はじまりもおわりもだれもしらない

 蓑虫の気持ちが、よく分かる状況だ。海岸から戻ってゆく波のように、心は引いてゆく一方である。


 岩窟の天井から垂れる細い白糸の、長い長いその先端。粘着力の高い糸に全身を柔らかく包まれ、ほとんどお団子状態な身体がぷらぷらと揺れ動く。
 吊るされている為、足は空を蹴るばかりで遥か遠くの地面に届く事はまずない。冷たい風が吹き上げるたびに、吊り下げる糸が揺り篭のように優しく揺れる。それが殊更に、虚しさを強めてくれた。幾度目か知れない溜め息が、また一つ落ちてゆく。

 残念な事に、が置かれている今現在の状況であった。

(いつもの事だけど、困ったなあ)

 ぷらん、ぷらん。粘着性の高い白糸に絡め取られ、真ん丸なお団子から出た顔と足だけが自由に動く。内側で身を捩ったりなどしてどうにか抜けようとするが、そう容易く解けたりはしない。なにせ《狂走エキス》という特殊な体液を唯一保有し、壁や天井を駆けあがるかのモンスターを捕食する、《彼》が出した糸なのだ。柔な構造など、していない。
 どうしてハンターたちは、ものの数秒でこの糸を引き千切ってしまうのだろう。ぶんぶん身を捩っただけで抜け出てくるのだから、全くとんだ人外の怪力である。ああ、消散剤が欲しい。
 (消散剤:ハンターの道具の一つ。身体に纏わりつく糸や氷などを一瞬で弾き飛ばす、地味ながら便利品)


 が居る其処は、地底洞窟。ハンターズギルドで狩場として公式認定している場所の一つで、名の通り地下深くへと洞窟が続いている。
 その洞窟内の一角には、とある生き物のねぐらがあった。正確には、巨大な巣が展開されていた。
 自然に生み出された空洞を抱える岩窟の、高い天井と地面、壁と壁。訪れた者を取り囲むそれら四方の全てには、繊細な細さに反して強力な白糸が均整に張り巡らされている。機械ではなく、生物の手と根付いた本能によって長い時間をかけ作り出される、自然の神秘。幾何学な模様は幾重にも重ねられ、より美しく圧倒する風景となっていて。
 同時に、この景色の中を自在に活動する《かの生物》の、最高の狩場になっている。

 が吊るされている場所は、正に其処。巨大な蜘蛛の巣の、真上だった。縦横何十メートルにも及ぶ、美しさとおぞましさを感じさせる景色を遠い目で眺めながら、ゆらゆらと揺れる。
 何が一番辛いって、と同じように吊るされている《物体》の存在が一番辛い。少し離れたところにあるといえど、その存在はちらちらと視界の片隅にどうしようもなく入って来る。此処は《彼》の寝床であり、狩場であるのだから当然なのだが……哀れな姿の毒怪鳥が、結構、精神的にきついものがある。
 毒怪鳥ゲリョスとは鳥――鳥竜種だが、この世界の鳥は、鳥という名の化け物だ。そのサイズときたら、あろう事か十メートル近くという巨体で、ダチョウやオオワシだって真っ青になる規格外。しかもそんな鳥が、毒液を吐きながら壁や天井を狂ったように駆けずり回るというのだから、全然可愛くない。その上奴らの表皮は電気を通さないゴム質らしく、ハンター御用達のシビレ罠を笑いながら通り抜け、小さな人間を蹴り飛ばしてゆくらしい。全くもって、本当に可愛くない。
 だがそのゲリョス様も、天敵が存在する。それがこの、蜘蛛の巣の主だ。
 《彼》は狂い走るゲリョス様の――――皮を剥いで身に纏い、そして中身は美味しく捕食する性質を持っているようでして。
 後は、想像の通り。の近くにぶら下がっている物体は、物言わぬ保存食となったゲリョスの姿であるからして……。それらに囲まれて一緒にぶら下がっているなんて、の気は全速力で滅入ってゆく一方である。(いや滅入るどころの話ではないけれど)

 この巣の主に、を食べるつもりがないとは分かっているが。このまま保存食と並んでオブジェにされるのも……。


 そう思っていた時だ――――音のない静寂から忍び寄る気配が、の頭上へ近付いた。
 張り巡らされた細い糸を伝い歩き、微かに軋む振動がにも届く。ぐるぐる巻きにされた身体で、数少なく自由に動く顔を上向かせた。けれど其処に見えたのは、影が色濃い岩盤の岩肌で。
 が感じ取った不気味な気配の正体は、背後にあった。


 ギシギシ、ギシギシ


 軋むような、甲高い音色。突然、背後の至近距離からぶつけられる不気味な不協和音に、ユイはぎくりと身を強張らせた。
 ギシギシ、ギシギシ。
 一向に途絶えない軋む音色は、を呼んでいるようでもある。早くこっちを向けと、急かすような。
 は上げていた顔を、ゆっくりと振り向かせる。其処には――――色鮮やかな、薄氷色の水晶たち。
 正しくはそれは、思ったよりもかなり至近距離にあった、鮮やかな三対の眼である。要するに、昆虫の目だ。

 鳥という名の化け物のゲリョスと、ほぼ同等の体格を有する、虫という名の化け物の蜘蛛。この巨大な巣の主である《彼》が、を感情の見当たらない幾つもの眼で見つめていた。
 鋏角種ネルスキュラ――――通称、影蜘蛛。真っ白な甲殻の上に、捕食したゲリョスのゴム質な表皮を纏い、毒の滲む鋭い棘を背中に生やすその蜘蛛は。れっきとした、ハンターたちの狩猟相手でもある。の世界にいる蜘蛛とは、厳密に言えば異なる点は多々ある。例えば、細い糸を伝う脚は八本ではなく四本であったり。だがその出で立ちは、間違いなく蜘蛛のそれであると言えるのだろう。


 ヒッと、の喉が引きつる。気配が皆無なせいで、出てくるたびに心臓が跳ね上がるのだから勘弁して欲しい。あと至近距離にある、クリクリ動く頭部だとか牙だとか身体だとか、まじまじと見ると結構……。

『おきた』

 息を止めて吃驚するなど気にもせず、ネルスキュラが声を被せてきた。男か女かも判断の難しい、けれどあえて言えばきっと男だろうというような声質のそれ。なのでも、このネルスキュラを《彼》と呼んでいる。何処となく拙い、抑揚の欠けるそれは、知能が発達した牙獣でも飛竜でもない、読み取る事の敵わない昆虫らしさを感じさせる無機質な響きを、牙と触肢――頭部の近くにある爪のようなそれ――の向こうで放つ。

『おきた?』

 からの反応を求めるように、同じ言葉を繰り返す。さながらそれは、正しく、かつ素早い操作を求めて延々アナウンスを入れる、ATMのようであった。相手が慌てたり間違えて舌打ちするのも構わず、いつまでも急かす強引さが言葉の節々に漂っている。音も無く背後を奪われたの心境など、正にお構いなしのネルスキュラに相応しい。 はしどろもどろに「おきた」と返した。何故かの言葉までも拙くなっているのは、単に口調が移ってしまっただけである。
 その途端、鮮やかな蒼色の水晶に似た三対の眼を持つ頭部が、さらにクリクリと動く。それは喜びなのか否であるのか、全く分からないのだがどちらだろう。
 正直、めちゃくちゃ怖い。昆虫嫌いの人が見れば、間違いなく発狂する。

「あの、スキュラ、さん?」
『これ、あげる。とってきた』

 の事など、本当にお構いなしである。呼びとめようとするの顔から呆気なく視線を外したネルスキュラは、ごそごそと自らの身体の下から何かを手繰り寄せて引っ張り上げる。
 猛烈に、嫌な予感がした。
 ひくり、と頬をひきつらせ「待って」と制止するも、当然届く事もなく。白い蜘蛛はそれを自慢げに見せてきた。

 仕留めたばかりなのだろう、とてもフレッシュな、ゲリョス様(故)を。

 はその後、宙吊りのまま数分以上気絶した。




 目が覚めたら相変わらずゲリョスを抱えるネルスキュラが居たので、せめてそれを片付けてくれと、はまず最初に言った。人間の女を喜ばせるにはだいぶアウトな選択であるが、されど贈り物なのでやんわりと仄めかし。
 結局直ぐ隣に吊るそうとしてくれたので、は声を尖らせ説明する羽目になった。

 ようやくフレッシュなゲリョスの死体が視界から外れたところで。
 宙に作られた蜘蛛の巣の上で、とネルスキュラは互いに見つめ合う。といっても、傍から見ればただの捕食者と獲物の図。は未だに糸に巻かれ、雪だるま状態で宙吊りにあるので、これから美味しく頂かれようとしている光景でしかない。

「あの、毎回、糸で捕まえるのはどうかと思うんだけど」
『どうして』
「どうしてって」
『こうしないと、もちはこべない』

 あと会話が成立しないのも、いつもの事だ。の言葉が通じた試しはないし、毎回こうして糸で雁字搦めにされ巣へ持ち運ばれるのも一度として止めてくれた事がない。
 そりゃあ、ネルスキュラという生物は蜘蛛であるからして、糸を最大限に活用するのが彼らの生態であるけれど。
 音もなく背後から忍び寄られ、瞬く間に糸をぶつけられて身動きを奪われ、揚々と巣に吊され……。
 人間とは思えない超人なハンターたちじゃあるまいし、一般人には心臓に悪い。そう思いながらも最近慣れてきてしまったも、大概一般人の輪から外れているのだけれど、ともかく。
 は、顔を上げる。岩盤に張り巡らされた細い白糸の上、鮮やかな蒼い眼を輝かせるネルスキュラは鋏角を鳴らす。キシキシ、キシキシ。少し甲高いそれが、言葉の拙い彼にとっての数少ない、上機嫌な意思表示だ。
 一見するとギザギザの牙に見える鋏角だが、実際のところそれは体内に収められた長大な、伸縮自在の牙である。鎌状に湾曲した刃が幾つも生え、強烈な毒液にまみれ獲物を挟み込む器官。そして傷口から直接、毒液を流し込み仕留める事を可能としているのに。隠された鋏角を、今は楽しそうに鳴らしている。鋏角の直ぐ側に伸びる触肢は、毛づくろいをするようにクルクルと回る。

『いつも、ここにいない』
「スキュラ」
『きょうは、ここにいる』

 男とも、女ともつかぬ、その声質。知能が高いとされる牙獣や飛竜などと比べれば、昆虫という種に納得のゆく拙さが紡がれる。それなのに。

『――――

 己の名を紡ぐ時だけは、その拙さと、無機質さが、嘘のように消えて。
 言葉にし難い感情の響きを、其処に湛えるのだ。
 それを聞くたびに、は何か胸が詰まるような不思議な感覚を抱く。渓流のサバイバル時代から未だ原因は不明な、モンスターと呼ばれる獣たちの鳴き声を言葉として認識するその力。それのせいだろうか、鋏角種という巨大な虫である彼らにも、は確かに情を持っている。



 ――――さん



 その拙さに、もう居ないあの子を思い出すせいでもあるのだろうか。

 十メートル近い鳥をも捕食する、巨大な蜘蛛。何故彼がを気に入り、巣に持ち運んでは食べるわけでもなく傷つけるわけでもなく、側に置こうとするのか、実は全く分からない。感情の全く読めない眼から、感情の起伏の少ない言葉から、推し量るのは非常に難しいのだ。それでも、己の名を、その毒液にまみれた牙の奥から紡ぐ時だけは。

 困ったな。

 は宙づりの状態のまま、苦笑いをこぼす。本当に、困った。



 人々から恐れられる、この白糸によって築かれた城の主は、今は懸命にの名を呼び、糸の上をついついと四本の脚で動き回っている。感情の読めない眼と、鳥や竜には決してない昆虫特有の動きが、今となっては慣れてしまって次第に可愛く見えてくるのも妙な事実だ。

「ねえ」
『なに?』
「この糸、解いて」
『……やだ』

 途端にその声のトーンが急降下し、機械じみたそれに戻る。全くこれだよ!

「逃げないから。今はね」

 ネルスキュラからは、非常に重苦しい沈黙が返ってくる。巨大な蜘蛛としばらく見つめ合うと、彼は感情を見せないくせに、いかにも不本意ですとばかりに緩慢に動き出した。(こういうところだけはやけに分かりやすい)蜘蛛の脚が、巣の糸を揺らして置き直される。振動に震えたけれど、強固な糸が千切れる事はない。頭部を伸ばすと、を吊り下げている糸に牙を押し当て、数回食む。糸はあっさりと切れ、重力に従いはぼとりと巣の上に落ちた。毎回思うが、この下ろし方もどうなのだろう。
 情けなく糸に巻かれたままのの側に、ネルスキュラがやって来る。音を立てない脚運びでやってくる巨大な蜘蛛は、またも心底不本意そうに雪だるまのようだった糸を千切って、ようやくを解放した。
 はあ、やっぱり自由が一番。は安堵の溜め息をついて、全身をぐうっと伸ばす――――が、直ぐに自由の時間は終わった。
 ギシギシ、ギシギシ。あの音が頭上から落とされた瞬間、今度は糸ではなく脚に拘束される。十メートルの鳥すら捕まえる彼だ、その大きさは勿論巨大の一言に尽きるので、など本当に小さい生き物だ。そんな風に捕らえなくとも、逃げられない事は分かっているのに。何をそんなに大事そうに抱えようとするのか。



 影と共に落とす己の名を、は耳にする。言葉の代わりに紡ぐその名に、何を秘めているのかはやはりさっぱり分からないが、懸命にすり寄る蜘蛛は決してを害そうとしない。



 ……困ったなあ。本当。
 は一人、巣の上で呟く。寄りかかった背後の存在は、決して温もりなどなく、まして人でも獣でもない造形であるのに。

――――』

 呼ぶ時だけは無機質さの消える幼い巣の主を、今日も振り払えないのだ。



ヤマもオチもない、そんな話でした。

哺乳類などじゃあるまいし、昆虫に複雑な感情なんてありはしないだろう。
という考えがどうしても離れない作者です。そもそも感情って何だろう? 考えるとゲシュタルトが崩壊しそうなので其処は放棄しましたが。

作者の中のネルスキュラってこんな感じのイメージ、というのを形にしてみました。かねてより書きたかった。
話、絶対通じない。言葉、絶対かたこと。性別、あるとしても絶対感じさせない。
みたいな。
人間よりも未発達なコミュニケーションの生態で、それでも何か、夢主に抱いていれば良いなあと思います。
言葉は拙いから、ただ一言紡ぐ名前に、何か感情を乗せていればなお嬉しい。
何だかんだ、ネルスキュラが好きです。

(お題借用:エナメル 様)


2015.03.19