた。なりにも、楽しみにしていた。茶菓子も用意して、掃除も済ませて。そうしてその当日である今日、朝方聞かされたのは彼のこの言葉。

「急な依頼を押し付けられた」

 ……あんぐりと、口が開かなかったわけではない。ただ、どうして、なんて尋ねはしなかった。それが影丸の職業であるし、約束した日にわざわざ別の用事を入れるほど彼は適当ではない。筋をきっちり立てるのが、彼のやり方だ。普段は邪悪に笑う影丸の顔が、酷く申し訳なさそうに陰っているのを見て。彼も本当に残念に思っているのは事実だと、は責めたりしなかった。

 依頼ならしょうがないよ、いつでも平気だから。

 は笑って影丸を送り、そして現在、一人静かに寛いでいた。別に茶菓子が腐るものではないし、依頼自体は今日一日で終わるものとの事だ。なら目くじら立てているよりも、静かに無事帰還するのを待っていた方が良い。
 ……ただ、まあ。女心としては、落胆してしまったのも、嘘ではないのだけれど。

「……ま、しょうがないな。その内戻って来るし」

 ズズ、とお茶を啜る。そう言えば、後になって聞いた話であるが、影丸へ急遽振りかかった依頼というのが、何でも大陸中心の貴族のハンター体験、などというのだが……。ハンター体験って、あんなの体験したい人が居るものかとは思った。大陸の端っこならではの世界というものだろうが、そんな気楽にホイホイ飛びこめるのかと心底不思議に感じたものの、セルギスやレイリン曰く、大陸中心にはモンスターという獣たちは居ない。大きな竜や獣と、それを倒すハンターに憧れるお坊ちゃまお嬢様は意外や多いんだ、との事。苦笑い混じりで教えてくれたが……モンスターとハンターの現実を知らぬは当人たちのみ、という事か。
 案内役、そして万が一の時の護衛役。護衛に関しては確かに影丸の腕は高いのだろうが……あの男が、大人しく後ろについているとも思えない。陽はまだ昇ったばかりの空を窓越しに見上げ、一体帰りはどうなってくるやら、と想像つかぬ光景に想いを馳せた。


 が暢気に茶を啜っている、その頃。
 その影丸はというと、恐らくどころかセルギスたちの予想も大きく上回り、大惨事と化した渓流で駆けずり回っていた。



 ――――……渓流に到着して、未だ数時間。
 影丸の気力と僅か残っていた自制心は、既に薄ぺらく磨り減り激減していた。涼しい風が吹き抜けるたび、辛うじてくっ付いているそれはピラピラ揺れ、いつ千切れ吹き飛ぶか最早定かでない。既に死しているはずの鎧が、怒りに猛る迅竜の気迫を宿し黒いオーラを放つ。物言わぬ自然が、影丸を中心に黙りこくるようでもあった。

 影丸は、声を大にし、喉枯れるまで叫んだ。こんな依頼を押し付けた、ユクモ村支所のギルドマネージャーへ向け。そして、あの馬鹿な貴族の坊やへ向けて。


「ふぶぁふぇんばお、ほぁのふほぐぁふぃーーーー!!」
(※訳:ふざけんなよ、あのクソガキィーーーー!!)


 ただしそれは、野を超え山を超え温泉の村へは行かず、渓流を流れる清らかな河の水面下で爆発するに留まった。
 とはいえ、影丸の叫び声に比例し、爆発する水泡の激しさは煮える熱湯よりも凄まじい。水際へ両膝と両手をつき四つん這いになり、水中へ突っ込んだ影丸の顔の周囲は、ボコボコと白く泡立っている。勿論その声は水中で抑え込まれてはいるが、何かの怒りを河へぶつけるその光景は鬼気迫るものがあっただろう。河の中の魚も、付近を通りがかったガーグァも、一目散に逃げ出していたのだから。

 しばらくそうして怒りを水中に発散させた後、影丸はザパリと顔を上げた。水に濡れる頬は引きつり、眉はむつりと歪んだままだ。多少は治まったが、吐き出す息は荒っぽく響いた。ポタポタ、と伝い落ちる雫を払いながら、額に張り付く黒髪を掻き上げる。現れた瞳は、水面に映る自らの顔を見て影丸でも自覚する通りに、何処までも苛立ちにぎらついていた。近くに準備しておいたタオルを掴み、頭に被せる。

「――――旦那」

 ズボッと地面の下から現れたヒゲツに呼ばれ、影丸は顔を拭きながら振り返る。アカムネコ装備のベテランオトモの顔は、すっかり疲れ果て消沈していた。ヒゲツのオトモ経歴は非常に長い、それこそ影丸のハンター経歴よりも遥かに、だ。新人時代の馬鹿な影丸を指導した、と言っても過言でなく、ヒゲツの働きぶりはそんじょそこらのオトモアイルーやハンターとは訳が違う。そんな彼が露骨に疲れた顔をするのは……よっぽど今回の依頼主は、枠に留まらない大馬鹿者らしい。
 影丸は小さく息を吐き、「居なかったか」と呟く。尋ねなくとも、ヒゲツの顔を見れば一目瞭然の事だ。

「ああ……すまない、この辺りには居そうなんだが」
「どうせ喚き散らしながら、適当に走り回ってるんだろ。あのクソガキ……」

 パン、と音を立て広げたタオルを、首に掛ける。ナルガヘルムを小脇に抱えて、重い腰を上げた。

「だからこの手の依頼は嫌なんだよ。ったく、終わったらギルドマネージャーに苦情入れてやる」
「気持ちは分かるが……まずはその依頼主を見つけて帰還するのが先だニャ」
「分かってる」

 もっとも、その探すのが、今面倒な事になっているのだが。
 怒りで影丸の眉がピクピク震える。彼の足元に居るヒゲツも、大きく溜め息をついた。


 ――――金にものを言わせ一式揃えたと思われる、レウス装備の貴族の青年。
 ハンターという本職に就く影丸からすれば、青年の行動は非常識でさらに役に立たない自尊心だけは人一倍高く。はっきりと申してしまえば此方の業界では自殺行為をそのまま人間にしたような存在であった。
 影丸が当初予想した通りに、青年はわざわざ遠くに居るブルファンゴへ喧嘩を売り、縄張りを荒されたと思ったブルファンゴの有名なあの突進(如何なる防具を着ていようと数メートル吹っ飛ばすあれ)を真正面から受けて彼方にまで転げ。かと思えば喚きながら、自分は貴族のどうのこうのと能弁垂れて。さらにその声を聞きつけたジャギィなどが群がり、小馬鹿にしていた影丸へ結局助けを求めて来る。
 求めようがそうでなかろうが、依頼主を守る契約を交わしてしまった以上、嫌でもそうしなければならないのは影丸の役目であるのだが。

 だからあれほど、余計な事はするな、何かする場合は声を掛けろ、自然を甘く見るな、と言ったというのに。

 何度告げても、彼は聞こうとしない。いや、多少は分かってくれているかもしれないが、大陸中心とは違う生態系を持つこの世界に、興奮し逸っているのかもしれない。ブルファンゴやジャギィ、さらにはオトモアイルーのヒゲツにまで、此方では大して珍しくない生き物にも逐一驚いているようでもあったのは確かだ。単純に、素直にそうしてくれるなら可愛いものだが、余計な喧しさが付いてくるのが耳に痛い。
 貴族とかいうものは、皆こういう人物ばかりなのだろうか。それとも、影丸の運が無さすぎたのか。
 お気に入りの自慢の獲物――薙刀の形状をした太刀《断牙刀》を振りながら、かつて此れほど虚しい依頼もあったのかと自問自答する彼であった。

 ただ、一つ問題が浮上した。
 そうして青年が騒ぎたててくれるお陰で、渓流の空気や獣たちの様子が、にわかに変化し始めたのだ。自らの庭に等しい渓流が、普段の顔つきより厳しくなっているのが分かり、影丸とヒゲツは緊張を抱いた。
 これは冗談抜きに、早々に切り上げた方が良い。
 ブルファンゴ程度ならまだしも、素人を連れて竜に遭遇してしまったらとんでもない。青年は恐らく、その竜に会い倒してやりたいなどと思っているのだろうが……実物を見ていないから夢見がちで居られるのだろう。次の瞬間、誰の腕が、誰の足が、誰の頭が、無くなっているのか分かりはしないのに。

 青年を何度も助けながらも、道すがら案内はしたし、動植物の説明もしてやった。役目は十分に果たしたし、依頼主には悪いかもしれないがユクモ村へ戻ろう。
 そう告げようとした――――矢先の事であった。群がるブルファンゴの騒動の中で、青年は忽然と何処かへ消えてしまった。

 そして、影丸の怒りが、此処に来てついに爆発。水中で叫んだ現在に至る。


「どうも空気が怪しい、早く見つけ出して帰った方が良い」

 ナルガヘルムをしっかりと装着した影丸へ、ヒゲツは頷いた。
 しかし、この近辺はもう探し尽くした。後探していないエリアは……と考えた時、影丸の脳裏にある場所が浮かんだ。其処は、《渓流では一番危ない場所》として青年にも口酸っぱく伝えていた場所。まさか、とは思ったが、ヒゲツを連れ向かった。

 竜の巣が頻繁に作られる洞窟――即ち、滝の裏に広がっている鍾乳洞。

 ……本当に居たら、鼻で笑ってやる。一体どんな進み方をしたらそんな場所へ突撃するんだ。
 影丸はそう思いつつ、重い足を運んだ。



 かくしてはぐれた貴族の青年は、本当に其処に居た。
 地面と洞窟の天井を繋ぐ自然の柱が立ち並ぶ洞窟は、地下水脈が轟々と流れて冷たい空気が満ちており、緑豊かな森林とはまた異なる美しい風景でもあった。が、影丸は景色に関心はせず、ツカツカと青年に近づく。青年は岩の陰に身を潜め、周囲を窺っていた。が、同じ人間から見て丸分かりなのだから、モンスターにとっては格好の餌だろう。重くなった頭へ追い打ちのように眩暈がし、影丸は呆れ果てたものの辛うじて声を掛ける。

「……此処に居ましたか、探しましたよ」

 努めて、冷静に。内なる怒りは抑えて、冷静に告げた。
 青年は肩を震わせたが、影丸とその足元のヒゲツを見ると立ち上がった。そうして一気に捲し立てる事には「遅い、今まで何をしていた!」である。それはこっちの台詞だ、と言いそうになったが、辛うじて喉の奥に留まった。

「離れないようにと言ったはずです、どうして、しかも此処へ来たんですか」
「あと声が大きいニャ、もっと静かにした方が良い」
「質問をしているのは僕の方だ。答えろ」

 ……本当、礼儀もなっちゃいない。影丸は眉をピクピク震わせながらも、大きく息を吐き出す事で耐え「あちこち探していたんですよ」と告げた。青年は年上のハンターを、例えは悪いが従えた事に満足したようで、彼も答えた。つい、と青年の指が動き、何かを指し示す。
 大きく穴の開けた岩盤の天井から、光が差し込んでいるその真下付近。大きな巣の中で、光を浴びながらもぞもぞ動く小さな影。
 影丸とヒゲツの目が、一瞬にして見開かれた。

「お前たちと別れた後……頭上を影が通って行って、追いかけたら此処に。あれは何だ、さっきのジャギィとか呼んでいた生き物とは別の、何かの子どもか」

 無頓着にそう言う青年の口を、今すぐ縫いつけてやりたかった。モンスターという生き物を見た事がないから無知でも仕方ないだろうが、あの子どもを見てこうも堂々と構えられているのは、色々な感情をすっ飛ばして尊敬すらしたくなる。
 小さいながら、背から伸びる翼。どう見てもあれは――――飛竜の子どもだ。

 ……影丸の耳には、この狩猟区域に脅威があるという話は届いていない。ギルドで認知していなかったものだろう。
 最悪だ。子どもが居るという事は、即ち――――。

 と、度重なる眩暈にふらつく影丸の正面で、青年が何を思ってか無警戒で近づこうとする。ヒゲツが咄嗟に足を掴んで引きとめたものの、彼は煩わしそうに振り返った。見た目はメラルーでも超ベテランのヒゲツ、毅然とした態度で青年に対し告げた。

「あれは飛竜の子どもだ。ホイホイ近づくものではないニャ」
「飛竜? へえ……あれが……竜なのか」

 妙に楽しそうな、青年の声。それを聞き、嫌な予感が過ぎった影丸は、割り込むように「ともかく」と告げた。

「竜の子どもを見つけた以上は、引き返した方が良い。ユクモ村へ戻りましょう」
「なに? 何故戻る?」
「……は?」
「せっかく見つけたんだ、もう少し近くで見てみたい」

 あんまりにもすっとぼけた発言に、影丸は口を開かずには居られなかった。は? 何? このお坊ちゃまは今、何をほざきやがりましたか?
 ペットとは訳が違う、子犬や子猫と同レベルに見られたら困るというのに、青年はまた無警戒に近づこうとしていた。ヒゲツが案じて必死に引き留めるも、青年はやけに得意げに「僕に逆らうのか」と言い放つ。
 影丸の後ろ頭が、冷たい怒りで逆に冴えた。なるほど、依頼主と護衛の立場を取るというのか。だから多くのハンターたちはこの手の依頼を嫌がって受けようとしないのだろう。
 影丸は腕を組み、しばらく沈黙したが、「分かりました」と打って変わり肯定した。ギョッと目を剥いたのはヒゲツであるが、影丸は淡々と続けてゆく。

「ハンター体験、というのが今回の目的です。広い意味で、これから起きる事も体験内容の一部にしましょう。
その代わり――――竜の子どもには絶対に触るな。生きて戻りたければ、余計な真似はするな。俺は一切手出ししない。……これが俺から言える、最後の忠告です」

 ヒゲツが、足元で慌てて口を挟む。それは完全に、プロが素人を放り投げた宣言である。だが、青年は不思議そうに首を捻ったもののあっさり頷き、嬉々として歩き出した。細い頼りのない背中を見送り、影丸は近くの岩に背を預ける。ポーチを掴んで中身を確認し始めると、ヒゲツがそわそわと視界に入ってきた。

「旦那、彼を行かせるなんて」
「本人が行きたいらしいんだ、これも体験依頼の一つと思えば良い。ま、多少“命の危険が高い”体験だけどな」
「高いどころではないだろう、下手したら彼は……」
「まあ死ぬな。だがあんだけ口で言って聞かねえんだ。なら身をもって覚えて帰って貰う。貴族のボンボンが憧れだけで飛びこめる世界じゃねえってな」

 さすがにあの青年でも、嫌でも理解するだろう。確実に。
 あんまりにも素っ気なく、冷淡に告げるものだから、ヒゲツは別の意味でも溜め息をついた。

 影丸は、普段自らが公言する通りに、優しい性格ではない。場合によっては鬼と化す事もあるが、よほどの事がない限り手放しをする事はない。新人時代のレイリンを、なんだかんだで世話を焼き、現在の立派な上位ハンターにまで鍛え上げたのだから。(そのやり方についてはさておいて)
 ただ彼は、非常に現実主義者。夢や希望を語るのは構わないが、現実を見ていないものであれば容赦なく水を差すような、人によっては冷徹と捉える性分だ。それはかつて、彼が新人の頃にしでかした行いにより、青臭い正義感や英雄への憧れが全て地へ堕ち、今も彼はそういったものを見ると目を顰めた。
 特に、脳内お花畑な人間や、英雄気取りな人間、など。

 ……依頼として受けた以上は、必要最低限守ってやる。だが、多少の灸を据えても罰は当たらないと、彼は思っていた。

「さすがに見殺しにはしないけど、まあ、ちったぁ学んで貰わねえと困る」

 言いながら、影丸はポーチの中身を取り出す。閃光玉、煙玉、角笛、生命の粉塵……普段はあまり持ち歩かないような補助道具も軒並み入れてきて、正解だった。ただモドリ玉をうっかり忘れてしまったが、まあ仕方ない。
 さて後は、“あれ”の登場を待つだけであるが……と、影丸が意地悪く待っている間に、ヒゲツはやはり青年のもとへと駆け寄っていった。あれは自分とは違う、元の主人の性格が引き継がれているからだろう。と云うよりは、本来取るべき行動の鑑である。ああして振る舞えないのは、影丸もまだまだ幼稚であり、散々我がままに付き合わされた怒りが抑えられていない証拠だ。影丸は自覚しつつも、静かに瞼を下ろした。

 飛竜の巣へノコノコ近づいてゆく青年は、巣から一メートルもないところで眺め始める。ヒゲツはせめてそれ以上近寄らないようにと、青年の足を掴んだ。

「何だ、少しくらい良いだろう。……へえ、これが竜の子どもか、案外可愛いな」

 大きな巣の中で、幼竜数匹が顔を上げ、青年を発見する。予想の通りに、幼竜はピャーピャーと騒ぎ始め、鍾乳洞内が静かなせいか岩盤にそれはよく響き渡った。まだ可愛げのある声の為か、青年はむしろ笑って聞いていた。

「はは、子どもなのに威勢の良い声だな。それにしても、本当に不思議な生き物だ……都市には居ないから、良い土産話になりそうだ」

 伸ばそうとした青年の腕を、ヒゲツは叩き落した。途端に表情を不機嫌に歪めた青年であるが、それ以上にヒゲツの目は威圧を込めて下から睨みを利かせた。メラルーといえど獣、その目つきの鋭さは人間以上である。

「もう良いだろう、止めておけ。旦那があれだけ止めろと忠告をした理由が分からないのか」
「は?」
「……本当に分からないんだな。貴方はこっちの世界じゃ早死にするタイプだニャ」

 やれやれ、と大袈裟にヒゲツは落胆して見せた。馬鹿にされた、とそういう自尊心ばかりはいっちょ前の青年は、レウスヘルムの向こうでさぞや激昂している事だろう。目が見えないのを良い事に、ヒゲツは気にした様子も無く告げる。

「貴方は今その子どもを、可愛いと言ったニャ。ついでに威勢の良い声だとも。
――――その可愛い竜の子どもが、今懸命に鳴いているのはどうしてだと思うのニャ」

 ピャアピャア、と絶えず響くその甲高い声は、岩盤を震わせるほどの声を上げている。青年は幼竜を一度見て、それからヒゲツへと再び視線を下げる。その緩慢な動作に、ようやく何かを察したのかとも思うが、ヒゲツも影丸も既に遅い事を理解している。
 あれだけ静かだった空気が、甲高い鳴き声を切っ掛けに不穏なざわつきに満ちてゆく。分かり切った予想が、現実のものになっている。思いもしないのはこの青年だけだ。

「子どもが居るという事は、必然的にその親が存在する。どの世界でも、子どもに危険が及ぶと親は助けようとするが、竜も同じだ。いや、竜の方が、もっと強烈かもしれないな。
……ほら、聞こえないか。その“親”が、どうやら駆け付けたようだニャ」

 緊張に張ったヒゲツのヒゲが、ひくりと揺れる。遠くで傍観を決め込んだ影丸も、片目を開きその気配を察した。

 洞窟の頭上で、何かが羽ばたいている。力強く、バサリ、バサリ、重く風を押し切る音が次第に近付く。勿論、鳥ではない。

 急速に距離を縮める巨大な生き物を、青年も恐らく本能的な部分で感じ取ったのだろう、途端に狼狽し周囲を見渡している。巣の中で鳴く幼竜も、より力を入れて騒ぎ立てた。

「おい、ハンター! 何が……」
「だから忠告したんですよ。言っときますけど、さっきそっちが了承した通りに俺は手を出しませんからね」

 影丸はわざとらしく、顔を背けた。な、と青年が批難めいた声を出した――――瞬間だ。
 空を覗かせる穴の開いた洞窟の天井より、降り注いでいた陽の光がふつりと途絶える。幻想的な鍾乳洞の景色に、不気味な黒い気配が現れる。否、それは影だった。巨大な生き物の陰影が上空より飛来し、丁度巣の背後へと着地した。岩の地面を踏みつけた振動と音は、それまで洞窟内部にあった騒がしさを全て吹き飛ばすほどの重厚な響きであり、青年も口を閉ざす。むしろ、喋られる方が凄いというものだ。

 我が子の声を聞きつけ、駆け付けた親は―――深緑に染まる鱗を纏う、巣の中の子どもとは比べ物にならないほどの貫禄を放つ飛竜。
 空を根城にする雄の火竜《王者》と対になる、陸上戦に特化した雌の火竜《女王》こと、リオレイア。
 この世界では、名の知れた有名な飛竜だ。

 “どちら”が駆け付けるのかと思っていた影丸、彼女が現れた事に関しては驚いてはいない。ただ、少し予想外であったのが。

「……また随分、立派な“お母様”だな」

 影丸も無意識の内に呟くほどの、それは立派な巨体のリオレイアであった。翼の大きさも、足の太さも、巨体を覆う鱗や甲殻の厚さも、どれを取っても称賛に値する屈強さ。若い個体ではない、戦いの場数も恐らく相当の回数をこなしている。現職の、それも上位ハンターが唸るほどの、だ。ギルドで規定されている、最大金冠サイズにも匹敵する。或いは、それだろうか。
 その上、子育て中の彼女は非常に気が立っており、既に今その顎からは火の粉が噴き出し燻っている。これは、いよいよ青年が生きて村に戻れる確率が低くなってきた。しばらくの間は傍観をしようと思っていた最低なハンターも、薙刀の柄を掴み腰を上げた。

 突如現れた巨大な竜に、真正面から視線がぶつかってしまった青年は、思考すら回らないほどの恐怖に愕然とした。
 獰猛な瞳が、目の前で二つ、鋭く輝いている。先ほど見た、ジャギィやブルファンゴという生き物とは、比べる対象にならないほどの凶暴さ。頭だけでも青年を丸のみ出来る大きさだというのに、その体躯などもう視界に収まりきらない。目の当たりにする、未知の生き物、そしてその大きさに、動きが取れずに居た。
 そんな青年の様子を見て、ヒゲツは剣を構えた。メラルーサイズとはいえ、火山峡谷の主の肉体から作られた一振りは、雌火竜の炎に負ける事はない。だが、素人を連れた状態では、どちらが優位かなど、わざわざ考えるまでもない事だった。

「……下がれ、旦那のところにまで」

 青年の前に立ち、ヒゲツはその足を押した。震えたその二本の足は、下がろうとしない。下がれないのだろう。ヒゲツは、語尾を強めて再度告げた。

「早く、下が……?!」

 ヒゲツはハッと息を吐く。目の前に佇んだリオレイアが、巨体を持ち上げて息を吸い込んだ。ヒゲツはその動作に何が来るか即座に反応し、無防備に突っ立ったままの青年を蹴り飛ばした。思いのほか力が入ったらしく、青年は後ろに吹っ飛んでしまったけれど、これくらい咎めないで貰いたい。
 直後、リオレイアの口が大きく開かれ、身体の芯にまで響き渡る咆哮が放たれた。幼竜の鳴き声が別の意味でも可愛く聞こえる、迫力ある怒号。何度聞いても神経が震え上がる、【耳栓】が無ければ蹲っているところだ。プロでさえたじろぐ声なのだから、素人が浴びてしまえば、今もヒゲツの背後で聞こえる情けない悲鳴の通りに、パニックに陥るだろう。
 それを合図に、リオレイアは我が子と巣を飛び越え、侵入者を追い出すべく猛然と突進を繰り出した。ヒゲツは咄嗟に避けたが、本物の竜の咆哮にすっかり威勢の無くなった青年は地面へ転げたまま立ち上がらない。ヒゲツはリオレイアの後ろを追いかけた。

 青年が顔を上げた時見たのは、火を燻らせながら自らへ突っ込んでくる、竜の顔であった。息を吸い込んだ、けれど悲鳴を上げるには遅すぎる。
 生まれ育った大陸の中心は、人間が何人にも危険に侵されず暮らす、利便性の高い都市だった。青年も、詩人の唄を聞いた口だった。世界の末端、雄大な自然が広がる大地に生きる、巨大な竜や獣たち。そして、そんな生き物に挑む、末端の人――ハンター。彼らを英雄であれ、勇者であれ、と褒め称える唄に、夢を抱いたのも事実だ。竜を倒す人間、自分もそうなれるのかと。或いは、自慢話になるかと。
 甘く見ていた、見過ぎていた。火を吹き、空気を震わす、凶暴な竜。現実と物語は違う。身に纏った鎧が、携えた剣が、これっぽっちも役に立たず、茫然と迫りくる竜の牙を待つしかないなど。あれを倒そうなどと、誰が思うのだ。自らの情けなさと、未知の生き物の恐怖に、青年は人生初めての【死】を覚悟した。


「――――目を瞑れ、潰れるぞ」


 窮地に陥り荒れた青年の耳に届いたのは、場違いなほど落ち着きを払った影丸の声であった。
 後ろからヘルムを抑えつけられながら、腕で視界を遮られると、真っ暗な視界が一瞬白く瞬いた。
 次いで、ギャォォ、と上がる竜の悲鳴。肉体には、降りかかるはずだった痛みがない。

「はあ、だから止めろと言ったんですよ。子どもが居るという事は親がいる、しかもこの竜は子育てを番で行う、つまり“母親”と“父親”が近くに居るという事です。まして子育ての最中は、只でさえ凶暴なこいつらは輪にかけて酷くなる」
「あ……」

 腕が退けられると、青年の前には目を回し空足を踏む竜が居た。何をしたのかは青年には分からないが、助けられた事は理解した。尻もちをついたまま見上げる先で、影丸が静かに立ち上がり青年の前へ佇む姿が見えた。漆黒の軽やかな鎧を纏い、その背には薙刀。物静かな佇まいは、竜と向き合っていながら冷静である。
 影丸はその眼差しを背に感じながら、義務的に淡々と説明した。

「あれはリオレイアっていう雌の火竜。貴方が着ている鎧は、この竜と対になる雄の火竜のリオレウスから造られています。雌と同じく大きな竜で、負けず劣らず凶暴な竜なんですよ。
その鎧を作るのに、持ち主だったハンターは何回危険な目に遭いながら素材を集めたやら。金で買い占めた貴方には、分からない事なんでしょうね」

 影丸が先ほど投げつけた閃光玉を浴び、リオレイアの目は一時的にも潰れた。その隙に、影丸はヒゲツを呼んだ。「依頼主を連れてキャンプ地に戻れ」ヒゲツは頷いたが、異を唱えたのは何故か青年であった。

「アンタはどうするつもりだ、そんな大きな竜と戦うつもりか!」
「……戦うつもりか、とな? 勘違いして貰っちゃあ困りますよ、依頼主。これは貴方が播いた種ですよ」

 ぐ、と言い詰まる声が聞こえたけれど、影丸は淡々と続けた。

「『依頼主を守る』……それが俺の契約です。受けた以上は果たしますが、首を突っ込まなければ起きなかった事態である事、そっちも忘れないで貰いたい」

 影丸は其処で、肩越しに振り返った。ヘルムのせいで青年の表情は分かりはしないが、ありありと読み取れる茫然とした様子に想像は出来る。ようやく事の重大さを知ったのか、それとも目の当たりにする竜の迫力に威勢が削げたか。どちらにしても、学んだようならばもう何も言うまい。影丸は、顔を前へ戻す。

「……ハンター体験はここまでです。ヒゲツと一緒に、キャンプ地へ急いで下さい。こいつらは番で行動する、雌の危機に雄が駆けつけるのも時間の問題だ。
ヒゲツ、依頼主を頼む。俺がしばらく引き付ける。頃合いを見たら、そっちに戻る」
「了解したニャ」

 足下のヒゲツが、影丸へ片手を上げ敬礼する。それからパッと離れると、青年のもとへと駆け寄った。腰を抜かしたままの青年の腕を掴み、立たせようとする。
 閃光玉の効果は、残り僅か。影丸は身を低くし、薙刀の柄へ手を掛けた。

「……走れ」

 青年の気配は、動かない。まごつきながら地面へ膝をつき、影丸の背を見上げている。
 目を奪われたリオレイアが、視界を取り戻した。頭を振った彼女は、直ぐに侵入者を捉えグルグルと威嚇の唸り声を漏らす。その目は、影丸を新たに敵と認識する。
 影丸の手に、力が入る。薙刀の柄が、ギリリ、と音を立てて握り締められた。全身に巡っていた緊張が、静けさが、岩の地面を踏みつけると同時に弾け飛んだ。


「さっさと走らねえか!!」


 影丸の怒号が先か、リオレイアの咆哮が先か。響き渡った両者の声に、物言わぬ美しい景観が確かに震え上がった。

 青年の足に力が戻り、立ち上がると同時にヒゲツに導かれながら洞窟を抜け出した。緩やかに落ちる滝を潜り、全身ずぶ濡れのまま走り出す。激しく争う音が聞こえる。背後に、耳に、まだ残っている。竜の声、何処か人間離れした怒号、冴え渡る刃の煌めき。
 抑えきれない複数の感情が、身体の内側で膨れ上がっているのを青年は自覚した。これが、詩人たちが熱く謡った根本か。勇者であれ英雄であれ、そう伝えた由縁か。懸命に走る青年の口からこぼれる呼吸は、震えていた。これは……興奮だ。あの情熱の含んだ声音で高らかに語った、物語の景色を目の当たりにした、興奮だ。
 自然に君臨する、巨大な竜。それに真っ向から立ち向かう、狩猟者。
 対峙した彼らのその光景が、青年の脳裏に何故か鮮やかに刻まれた。



 リオレイアとリオレウスの番相手は、流石の影丸も骨が折れる。しばらく時間を稼いだ後、煙玉と閃光玉の乱用でその場を撤退した。狩猟は出来なくも無いけれど、ギルドで認知されていないという事は問題が上がっている訳ではない。わざわざ仕留める理由もないのだ。そうして撤退した影丸の背を、追いかけてくる事もない。幼竜を守る事が今の番の目的であり、必要以上の手は出していないのだから追い出せば満足がいく。もしも幼竜に手を出していれば、激昂して地の果てまで着いてくるのだろうが。

 案内に護衛、殿に尻拭い……本当に、何処までも面倒な依頼だな。

 影丸は重く溜息をつき、キャンプ地へ向かった。道すがら特産キノコと生肉の調達をし、少し遅い昼食はこれにしようと両手に携える。食べたらさっさと村に戻ろう、そう決めた影丸がキャンプ地へ到着すると、ヒゲツと青年の姿を早速視界へ納めた。彼らは焚き火の周囲に座り、何かを喋っている様子だった。ふと、不思議な違和感を影丸は感じた。心なしか、打ち解けているような、そうでないような……。首を捻って近付くと、先にヒゲツが気付き立ち上がる。

「何とか逃げられたようだな。安心したニャ」
「逃げ足の速さもハンターの売りだ。お母様は大層立派なサイズだけど、お父様は普通より小さいくらいだったのが幸いだな」
「でこぼこ夫婦ニャ」

 影丸は携えた特産キノコと生肉をヒゲツへ手渡す。準備を始めるメラルーを片隅に見て、視線を持ち上げた。焚き火の前に居た青年は立ち上がり、ほんの少し影丸に近付く。赤い鎧の向こうで、何かを躊躇うような仕草を見せたが、影丸は大して気にせず焚き火へ歩み寄り腰を下ろす。立ち上がったままの青年の視線が、影丸の頭を追いかける。

「少し遅いが、昼飯にしよう。休んだら、村へ戻って風呂にでも入ろうか。依頼主」

 先ほどの事は、もう言うつもりはない。影丸の姿勢からそれを読み取ったのか、青年は空をさまよった手を下ろす。そしてしばらく黙った後、一度影丸の事を呼ぶ。尊大な態度のない、何処か年相応な声音を思わせた。彼が顔を上げると、青年は踵を揃え背筋を延ばし、すうっと礼をしてみせた。ヘルムの天辺が見えるほどに背を曲げる姿に一瞬面食らった。打って変わった態度は逆に気味が悪く、「んな事は良いから、さっさと座れ」と告げると、青年は一つ頷いて隣に腰掛けた。
 急に何だよ、と後ろ頭を掻く影丸の背で、生肉とキノコをくしに刺すヒゲツだけが小さく笑っていた。


 昼食を取り、村へと戻る帰り道。必要以上の事を話そうとしなかった青年が、ふと影丸へと尋ねてきた。

「アンタにとって、ハンターというのは何なんだ」

 その問いがどういう意図を含んでいるか、其処まで影丸は考えず率直に答えた。

「……英雄でも何でもない、ただの人間だ。生きていく為に、自分の為に、モンスターと共生共存していく為に、戦っている。それ以上でも、それ以下でもなく」

 青年が欲しい答えかどうかは、分からない。ただ、彼はレウスヘルムの向こうで「そうか」と小さく呟いただけだった。落胆か。それとも、思い描いたハンター像と、暮らしと、違っていたからか。払拭したいとは特に思わない。いっそ、その念を抱いたまま戻ってくれて構わないと願うほどに。
 影丸は口を閉ざし、村への到着を待つ。青年の瞳に映った大自然は、どんな姿だったのか。モンスターはどんな姿だったのか、尋ねる事はしなかった。

 ……そんな影丸と同じように、青年も最後まで、依頼主であるという姿勢を全て崩しはしなかった。
 だが、青年があの時見せた礼が、貴族にとっては最上級の敬意と感謝、尊敬を示す礼であったのだと。
影丸が知るのは、ユクモ村へ帰還し青年が自らの暮らす地へと出立した、直ぐ後であった。



 夕暮れを迎えた、ユクモ村。
 集会浴場のハンターズギルドでは、カウンターの前へ般若の面もちで佇む影丸の姿があったと云う。文句をつける影丸の姿に、受付嬢は恐れをなしてビクビク震えていたが、ギルドマネージャーだけはいつもの調子で「ヒョヒョヒョ、良い経験出来ただろう」と笑うばかりであった。

「二度とこんな面倒な依頼を押しつけるな。今度はレイリンやセルギスに流せ、良いな、絶対」

 そう強く念押しする影丸に、ギルドマネージャーは相変わらず飄々としていた。

 ……これだから、本当にハンターって奴は面倒だ。

 悪態をつく影丸の足が向かう先は、この日本来約束を交わしていたの家である。その道すがら、せめて手土産にロイヤルハニーをくすねてくれば良かったか、と思い出した影丸の波乱の一日は、ようやく過ぎようとしていた。



ハンターの話を書く時、どうしても書きたかったネタ。
大陸の末端にしか存在しないモンスター、それに憧れる大陸中央の貴族の話。
モンスターを見る事の無い彼らにとって、ハンターは英雄であり勇者であると思う。
ハンターにとっては、確かに英雄という称号も目指す一つかもしれませんが、少なくとも竜を倒す狩人である以上それは命を危険に晒し、並の覚悟で出来る事じゃない。英雄と誉め讃えられるだけでない理由が、個々に存在しているはず。

という小難しい話は置いといて、要約してしまえば上位ハンター影丸の雑用話でした。
夢主が空気ですみません。

2013.09.22