一から百まで愛したいです

 ――その衝撃は、もはや言葉に表せないほどの大きさだった。

 ほんの半日だ。調査拠点に隣接する“古代樹の森”へ、ほんの半日程度、出掛けただけだ。
 普段と変わらず目一杯食事を取り、装備と道具の点検をし、人に慣れた翼竜に掴まり出発していった。未知の新大陸へやって来てからも、変わらずに繰り返されてきた日常の風景で、も普段と変わらず朗らかにその姿を見送ったのだ。

 それなのに、まさか、こんな事になってしまうとは……――。

「ああ、ただいま。

 ふわりと柔らかく瞳を細め、口元を緩ませるその仕草は、ありふれた言葉しか出ないが極めて爽やかだった。整った顔立ちを彩る微笑みもまた清々しく輝いており、“調査拠点アステラ”に吹き上げてくる涼しい潮風もあってか、その佇まいからは清涼な雰囲気を感じた。

 は、ぶるりと震え上がった。

 全身で爽やかさを体現している、目の前の人物は――恐ろしい事に、影丸だった。


 他人の空似であって欲しい。ご本人様にそっくり過ぎな、赤の他人であって欲しい。
 目が潰れるような爽やかさを浴びながら、は猛烈に願った。この爽やかな好青年が影丸だなんて、あり得ない。誰か嘘だと言ってくれ、と。
 しかし、心底疲れ果てた様子で項垂れている、傍らに立つセルギスを見て、それはあまりにも儚い願いであるのだと知った。


 ――何の悪夢を見ているのだろう。


 新大陸へやって来て、早数ヶ月。大抵の事は気合いで乗り越えてきただったが、この日初めて心が挫けそうになった。




 狩り場へ出掛けた僅か半日の間に、影丸が変貌を遂げ……いや、別人となって帰還した。

 の中の影丸といったら、粗暴で冗談好きで、狩り以外には無頓着の大酒飲みで、時に冷酷な現実主義者で……何故かろくな心象が並ばない男だった。しかし、目の前に立つ今の彼は、爽やかかつ穏やか、物腰も極めて丁寧な、実に礼儀正しい好青年である。
 あまりにも、影丸に相応しくない単語ばかりが並んでいる。
 ここまで変わってしまうと、何処にどうつっこんでいいのかすら分からなくなってしまう。笑うべきか、困惑すべきか……。周囲に集まっている顔馴染みの人々も、三者三様の反応を浮かべていた。

 溢れるような爽やかさで周囲を困惑せしめた影丸は、第三期団の竜人族の学者達――通称、学者先生達に連れて行かれ、検査を受ける事になった。なんじゃこれ、面白いのう、なんていう楽しそうな笑い声が遠ざかった後、はよろめきながらセルギスへ尋ねた。

「一体、何がどうなって、あんな風に」

 すると、セルギスは草臥れた面持ちを歪め、溜め息を一つこぼした。

「あいつ間違えてな、食ったんだ」
「食った?」
「ドキドキノコ」

 は、ぎょっと目を剥いた。

 ドキドキノコ――それはこの世界において、古龍に匹敵する謎を秘めたキノコである。
 食べるたびに、当たりは筋力増強、外れは麻痺猛毒までと、様々な効果をランダムで与えるという、何が起きるか誰にも分からない謎効果を持ち、ドぎつい紫色をした外見から察する通り、主に食用ではなく調合用の素材として扱われるキノコだ。

 それを、食べた? あの影丸が?

「何だって口に入れるような事態に……」
「解毒薬を作ろうとして、アオキノコと一緒にドキドキノコも投入したらしい」

 そんなギャグみたいな間違いをするのか、あいつに限って。

「いや、俺もそう思うんだが……いきなり乱入してきたプケプケの毒を浴びた上に、ドクカズラの毒液まで踏みつけて」
「何故、今日に限ってそんな二重の不運を……」
「慌てていたらしい」

 いやそりゃあ慌てるだろうけれど。

「だからって、アオキノコとドキドキノコを間違えます? あんなドぎつい色してるのに」

 過去に一度、はドキドキノコを口にしている。苦いだとか不味いだとか感じる前に意識を吹き飛ばした、あの凄まじい衝撃を思い出すと、二度と口にしようとは思わない。それほどまでに、あのキノコはとんでもないのだ。(まあ稀に好んで食べる奇天烈な人間もいるが)

「フラフラになりながら作っていたしな……。俺やヒゲツ達はプケプケを引き付ける事に集中していて気付かなかった」

 そして、影丸はドキドキノコ入りの解毒薬を飲み干し、無事に毒状態から回復は出来た。そしてその代償とし、副作用にしっかりと襲われ、別人のように爽やかな好青年になってしまったという。

 ドキドキノコ――何が起きるか分からない謎多きキノコの影響を、モロに受けてしまっている。

「むしろこれは、解毒の効果が倍になったんじゃないか」
「倍?」
「あいつの性格の毒素が、全部綺麗に消えているだろう」

 セルギスさん……けっこう容赦ないわね。さすが付き合いの長い、ユクモ村時代の先輩。
 気にした様子もなく笑うセルギスを、は胸の内で賞賛した。

「しかしまあ、あまりにも変わりすぎて、違和感しかないな」
「……あれ? そういえば、レイリンちゃんやコウジンくんは? 全然、見えないけど」
「ああ、レイリンはな、激変した影丸によっぽど驚いたらしい。寝込んでる」
「寝込んでる?!」
「コウジンは気絶したまま、起きる気配がない」
「気絶!!」

 どうやらこの場にいない一人と一匹は、既に倒れてしまったようだ。


 しばらくし、混乱の渦に陥れた原因である影丸が、学者先生達と共に戻ってきた。あれは何かの白昼夢で、いつもの影丸が立っている事を期待したのだが……残念な事に先ほどと変わらず、爽やかな微笑みを浮かべる影丸しか見えなかった。

「一通り診たが、身体に重大な疾患などは見当たらない。極めて健康体そのものじゃ」
「まあ性格には多大な影響が出とるがの。」
「面白いばっかりじゃから、問題ないじゃろ」
「そんな適当なぁ……」

 ちらりと、は視線を影丸へ向ける。ふわりとした柔らかい笑みが返ってきた。
 何故だろう、ときめきよりも、恐怖を覚えてしまう。
 狼狽するの周囲で、学者先生方は呵々と笑い、総司令は神妙に頷き、調査班リーダーは両肩を震わせている。さては面白がっているな、こやつら。

「ええっと……だ、大丈夫だった? 影丸」
「ああ、先生方に診てもらったけど、問題はない。ありがとう」


 ありがとうって。
 影丸が、ありがとうって。
 しかも、柔和な優しい微笑み付きで。

 ――問題しか、ない気がする!


 が顔面をひきつらせ胸の内で叫んだその瞬間、総司令の孫である調査班リーダーがついに耐えきれなくなったしく、ブハアッと盛大に吹き出した。
 ちょっと! アニキー!!

「ふむ……ドキドキノコの症例としては実に興味深いが、なに、一過性のものだろう。じきに回復する。しばらくは様子見だな」

 さすがにこの状態で調査は出来まい、と総司令が薄く笑う。足を悪くし狩猟の前線から退いてはいるが、その声色と佇まいに衰えなど全くなく、今日もとても格好良い。
 ……その隣で影丸は、普段ならば絶対にしないだろう殊勝な面持ちで「お気遣いありがとうございます」などと、礼儀正しく背を折り曲げている。

 駄目だ……やっぱり身体中がぞわぞわする……。

「どうにも、調子が狂うな」
「本当にこれ、戻ってくれるんですかねえ」

 そして、この爽やかな微笑みを浮かべる黒髪の貴公子と化した影丸を、一体どうしたら良いものだろう。
 はセルギスと顔を見合わせ、深く溜め息を吐き出した。


◆◇◆


 ――この影丸の異変と失敗談は、瞬く間に調査拠点アステラへ広まった。

 なにせ影丸は、酒を仰いでは道端のど真ん中で眠りこけるというハタ迷惑な酒豪として、連日のように食事場に君臨していたのだ。(ユクモ村での体たらくがここでも発揮されるなんて!)大酒飲みハンターの一人として数えられていたため、悪目立ちしていた事も要因の一つであろう。
 調査拠点で活動する研究員やハンターはもちろん、食事場の酒飲み仲間達も、影丸のこの激変ぶりに驚きを隠さなかった。ここまで変わり果ててしまうと、笑いを通り越してしまうというものである。

 だが、そんな中、影丸を指差し爆笑する人物がいた。
 陽気な推薦組こと、かつて現大陸にてキャラバンを走らせ黒蝕竜とその伝承を追った間柄でもある、筆頭ルーキーの青年である。
 過去、影丸に潰れるまで飲まされてきた彼は、これまでの鬱憤を晴らすように笑い飛ばした。いつもの影丸ではないからこそ出来る行動だろう。もしもこれが普段の影丸であったならば、一切の躊躇が無い右ストレートが繰り出されていた。
 いっそ、もそうしてやりたかったところだが……残念ながら、それは叶わないでいる。


 ――なにせ先ほどから……。


「ちょ、ちょっと、影丸」

 変貌した影丸から、噎せ返るような甘やかな声と仕草で、纏わりつかれているのだから。


 武器を握り続けた無骨な指先が、の頬を滑り、唇をなぞる。慈しむような柔らかい仕草は、あまりにもくすぐったく、背筋までぞわぞわと震えた。制止しようと言葉を掛けたけれど、覗き込む影丸の微笑みが優しく深まったため、呻き声へと変わってしまった。

(大体、影丸は普段、こんな表情をしない)

 飄々としながら何処か捻くれて、皮肉めいた仕草をよく見せる彼は、一方で狩猟の際には心臓が飛び跳ねてしまうほどの鋭い存在感に満ちていた。だが今や、全身に纏ったような棘や険は一切無く、年相応の好青年らしさに溢れている。もともと整った顔の造りをしていたが、性格のねじれが持ち前の精悍さを歪ませていた事を証明している。
 の前にいるのは、ただのイケメンだった。

 現に今も、の手をとり指先に口付け、甘く微笑む仕草はあまりにも――。

「ちょっと、ストップ! ストップってば!」

 さすがにこれ以上は容認出来ず、は仰け反りながら影丸の肩を押した。
 大体、ここが何処か、分かっているのだろうか。
 調査拠点で過ごす全ての人々が訪れ、疲れを癒やす、食事場なのだ。
 今だって、大勢の人が新大陸調査という大仕事の合間に食事を取りに来ている。そのような場で密着するというのは、あまりにも不謹慎では……。

「いつもしている事だろ」

 いや、いつもは噛まれてるんだけどね!
 ……などと、それこそ大きな声では言えない。おかしそうに笑っている影丸の腕から、どうにか抜けだそうと奮戦するも、さすが現役のハンター。全くびくともしない頑強さに恨めしさを抱いた。

 ドキドキノコ入りの解毒薬を飲んだ現在の影丸には、これまでの記憶はあるものの、どうやら本来の性格については綺麗に忘却してしまっているようだった。プケプケとドクカズラの毒を浴び今日の事件について「狩人として恥ずかしい失敗だな」と困ったようなはにかみを見せたのだ。普段の影丸であれば「ふざけんじゃねえぞクソモンスター!」くらいは叫んでいただろうし、あるいは面白おかしく自ら笑い話にしていたはずだ。

 まあ、そういう顔が見れて、ちょっぴりラッキーだとは、思わなくもないが……。

 品行の正しい好青年な顔つきは、らしくはないが、そこまで悪くはない。棘のない仕草と雰囲気は、彼が本来持っていた整った顔立ちを引き立て、それは格好良い佇まいを見せている。影丸は普段、懐に入れた人物以外へは、心の柔らかく大切な部分を見せようとしないから、余計にそう感じてしまうのかもしれない。

 ――などと、が思い浮かべていたら、再び影丸の両腕が腰に巻き付いた。

「うわ! ちょっと!」

 椅子に腰掛けた影丸の膝へ、は咄嗟に片足を乗せ、肩を掴んだ。息遣いのような笑い声が聞こえ、視線を動かせば、穏やかに微笑む彼の黒い瞳とぶつかった。声を詰まらせたへ、影丸はゆったりとした仕草で顔を寄せていった。


「……おう、お前ら」


 ――その瞬間、低い無骨な声が、の背後から響いた。

 地の底から這い上がるような重い低音に、ぎくりと肩が震える。振り返った先には、一般的なアイルーのサイズの二倍以上はあろう大柄な隻眼のアイルーが仁王立ちしていた。
 赤いバンダナを巻き、折れた得物を背負った筋肉質かつ大柄な体型のそのアイルーは、この食事場“武器と山猫亭”を自らの城と称する料理長である。
 立派な造りのかまどで燃え滾っている炎のように、露骨に浮かんだ憤怒が大きな猫の瞳の中に宿っていた。

「影丸の事情は知っちゃあいるがな……。俺の城を、これ以上、妙な雰囲気にさせんじゃねえぞ……」

 料理長は言いながら、指をくいっと立て、周囲のテーブルを指し示した。それに釣られて見渡すと、食事をしに集まった人々が、困惑したような、あるいはニヤニヤと面白がるような、様々な表情を浮かべている事にようやく気付いた。

「言いてえ事は、分かるな……?」

 イエッサー、ボス。
 は反射的に敬礼すると、影丸の腕を引っ掴み、食事場を後にした。そして向かう先は、彼に宛がわれた一等ルームだった。



 大勢の調査員が共同で過ごす二等ルームとは打って変わり、一等ルームは個室となっている。身に着ける装備品や、それを整備する道具、狩りに用いる道具など、少し煩雑に置かれた様子は、いかにも部屋の主である影丸らしさが溢れている。
 彼の生活区域に踏み入れるのは、これが初めてではないため、特に緊張なども無いのだが――。

(いや、どうしよう、こいつ)

 困った。困ったぞ。
 自室という最強のプライベート空間であるためか、先ほど以上に、影丸のスキンシップがどろどろに甘い。

 柔らかいリネンを敷いたベッドに腰を下ろした影丸の、その膝の上に横向きで抱えられてしまってから、額やこめかみ、耳元に彼の唇が幾度も落ちてくる。口付けの雨とは、よく表現したものだ。

「影丸、ちょ、ン」
「なんだ、人の目もないから、平気だろう」

 くすり、と至近距離で微笑む影丸の、その柔らかな眩しさときたら。の心臓が、妙な音を立て飛び跳ねる。

「ええっと、その……あ、ほら! 影丸、毒を食らったでしょ? 休んでないと」
「先生方からは問題ないと……」
「いいから、いいから!」

 頼むからもう、喋らず、動かず、寝ていてくれないだろうか。
 ベッドに寝かせようと、影丸の身体を押す。彼はびくともせず小さく笑っていたが、両腕でを抱き込んだまま背中からリネンに倒れる。彼の身体を下にし、腹這いに寝転がる恰好となってしまった。

「なら、も一緒に休もうか。働きづめだろう、お互いに。たまにはいいだろう」
「もう……」

 が仕方なく笑えば、目の前で影丸は表情を緩ませ、嬉しそうにはにかみをこぼす。
 まったく、普段ならそうお目にかかれない表情が、今日だけで供給過多の大盤振る舞いだ。
 は険の無い仕草を眼下に収めながら、彼の胸板の上で頬杖をつく。女一人分の体重が掛かっているはずなのに、苦も無く受け止めるその身体は、本当に強靭そのものだ。外見からは細身の肉体を感じさせるのに、触れると分かる、研ぎ澄まされた強さに満ちている。

 ――どれほどの狩人の生活を続けたら、こうなるのだろう。

「……影丸は、ずっと、走ってる感じだよね」

 しみじみと思い耽っていたら、そんな呟きがの口からこぼれていた。

「なんだ、急に」
「旧大陸でも、新大陸でも、あんたは――ずっと、前だけ見て、走ってる」

 脇目も振らず、彼の目は常に狩りと竜を捉えている。しかしそれは、他人のためではない。彼自身の矜持であり、自らに課す戒めでもあるのだ。

 捻くれて、皮肉めいた物言いばかりで、甘い夢ではなく厳しい現実を見据える、とても冷たい人。
 そして――実は何処までも真摯な、心根は熱い、真面目な人でもあるのだ。
 けして、それを誰かに見せ、語ろうとはしないけれど。

「……ねえ、性格が悪いと、思わないで欲しい。ずっと、狩りをし続けて、大変じゃない? たまに、休んで……そのまま辞めようなんて、思わないの?」

 影丸は、一瞬、両目を丸く見開いた。怒るだろうかと身構えたが、影丸はすぐにその目元を和らげ、の顔へ手を伸ばす。硬い指の腹が、そっと、目尻を優しくなぞっていった。

「思った事など、一度も。これしきの毒を食らった程度で、俺は狩猟を辞めようとは思わない。走り続けている、そういう風に見えるのなら、きっと俺は当分の間、立ち止まる事もないんだろうな」
「……そう、そうだね。あんたは、たぶん、そう言う」
「――だから、がいてくれて良かったと、思っている」

 続いた言葉に、今度はが瞳を見開く番だった。

「俺は……狩りしか能がない。狩りでしか、何の誓いも出来ないし、果たせないし、存在証明も出来ない。そればっかりは……あの日から、変わってくれないな」

 あの日、というのが指すものは。
 先輩狩人を、自らの大失態により目の前で失った時の事か。
 それとも、多くの狩人達から責め立てられ、心が折れた時の事か。
 あるいは――七年という月日を経て、渓流でついに再会を果たした時の事か。

 泣き笑いのような、不器用げな笑みと共に告げられた言葉の意図を図る事は、には出来なかった。しかし。

「こんなどうしようもなく難儀な男が、今も二本足で立ち、息をして、狩りを続けていられるのは……セルギスやレイリン達だけではなくて、きっと、のおかげでもあるさ」

 黒い瞳に宿る、温かく直向きな感情には、嘘が無い。そのしたたかな眼差しを、は知っている。
 影丸の心の底にあるものを、不意に垣間見てしまったような――そんな心地がしていた。

 ドキドキノコの効果のせいで、今はこうなってしまっている。だが、もしも、真に彼の心の底にある言葉であるならば……――。

(そういう不意をつくのは、止めてよ)

 本当、そういうのだけは、変わらないんだから。

 込み上げる羞恥心で、の頬は熱く染まる。これが常の影丸であれば、すっとぼけてからかってきて、意地の悪い笑みを浮かべるだろう。今は、の赤い頬を愛おしげに指を滑らせ、顔を引き寄せる。吐息でなぞるような柔らかい口付けをし、微笑む影丸の黒い瞳には、溢れんばかりの愛しみが溢れていた。


 普段ならば見せない影丸の表情を目撃し、ラッキーだったと思わなくもない。だが、やはり、目の前の人は、“影丸”とは違う。
 夢みたいに、綺麗事のように、優しくなくていい。人から恨まれ、自らをも傷つけ、それでもなお突き進もうとするその獰猛な強さこそ、やはり影丸なのだ。


 ――あいつの性格の毒素が、全部綺麗に消えているだろう?


 いいや、毒ではない。毒なんかでは、なかった。きっとなどでは語れない、今の彼の姿を形作る、とても大切な何かだったのだ。

「……セルギスさんを目の前で無くさず。彼のいない七年間を過ごさず。憧れて飛び込んだ少年のまま、英雄を目指していたら……今みたいなあんたに、なっていたのかな」

 影丸は、不思議そうに首を傾げる。はふっと表情を和らげると、影丸の頬を手のひらで掴むように包む。

「それも悪くない。たぶん、私はそっちのあんたも、好きになる自信がある。でも、今、私が好きなのは……――」






「――おい、今日、やけに周りの連中が鬱陶しいんだが?」

 眉を顰め、心底不愉快げに整った顔を歪める影丸の声には、苛立ちが顕著に表れていた。
 そりゃあ、数歩進むたびに、アステラの調査員達にからかわれていれば、こうもなるだろう。
 は「さあ、何でだろうね?」とすっとぼけ、意味深に笑って見せた。途端に、影丸の機嫌はさらに低下し「あ゛あ゛?」と獰猛な唸り声をこぼしたが、残念ながらが怯む事はない。

 ドキドキノコが混入した毒消し薬により、捻くれた暴君から爽やかな貴公子に変貌した影丸だったが――翌日を迎えた今日、すっかり元に戻っていた。
 どうやら、多くの人々を震撼させた昨日の記憶は、彼の中には一欠片も残っていないらしい。周囲に笑われ、心配され、更にからかわれたりとされるも、全く理解出来ていない様子だった。おかげで、今朝から影丸の機嫌は悪く、面白く無さそうに口をへの字に結びっぱなしだ。

(あー……いつもの影丸が戻ってきてしまったかあ……)

 狩り以外には無頓着で、物臭で、捻くれた物言いをし、邪悪な笑みを浮かべる、凶暴な狩人。
 これが、普段の影丸だ。昨日のあの爽やかさと、真正面から向けられた愛しみは、本当に一時の幻になってしまった。
 いざ戻ってみると、やはりあっちの方が大人しくて良かった、なんて手のひらを返し思ってしまったが――安堵したのも、事実だった。

「やっぱり影丸は、そうでないとね」
「はあ?」

 夢みたいに優しく、綺麗で、蕩けさせる柔らかさとは、程遠くても構わない。
 泥汚いまま、生きる意志に爪牙が生えたような、獰猛な生命力に満ちた彼の方が、やはり影丸らしい。

 通りがかった陽気な推薦組ハンターが、昨日の調子で指を差し大爆笑をすると、ついに影丸の不機嫌は最高潮に到達し、怒りの限りを込めた右ストレートが放たれた。「あれ?! 戻ったんすか?!」という言葉を残し豪快に吹っ飛ぶ光景を見て、は肩を揺らし笑うのだった。



ドキドキノコによる、性格変貌。
しかし、心の中にあるものまでは、きっと変わらない。
もしかしたら彼が口にした言葉たちは、実は普段からずっと夢主へ向けている想いそのもの、なのかもしれないですね。

◆◇◆

ずいぶんと久しぶりな、我が家のオリジナルハンター、影丸の夢です。
ドキドキノコは、無限の可能性を秘めている。
大抵の事はドキドキノコで解決するから、みんな覚えよう。

ドキドキノコは、二次創作の強い味方! ありがとう道を切り開いた先輩達!


(お題借用:不在証明 様)


2020.10.03