嫌がらせの至近距離

自らが使うベッドの上に横たわる女の光景というのは、凶悪的なまでに艶を秘めていると思った。
慣れ親しんだ手編みの掛布に、静かに横たわった四肢は白く浮かび上がる。女性らしい、柔らかい輪郭と、均整の取れた身体。ぎこちなく伸びた足の爪先は、布団をしならせる。その投げ出した下半身に跨がって見下ろすと、喉が震えるのを自覚した。さながら、渇いたような、渇望感。それは間違いなく、自らのベッドに横たわる彼女に対しての、紛れもない情欲であった。
ユクモ村の厚手な民族衣装を、襟に指を這わせてなぞりながら差し込むと、曖昧な肌の感触が指先に当たる。それでも、渇きは増してゆくばかりで、力任せに衣服を左右に割った。そうして現れた剥き出しの肌は、首筋から丸い胸、なだらかな腰と続いて、焼けて色濃いこの手には全てが眩しかった。
無遠慮に、頬を撫で、首筋を下り、彼女の肉体の輪郭を曖昧な感触の中で刻み込む。
手のひらに、感触はない。温もりも、酷く曖昧。この熱さはむしろ、自身の身勝手な浮かされた熱だろう。彼女がどう感じているのか、思っているのか、分からない。ただ、触れた事に対し情欲は僅かに満たされ、そしてさらに身に余る熱を抱く。もっと、触れたいと。曖昧な感触ではなく、もっと確かな中で。
背を屈め、上体を倒して彼女に覆い被さる。奪い取るが如く、唇を重ね合わせると。
何一つとして不明瞭な世界で、その感触だけが脳に響いた。
それは、あの時――あの晩、何も言わずに触れた唇の味であり、夢の中でも理解するほどにはっきりと覚え苛まれる、彼女の温もりであった。

これは、夢。何度見ても、夢に変わりはない。
夢と、はっきり分かっているのに。
自分は、この日も彼女を抱いていた。



最低だろうに、と夢から覚めるたびにセルギスは思った。
自分以外に居ないベッドは、自分の温もりだけであたたかくなっていて、腕を伸ばせば空の敷布の上にパタリと落ちる。吐き出した息が、明朝の仄蒼い静寂に溶けて消えた。静かで、観光地であるとは思えない、無音の世界。セルギスの鼓動の速さと、思考の明瞭さだけが、浮き彫りになっている。
いつもの事。いつもの風景。いつもの虚無感。これがいつもの事と位置づけられるのは、そもそもおかしいのかもしれなかった。
セルギスは身体を起こし、赤銅色に染まる寝起きの髪をくしゃりと掻く。夢の中のくせに、彼女の声と肉体は、妄想にしてはよく出来ていて。夢である事が無性に腹が立ったし、そうして夢に想いを馳せるガキみたいな己にも笑えてくる。

一体、何歳だと。

歳月と年齢の経過は未だ曖昧とはいえ、理解はしている。セルギスは振り払い、立ち上がった。近頃は支える為の杖を持たずに、生活を送るようにしている。ギシリ、と床板の軋む音が寝室に響く。彼の足は、少々覚束ないがしっかりと進んでおり、階段も一段一段降りてゆける。
それとなく形になってきた人間の振る舞いを、セルギス自身で安堵している。だが、現状に慣れれば、新たな苛みが生まれるのも彼自身で分かっている。

台所に向かい、水瓶の前にしゃがむ。柄杓ですくった水を小桶に流し入れ、両手を突っ込む。驚くほど冷たい水だったが、彼は迷わず顔に浴びせた。多少は、気が紛れる。ジリジリと焦げるような夢見の後の熱さを、無理矢理下げてくれる。

「……最低だな」

頬を伝い、顎から滴る冷たい雫が、小桶の水面を波立たせる。波紋に映し出されるセルギスの顔は歪み、薄暗い中でもはっきりと険しさが読み取れる。
呟いた声も、もう何度目になるか数えていなかった。



死ぬ覚悟は、当の昔に決めていた。
そう思って身を捧げたハンター生活の最後を飾ったのは、死ぬ間際でこの世から消え去りたくないという、酷い渇望感であった。
何が起きても構わない、再びこの捩れた四肢が蘇り、潰れた肺が酸素を取り込み、破れ引き裂かれた肉体が立ち上がるのであれば。そう思ってドキドキノコを口にしたのは、七年前の事。以後セルギスは、最大金冠サイズのジンオウガとなって、人の営みから離れた大自然に生きる事を余儀なくされた。
獣同然となって過ごしたあの長い歳月は、苦痛以外の何物でもなかった。けれどそれも最初の事で、人である事を諦め獣である事を認めた瞬間から、セルギスの苦痛も消え逆転した世界を受け入れた。受け入れざるを、得なかっただけだ。
どうせこの声を聞く者は居ない。この姿に人間の過去を見出す者は居ない。今度は、獣として死ぬだけだ。それも、人間の手によって。

……あんな風に覚悟を決めた中で、だ。最後の数ヶ月、ハンターに追われて(これが影丸であった事は後になって知る事実であったが)逃げ込んだ渓流で、初めてこの声を聞いてまともに接してきた者が現れて。
それがアイルーであれ、あの時ジンオウガは確かに、ボロのワンピースを着たあの桜色アイルーに、恋にも近い感情を抱いていた。
そうして、七年前の起因と決着を付けて人間に戻ったセルギスが、同じく桜色アイルーから人間に戻った彼女に対してのみ抱く想いがあっても、可笑しくは無い。

けれど、あれだけ願っていた人間の世界は、思っていたよりも色鮮やかさはなく現実的であったし、感動に震える時間はあっさりするくらいに短く終了した(今も時々、感慨深くなるのは確かであるけれど)
七年の歳月の、長さ。自分の中身は大して変わっていないのに、外見は時間の経過を物語り、周囲は驚くほど年を重ねていた。世界が自分だけを置いて、先に行ってしまった錯覚。人間は結局我侭な生き物で、あれだけ求めた生活でも物申したくなる。けれどそれは、誰にも言えない事で、知り合いのハンターたちや世話になっているはずのギルド関係者、ユクモ村の長に言える事ではない。
誰も知らない中始まり、誰も知らないまま帰結した御伽噺。現実であったにも関わらず、あれは幻想でだったのではないかと今も時々思う。

そんなセルギスの思いも、やはり彼女だけは理解してくれていた。渓流での生活の時も、ユクモ村での生活の今も、それが彼にとってどれほどの救いであったか、きっと彼女は知らないのだろう。

驚くほどに、今も彼女はセルギスの真ん中に存在していた。

ただ、そんな綺麗さで終われないのが、やはり人間というもので。
語らずともセルギスの現状が、何よりも雄弁に表している。同じ境遇を分けただけでは飽き足らず、友人として憧れるだけでは留まらず、その手で触れ欲しくなっている。

……例えそれでも、あの晩に。何も云うなと最後に告げて、口付ける真似をしてしまってから、夜毎セルギスは悩まされる羽目になった。

幸か不幸か、あれから彼女――とセルギスの間には多少のぎこちなさが一時あったのだけれど、双方共に少年少女の青臭い年齢でないから普段通りに接し合えるまで時間は掛からなかった。酒のせい、という無条件の納得があったからだろう。少なくとも、はそう思ったに違いない。
セルギスの場合は、彼女と普段話せない事の方が辛いので、それで良いと思っている。そう思っていてくれた方が、何よりだ。

はこの日も、集会浴場の清掃員のアルバイトに励んでいた。温泉施設が併設されている為、建物内部にも特有の匂いがし、空気も湯気の温かみを含んでいる。白い布地で仕立てたユクモ村の伝統衣装を、たすき掛けをし袖を捲って、ブラシとバケツを持って歩き回っている。公共ゴミ捨て場で、嫌がる事なくゴミ袋を交換して綺麗に片付ける姿は真面目で、ギルド関係者も温泉施設関係者からも概ね好評らしい。
そんな彼女に対し、袖から覗く細腕の白さを見ている己は、浅はかであるのだろう。均整が取れた身体は、どちらかと言えば健康的。歩く足も真っ直ぐな背も、陽の下がきっとよく似合う。人として、女性として、着飾らなくとも目を惹く美しさがある。

「―――― あ、セルギスさん」

が気付き、額をタオルで拭いながら歩み寄ってきた。朗らかな笑みに釣られ、セルギスも笑みを返す。

「バイトか、お疲れ様」
「いえいえ、セルギスさんは、ギルドに?」
「まあ、そんなところか」

そろそろハンター復帰に向けての準備もしなければならない、と付け加えると、は「そうですか」とだけ言って笑った。
その笑みは、夜毎現れる彼女とは当然僅かとも合致しない。当然だ、あれは浅ましい欲情が作り上げた幻に過ぎない。

「何だか今日も一杯、依頼書が貼ってありました。頼りにされてますね、ハンターって」

はそう告げて、依頼書の掲示板を視線で指し示す。その横顔にも、首筋にも、あの悩ましさは無いというのに、無意識下で追いかけ探す己が居た。それも堂々と隣で、だ。
急に、セルギスの頭の後ろがふらついた。疼きを抱いた胸の奥が、無理矢理鎮めた明朝の熱を思い出し、微かに震える。それと同時に、罪悪感が混ざる。
彼女のこの声が、もしもあの夢のように甘く響いたら、なんて。思うものではない。



日中は、周囲に気を散らす要因がそこらかしこにあるから、まだ耐えられる。が、夜にもなり、一人となった寝室では、セルギスの情欲が存在を示し始める。
自分の物であったのに、真新しい住処を手に入れたような感覚が当初の頃していた、七年前と変わらずの自宅。寝室も、記憶の限りでは変わっていない。腰掛けたベッドが、セルギスの重みでたわむ。真ん中に座り、背を倒す。横向きになり、肘枕を作ってそこに頭を乗せる。
柔らかい布団を敷き詰めたそこは、安らぎの場であり、近頃では彼の情欲を煽る場でもある。
寝着として着る薄手の衣は、ゆったりと纏っている為に胸元ははだけている。その下で、心臓が不意にトクリと音を立てる。セルギスは赤銅の髪を一度掻き上げ、広い肩から力を抜く。吐き出した息が、高ぶり始めた気を表しているようで、自覚すると同時にセルギスの大きな手は自身の太股へと伸びた。ゆるゆると、衣を割ってその下へ。無駄のない硬い背中を、少し丸めた。
後になってきっと後悔するのだろうが、自らの手で慰めるという事はその時別に恥ずかしいとも何とも思っておらず。痒いから引っかく、気になったから触る、それとほぼ同じ心理だ。

セルギスの脳裏に、あの晩の唇の感触が蘇る。躊躇った息遣い、震えた柔らかさ、身勝手な口づけに身勝手に欲情した。あの時からなのだろうが、という女性の身体について酷く悩まされるようになった。
掴んだ腕は細く、肩は小さく、壁に押しつけた肉体は柔かった。陽の下の似合う健康的なそれらは、驚くほど頼りなく、急に女の美しさを湛えていた。
下半身へ伸ばした、指の先。セルギスのそれが触れ、彼は触れるか否かの力加減で手のひらを覆わせ、静かに撫でる。
例えば、彼女の指。桜色アイルーが碧色の堅殻に触れたように、彼女の指は優しげで温かく。きっと、男性の浅ましい欲望で膨れ上がるそれにも、優しく触れるのだろうと勝手に思う。普段から何気なくスキンシップをしてくる指先を、自らの手のひらに乗り移らせる。
セルギスの身体が、微かに震え始めた。唇から、浅い呼吸がせめてゆっくりにと、ぎこちなく繰り返される。
単調に、何度も滑らせる。柔かった表皮が既に硬く質量を増し、セルギス自身の手のひらを押し返す。
横たわった身体を、もどかしげに起こし、うつ伏せの体勢へ。それから、空いた腕を突っ張り上体を起こす。それでももう片方の手は、止まる事を拒んで自慰行為を続ける。
寝室を照らす頼りない燭台の明かりが、影を揺らす。浮かび上がるセルギスの身体は、その屈強さと伸びやかな四肢に反し青年のように丸め戦慄く。

夢の中で、組み伏せたように。
思った途端、あの夢が目の前に現れる。

『セルギス、さ……ッ』

濡れた目、染まる頬。妄想にしては、よく出来た彼女の姿。自らのベッドに、埋まる細い肉体。丁度彼が、今現在慰めるこのベッドに、だ。
ぐ、とセルギスの奥歯が噛みしめられた。親指の腹を、膨張した先端に押し当て、くるくると柔く撫でる。

「は……ッ」

低い声は震え、何かを堪えるようにその眉は寄せられた。ふ、ふ、と繰り返す息は、青年じみていた事だろう。
あの朗らかな声は、どのように甘く蕩けるのだろう。優しい指は、どのように触れてくれるのだろう。丁度よく肉のついた脚は、どうやって腰に絡まるのだろう。そして、あの腕は……巨大なジンオウガをも恐れず抱きしめた、あの何よりも焦がれる腕は、この無骨な肉体をどう包んでくれるのだろう。
尽きぬ欲望と、熱のような焦燥。慰める手は、再び輪郭を全て覆うと、脳裏でを抱く通りに加速させた。

「……ッく、ふ……」

気付けば、衣の合わせ目は殆ど崩れ落ち、腰紐も鬱陶しげに下げられていた。布団についた膝は強張りシワを幾度も刻ませ、突っ張った腕が布地を掴み寄せる。そこに、の細い手首があるようにと思い込ませて。
熱が、手のひらに集中する。神経が寄り集まり、意識が染まる。先走りが溢れ、ぬめってゆく。湿る音が聞こえてくる。
脳裏で、想像のが身体を捩る。揺さぶって、胎内を貫いて、汗の滲む肌は染まって。きっと彼女は、それは美しい裸体なのだろうな、とも思いながら。

息が詰まる。こみ上げる熱さが、全身に張りつめた快楽を膨れさせ、慰める手を切実に煽り立てる。夢でも思ったように、に対する欲望が増してゆく。
噛みしめ耐える、次の瞬間、籠もった熱が放たれる。口からは、吐息と、みっともない声が放り出される。

「う、あァ……ッ……ッ!」

見た事もないだろうに、想起したの裸体を引き寄せ、その胎内へ吐精する。
実際には、伝えられない劣情を彼女へ掛けず、自らの手のひらを汚し、衣を汚しただけだ。他でもない、自身を。
引き詰まった喉が、解放される。背が、腕が、脚が、緩やかに残る快楽に包まれ、もどかしく腰を震わす。未だ強張りが残るそれを、微かに撫で、何度も呼吸を繰り返す。
熱を放ち、冷静と懈怠が、セルギスに戻る。ふと、見下ろす。先走りだけでなく、他に重く伝うものがまとわりつく手。責めてくる、ようだった。
セルギスの呼吸が、ゆっくりと治まる。そうして、口元には自嘲的な笑みがふっと浮かんだ。

「……若い真似して、どうすんだかな……」

誰に言うでもなく、強いて言えば、自身に対し。
セルギスはどうしようもない感情に苛まれ、一度起きあがった。吐き出した情欲を片づけても、綺麗に洗っても、表しようのない罪悪感。

その手で、明日も彼女に触れるのだ。

笑いたくも、泣きたくもなるだろう。



元ジンオウガ、セルギスさんの一人相撲。御年、三十歳前後。

【2012年 思いつきアンケート】での【こんなの読みたい】というアイディアから。
【告れないセルギスさんが一人慰め】と【夢主とイチャイチャ……の夢落ち】の、二つ合体技。

せっかく人間に戻ったのにまるで優しくない願い事に、思わず爆笑したのでそうしてみた。大人の青春。

……優しくねえなあ(笑)

もし覚えのあるお客様がおられましたら、この場を借りてお礼申し上げます。素敵なネタを、ありがとうございました!
セルギスさんは、今、大人の青春してます。ほろ苦!

( お題借用:as far as I know 様 )


2013.04.02