「ありがとう」を君に

屈強な身体つきに加えて、伸びやかな身の丈にも恵まれた働き盛りの男が、杖を片手に危なげに進む光景は、一体人々の目にどう映るだろうか。
少なくとも、微笑ましくはない。むしろ、危なっかしくてヒヤヒヤしているかもしれない。
自分がその光景を見たら、恐らくそう思うのだろうから、大方当たりであると思われる。
が、今そうしているのは、その自分であるのだから、変な心境だ。

コツリ、コツリ、と何十秒もの間隔を空け、杖の先が地面を不安定に蹴り、それとほぼ同等の緩慢さで一歩ずつ踏み進める足は、気を抜くと倒れてしまいそうになる。セルギスは、何度目かの深い呼吸をし、顔を上げた。
一歩一歩が神経を使うため、これでは数歩で1キロ以上も歩いた気分になる。実際は、先ほど出たばかりの影丸の自宅がまだ視界に映るというのに。

「……はあ、なかなか、直ぐにはいかないものだ……っと」

そうしている間に、また杖がグラリと揺れる。しっかり握り、再び歩行を再開したが……セルギスの背には何人もの視線を感じていた。人通りの多い市場通りの付近から来たのだから仕方ないか、大の男が杖をつく姿は目を引くものだ、とセルギスは気にはしていない。が、市場通りでは迷惑になる為、静けさを求め慣れぬ足は民家の立ち並ぶ裏道を進んだ。
観光客や湯治客のにぎわう市場を離れれば、自然に恵まれて囲まれたユクモ村本来の静けさが感じ取れる。温泉が有名ではあるものの、こういった眺めの方がセルギスには好ましい。
丁度人の背丈より少し小さい程度の、小振りな樹木が左右に並んだ傾斜の道を、半ばほどで立ち止まり振り返って見つめる。望んだ光景が目の前にあるのは、何とも言い難く実際は奇妙なものだった。長らく空けていた為か、それとも時間の経過があったのか、記憶のユクモ村とは少々異なる。
首筋に滲んだ汗を、バランスを取りながらぐっと手の甲で拭うと、再び歩き始める。コツ、コツ、と杖の蹴る傾斜は予想外に足へ重さを掛けた。気が急いてしまったか、いやだが私生活に不自由があるようではこの先も上手くはいくまい、と叱咤をする。
しばらくし、セルギスの視界には民家がぽつりぽつりと映り始めた。木と藁を用いて作られる家屋はユクモ地方によく見かけられる建築様式だ。

……そういえば、自宅もこの通りにあったな。
影丸に連れ添われて見た時は、まあ埃や何だのは想定内であったが、あの頃のままの防具や武器、道具などがきちんと保管されていたのは驚きだった。
今戻っても良いが、掃除がな……と思っていると、気を取られ足のバランスが崩れた。反射神経だけは現役だったお陰で思い切り地面に口付けをする羽目にはならなかったものの、踏ん張った膝は地面に打ち付け地味に痛かった。

「――――― セルギスさん?!」

おや、と思ってセルギスが顔を上げれば、目の前の坂上から慌てて駆け寄ってくる女性とアイルーを見つける。
すっかり板に付いたユクモ村の衣服を纏ったと、カルトだ。
それを地面に手をついたまま半ばぼんやりと見ていたが、彼女らはセルギスの側に急停止すると、オロオロと腰を下ろした。

「だ、大丈夫ですか?」
「ああ……また、格好のつかないところを見られたな」
「そんな事よりも、立てますか。肩、貸しますから」

身長差や身体つきの差は顕著であるが、はセルギスの真隣に並び、彼の片腕を自らの肩に回して、がっしりと逞しい腰に触れる。
「よーいせ!」と力の入らない掛け声と共に、セルギスとは身体を支え合うような体勢で立ち上がった。
地面に転がった杖は、カルトが拾い上げ、その持ち手をセルギスに差し出す。

「全く、また歩いてるニャ。無理は禁物って、おいしゃさんにも言われてたニャ」
「ああ、まあそうだが……何分歩かない事には足も鈍ったままだしな。リハビリは根気がいる」
「そうですけれど……気をつけて下さいね」

は言い、その身体を支えたまま歩き始める。セルギスの歩みに合わせる側からは、コツ、コツ、と杖をつく音が着ついてくる。

「……どうも、お前にはみっともないところしか見せていない気がするな」

セルギスの言葉に、はそっと顔を上げて見上げた。の身長は、おおよそ一般的な女性の標準である164センチほど。セルギスは、明らかに180センチは超えてしまっている為、あんまり支えになれていない気もするが、少し深さを増した琥珀色の瞳は穏やかに彼女を見下ろしている。濃い茶色の中に赤みも混じった、落ち着いた赤銅色の髪は首筋に掛かる程度の長さに整えられ、その首回りの逞しさも見せていた。
輪郭の明瞭な、精悍な顔立ちは三十歳前後の落ち着きと男性らしさが浮かび、少しだけを気恥ずかしくさせる。思えば、こういう風に男性を支えた事がない。どうでも良い事実は直ぐに放り出して、「どうしてですか」と尋ねた。彼は小さく笑い、「ジンオウガの時も、そうだった」と呟いた。影丸の、悪戯っぽさも混じる低い声とは異なる、静けさを纏った低い声。それは、ジンオウガの時に聞いていたものと、変わらないが、あの頃の鬼気迫る緊張感や張りつめた憤りは全くない。柔らかく、それでいて静かに穏やかなある響きがあった。

「俺がお前の前でブルファンゴを裂いた時や、前日の晩も、随分思い当たる事が多い」
「そう、ですか?」
「ああ、格好の付かないところばかり見せている」

彼は改めて言うと、の瞳を見た。

「あの時は済まなかったな、気を取り乱していたとは言え、惨いものを見せた」
「いいえ、セルギスさんが気にする事ではありませんよ」

が、にこりと微笑んだ。桜色のアイルーが見せた、あの笑みと同じ朗らかさ。人間である分表情も分かりやすいが、彼女が内情を理解している為か、その笑顔は一層暖かさを増しているようにも思える。
影丸と同じ黒髪が、艶を含んでセルギスの腕に時折掠めるが、それも妙に心地よく思える。

「ところで、お前たちは何をしていた?」

セルギスが尋ねると、前方を歩いていたカルトが振り返り、後ろ向きになりながら言った。

「家の掃除をしていたのニャ!」
「家の掃除……? の借家は掃除が終わり、もう確かそこで暮らしているんじゃなかったのか」

それとも、新たに運び入れた家具などの掃除か。セルギスがそう言うと、カルトがうふふと得意げに笑って、再びクルッと前を向く。そしてピッと指を伸ばして言った。

「ほら、アンタの家ニャ!」

セルギスは、顔を上げた。コツ、と杖が止まり、セルギスの足も必然的に歩みを止める。
肩を貸しているも立ち止まると、少し困ったように首を竦める。

「勝手とは思いましたが、早めにしていた方が良いかと思って。貴方の事だから、多分近い内にでも戻りたいと言うんじゃないかと」

セルギスの視線の先には、一つの家屋がある。雑草が延び放題だったはずの庭からそれらが無くなり、玄関には真新しい角飾りつきの長暖簾が飾られ、外装からも人の手によって綺麗にされた事が伺えた。
そう言えば、とカルトの身なりは腕をまくってたすき掛けし、しかも首のところには顔を覆う防布が下げられている。

そうか……わざわざ。
セルギスはしばし見上げた後に、とカルトへ視線を移して軽く頭を下げる。

「すまない、迷惑をかけるな」
「迷惑なんて。ほら、私やカルトは渓流に居た時お世話になったし、そのよしみって事で一つ」
「ふふん、あと少しで一階部分の掃除は終わるニャ。二階はもう終わってるし、後はまた寝床を綺麗に整えるだけニャ」

あ、そうだ、まだ床拭きの途中だったのニャ。カルトは言うや、タタタッと軽い足取りでなだらかな坂道を駆け上がり、セルギスの自宅へと入っていった。その小さなアイルーを見送った後で、セルギスはふっと笑う。

「……あの頃は、俺の方がずっと大きく強かったが、今では分からないな」

の目が驚いて見開き、「そんな事は」と首を振る。セルギスは笑みを浮かべたまま、そっと身体を離すと、やや危なげに身体を向き直らす。
広い胸と、衣服から覗く浮き出た鎖骨を伝って視線を上げていき、その先の琥珀色の瞳と視線を交わらす。

「……お前には、感謝している」
「セルギスさん」

また、そんな事気にしなくて良いのに、と告げようとしたの言葉は、喉の奥へと吸い込まれるように消えてしまった。
視界に映る、赤銅色の髪と、少し焼けた肌、それと……伏せた瞼と筋の通った顔立ち。
急に近づいた距離、それはセルギスがの額に自身の額を押し当てたからだ。
周囲の長閑な風景ばかりが穏やかで、の心境は一瞬にして跳ね上がり、身体が熱を帯びた。
ジンオウガの堅殻の冷たさではない、勇猛な角もない、竜の横顔でも瞳でもない。人間の、一人の男性の温もりが、じわりと伝わってくる。

「セッ……」

変に裏返った声が出て、一度声を飲み込む。
ゆるりと気持ちを落ち着かせ、静かに重ねられた額から、彼の意志を読み取ろうとすると。

「――――― 俺の獣の感覚が人間に戻った時には、まともに歩けるようにもなろう」

男性の低い声が、耳の直ぐ側で響く。ピク、と肩を揺らしたが、振り払わずにその体勢のままで居た。

「それまでは、格好のつかない姿ばかり見せるだろうが、気にしないでくれ」

はクスクスと小さく笑うと、その手を、杖を握るセルギスの手に伸ばし、指先で微かに触れた。
ジンオウガであっても人でも、彼の本質はあまり変わらないらしい。



セルギスのリハビリは、続く。
という名のロマン溢れる夢小説は続く。

(タイトル借用:Lump 様 )


2012.02.09