呼吸のしかた、忘れました

《凍土》で出会った、傷だらけの若い雄轟竜ティガレックス。
最初は吼えられるやら追いかけられるやらで恐怖を抱いたものの、どうやら彼は、のことを食べる気はないらしく、後ろをついて回っている。何故そのような行動をするかは分からないが、まあ懐かれたことは良いことと気にしないようにしている。ただカルト曰く、「いつ後ろからパックンするか分からない」とのことだが。

――――― 絶対に、食わない。アンタだけは。

あの轟竜から、出た言葉。あの轟竜の、真摯な眼差し。は、それを信じることにしている。自分だけがモンスターの言葉が分かるというのなら、その自分が謀ってはならないと思う。

だが、一つだけ。
出来れば、彼に控えて欲しいことがある。
それは。


「見つけたァァァァアアアアア!!」


地響きを従え、降り積もった雪をフルパワーの除雪機のように吹き飛ばしながら駆け寄ってくる、この猛烈な突進。
恐らく、これがハンターを恐怖に陥れてきた、かの有名な突進だろう。
これだけは、どうか穏便に駆け寄る程度にしてもらいたい。
たとえ遥か彼方にいようとも謎の視力で見つけ、遠くから突進してくる様は、いくらを食べないと宣言してくれても殺しかねない勢いだ。何度あれに驚かされ、逃げ惑い、そのたびにまたティガレックスにマウントポジション取られて捕捉されたことか。彼は「逃げるな」と言うのだが、残念なことに本能は危機を訴える。ハンターの方々なら分かるだろう、全身の甲殻を赤く滲ませて息を荒げ、じゃっかん目の焦点が合っていないあの突進が、迷わずに向かって来た時の一瞬で凍りつく緊張感。はっきり言って、怖いというかヤバい。
逃げなかったら逃げなかったで、最後はあのお馴染みの咆哮で締めくくられる。
……今でも不思議なのだが、よく死んでいないものだ。
それでも彼が、決して頭からパックンする素振りがないのだから、怒るに怒れない。

そして今も、凍りついた地面に仰向けになり、氷柱の下がる洞窟の天井を見上げている。
今日は洞窟の入り口から岩を飛ばしながらやって来て、に飛び掛った。最近、がその突進で逃げることを学んだのか飛び掛りで締めくくるようになった。( それでもそもそも何故逃げるのかということを理解していない )
心臓が止まると思った。そして同時に、ハンターはこれをよく冷静に見ていられるなと、尊敬もした。

「……レックスさん、それ、止めましょう」

ティガレックスと呼ぶのは長いため、便宜上彼のことを《レックス》と呼ぶことにした。ネーミングセンスの無さは気にしないで欲しい。
彼は悠々と見下ろしたまま、太い首を傾げる。

「逃げるだろう、こうしないと」
「その前にね、突進で来られると怖いのよ」
「大丈夫だ、アンタを潰す気はないし、絶対しない」

自信満々に返された。そういうことじゃないが……どうも彼とは会話が上手く成り立たない。

ティガレックスという種族は、一般的に知恵があるとは言い難い。研究者が、狩場の現地にて決死の覚悟により収めた生態の映像から見て取れるように、基本的に策を用いることなく自らの強靭な肉体と力のみで獲物を捕らえる。それだけ強いモンスターということだが、つまり言い換えれば、非常に思考も感覚も力押しが多い、ということだ。
そしてその性質は、とても分かりやすく表へと出てくる。現在の、ように。

……うん、きっと彼だけに当てはまるわけではないわね。

は溜め息をつき、肘を立てて上体を起こす。その手で、ティガレックスの肋骨の浮き出た胸を押すように重ねた後に、ゆっくり立ち上がる。それから彼の顔と向き直るよう、彼の正面に立った。
何度見ても、凶暴な輪郭だ。余分なものを省きより強者の風格と強さを求めた筋肉と甲殻で構成された体躯や、翼、尾も、鋭利で思わず息を呑む。
それでも、彼がを見る目は穏やかで、ギラついた光は無い。別の意味で、熱心な眼差しは感じるけれど。

「前から思っていたんですが、貴方は―――」
「ちょっと待て」

急に、ティガレックスが声を挟む。何ですか、とが見つめると彼の双眼は不満げに細められていた。

「それ、止めろ」
「はい?」
「それ、なんか、《です》とか《ます》とか最後についてるのを」

しばしは考え込んだ。もしや敬語のことだろうか。ティガレックスは身体を揺らしながら、「俺はそういう話し方はしねえから、アンタもそうしろ」とさながら命令口調でへと言い放った。
……敬語は、止めろと。そういうことなのだろう。

「い、良いんですか?」
「良いんだよ」

彼は、ぶっきらぼうに言い、ブオンッと鼻を鳴らした。はしばし見つめた後に、「……じゃあ、そうするね」と微笑んでティガレックスへ告げる。彼は顔をそらしながら、「……おう」と小さく呟く。心なしか、長い尻尾が忙しなく横に揺れているように見える。

「レックスも、私の名前、って教えたんだからちゃんと言ってよね」
「う……お、おう……」

……照れているのだろうか。怒ったり命令したり、容姿こそ凶悪だが、なかなか忙しい子である。
モンスターというのは、存外感情豊かである。

「……で、話がそれちゃったけれど。貴方は私をよく探すけど、どうしてなの」
「は?」
「だって、ここに来るたびに、よく私を見つけるじゃない。人間は、私だけじゃないのに」

私はハンターではない、彼の求める強さへの挑戦は、とてもじゃないが満たすことは出来ていない。こうやって、なんとなしに話をするだけだ。
それが、モンスターの彼にとって面白いことであるなら、まあ納得なのだけれど……とが見つめると、目の前のティガレックスの表情が、みるみる驚いていき、そして轟竜もこのような顔をするのかというほど、青ざめていった。

「お、俺としたことが……ッそうか、そうだったな、俺はまだ雄として認められていないのか」
「はい?」

が素っ頓狂に小首を傾げると、ティガレックスは急に身体の向きを変えて、平地へと繋がる入り口に向かって、突如とし走り去る。
ドタドタと揺らす地響きの音が小さく遠ざかっていき、ぽつりと残されたの周囲は静寂で包まれる。
あまりにも突然すぎたため、は呆然としていた。だが数分後、すぐにそのやかましい地響きは戻ってきて、の前にティガレックスが現れた。

大人のポポを一頭、咥えて引きずりながら。

彼は絞めてきたポポを、の前へ放り投げると、得意げに座った。

「……でか!」

咄嗟に出た言葉は、それだった。
ティガレックスよりも大きなポポが、可愛そうに横たわる光景を前にしての感想には向かないかもしれなかった。
立派な毛皮の、とても大きなポポ。見事としか言いようがないが、しかし、彼は何を思って突然ポポを絞めてきたのだろうか。
先ほど以上に、頭上で疑問符が踊り狂う。もう謎が舞うどころの次元ではない。

「え、えっと、ポポ獲ってきたの」

何故、という思いの丈を込めたの言葉は、静かに這うように響く。ティガレックスはそれに何を思ったか、短すぎる言葉を放った。

「これ、アンタにやる」
「何で?!」

自分でも速すぎた反応に驚いてしまったが、しかしそれ以上に目の前のティガレックスが驚愕し動きを止める。

「何でって……嬉しくないのか」
「えっと、突然で驚いて……どうして、獲ってきたの?」

ティガレックスは、片腕でポポをぐっと押して、へとさらに近寄らせる。くたりとした空気に気絶してしまいそうになったが、それをこらえ、その向こうのティガレックスを見上げる。
の目が、驚いたまま硬直しているのが不思議なのだろう。彼はさらに小首を傾げる。

「? 雌に獲物をやるのは、当然だろ? どの奴らも、雌に大きな獲物を贈ったりして、気に入ってもらえるようにしている」
「……贈、る?」
「ああ、アンタにそういえばまだやっていなかった。悪い。これなら、良いだろう?」

何が。
と思ったが、はたと気付く。ティガレックスなりの流儀で、に好意を示しているというなら、これを無下に出来ないのではないか。はしばし絞めたポポを見つめ、「そう」と言葉少なく返す。

「……? あれ、雌に贈り物って、どういう時にするの?」

ぽつり、とが尋ねる。
ティガレックスは、静かに口を閉ざすと、不意に立ち上がった。そして、の隣へと移動すると、彼の強面な顔がの視界へと入り込む。慣れたつもりだが、その存在感が放つ空気には一瞬身構える。
そうしている間に、彼はすんすんと鼻を鳴らしながら、の首元で匂いを嗅ぐ。鼻息が妙にくすぐったく、は肩をすくめていた。

「ん、ふふ、何? 変な匂いがするの?」

ティガレックスは、「いや」と呟く。

「雄が雌に獲物をやるのも、強さを見せるのも、全部雌に気に入ってもらいたいからだ。俺だってするのは、アンタが初めてだ」

くすくすと微笑んでいただが、「……あれ?」と声を小さく漏らす。
は、彼の声に奇妙な真剣さが滲んでいることに気付いた。彼に顔を向き直らすと、ずいぶんと近い場所に彼の鋭い瞳があって驚いた。

「レックス……?」
「気に入って、もらえなかったか?」

――――― は、思わず、一歩退いた。それはほとんど無意識のうちだった。
ティガレックスは、その目をむっと細めると、すぐにその空いた分を埋めてくる。のしり、と動いた前足が、の足へ微かに触れる。

先ほど以上に、混乱している。まさか、まさかとは思うが。だがしかし、の脳裏に過ぎるティガレックスの行動の由縁の、僅かな予想が、彼女を困惑させた。
がかつていた世界の、動物番組でたびたび見られた、一部の生き物たちの行動。たとえば、雌のために綺麗で豪奢な巣を作る鳥や、雌のために踊りを披露する鳥や、贈り物をして気を惹こうとする獣がいた。少々違えど、根本はまさにそれと同じで、はかつてなく大混乱に陥っていた。

「だ、だって、嘘でしょ?」
「何がだよ」
「私は人間で、貴方はモンスターで、見た目だって違うのに」

強靭な肉体もない、翼もない、強者の強さもない。

( 求愛、行動? )

が今思ってしまったことは、思考の誤りだ、そうだそれに違いない。彼女はそう終わらせようとしたが、ティガレックスの声は、それを拒む。

「……別に良いだろ、雄が雌を好きになったって」
「わ、私は」
「この辺りでも俺は強い方だと思ってるし、狩りも上手い。ハンターとかいう人間にも勝ったことがある。俺と同じ雄がいるけど、そいつらよりもずっと強いし身体も大きいと思ってる。俺より強い雄は、居ない」

の足が、一歩退く。そしてまた、ティガレックスが近付く。

「お、俺は、アンタを……」

ティガレックスは、ぐっと奥歯を噛む。全身に血管が浮かび上がり、赤みがかっていく。
の目を真っ直ぐに見つめ、彼は呟く。

「自分の雌にしたい―――――

ヒュ、と吸い込んだ空気は冷たく、喉の奥から肺を凍えさせる。いっそ、本当にそうしてくれたら良かったが、身体はむしろ……――――――。
は咄嗟に、ポケットからもしもの時のためにと潜ませていたこやし玉を握ると、ティガレックスに向かい投げつけた。瞬間、周囲に霧散する茶色の粉末と、強烈な臭気。投げたも思わず顔をしかめたが、直撃したティガレックスはもっと大変なことになっていた。身体をのけ反らせて、凄いむせている。

「ご、ごめんなさい……! ちょ、ちょっと落ち着かせて!」

は早口にそう言い、ティガレックスに背を向ける。
ギャオウ、と響いた咆哮が、「待て」と言っているのか定かでなかったが、その背後を彼が追いかけてくることはなかった。
洞窟を去り、いつの間にか麓へと駆けこんでいた彼女は、ようやく座り込み肩を上下させた。呼吸が、ゆっくりと時間をかけて治まっていく中で、は不意に罪悪感を覚えた。

……ああ、彼を傷つけたかもしれない。

人間とそもそも感覚が違うとはいえ、ポポをわざわざ仕留めて持ってきてくれたティガレックス。あの好意を無碍には出来ないと自分で思っておきながら、あの行動だ。きっと、傷つけた。雄のプライドも、引き裂いてしまったかもしれない。
得意げな顔をした彼、妙に真剣に見詰めてきた彼、そして……―――――。
思い出し、はギュウッと地面に置いた手を強く握り締める。

いくら、モンスターの言葉が分かるからって、私は……。

彼の好意が、まさかそちらの意味でのものだなんて、思ってもいなかった。どうすればいい、どうするべきなのだろう。
頭は理性的に判断するべきだと、訴えているけれど。
身体が、頬が、先ほどから……。

「……熱い」

ホットドリンクのせいにしても、治まりそうになかった。



大体、ギャグしか浮かばないティガレックス夢。
別に嫌いじゃないよ!

しかし、あの突進はちょっと怖すぎる。あの突進で待ち構えられたら、そりゃ誰だって逃げると思うのです。


2011.12.21