君の声で、僕は現実を得る

雨風をしのぐ、家屋。
身体を柔らかく包む、シーツ。
文明と知恵をもって築かれた、人の生活とその歴史。
その中で、呼吸をしている自身は……確かに、人と同じ姿形をしていた。
セルギスは木を組んだ天井を見つめ、そう思っては噛みしめ、思っては噛みしめと、幾度も繰り返してからようやく実感を得た。
しかし不思議な事に、いざ戻ってみれば……思い描いていた神々しさとは、少々異なるものだと薄ぼんやりとする。

獣で在りすぎた為に人間としての動き方を忘れた足は、歩く事すらも忘れてしまい、まともに立ち上がる事も出来なかった。医師の話では、傷はもう塞がっている、後はリハビリ次第だという。もっとも、七年前に崖から落ちて出来た傷ではなく、影丸との戦いによって得た傷である事はセルギスが承知しているが、転落の後遺症であると告げている為に下手な事は言わなかった。

……案外、人に戻っても面倒なものだな。

願っておきながらそう思うのは我が儘だろうが、世界とはそうであり、人とはそういうものであると、セルギスは理解した。
だが、人間に戻れた事を嬉しく思っていない、という事はまず無い。何度も実感する度に、泣きそうになるほどの幸福感が込み上げて来る。人である事の喜び、これは獣になっていないと分からないものだ、と。

セルギスがおもむろに上体を起こしたところで、聞き慣れた女性の声と共に、壁をトントンとノックされる。

「こんにちは、セルギスさん」

セルギスは普段のように顔を動かし、彼女へと視線を移したのだが……思わず、目を丸くし口を閉ざした。

……?」
「ふふ、少しは見栄えが良くなったでしょう?」

ユクモ村の人々が好んで纏う、和服のような衣装。白い布地で仕立てられたそれを、朱色の前掛けと黒帯を腰に巻いて留めた姿は、村人そのものだ。
悪戯っぽく笑った彼女は、頭に被せていた笠を外した。
そこから現れた、健康的な肌色に戻った白い頬に、艶をもった黒い髪がさらりと流れてかかる。
しばらく見ていた彼女というのは、まあ、こう言っては何だが物臭な印象の強い纏まりの無い髪をしていたのだが、この日見たそれは遊び放題だった髪の毛先が綺麗に散髪され、肩へ軽く触れるかあるいはそれより多少長い程度になっていた。
は、自慢するように、自身の身体を見下ろして告げる。

「ユクモ村の住人になるなら、身なりも整えなきゃと思って。そうしたら、レイリンちゃんが市場通りの服屋で安く買ってくれたんです。あと温泉にも連れて行ってくれて、髪の毛も綺麗にしてくれました」

あの子、本当に器用なんですよ。はそう笑いながら、髪の毛を撫でる。
セルギスはようやく意識を戻すと、「そうか」と呟く。

「確かに、見違えた。一瞬、誰か分からなかった」
「あらら、やっぱり私は酷い格好でしたか」
「あ、いや……」
「ふふ、知っているから良いんです。でもこれで、随分小綺麗になって、ユクモ村にも馴染めると思います」

セルギスの失言を、は笑ってさして気にする様子もない。彼女は外した笠を手に持ちながら、近くの椅子を引っ張り、寝台の横へ並べると腰掛けた。

「来る途中、丁度影丸とすれ違って。普通に上がって良いって、言ったものだから、つい寄ってしまいました。今、平気ですか?」
「ああ、上手く動けないだけで、別に体調が悪い訳ではないしな」

良かった、と笑うを、セルギスはしばし見つめた。
見間違えた、というのもあるが……髪を整えられた事で現れた彼女の顔や身体の輪郭に驚いていた。以前はもっと病的な青白い肌をして頼りない身体つきをしていたが、滋養のあるものを食べるようになってから肌も暖かみを含んだ薄い桜色の差す肌になり、身体もふっくらとした線を持つようになった。もちろんセルギスの屈強な身体に比べれば随分と細いが、女性らしい輪郭に戻ったというのだろうか。そこにユクモ村の衣装が加わって、今の彼女を見てまさかアイルーであった人間など誰が思うだろう。

「……不思議な光景だな」
「え?」
「ああ、いや……悪い訳ではないが、今まで人の一切居ない環境に身を置いて居たせいか、まだ慣れない光景だ」

セルギスの言葉から彼の心情を察して、は「そうですね」と穏やかに声を潜めた。

「私も、不思議ですよ。人間に戻る事を願ってましたが、いざ戻ってみると変に違和感があるというか」

の瞳が、セルギスを見つめる。

「あの最大金冠サイズの、ジンオウガはもう居ないんですね」
「ふ……ああ、そうだな。変わり者の、桜色アイルーも居ない訳だ」

笑みを交わし、セルギスはふと自分の髪も随分伸び放題であった事を思い出した。「」と小さく呼ぶと、彼は背中にまで届きそうな赤銅色の髪を持ち上げ、彼女へ告げる。

「後で、俺の髪も綺麗に切ってもらっても良いか」
「セルギスさんも? 良いんじゃないですか、じゃあレイリンちゃんにお願いしてきますよ」

はにっこりと笑ったが、セルギスは首を横に振る。

「あの娘ではない。お前にだ」
「ああ、私ですか……って、」

目が、真ん丸に見開かれる。ああ、アイルーの時も表情豊かだと思ったが人間の時もよりはっきり分かるな、などと暢気にセルギスは見て思っていた。

「わ、私なんて、止めた方が良いですよ! レイリンちゃんの方が器用だから、私より彼女の方が……」
「いや、お前に頼みたい」

言葉少なく、けれどその瞳は眼光をも含んで、をじっと見つめた。三十歳前後の落ち着きある男性の眼差しに、動きを封じられるようだったが、結局折れたのはの方で落胆にも見える仕草でため息をついた。

「……変になっても、怒らないで下さいよ」
「ああ」


ふっと、微かに微笑んだ仕草が妙に穏やかである。ジンオウガの時からも感じていた静けさに、はそれ以上言えず、覚悟を決めるしかないかと苦く笑った。レイリンちゃんから、散髪用のハサミとクシを借りてこなくては……。
はそう思っていたが、セルギスは何だか満足そうに笑うものだから、妙に腹立たしくなる。だが、彼の口から何処か遠い声音で、

「……人間に、戻れたんだな」

……そう呟かれると、困ってしまう。

「セルギスさん」
「……ようやく、実感が湧いてくる。俺は、ジンオウガではなく、人間であると」

彼は、自身の手を見下ろした。武器を握った痕跡のある触感が見え、武骨な筋が浮かび、長い指は自由に曲げられる。
あの碧色の堅殻も、白い高電毛も無く、獣の輪郭は何処にも見あたらない。
俺は、今、人であるか。
見下ろしたセルギスの腕に、ふと、白いほっそりした手が重なった。焼けた彼の肌とは異なり、小さく、柔らかい手だった。

「人間ですよ。貴方も、私も」

の笑みが、染みるように、伝わる。セルギスの頭が小さく頷き、彼女の手を無意識の内に握る。
ぴくり、と震えた振動はか細く、の戸惑いを表していたが、逃げなかった事を口実にしセルギスの手は、手首、肘、二の腕と上がっていく。ついには、指先がの片頬を掠めた。
嫌悪によるものではなく、その感触のこそばゆさに思わず悲鳴が出そうになったが、ギュッと堪える。
その手が、黒髪と一緒にひたりと頬に重ねられた。

「セルギス、さ……」

例えば、異性を悪戯に挑発する仕草であったら。
例えば、冗談で触れてきているのであったら。
は振り払っていたのだろうが、セルギスの手にそれらは一切無い。まるで、の輪郭を確かめるように、そして自らの感覚を確かめるように、その男性の長い指が触れる。
するり、と指先が撫ぜるように動き、は目を細めて静かに息を吐き出した。



「――――― あのさ、人の部屋でイチャつくのは止めてくれないか」



唐突に響きわたった、無遠慮な男性の声に、セルギスの手がピタリと止まった。
は反射的に仰け反って離れると、勢いよく振り返る。

階段口で、壁に寄りかかって半眼で見つめてくる、影丸の姿があった。セルギスとは異なり、やや細身の身体つきではあるが十分にハンターの風格がある空気だが、今は呆れ半分からかい半分でとセルギスを見ている。
その冷静な顔つきに、も今自分は何をしていたかと無理矢理考えさせられ、恥ずかしさに沈みそうになった。

「いつ入ろうかと思ったが、いよいよ困るから。怒るなよ」
「……いや、むしろ、感謝するわ」

は真っ赤な顔を覆うと、静かに俯いた。
その彼女を挟んだ向こう側、寝台に座るセルギスは何処か鋭さを増した目で影丸を見た。怒りではないが、まあ、機嫌が良いとは言えない顔つきだ。
影丸は、悪意すら含んだ笑みをニイッと浮かべ、わざとらしく。

「邪魔を、したか?」

そう、呟いた。まるで、分かり切った言葉を口にするような、確信も込めて。
真っ赤になったの頭上で、二人の眼差しが静かに反発した……ように見えた。



セルギスと影丸が意外に人気だから、調子に乗ってみた。
乗った結果、こうなりました。
甘いのか、そうでないのか……迷子な話。


2012.02.19