瘡痕

モンスターは、極めて原始的かつ本能的な理念に基づいて行動する。人間の、小面倒な感情などはない。
だが……世の中には、《強烈なもの》もいる。気をつけることだ。

ジンオウガの姿になっていた、ユクモ村のもう一人の英雄……セルギスが、渓流で暮らしていた時そう言っていた。
今思い出したところで、には何の役にも立ちそうにない。むしろ、自らの愚図さに呆れ果てるだけだ。
大した運動もしていない彼女の身体は、僅かしか走っていなくとも、もう限界を訴える。足元が、コンクリートなどで整備しているわけでもない、むき出しの地面と草のせいでもあるが、もつれて転びそうになる。
けれど、彼女を見下ろす木々は、山々は、一斉に息を潜め沈黙を纏い、見て見ぬふりをしていく。

「は、は、は……ッう、は……!」

喉の奥が乾いて、張り付く。唾も、ろくに飲めない。
必死になって駆ける彼女の背には、大きな鞄があるのだから、その分足も重くなり、疲労も増す。
……けれど、止まることは出来ない。させてくれない。

懸命に走るの背後で、疾風となって追いかけてくる漆黒の影。
豊かな深緑の茂みの中、それは刃のような眼差しでの背を射抜くようだった。見ずとも分かる、きっと獲物を狙う狩人の目をしている。
人の足の、まして運動が得意でもない人間の、必死の駆け足もたかがしれる。背後の影には何てこともなく、距離を一瞬で詰めると、その影がの視界を黒く染めた。頭上で過ぎ去った、影。そして認識する前に、の眼前には、赤い閃光が一筋流れた。
薄暗さに瞬く、赤い残光。それは、爛々と輝かせた、眼光だった。
漆黒の鱗と体毛で覆われた、大きな体躯でありながらしなやかなそれは、大地へ四つん這いになり、を睨む。前足には翼があり、飛竜の類であることはうかがえる。けれど、顔立ちは獣に酷似し、猫科を思わせる輪郭で、口元は猛禽類のくちばしの形状をしている。だがそれは酷似しているだけで、獰猛な竜と何ら変わらない。激しく息を吐き、長いしなやかな尾がバシリと地を叩いて威嚇をする。腕には、古傷が走っているが鋭さを失わないブレード状の鋭利な翼が生えていて、見るからに危険だ。
怒り狂っているけれど、より一層激しい空気。は、足を止まらせたが、後ろへ倒れてしまう。

……片目が、ない。
額から左頬までかけて、ざっくりと刻まれた古い傷跡が、本来ある左目を失わせている。
それでも、残った右目はその欠損を微塵も思わせない、鋭い赤い眼光を放っている。

……て、冷静に見ている場合ではない。
つまるところ現在、は大ピンチという場面に激突しているのだ。

( カルト……もう、何処行ったのよ )

はぐれてしまった、サバイバル生活の教官の姿は、周囲を何度見ようともない。
とんだ災難だと、思わざるを得ない……泣きそうになる。
人里から遠くに広がるこの渓流……採取活動をしに行くとユクモ村支所ギルドに報告をした時、特に暴れているモンスターなどは居ないが努々気を付けるようにと念を押された。だがは「大丈夫です」と胸を張って言った。というのもがこの渓流にやって来るのは実は数回目であった。要するに、単なる慢心である。
しかし今になって思えば、自信満々に、「大丈夫です」なんて言ったこないだの自分を殴ってやりたい。

最悪の、展開である。

ただ、道具屋の手伝いに、採取をしに来ただけだというのに。
ほんの一瞬カルトと別行動になっただけだというのに。

運が、無さ過ぎる。

大自然で、人間の定規で全てを計ることも、管理することも無理な話であることはも知っている。
けれど、重なる不幸の偶然を嘆く彼女の心情を理解してもらいたい。
今度、ドリンク屋へ頼み、激運の発動するドリンクを作ってもらおう。

……なんて、泣いても後悔しても、もう遅いのが現実だ。
僅かな逃避も許してくれないようで、の目の前で漆黒の竜の唸り声が響く。

「グルル……」

地面に尻をつき無防備に見上げるへと、その竜がにじり寄る。恐怖を増長させる気迫に、の喉の奥で、声にならない悲鳴が上がる。地面に後ろ手をつき、後退するが、腕が震えて倒れてしまいそうになる。
怖い、怖すぎる。
ライオンや、ヒョウなんか、めじゃない恐怖。赤い眼光が、真っ直ぐにを射竦める。

「――――― ここは、俺の縄張りだ」

張り詰めた緊迫に、沈黙した森林に、若い青年の声が響いた。
は、ハッとなって周囲を見渡すが、人影はない。と、いうことは……この声の主は。

「――――― 消えろ、人間!!」

その声の主―――漆黒の竜は、甲高い咆哮を上げ、へと大口を開けた。ギラリ、と光った牙を見て、はギュウッと眼を閉じて身構えた。


「オーレ!」


間の抜けた掛け声と共に、《バチイィィッッ!!》と激しい電気の爆ぜる音が、直ぐ側で響く。そしてそれと同時に、漆黒の竜から「ギャオォォ?!」と明らかな悲鳴が上がった。
は、え、と顔を上げる。目の前にあったはずの鋭い牙はなく、代わりに電気を纏い苦悶に震える竜の姿があった。一体何事だろう、と思っていただったが、足元に見慣れた小さな影を見つけ、それも吹き飛んだ。

「カルト!」
「全く、オレが居ないと駄目ニャね、は。ふふん、シビレ罠を隙をついて仕掛けてやったニャ、オレってば―――――」

言い終わる前に、は足の震えを無理やり振り払い、カルトの手を引っつかむ。
もつれながらも、最後の力を振り絞るように懸命に足を動かし、その場を遠ざかろうとした。

「ニャ?! ニャ?! ニャにするニャ!」
「馬鹿! 遅い! ありがとう! 早く逃げるわよ!」
「……よく分からないけど、せめて一つにして欲しいニャ」

カルトは、の手をギュッと掴むと、数歩先へ走りを先導する。

「ねえ、な、何あれ!」
「それも、後ニャ! とりあえずアレは、何かヤバそうニャ!」

広大な森林をひた走り、高台へと逃げるように山道を登る。その背後では、竜の甲高い咆哮が響いていた。



――――― 命からがら逃げ果せたとカルトは、その日早々に渓流を立ち去った。
そしてユクモ村へ戻って来た頃には、時刻は陽が傾き始める午後三時頃に針を進めていた。

まさかの早期帰還に驚いたらしい、村人や村長、そして親しくなった村のハンターである彼らは、目を真ん丸にしていた。
いつもなら、もっと滞在しているだろう。道具調達に出かけたんじゃないのか。元気無いですよ、どうしたんですか。質問を投げかけられたものの、は無気力に生返事ばかりを返す。もう話す気力も残っていない。
美しいユクモ村に立ちこめる、鬱々とする空気。お馴染みの彼らは、顔を見合わせて首を傾げる。
見かねたカルトが「ちょっとしたハプニングニャ」と呆れながら言い、の足を押し自宅へと戻る。村長から許可を得て与えてもらったの暮らす借家は、ユクモ村の市場や集会浴場などがある中心地より離れた、民家の立ち並ぶ一角に佇んでいる。カルトは慣れたように玄関の長暖簾を押し上げると、を入れる。 ( どっちが家主か分からん )
入口から入ってすぐ目の前には、台所やリビングがあり、はフラフラと木の椅子へと進む。ガタリ、と音を立てて引っ張り、椅子に腰かけると、ガバリッと机に突っ伏した。

「何あれーッ……怖いィィィィ」
「……オレは今、の方が怖いニャ」

カルトは半眼で失礼にもそう言ったが、義理堅い彼のことで、の隣に立つと、ポンポンと足を叩く。元気出せ、ということだろう。
はありがとうと笑みを浮かべ、気を取り直して上体を起こすと、足元に転げた鞄を掴み机の上へ置く。
ごそごそ、と中身を確認しながら、散々追いかけ回されたあの漆黒の竜のことを思い出す。隻眼で、傷が刻まれた両腕の鋭いブレード状の翼……声はとても若く、の人間的感覚で18歳かあるいはその前後程度の青年のものだったが、随分と激しい空気だった。

「……機嫌が悪かったのかしら。凄かったわね」
「ニャ? さっきのヤツニャ?」

が頷くと、カルトは「うむむ」と唸るように腕を組んだ。

「あの辺りには、大きなモンスターはいないって言ってたから……多分、流れのヤツニャね」
「流れ、か」

流れのもの、と聞くと。が浮かぶのは、かつてアイルーの姿であった時、他の地より流れてきたジンオウガの姿だった。といっても今、そのハンターを苦戦させてきた最大金冠なる巨大な雷狼竜は存在しないが。
人と争ったか、あるいは自ら戦いを求めたのか。あの強烈な姿は、後者であるのだろうとは思う。
ともかく、命が無事で良かった。言葉が分かるといっても、全てが全て上手くいくわけではない。相手が聞き届けてくれない時もあれば、言葉が理解出来ることをが伝えられない場合もある。人とモンスターとは……やはり、難しい関係だ。

……アシラくん。
私、貴方が死んだ時に思ったあの疑問、まだ答えが見つからないわ。

後悔はないと、笑って逝った幼い青毛獣。彼のあの出来事は、今もを静かに絡め取る。
そっと胸の中にしまい、はカルトを見下ろす。

「……ありがとうね、カルト」
「ニャ?」
「助けてくれて」

カルトは一瞬目を丸くしたが、徐々に笑みを深め、得意げに胸を張る。
「ふふん、当然ニャ。はドン臭いから、オレが守るのニャ」そう言った彼は、とても頼もしかった。

すると、背後でトントンと壁を叩く音が響く。は椅子から立ち上がり、入口へと向かった。長暖簾をそっと割ると、その向こうに居た人物らを見た。

「セルギスさん」

ユクモ村の着物に似た衣装をまとったセルギスが、軽く会釈する。カルトは「旦那様!」と声を明るくすると、その足元に駆け寄った。
セルギスは、三十歳前後の男性らしい、静かな笑みを浮かべ、その頭を撫でた。

「片付の最中だったか」
「ああ、良いんです。そう多いものじゃないし、落ち着いたらまた別のところに行かないと、整理です」

セルギスは、「そうか」と呟いた後、「それで、今日はどうしたんだ」とへ尋ねた。もちろん、鬱々としながら帰還してきたことだろう。
は苦笑いをし、少しね、と返す。

「まあ、ともかく、あとで集会浴場に来てくれ。夕飯でも食べよう。影丸やレイリンも、来るそうだ」
「分かりました」

セルギスはふっと笑うと、静かに背を向けた。カルトはそれを見て、「じゃあ、オレも戻るニャ!」と敬礼しセルギスを追いかけて行った。
カルトも、すっかりオトモアイルーが板についている。微笑ましく思いながら、その背を見送る。
ユクモ村の、もう一人の英雄……セルギス。かつてやカルトと渓流で過ごした、流れのジンオウガだった彼だが、今はまた当時の腕を取り戻すため一から修業をやり直しハンターとして生活している。その隣にカルトが並ぶのも、不思議な光景だった。
は自宅の中へ戻ると、手早く道具を鞄を入れ直して確認をし、二階の寝室にそっと置いた。



――――― ユクモ村が、泊り客と夜の狩り場へ向かうハンターで賑わい始める、夕暮れ時。
集会浴場の内部に造られた食事処に、は足を運んでいた。温泉とギルドカウンターのある階ではなく、二階部分にあるのだが、より高い場所から風景を見れるようにと周囲は木枠の飾り戸で吹き抜けた開放的な印象があった。そして、アイルーの形の行燈と和紙で造られたカンテラが明るく照らし、味のある温かい橙色に染まっている。
人がまだ混み合わない時刻だったおかげで、席はすぐに見つけることが出来た。手を振ろうと立ち上がり机に額をぶつけるレイリンと、遠目で見ても意地悪気になじる影丸、そしてそれを苦笑し見守るセルギス。オトモアイルーたちはそれぞれの農場に置いてきたのだろう。コウジンやヒゲツ、カルトのよく側に居る彼らは見当たらない。
はパタパタと駆け足に近寄ると、「遅くなりました」と頭を下げる。「良いんですよ、来たばかりですし」とにっこり笑ったのはレイリンだ。この子本当に素直な良い子である、と思う隣で影丸が「遅い」と隠す気もなく言っているが無視。レイリンちゃんとの至福の時間を邪魔しないで。
が席についたところでそれぞれ料理を注文をし、食べ始める。いつも思うが、影丸は料理が完全に酒のつまみ的なものばかりだ……ほら、また隣でレイリンが栄養云々と言っている。ちなみには、特産キノコの天ぷらうどんだ。

「で、何で急に帰って来たんだ? いつも最低でも四日くらいは居ないだろ」

早速影丸に尋ねられ、は「うっ」と声を詰まらせる。
だが隣のレイリンは、何故か急に慌てふためき、顔を青くしている。

「し、師匠、数えてるんですか?!」
「はあ?」
さんがいつもいない日数!」
「……馬鹿。お前がうるさいから覚えたんだよ。が出かけるたびに『さんからの手紙まだかなー』とか『さん大丈夫かなー』とか、一日に一回は言ってて喧しいったらない」

真っ赤になってうつむいたレイリンを、影丸は意地の悪い笑みを浮かべて見ている。

「……で、実際は何があった」

セルギスの眼差しに、は肩をすくめると、あの渓流で鉢合わせた漆黒の竜について説明した。隻眼であったこと、両腕のブレード状の翼に傷があったこと、とても興奮状態にあったこと……ついでに死ぬ思いで帰還を果たしたことも忘れず付け足す。途中、当然「慢心だな」「注意力散漫」「カルトが居なかったらどうしていた」「てか何で別行動に」などと主にセルギスと影丸に痛いところをグサグサと遠慮なく突っ込まれたが ( この師弟変なところでよく似ている ) 、彼らは一通り聞き終えると、口を揃えて言った。

「それは、ナルガクルガだろう」
「ナル、ガ……?」
「別名《迅竜》。渓流や水没林、別地方だと樹海というところに生息する。その動きの速さから、慣れぬうちは苦戦を強いられる飛竜だ」
「そ、ちなみに俺のいつも着てる防具な、そいつから出来てる」

影丸はそう言って、サシミウオなどの海鮮盛をパクリと食べる。
ああ、そういえば、アイルーであった頃、ユクモ村見学にやって来た際影丸とヒゲツからモンスターの種類の講義を受けたことがあった。その中で、影丸の普段好んで使用する隠密に酷似した防具の話も聞いていた。なるほど、あの漆黒の竜はナルガクルガというのか。

「でもさんが行ったところって、大型モンスターは確認されていなかったんですよね。ギルドも把握出来なかったモンスターでしょうか」
「あまり情報など、あてにならないからな、狩場に出れば。何が起きても不思議ではないが……」

セルギスはそう言うと、「しかし、隻眼のナルガクルガか……」と呟いて、しばし考え込んだ。何か気になることがあるのだろうかと、は彼をうかがう。
しばらくし、セルギスは影丸へと顔を向ける。

「……なあ、影丸」
「んー?」
「下のギルドカウンターのところに、古ぼけた依頼書がなかったか」

……依頼書?
とレイリンは、顔を見合わせた。
影丸は「依頼書? 依頼書……」と言葉を数回反芻していたが、何かを思い出したらしく椅子から立ち上がると、食事処を出て下の階へ向かってしまった。それからすぐに戻ってきたが、彼の手には羊皮紙が一枚握られていた。

「セルギス、よく覚えてたな」
「古ぼけていたから、印象にあっただけだ。むしろ、何で長く居たお前がすぐに思い出さない」

影丸は笑って誤魔化しながら、椅子に座る。未だ話の見えないレイリンとの前に、彼はその羊皮紙を差し出した。はそれを受け取り、レイリンと共に覗き込む。ハンターには見慣れた、狩猟の依頼書だった。ただ、それは妙に古ぼけており、心なしか手書きの文字も掠れている。読み取ることは可能のため、は書面に目を通す。

「……狩猟、依頼……隻眼のナルガクルガ……?」
「しかも、ずいぶん前ですねー。依頼書が発行されたのは、二年くらい前じゃないですか」

ぽやーんと感心するレイリンの額に、影丸の手刀が突如として落ちる。

「お前はちゃんと見て覚えてろ。何で初めて見ましたみたいな顔してんだ」
「……すみません」

レイリンは、またもべしょりと落ち込む。
は苦く笑ったものの、その依頼書には何処か見覚えがある。そう、確か、ユクモ村社会見学の際受付嬢から見せてもらったあの古い依頼書だ。
でもどうしてこれを、とまだ合点がいかぬは首を傾げたが、影丸はニッと笑った。

「つまりだ、が遭ったっていうナルガクルガはこれの可能性が高いってことだ」
「え?」

それはまた急に、とは目を丸くする。

「ギルドの受付嬢にも確認してみた。この依頼書が出たのは、日付の通りに二年前―――――」

影丸は酒を片手に、説明を始めた。
二年ほど前、ギルド本部に狩猟依頼が上がってきた。依頼主は、ある貴族の当主。領地内に現れた隻眼の迅竜に危機を訴え、ハンターに討伐して欲しいという内容だったらしい。ギルドが承諾し依頼書を掲示すると、それを見たハンターたちは即座に応戦へ出向いた。だが、あまりの凶暴な振る舞いに敵わなかったらしい。そして討伐出来ないまま、ナルガクルガは当主に凶牙を立て瀕死の大傷を与えて去っていった。依頼主に傷を負わせる大失態を犯したギルドは、継続しそのナルガクルガの行方を捜し依頼書も現在の形に変えて掲示することで場を治めた。だが、姿を捉えたものの太刀打ちできず、獲り逃がすことを続けて、現在に及んだらしい。おかげで依頼自体も霞むほど、時間は経過してしまったとか。
依頼書も、掲示はされているが契約の効果はもう殆ど無いらしい。その依頼を出した貴族の一族の者が、姿を見せないこととハンターが退治してくれないこととで、取り下げの連絡も入ったとか何とか。

「アンタが見つけたからといって、もう効果はないようだな」
「でも、この依頼書と私が遭ったナルガクルガが同一なんて、分かるの?」

すると影丸は、に向かい不敵な笑みを浮かべた。

「ハンターの勘だ」
「またそんな曖昧なこと……」
「どっちにしても、依頼書は取り下げ。だが、そんだけ強烈な奴なら遅かれ早かれギルドの要注意リストには加わるだろ。もしその渓流から、人里に向かえばな」

影丸の視線が、セルギスに流れる。「だろ?」と影丸が言えば、視線を受けたセルギスは肩をすくめた。

「そんなところだろうな。お前にしては、良い見解だ……昔なら、何も考えず決め付けていたが」
「ッいちいち、昔のことを引っ張り出すな」
「俺からすれば、背格好ばかり伸びて今も昔も変わらん」
「……言ったな、そっちは老けたくせに」

レイリンが隣で笑みをこぼすと、影丸から鋭い視線が投げられ彼女の顔は一瞬にして真っ青に。
は彼らを楽しげに見つめ、天ぷらを箸で掴むと、口へ運ぶ。

「何にせよ、何事も無く良かったな」

セルギスが、静かな笑みを浮かべた。は笑い、天ぷらを飲み込んだ。
その後ナルガクルガのことを話したが、結論としてはギルドに念のため報告を入れることになった。すでに取り下げ連絡があるとはいえ、依頼対象が見つかったとなればどうなるか分からない。古ぼけた依頼書が掲示板の真ん中に移動するか否か、この時点では知る由もない。ただ、あの激しい竜《ナルガクルガ》がもし本当に依頼書のものと同一モンスターであるのならば。そして依頼が継続となるならば。
彼らハンターに討伐されることは、避けられないだろう。
が自ら存在を言ってしまったとはいえ、未だモンスターと人間の関係性に答えを持てない彼女には、その事実は氷柱を穿たれたような気分であった。
ハンターを否定する気持ちは、これっぽっちもない。少なからず、ハンターにも何かしら葛藤があることは以前の影丸とレイリンを見れば分かることなのだから。
ただ、何とも言えない気分になるのは……心はまだ、あの渓流の出来ごとに、そしてアイルー時代の暮らしを忘れられないからか。

さん、お茶どうぞ」

レイリンからそっと差し出された湯のみを受け取り、少し微笑んだは、心にしまい込むように温かい茶を飲み干した。




――――― その翌日、は荷物を整理して、再度渓流へ足を運ぼうと思っていたのだが。
その前に、少し気になることがあったので、出かける前に集会浴場のギルドカウンターへ赴いていた。
掲示板を見ると、古ぼけた依頼書は変わらず貼り付けられているようだった。ただ、依頼書には「現在行方を確認中」と書かれた付箋が、ぺたりと貼り付けられている。やはりセルギスたちから報告を入れられ、契約としての効果を取り戻しているのだろうか。対応の早いことである。は手にとって眺めてみて、つたないながらに覚えた解語能力で依頼書を改めて読んでみる。

依頼主―――とある大都市の貴族。
当主を襲った隻眼の迅竜は、今もなお姿を見せると聞きます。いつになったら退治しますの、役立たず共!!

……なかなか、感情のこもる熱い依頼文だ。

ずいぶん長い時間をかけて依頼書を置いていたなら、ハンターがその間何人も狩猟へ向かうだろうに、と思っていたが……うん、これのせいか。その後も罵言が続き、はそっと依頼書を戻す。昨日はあまり読んでいなかったが、なるほど、時おりセルギスや影丸たちが苦い顔をした理由も分かった。
しかし、とは言っても相手は貴族。いわゆる庶民なからすれば、やんごとなき方々ということになる。いくらギルドであっても、尽力を尽くしそうではあるのだが……。

「――――― あれ、さん?」

ベコン、バコン、と聞きなれた長靴の音に振り返ると、やはりレイリンがそこに佇んでいた。

「何か気になるものが?」
「ああ、大したことじゃないよ。ほら、昨日の」

ぺらり、と古ぼけた依頼書を持ち上げる。レイリンは苦笑いをこぼすと、の隣へ並び、同じように見つめた。

「隻眼のナルガクルガ、ですよね」
「うん、昨日の。意味はないけどさ、少し気になっちゃったのよ。ほら、こんだけ……その……必死というか、圧力かかりそうな文のわりに、人が集まらないって不思議だなって」

レイリンは苦笑いを深めると、「それなんですけど」と呟く。少し声を潜めると、の耳元に顔を寄せる。

「ハンターさんたちが、本当に太刀打ち出来なかったということもあるらしいんですが、何でも……その隻眼の迅竜に傷を負わされた貴族の当主って、あんまり良い話が身辺に流れていなかったらしいですよ」
「え?」

の声が飛び跳ねたように出て、レイリンは慌てて「さん声大きい!」と唇に人差し指を当てた。
うん、可愛い子は何しても可愛いわね、じゃなくて……「どういうこと?」と同じように声量を抑える。

「受付嬢の人から、聞いたんです。さんがさっき言った言葉と同じことを私が尋ねましたら、何でもその当主……」

レイリンは一層、声を小さくさせる。

「――――― 昔、ナルガクルガの密猟に、手を出したそうです」

思わず、息を飲み込んだ。
密猟、ということはすなわち。

「……つまり、ギルドには無断で、モンスターを捕らえて売ったりなんだりしてたっていうこと?」
「そうらしいんです。他にも色々なことがあったとか」

もともと、ブラックリストに加わっている人物だった。ナルガクルガ密猟の際、ついにその黒い噂の数々が露呈され、一時期はギルドから厳しく処罰されていたが。それから月日は流れ、当主はナルガクルガの凶牙に倒れた。
ただもちろん、依頼主と依頼受託者の関係に、過去の因果は無い。あれから当主は一切密猟には手を出さなかったらしいのだから。一旦引き受けた以上はギルドも辞退することは出来ない。
それでも、この依頼書がこうして未だ残っているということは……。

「……ハンターの人たちは、覚えていたりするのね」
「敵わなかった、ということはあるけれど、そのことも少なからず……」

自業自得。
の脳裏に、そんな言葉が浮かんだ。

さん、あの……」

レイリンが、もぞもぞと身体を揺らす。言葉を迷う様子に、は察してにっこり笑った。

「分かってる、ハンターたちは、皆頑張ってくれてるものね。もちろん、少なくとも私はレイリンちゃんや影丸、セルギスさんは信頼してるもの」
「は、はい!」

でも、しかし……そうなるとますます不思議だ。

「まるでそのナルガクルガ、当主をピンポイントで狙ったみたいねえ」

レイリンも、不思議ですよねと首を傾げた。そして慌てて、このことは内密にと念を押され、は頷いた。一般人には聞かせられない、裏話というやつなのだろう。それを言いふらして回るほど、は愚かではない。
だが……気になるところだ。その迅竜のことが。

姿をくらませていた、隻眼の若い迅竜。
それは、今後が彼と関わり合うことになる、始まりであった。



ナルガー!
多分、二番目くらいに好きなモンスター。かっこよすぎる。

ところで集会浴場って、二階がありそうじゃないですか? と私はいつも思っています……きっと食事処もあるに違いない、と妄想しました。

( 瘡痕:そうこん。古傷、傷痕の類語。また損傷の印の意 )


2011.12.27