呼ぶ声に交る熱

多くの観光客、或いは湯治客やハンターが、温かい食事と酒を囲み集う、ユクモ村集会浴場の大きな飲食店―――と同時に、酒場でもある。
陽が暮れる茜色の空と、赤く染まった温泉の村と周囲の自然の景観は、ユクモの郷愁を誘う美しさがあり、それを眺めながらの食事は格別だと酒も進んだ。
そんな笑い声と活気で満たされ賑わう飲食店の一角には、四人のハンターたちのグループがあり、そしてその中にセルギスの姿があった。
ユクモ村人たちが身に着ける、東国の気風が感じられる伝統衣装を着た彼は、ゆったりと木製の椅子に腰掛けている。同じ机に座るハンターたちが纏う、モンスターの肉体から造られた防具に、彼の存在が圧倒される事はなく対等だった。彼のこれまでの生活が表れているからだろうが、セルギスの笑みは穏やかでその手に持った杯はゆったりと口元へ運ばれる。

「良かった、一時はさすがにお前も死んだのかと弔い合戦なんかやってたんだぞ」
「そうそう、それでその後、『少しはセルギスにも報えたかな……』なんて言ったりして!」
「今考えると、相当阿呆だったな。本人、生きてたし」

口々に笑う三人のハンターは、男性が二人、女性が一人で、およそセルギスと同年齢ほどの二十代後半や三十代前半という働き盛りの大人である。身体つきも年齢を重ねより鍛えられ、狩猟者としての纏うべき品が若いハンターよりも重厚で、セルギスもまたそんな彼らに混ざって笑みを浮かべる。
彼らは皆、セルギスがかつて現役であった頃、たびたび顔を合わせていた知り合いなのだ。なんでも近くを通りがかった時に立ち寄ったらしいのだが、其処で耳にしたセルギス七年ぶりに帰還という話に、居ても立ってもいられずユクモ村へ突撃してきたらしい。
懐かしい顔ぶれにセルギスもまた喜び、彼らも涙を浮かべて帰還を祝してくれた。
彼らも用事があるので長居は出来ないけれど、せめて夕飯くらい一緒に食べようじゃないかと、誰からともなく口にし、現在食卓を囲んでいる。
七年の空白を取り戻すように、彼らは思い出話をしてくれた。セルギスが、事の始まりである七年前のジンオウガ討伐狩猟を語り、崖上から滑落した後遺症で足が少々不自由になったと明かすと、彼らはそれを気遣ったが、特に態度を変える事も無く「とにかく無事で良かった」と笑った。この職業柄、多くの同業者たちの死が常に付き纏い、ギルドではほぼ毎月多くの殉職者の名が掲載され目にしているので、生きているだけで十分嬉しいと、彼らは告げた。
そうやって喜んでくれる彼らに、《真実》をとても告げられないのがセルギスの唯一の罪悪感であるが……七年という時間は決して短くないのだと、改めて思い知らされる。
とにもかくにも血の気が多く盛んだったアイツも。
大型モンスターを前にすると、尻込みして逃げ惑っていたアイツも。
味方を誤って射撃の的にしようとしたアイツも。
どれも皆、手慣れたハンターの風格が表れている。
懐かしいけれど、不可思議な気分である。まるで自分だけが置いていかれて時間が急速に過ぎたような、或いは未来に飛んでしまったような、そんな気分にも近い。

( 俺も、年を取ったわけだが……周りも、そうなんだな )

喜びに浮かれながらも、頭の芯は何処かで冷めていた。
そんなセルギスを周囲は特に気付かず、彼の杯に並々と酒を注ぎ足していく。

「また、ハンターをやるのか?」
「ん? ああ、そうだな……あんな事があった訳だが、結局ハンター以外には就きたい職が思いつかないし」

そう告げれば、「もう職業病だな、分かるわ」とセルギスの肩を叩いた。
……本当に分かるのかと、セルギスは一瞬疑問を抱いたが、特に何も言わなかった。

「一応、また新人からやり直すつもりだ。足のリハビリも、結構順調だからいずれ直ぐに杖も不要になる」
「そうか……そうだな、上位狩猟も大変だからな。でもお前なら、また直ぐ元のようになるさ。最近は一部の地域でG級狩猟が解禁してるし、アンタほどの腕なら其処にだって行けそうだ」

正面の男は笑い、そっと料理を口に運んだ。けれどセルギスは小さく首を振り、彼らに告げた。

「上を目指すのも良いが……だが、もう村には立派なハンターが二人も居る。俺はしばらくのんびりしても問題ないし、躍起にならず身体の方に集中するさ」

何気なく、それこそ息をするように告げたその言葉に。
三人のハンターたちは、それぞれ目を丸くして口を薄く開いた。
さすがにセルギスも驚いて、「何だ急に」と笑うと、彼らはゆっくりと顔を見合わせて「いや」と戸惑いの表情を見せた。けれど、しばらくしふっと口元を緩めて告げる。

「変わったな、セルギス」
「……そうか?」
「ああ、何かこう、余裕が出てきたというか」
「そうね、他のハンターたちとは違う、精神的な貫禄があるっていうか」

勿論、良い意味でだ、と彼らは笑った。
表面では不思議そうにしていたセルギスであるけれど、内心ではそれもそうだと納得していた。
崖上から滑落して死の淵を経験し、ドキドキノコを口にして人の姿を失って、それから七年もの間最大金冠サイズのジンオウガとなって自然を彷徨えば。
価値観が全てひっくり返っても、可笑しくは無いだろう。
とは、彼らに言えない事であるけれど。

……今になって思えば、あれはあれで、面白い体験であったかもしれない。二度も体験するのは、ごめんだが。

「……お前が七年居ない間、村を守ったのはあの新人だったな。そういえば」

そう告げた男性は、かつて彼らの中で最も口も悪く素行も血気盛んそのものだったハンターだが、今は静かに記憶を思い出している。

「影丸、だっけか。新人だった彼も成長したな、さっき見たけど」
「そうだな……アンタが居なくなった時には酷い事言ってしまったけど……帰る時には謝っていこうかな」

そうやって昔を思う傍らで、ふとセルギスもある人物の事を思い出した。
職業柄、一人で挑むより複数人で挑んだ方が効率が良く生存確率も高いので、多くの同業者たちと組んだ事があったが。
セルギスの、ある意味腐れ縁でもあった一人の友人の姿が過ぎった。知り合いは多くあれど、信頼出来て背中を預けられる人物は、その友人しか思い浮かばなかった。戦友、親友、そういった言葉を、躊躇い無く掛けられたほどに。
ただ彼はモンスター観察という変な趣味も持っていて、彼の感性や行動というものは時に理解出来ない部分も多かったが、何でも言い合えた仲だった。
同時に、変な趣味に巻き込まれ、火竜の番に襲われたり水獣のハーレムの大群に襲われたりと、あわや大惨事という危険な状況も数知れず。
そのたびに殴り合いの大喧嘩をした事もあったが、それでもちっとも懲りないのは友人だけでなく自分もそうであった。

―――― 友人よ、世界とは広くかくも美しき、だな

笑う彼の表情がありありと今も浮かび、セルギスはふっと口元を緩めた。

( ……アイツは今、どうしているかな )

確か、砂の大都市《ロックラック》の狩猟団体の一つに所属していたはずだ。変わり者ではあったがハンターとしての実力は折り紙つき、七年の間でどうしているか分からないが……名を出せば、きっと直ぐに見つかるはずだ。今度、手紙でも送ってみよう。
そう思いながら、今はこの知り合いたちとの晩餐に耽る事にした。
久方ぶりに煽った酒は、懐かしさを含んでセルギスを酔わせた。




セルギスのもとへ、懐かしい知り合いたちが数人やって来たという話は、集会浴場で清掃アルバイトをしているの耳にも直ぐに届いた。
七年もの間死んだと思っていたハンター仲間が再び姿を見せたのだ。きっと驚いて、飛んで来たに違いない。積もる話も多いだろうし、今夜は楽しんでいると良いな、と彼女は自宅で思っていた。
その自宅のリビングには、すっかりお馴染みになった影丸やレイリンの姿もあり、静かな夜を堪能する緑茶と茶菓子にほっと息を吐く。

「セルギスさん、今頃楽しんでると良いね」
「そうですね、きっと、話す事だってたくさんあるはずですしね」

の隣に座ったレイリンが、にこりと微笑んだ。彼女が普段身に着けているハンター装備一式は今外され、ユクモ村装束になっているので、ヘルムで隠されがちなグレーの髪が橙色のランプに照らされている。
ただ、その真向かいの影丸は、興味が無いのか関心を見せず茶を飲み下している。

「知り合い、ねえ……ハンターやってりゃあ複数で狩猟依頼に挑むのはザラだし、まあ其処まで浮かれちゃ居ないだろうけど」
「もう……影丸って直ぐにそうやって水差すんだから」
「へいへい、俺にはあんまり良い思い出も無い連中だからな」

ぶすり、と拗ねたような声だった。けれど、セルギスを尋ねてきたハンターたちが誰なのか、まるで知っているような言葉に思わず「影丸も知ってる人なんだ」と尋ねてしまう。
空っぽになった影丸の湯飲みへ緑茶を継ぎ足すの手を、彼はしばし黙って見た。その後「散々好き放題に言っていった連中だ」と告げた。普段の調子の声だったが、その目には微かな鋭さがある。

「セルギスが居なくなってから、何人か俺に文句を言いに来たな……そいつらの、誰かだったような気がする。ま、別にそれがどうって訳じゃねえし、俺も今となっては気にしてない。
けど、七年ってのは長いし、今日は懐かしくて楽しくても、明日からはどう付き合うかなんて分からない。要は、そういう事だ」

彼の言葉は、非常に捻くれて、時に難解だ。今に始まった事ではないが……ただ、ほら、既に隣のレイリンは不思議そうに首を傾げている。
は苦笑いしたものの、薄っすらと、彼が何を言いたいのか分かったような気もしたが、気がしただけかもしれない。

「セルギスさんの事情も、知らないわけだしね。でも楽しんでいるなら、良いじゃない」
「ま、そうだろうけど」

影丸はそれっきり、その事については口にしなかった。
けれど、七年前のジンオウガ討伐の出来事の際、影丸の顔を殴るほどだったのなら……セルギスはそれだけ同業者から慕われて、そして今も彼との再会に馳せ参じるほどの人物だという事だ。
七年という月日は決して短くはないが、時間の距離すらも空こうとはは思わない。当事者でない彼女が、もちろん口にする事のない見解だが。

七年前から続く関係、か……。

は思い浮べ、そして少しだけ溜め息を漏らす。
数ヶ月、いやもっと長いかもしれないけれど、その月日と比べてしまう彼女が居た。
何の覚えもなく、いわれもない、この場所に落とされたあの日。あれから自分の身辺の人間は、ユクモ村のハンターたちとそのオトモアイルー、そして渓流で過ごしたセルギスとカルトとアオアシラだけだ。劣等感ではないけれど、それに近しい感情が僅かながら過ぎる。
嫉妬、だとしたらあまりにも子どもじみている上にみっともない。交流関係に口出しするほど偉くはない。

だが、あの渓流での生活があの頃全てであった自分にとっては、ジンオウガ――セルギスは、今も大部分の記憶に居座っている。

( なんて、今の生活で、それはちょっと引っ張りすぎね )

もう桜色アイルーも居ないし、ジンオウガも居ないのだから。誰も知らない間に始まって、誰も知らない間に終わるだけだ。
はそう完結させて、今頃珍しく酒を煽っているであろうセルギスの姿を思い浮かべ、影丸とレイリンとの時間を過ごした。




―――― 夜も賑わう観光地の明りが、一つ、二つと消えてゆき、静けさと涼しさがようやく満ちる頃。
集会浴場の施設の一つである飲食店も、暖簾を下げて明りを消した。今その場所に灯るのは、ハンターズギルドの明りだけだ。
村を仄かに照らした明りが消えた事で、遙か高みの金色の月がより一層輝いて宵闇に浮かび上がる。地面にも伸びてゆく影は、薄っすらとその形を映していた。

酒を煽った身体は暖かく火照り、セルギスの手に握った杖も少々揺れている。柔らかい地面を蹴っているような気もしたが、頭はしっかりと働いているし最近は人間の頃の感覚も戻ってきているので特に厳しい事は無い。
複数の足音が村の道に響いて、上機嫌な笑い声が絶えずこぼれている。

「予定より随分長居しちまったな。どっか宿取って一晩過ごすか」

ハンターの男がそう告げ、腕を上げぐぐっと背を伸ばした。
セルギスは「すまないな、これから依頼があったのだろう?」とその背に声をかけたが、彼は笑って首を振った。

「なに、朝一で出れば問題ない。酒の抜けないまま夜出て行く方が、危険だしな」
「へえ……お前からそんな言葉を聞くなんてな」
「うるせえな、俺だって少しは年取ったんだよ!」

彼はガハハと豪快に笑った。その仕草は、いつか見たものと同じだった。

「村の中にも、幾つか宿はある。駆け込みで来る宿泊者向けのもあるから、市場通りを過ぎて見ると良い」
「ああ、そうさせてもらう。お前は? こっちでまた飲むか?」
「ああ……いや、明日もリハビリ兼ねて荒れ放題な農場の整備に明け暮れる。若い頃みたいにいかないから、大人しく寝ようと思う」

セルギスが返せば、ハンターたちは「そうか」と頷いた。そして、また飲みに行こう、ハンター復帰したらまた一緒に依頼を受けよう、そう言葉を交わしながら抱き合った。
市場通りに差し掛かり、彼らは宿通りに向かって、セルギスは自宅に向かって、背を向けて別れた。

が、此処で「ねえ」と小さな女の声がセルギスを呼び止めた。

「自宅まで、送り届けるよ。あんまそういうのしない方が良いかもだけど、杖先に気を付けた方が良いでしょ?」

かつては仲間を誤射しようとした、ガンナーの女性だ。
セルギスはしばし考え、いくら長閑な観光地ユクモ村でも、住民の区域はほぼ明りは無く暗い夜道で危険だが、とも思ったのだけれど。
それが顔に出ていたのか、彼女は腰に両手を当てて「私はハンターよ、別に大丈夫だわ」と自信満々に告げた。
その後ろで、他のハンターたちは「そうしてやってくれ、こいつセルギスに会ってから目に見えて浮かれているから」と意味ありげに告げ、ニヤリと笑った。
セルギスは首をやや傾げ、女性を見たが、彼女は慌てて咳払いをし誤魔化して、「とにかく見送りするから」と語尾を強めた。

「……ふ、そうか、じゃあ頼む。村人なのに形無しだが」

セルギスが笑うと、彼女は一瞬だけ表情を綻ばせた。
そうすると、背後のハンターたちがニヤニヤと笑みを深めたので、彼女は振り切るようにセルギスの腕を取って歩き始めた。おっとっと、と杖を進め、彼女と肩を並べた。

住民たちの家屋が立ち並ぶ場所は、昼間も静かだけれど夜ともなればほぼ無音だ。未だ宵の口で明りのついている家屋をあるけれど、ほとんどは寝静まっている。
コツ、コツ、と規則正しく杖の先を進めるセルギスの足音と、女性ハンターの足音が重なる。カナカナ、と聞こえる虫の鳴声が、夜の静寂を美しく彩って、宵の空虚に光蟲が時折過ぎった。

「今日は突然、ごめんなさいね。押しかけてきて夕飯まで」
「いや、久しく会えて良かった。皆、元気そうで安心したさ」

セルギスが何気なく返すと、女性は一瞬だけ口を詰まらせる。戸惑う空気を隣より感じ、セルギスが見下ろすと、彼女は瞳をやや伏せていた。
その様子に、失言したのかとセルギスは焦る。思えば七年もあるのだ、彼女にも大きな出来事があっても可笑しくは無い。繕うように口を開きかけたけれど、彼女はそれを咎めず小さな声で答えた。

「……こっちが一番、安心したよ」

ぴたり、と彼女の足が止まる。必然的に、セルギスの足も止まった。
セルギスの腕を取る彼女の手に、微かな力が増す。縋るような、確認するような、不明瞭な指先で衣服の上から撫でてきた。アームに覆われているが、女性特有の細さまでは隠せず表れているように思えた。

「貴方が居なくなって、心底驚いたし悲しかった。色々なハンターが居たけど、貴方ほど冷静な人は居なかった。
ユクモ村のジンオウガ討伐の発端と裏側を知ったのは、それから何ヶ月も後で、あの時ほど自分を恨んだ事も無かった」

俯き加減だった彼女の横顔が、セルギスへと向き直り見上げた。
身なりは、一般女性とは程遠い武装したハンターそのものであったが、月明かりに照らされたそれは女そのものである。微かに震えた眉と瞳はセルギスを見つめ、悴んだ唇は言葉にならぬ無音の声を絶えずこぼす。そうした仕草に、獣を打ち倒す強靭さは皆無で、むしろ―――――。
食堂での陽気に酒を飲んでいた彼女とは異なった変化を、セルギスは知覚していた。広い背が、僅かな驚きで震え、杖を持ち直した音がカツリと響く。

「貴方がまた戻ってきて、良かった。本当に、本当に……セルギス」

二歩程度空いていた彼女とセルギスの距離が、彼女のそっと踏み入れた足で詰められる。ガシャリと鳴ったレッグ装備の無機質さに反し、近付いた彼女の顔には仄かに熱を帯びた甘さが湛えられおり、セルギスはそれをじっと見下ろす。
思えば七年前―――セルギスがハンターとして現役であった頃。当時セルギスも二十代半ばほど、あるいはもう少し若かったかもしれないが、その時彼女も同じほどの年齢だった。十代を抜け出し、明るくも決して姦しくはない彼女。ただ唯一問題をあげれば、ガンナーとして致命的なまでの誤射の多さ。何度後方からの弾丸に殺されそうになった事か、今も記憶に鮮明だ。
そういうセルギスも、あの頃は今と比べれば多少は奔放な面もあって、今思えば馬鹿な事もした。どっちもどっち、だろう。
ただその記憶の彼女と、今目の前にいる彼女は比べるべくもなく。より落ち着き、よりたおやかに、より美しくなった。美人云々の定規で測っているのではなく、人としての年齢を重ねた美しさだ。
じっと見下ろすセルギスに、彼女は手を伸ばしてその広い胸に重ねて合わせる。現役の頃と違わずに筋肉質で無駄の無い彼の身体は、微かに触れた彼女の身体との間に、温もりが灯る。

けれど、近付いた柔らかい唇を見つめるセルギスの表情は。
向けられる熱に解される事無く、静かで、確固たる冴えた意思があった。

七年の間、人間の生活に焦がれ、村の方角へ向かい吼えた事は数知れず。
だが、あのどうしようもなく孤独で、妬みに狂って、諦めざるを得なかった獣の生活で。得たものも、少なくない。

セルギスは、杖を持たぬ空いた手を上げると。
寄り添った彼女の身体を、静かに押した。
捧げようとした唇を押し返され、彼女は面食らい目を見開いていた。誰だってそうなるであろう、だがセルギスの行いは静かな断りを入れている事に変わりなく。変わらず背を伸ばした身体は、静かに構え、粗雑に扱おうとしない分だけきっと同時に容赦も無かった。

「ああ、俺も、お前や他の連中とまた会えて良かったさ」

微かな笑みを浮かべたセルギスに。酔いも熱さも、無かった。
彼女は一瞬だけ、傷ついたような表情を浮かべた。だが、程なくし、顰めた眉を緩め、溜め息を漏らす事無く口を閉ざし、そして笑った。

「……ええ、そうね。会えただけ、良かったわね」

彼女はそう呟いて、今度は震えた甘さも何も持たず、セルギスの肩にやんわり腕を伸ばして抱きしめた。挨拶のそれを、セルギスも返してから、身体を離す。

「じゃあね、朝一で出るから、これがしばらく見納めだけど。復帰したら、また狩猟に行きましょう」

家は直ぐよね、と言って片手を上げた彼女を、セルギスは見送った。それ以外、言わない方が良かったのだろう。遠ざかるハンターの細い背に、僅かな哀愁があった事も。
セルギスなりに痛みは覚えていたけれど、頭は冷めていたのだから仕方ない。彼らの事は好んでいるし、親しい同業者であると思っている。無論、彼女も。だがそれと混合出来ないのは、彼らが決して知る事の無い生活をセルギスが送ってきた事実が、最たる理由である。
お前は変わったな、と漏らした彼らの言葉は、きっとその通りだったのだ。
セルギスは踵を返すと、自宅へ向かって歩き始めた。

だがその足が止まってしまったのは、直ぐの事。
――――― なんだってこの時間に、とはち合っているのだろうか。

セルギスが驚いているのと等しく。そのもまた、呆気に捕らわれしばし動きを止めていた。
低い彼の声が「?」と呟いた事でようやく動き出し、さてどう言おうものかと考える暇なく声を発した。

「こ、こんばんは」
「……ああ、いや、こんな時間に何を」
「影丸とレイリンちゃん達と、ちょっと遅くまで話し込んで。えっと、最初は私の家だったんですが、お茶じゃ足らないなんて言い出した影丸が、お酒飲みに連れられて……あッ私は飲んでないですよ」

別にそこまで聞かれても居ないのに。言い訳がましく響いてしまうのは、普段通りを努めているからだろう。セルギスが先ほど、ハンターであろう女性に顔を寄せられている光景を見ているは、変に気遣ってそれについては触れないようにしていた。
セルギスは僅かに訝しげな仕草を見せたが、それも消して「そうか」と小さく笑った。

「楽しんで、きましたか?」
「ああ、とても」
「それは良かったです」

やはり知り合いとの久しい食事は、懐かしく楽しんできたようだ。

「ふふ、少し顔も赤いですし、珍しくお酒も飲んできたみたいですね。冷える前に、ゆっくり休んで下さいね」
「ああ……。だが、送っていこう」
「え?」
「こんな時間に女一人を放っておくわけにもいかないだろ」

やや鋭い眼差しには小さな苦笑いを浮かべ、断る余地も無さそうな声音に頷かざるを得なかった。
だが、の貸し与えられた自宅は、民家の立ち並ぶ区域のやや奥。隆起に富んだ地形のおかげで道は緩やかな傾斜が多いが、現在の場所から遠いわけでもなく。かたやセルギスの自宅は直ぐ其処で、通り過ぎてしまうのが気掛かりだ。それが非常に申し訳ないのだが、彼本人は意思を変えないのでは素直に送られる事にした。
こういうところが、彼らしいまめな性格であると思う。

「影丸は何を考えている」
「あ、酔い潰れて爆睡してます。レイリンちゃんを、送ってきた帰りなんです」
「……あの阿呆」

はあ、と大きく吐き出した溜め息が、呆れ果てる心情をよく表している。隣に並ぶは、帰る間際の影丸の寝姿を思い出して、きっと明日セルギスに注意されるのだろうと哀れんだ。

寝静まる住宅地の道を、二つ分の足音が進んでゆく。特に会話も少ないが心地良い静寂に満ちていた。
それが、何故か無性に懐かしくもあって。

「渓流を思い出すなあ」

ふと、の口から呟きがこぼれた。周囲が静かなだけに、大した声量でなくともセルギスに届くには十分で、彼はやや首を傾ける。
「思い出すのか」どちらかと言えば、怪訝を含んだ低い声だった。は曖昧に唸り、「静かな時には特に」と返した。

「そんな、大した事でもないですが。ユクモ村で生活するようになってからも、思い出すんですよね。記憶が過ぎるっていうか」
「ああ……なるほど」
「人の暮らしに戻っても、あの頃の暮らしは忘れようがなくて」

小さく笑えば、セルギスは納得したようで「そうだな、実感もする」と肯定する。

「……人間が、ジンオウガやアイルーになっていたなんて誰も信じるわけがない。誰も知らない間に始まって、誰も知らないまま終わった。それだけだったな、実際思い起こせば」
「セルギスさん」
「――――― ジンオウガと成って彷徨っていたのは、悪い事ばかりでなかった。今、特にな」

そう呟いた彼に、は頷いた。あの生活があった分だけ、人が人である事がどれだけ素敵で恵まれている事か身をもって理解した。良い事は多くないけれど、悪い事もそれと同様だったように思う。
だがの受け取り方は、セルギスの発した言葉の意味とは少々異なっていて。それを彼女は気付かなかった。僅かに視線を動かした彼の琥珀色の瞳が、の横顔を見下ろして瞬いた事も。

ほどなくし、眼前にの自宅が現れた。周囲に民家は少ない為、彼女のそれはぽっかりと宵の中に浮かんだようだった。玄関である角飾り付きの長暖簾の手前、数メートルのところで立ち止まり、はセルギスに向き直った。
此処まで来れば、大丈夫ですよ。が告げると、彼は落ち着いた笑みをこぼして「ああ」と告げた。

「……こうやって人間を送るなんて、前の生活では出来なかった事だな」
「ふふ、そうですね。でも知り合いと会って、食事して、良かったですね」
「……良かった?」
「? はい、楽しかったんですよね……?」

あれ、何か間違った事を口にしただろうか。彼が長い間、人間に戻りたいと願って、そうしてよりも何倍も現在を喜んでいるはずで。今日の食事だって、楽しんだと思ったのだが。最後には、知り合いのハンターの一人だろうか、抱きしめあっていたし。
一瞬困惑したの前で、セルギスは静かな空気を崩さないまま少しの間思案をする。そして、深い呼吸にも似た声で呟いた。

「確かに楽しかった。久しぶりに会った奴らは、まあ顔つきだとか変わっていたが根本的な部分は同じだったし。以前のように接してくれた。楽しい時間だったさ」

その声は、確かに思い出を語るように穏やかだった。けれどその後、「だが」と続き、は口を閉ざす。

「ジンオウガ討伐から現在までの間にあった事は、あいつらに話せないし話すつもりもない。ある意味一番重要な部分だが、話したところで何が変わるわけでもないしな。
七年の時間の経過を思い知らされた気もして、複雑ではあったか……楽しかったのも事実だが」

セルギスは、そこで一旦言葉を止め、ふっと笑うと瞳を閉ざす。「いや、これは忘れろ。些細なわがままだ」
再度開かれた時、その琥珀色の瞳が真っ直ぐとを見下ろし、彼女は不思議な緊張を覚えた。その目は、渓流に居た頃見ていた、王者ジンオウガ―――獣の鋭さを思い起こさせた。

「上手くは、言えないが。昔の思い出より――――ジンオウガの時、最後を過ごした渓流の記憶の方が、今の俺には重要らしい」

そう告げたセルギスの、穏やかな口元が。宥めるような眦が。宵の中で月影に揺れた瞳と髪が。
何故かの目に、はっきりと浮かび上がった。
いや、眼差しを奪い取られている、そう言い換えても良いかもしれない。藍色と月影の映えた世界の中で、セルギスの姿は非常に男性らしい強い物腰と、敢えて反した軟らかな空気を纏っている。普段、確かに彼は身長も肩幅も含め存在感があるが、今ほど引く事もあっただろうか。女には決して無い、男の甘やかさといおうか、曖昧な部分を指しているので表現のしようがないけれど。の前で、身体の向きを直した仕草も、向かい合った広い胸や、見据える顔も、とても綺麗で――――そう、渓流で顔を寄せ合った獣の、張り詰めた美しさ。
だが、薄ぼんやりとセルギスがそれらを自分に向けている事をは分かったものの、理由までも理解するのは押し寄せた色濃い困惑によって難しい。むしろ、逃げたくもなった。それまで無かった心音が、体内で不規則に鳴って、奇妙な熱さで足元を追い詰める。
思わず、一歩退く。だがそれを、セルギスの長い足はごく自然に埋めてしまう。そうして離れ、また歩み寄り、繰り返すうちにの背中は家の壁にすとんと音も無く当たる。
目の前に佇んだセルギスは、恵まれた身体つきと背丈で影を生み出すほどであるのに、圧迫感や乱暴さはない。それでも、逃がしてもらえないような隙の無さ、あるいは威圧があった。

ぎゅ、と喉の奥が引き萎められたが、は誤魔化して笑った。

「もう、セルギスさん。お酒飲み過ぎですよ、酔ってますか? 早く休まないと」

立ち塞がった彼の広い胸の少し上、鎖骨の隣を手のひらで押す。
だが、それを杖の持たない手で取られた。息を飲んだのは、それだけではない。その手のひらの熱さと、彼のそれの大きさ、指の太さが這ったからだ。
二重の意味でも驚いて、は空回りする笑みを消した。戸惑い、泳ぐ視線の先で、セルギスの琥珀色の目が細められる。琥珀色の瞳が、鋭く、けれど感情を湛えた穏やかさも含んで。

「……そうだな、今になって酔いが回ってきたかもしれない」

何かを含んだ声を、は問う事が出来ない。頭上で聞こえた声が、今は静かに下がり、耳元を掠める。そこから一歩も退けられないのに、背は家屋の外壁に押しつけられ仰け反った。
取られたの手は、セルギスの胸に引き寄せられ、僅かな距離が踏み入れた彼の足で埋められる。眼前の彼の肉体から微かに視線を上げると、伸びやかな広い背を屈め、顔を覗き込ませてくる彼の眼差しとぶつかる。
カラン、と音が聞こえたのはその時だ。
見れば、彼の握っていた杖は、の隣に立て掛けられていた。

「セルギスさん、杖」
「ああ……今は、立っている事も容易に出来るんだ。心配は要らない」

吐息混じりの声が、落ちてくる。振動がそよそよと伝わり、くすぐったく 肩を竦めると、目の前で彼が笑ったような気がした。

「アイルーのようだな、その仕草が」
「え……」
「いや、アイルーを思い出した。ジンオウガの姿で過ごした、最後の時、近くにいた桜色アイルーを」

気付けば、セルギスの顔はさらにへと近付き、影を落としていた。杖を手放した彼の手が、狼狽えるばかりで無防備なの二の腕を静かに包んで、いつかの時のように額を重ね合わせた。どこか、獣の信頼表現のそれに近いが、なおこそばゆさが増しては目を閉じる。彼が吐き出す吐息の振動すらも、酷く甘く、暖かくくすぐったい。


「ッセルギスさ……」
「―――― あんな事、直ぐに忘れてしまえば良いだろうに」

そう呟いた彼の声は、の瞼を微かに開かせた。

「どういう訳か、消えないんだ。ジンオウガになっていた事も、あの姿の時人から恐れられてきた事も。顔馴染みのハンターたちに会ったら、それが増すなんて思ってなかった」

遠い記憶を思い出すような、静寂に消えそうな声だった。けれど、その眼差しは、真っ直ぐとを見つめ、それを眼前から受け止めた彼女はただ息を飲む他無い。
その眼差しの中に、酒の酔いだけでない熱さがあり。疎いにも、十分に分かった。

これは恐怖か。それとも、喜びか。
はたまた別のものか。

ただ、セルギスの眼差しと、掴み引き寄せた手と、回された腕と、歩み寄った力強さを纏う肉体に、思考さえも奪われてしまったような気がした。

静寂が、落ちる。音のない宵闇の中で、二人分の呼吸が互いをくすぐるように漏れ、重ね合わせた額から全身に温もりが広がる。
先に動いたのは、だった。どうすべきか彷徨う手が、彼の胸の上でか弱い拳を握って押しつけられた時、セルギスが次いで顔を離した。紅葉に包まれたユクモ村によく似合う、赤銅色の短い髪。その向こうの琥珀色の瞳と一緒に揺れた。
まるで、の存在を確かめるとでもいうように、彼の手はの肩や腕、腰、首や頬も撫でていった。その熱さと優しさが心地よくて、同時に震えると、再び彼の顔は落ちた。
ほとんど息遣いの声で、、と言ったような気がした。
触れた唇は、ほんの一瞬だった。ただ僅かに柔らかさを覚えただけの、まるで羽のような口付けだった。
けれど、それだけで飛び跳ねたは身を引いた。セルギスの身体が、今度こそ全身を押しつけられて、精神的なところから物理的なところまで逃げ場を失った。セルギスの手に比べれば細く頼り無い手、それが解放される代わりに肩と背に腕が回った。
セルギスさん、と止める声も、届かなかったか。再び触れた彼の唇は、一転し隙間無く覆う。口内を蹂躙したり、唾液を絡めるような激しさではなく、けれど唇の上で互いを侵し合う、柔らかくその時間を引き延ばすようだった。
それでも十分に、を困惑させているのだけれど。

、と幾度か呟く彼の低い声に熱が増し、甘やかに這う。
異性の一線を越えている行為である事は、セルギス自身が分かっているはずだった。だが、急に理性が焦げたような。焦慮に呆気なく投じるほど、冷めていた思考が熱に湧いた事は間違いない。
顔馴染みの女性ハンターの、触れた腕が。近付いた温もりが。香りが。どれも、セルギスを悩ませる要因にはならなかった。むしろ、彼女が色めくほどに冷たさが増していった。
それが、を前にして振り切れるのは……考えるまでもない事なのかもしれない。

あの孤独に満ちて、どうしようもない野生の世界で。
ジンオウガの姿で満ち足りた日々を久しく送れたのは。まっとうな知性を取り戻したのは。遠ざけられてきた自身に、触れてきたのは――――。

抱きすくめた細い身体は、桜色のアイルーの造りとはまるで違う。同時に、彼の肉体とも異なる。柔らかく、ほっそりと伸びて、小さな手と肩はどれも頼り無い。塞いだ唇も、かじかんで震えているがさながら果肉のような錯覚もし――――。

と、そこで、セルギスの思考に水が掛けられる。
はっと息を吐き出し、の唇を味わっているというこの状況がいかに浅慮であるか思い出して、彼は唇の動きを止めた。
は、どっと息を吐き、そして何度も吸い込んだ。僅かな距離で離れた唇の間で、互いの息遣いが吹きかけられてゆく。セルギスは、そのか細い吐息に背筋を戦慄かせたものの、唇の熱さに反し冷えた思考が責め立ててくる。
ギシ、と首の後ろが軋んだ。屈めた体勢であったからだろうが、その音が脳にまで響いた。

「……あ、いや」

何かを繕うように、セルギスは呟いた。続かない言葉が漏れる先で、はどうすべきか分からないまま彼を見上げ、火照った頬と唇を隠すように手の甲を押しつけ撫ぜる。

熱い、酷く。頭上を通る夜風の涼しさも、それを抑えてくれない。
あ、う、う、と同じような意味のない声を出すと、抱き込んだセルギスの身体が離れた。思えば、胸も腹もぴったりと重なっていたようで、これみよがしに吹いた夜風の冷たさに驚く。

「……す、すまない」

謝るくらいならするな、と彼は自身でも思い叱り、立ち尽くすを目もろくに見られないまま数歩離れた。壁に立て掛けてあった杖を素早く取り上げたところで、もあっとセルギスの横顔を見上げて何かを告げようとした。別に、これと決まっていたわけではない。ただの反射神経だ。
けれど、そのの前で。セルギスの長い指が立てられ、静かに制される。爪が唇に当たり、何も言うなと、あるいは申し訳ないという意を込められているように感じた。
落ち着いた笑みを浮かべるセルギスが、照れ隠しで眉を顰めている。珍しい、と思う傍ら、つい先ほど見た張りつめた獣のような隙のない美しさも色濃く刻まれて、彼が願わずともは何も言えなくなる。

沈黙がぎこちなく漂い、その中に響く虫の音も違和感が勝った。

先ほどの口付けは、一体何なのか。
理由がもたらされる事無く、金色の月は藍色の雲間で輝いて、ユクモ村の夜は更けてしまう。
夢の中でそれを問い質すも、再び現実味を帯びた口付けを見るばかりなのだろう。

先ほどの口付けは、本当に、一体何なのか。何の意図で、一体。
は身体を抱きしめて困惑し、セルギスは自らの行為に困惑し、苛まれる事となった。



続くかもしれない、単品かもしれない、そんなセルギス夢。
たぶんこの後は、自己嫌悪で寝込んだ。
セルギスはきっと、そういう男。

( お題借用:エナメル 様 )


2012.12.23