誰も知らない、エンドロールへ

人の姿を無くしてしまったとか。
獣として生きて死ぬ覚悟は出来たとか。
突き詰めてしまえば、要約するところ即ち《人間に戻れるならば戻りたい》である。
何故この世界にやって来てしまったのか、その理由の解明はもうせずとも良かった。が知ろうが知らなかろうが、結局何かが変わる事は無いのだから。
元の世界への感情は、捨てた訳ではない。だが、ただひたすらに願うのは、《人間に戻りたい》。それと、《生きていたい》である。それで、十分だった。

「――――― さんは大丈夫だよ」

そう? そうだと良いな。君が命を張ったなら、私も……命張らないとね。そういう事なんだよね、この世界って。

何気なくそう呟いていたが、はたと思い至り、声の主を探す。
小さい、真ん丸な身体が見える。輪郭はぼやけているけれど、その足は、手は、顔は、はっきりと感覚で理解する。

「――――― ね、大丈夫」

無邪気な、疑いのない少年の声。耳へ、手へ、彼の存在を確かめ刻みつけたかったけれど、彼の姿は遠のいていった。




――――― 羽根みたいな軽さで、瞼が開いた。
霞んだ視界はピントが合わず、ぼやけた世界を映す。目の前には、何だろう……見慣れた自然のものではないようだけれど、周囲を伺う身じろぎも何故か出来ない。思考も不明瞭に回り、は状況を理解するよりもぽつりと呟いていた。

「……アシラ、くん」

……いや、何だろう、何か夢を見ていた気がするが。
思考が徐々に正常を取り戻すと比例して、曖昧な夢が一層ぼやけて遠ざかった。
そういえば、此処は一体。ぱしぱし、と数回瞬きをし、ようやく辺りを伺う事にした。
木の本棚、机、それと……釜? 大きく頑丈そうな箱も片隅に置かれている。光の射し込む窓辺には、何処からか入って来たのだろうか、美しく染まった紅葉が目に留まった。
紅葉……渓流には、確か見なかったものだ。ユクモ村に来た時以来だ。薄ぼんやりとそう考え、「ああ」と独り言のように呟く。考えるまでもなく、人が住まう家であるらしい。そして今自分は、暖かい寝台で仰向けになっている。ふかふかで、背中からその柔らかさが伝わってくる。
は、しばしぼんやりとした瞳のまま、天井を見つめていた。
ふと、カタリと物音がささやかに響き、の耳を撫でた。そっと、緩慢に顔を動かすと、階段の入り口で佇む小さなアイルーと視線がぶつかり、 数秒見つめ合う。

「あれ、カルト……」

どんぐりハンマーを背負った、一般的な模様のアイルー。もう随分と馴染んだ存在のカルトだ。彼は大きな目を真ん丸に見開いていたが、慌てて階段の下へ顔を下げると、大きな声で「起きたニャー!」と叫んだ。彼はそれから、慌てた仕草のまま駆け寄ってきて、顔の横についた。白いシーツに両手を乗せて、身を乗り出すように近づくと、の視界一杯にカルトの顔が広がる。
小さく笑って見せたつもりだが、上手く出来たかは定かでない。

「大丈夫ニャ?」
「大丈夫って……」

ゴシゴシ、とカルトの手がの額を撫でる。妙に、ペタペタとした感触がする。前は、自分の桜色の毛もあって、これほど肉球に密着感は感じなかったが……。
不思議に思っていると、バタバタ、ガッシャン、ゴンゴン、激しい音を立てながら、誰かが階段を駆け上がってくる。気配は直ぐに近づき、階段からは少女が姿を見せた。ハンター装備ではなく、着物に近い簡素な衣服を 纏ったレイリンで、彼女はしばし其処で呆然としていたが、思い出したように駆け寄ってくる。
……あれ、このベッド、座高が高いのかな。彼女がいつもより、近く見える。
がぼんやり思っている傍ら、レイリンはの顔を覗き込んで口を開いた。

「良かった、目を覚まして。えと、さん、で良いんですよね……?」

私は私以外、何者でもないはずだが、不思議な事を開口尋ねてくるな。不思議に感じつつも頷くと、彼女はふわりとあの笑顔を浮かべて、「良かった」と告げた。
此処は何処だろう、という疑問は直後に解決する。嗚呼、此処は、レイリンの寝室だ。このベッドも、整頓された本棚も、綺麗な埃の見あたらない机も、社会見学にやって来た際三日間寝泊まりした記憶と重なっていく。

……ユクモ、村?

は、其処で飛び起きるように身体を起こした。
奔流をぶつけられたような、記憶の氾濫。渓流に居た事、アオアシラが去った事、影丸やレイリンが現れた事。そして……ジンオウガの、事。
あらゆる記憶が一斉に蘇り、の思考が急速に回転を始める。自分はあの時ドキドキノコを口にして、その味とあらゆる病を併発させたような衝撃に襲われた、此処までは粗方覚えている。だが何故此処にいるのだ、ジンオウガ……いやセルギスは、そもそもどうして、と様々な疑問が飛び交ったものの、それも直ぐに打ち止められた。

鈍器で殴りつけられたよりも、もっと重い鈍痛が頭の芯を揺らした。そして直後には、酷い吐き気までも襲ってくる。胃の中のものが出る事は無かったが、喉の奥が張り付く不快感は、そう味わった事のないものだった。

「あ、あ、お、お水……ああ、置いてきちゃった!」
「だろうと思ったから、ボクが代わりに持ってきたニャ」

カチャカチャ、と音を立てながらお盆を持つコウジンが、得意げに現れる。水をたっぷり満たした大きなグラスと、空の小さな杯。レイリンは脛を、地味に寝台の角に打ち付けながらもコウジンから受け取り、杯に水を注いでの隣に立つ。細い腕で、の身体をギュッと支えると、「さん、お水です。飲めますか?」と不安そうに言った。頷きながら、杯に口をつけると、そっと傾ける。
するり、と心地よく下った冷たい清水が、落ち着きを取り戻させる。

「ごめん、大丈夫よ」
「良かった。あ、でも、まだ無理に動かない方が……二日くらい、ずっと眠りっぱなしだったから」

深く呼吸を繰り返したが、レイリンの思いも寄らぬ言葉には動きを止める。

「ふつ、か……?」
「はい、二日」
「寝てたって、私一体……」

一体、自分はどうしたのだろうか。困惑に、思わず額を覆う。

――――― その時、は再度違和感を抱いた。

毛の感触が、全くない。それどころか、短かった猫の指先が、すんなりと伸びているように思える。あれ、何かが、おかしい。
ドクリ、との心臓が飛び跳ねる。
レイリンに支えられながら、は自らの顔や頭を両手で触れて確かめる。
滑らかな額、鼻筋、ヒゲのない頬が触れる。頭には耳が無く、少し乱雑であるが伸びた髪の毛が通り抜ける。あのピンッと尖った耳は何処にもない。
首に触れ、鎖骨を撫でる。肩にも手を走らす。

「あ、れ……」

長い事味わっていた、アイルーの輪郭が、何処にも無い。
どうして、どうして、と混乱していると、何だか随分小さくなったカルトが、寝台の隣で手鏡を掲げた。ていうかそれレイリンちゃんのものでしょう、何を勝手に、と言い放つつもりだったが、一切の言葉を無くしてしまう。
世界を有りのままに反射させる鏡に、映り込んでいる一人の女性。整っていない、伸び放題にしていましたと言わんばかりの黒髪が頬や首に掛かっっており、物臭な印象が強い。無表情、ではないが、限りなくそれに近い困惑の表情をし、やや青白い頬をしている。……誰だろう、この女性は。が手を動かすと、鏡の中の女性も動かす。そしての指先が頬を包むと、その女性も一寸の狂いもなく同じ動作を取る。

……ああ、そうか。これは……―――――。

「私……」

水に映った自身は、いつもボロのワンピースを着た桜色のアイルーだった。随分、離れてしまっていたらしい、本来のこの顔つきも、身体も、全て。
あまり健康的でない印象が強く、まるで他人事。けれど、見下ろした手も、身体も、確かにアイルーのそれではない。じわじわと奇妙な実感が込み上げてきたのだが、感覚は非常に落ち着いている。嬉しさよりも、ようやく心が有るべき場所へ帰ったような、そんな安堵でもあった。

「……こんな顔だったかしら、私って」

もうちょっと赤かったし、少し頬の肉もついていた気がする。はしばし呆然として、その手鏡を見つめていたが、身体を支えていたレイリンから視線を感じ顔を横に向けた。
が口を開くより早く、レイリンが呟いた。彼女が話したのは、の最後の途切れた記憶っである、ドキドキノコを口にしてからの事であった。

尋常じゃない苦しみにもがき始めた、とジンオウガに、事態を見つめる他無かったレイリンや影丸が、ようやく動き彼らの元へ駆け寄った。静かに動きを止める様に、最悪の事態が起きたかと肝を冷やしたが、薄く開いた口からは呼吸が感じ取る事が出来て、意識を失ったのだと察した。だが直後に、それを上回る目を剥く光景が広がった。
横たわった大きなジンオウガの骨格が、不気味なほどに歪み、傷ついた堅殻が剥がれ落ちていった。寄り添うようにもたれ掛かった桜色のアイルーもまた、小さな身体がうごめいて、その容姿を変えていく。
こんな光景、当然見た事の無かった彼らは各々が慌てふためいた。悲鳴を上げたり、卒倒したり( これはコウジンである )、逆に驚きすぎて無表情になったりと、それぞれが無駄な行動で顔を青くしている内に、ジンオウガとアイルーの居た場所には、在るべき彼らの獣の輪郭は無かった。
それこそ、与太話の、そう誰も信じないような、とんでもない光景だったのだが。
ジンオウガの剥がれた堅殻と高電毛に埋もれた、傷だらけのおよそ三十歳前後の男性と。
黒髪の女性が、倒れていたという。
しばし呆然と、さらに沈黙していた彼らだが、ふとまず思い至ったのが、二人が全裸だったために何か着せるものはないか、という事だった。

ヒゲツとカルトがキャンプ地へ速攻戻り、ベッドのシーツやら掛布やらを全部引ったくって来ると、彼らに被せてユクモ村へ戻って来たのだと言う。

信じたくもないが、アイルーとジンオウガが人の姿になったという事実を、彼らは受け入れるしかなかった。ただ、ヒゲツと影丸は、男性を背負って戻る最中、感情を堪えていたようだった。ジンオウガであったと思しき男性は、随分と年齢を増してしまったが記憶の中のセルギスであると、常識よりも感情が理解してしまったのだ。

ともあれ、ユクモ村に戻って来た彼らは、戦いに巻き込まれた何処ぞの村の女性と、その女性と一緒に居た行方不明だったセルギスと強引に話を付けて、各家で寝かせていたという。およそ二日間、ユクモ村でも大変な騒ぎになっていたが。
運が良かったのか、狩猟の際にはいつも上空で監視するギルドの者が到着が遅れていたようで、アイルーとジンオウガの変化というげにも奇妙なその光景を見られる事は無く、「取り逃した」と影丸が言った事で場は収まった。

はそれを聞きながら、ぼんやりとしていた。言葉は耳へ届き、理解は出来ているのだが、まだ頭が上手く働いていないのだろうか。
いや、それよりも気がかりだったのは……。

「……ジンオウガさん、は」

レイリンは一度声を止めると、「師匠の家で、まだ眠っています」と静かに返した。
はそれを聞くや、寝台から出て、立ち上がろうとする。が、二日間眠り続けていたせいでろくな食事も取っていなければ足も鈍っている。転げそうになった身体だったが、かろうじてレイリンが支えてくれたため免れた。

「む、無茶ですよ、まだ寝てないと!」

当然、レイリンはそう言ったのだけれど、は力なく首を振り、「お願い」と頼み込む。渋る彼女へ、さらに念を押すように真っ直ぐと見つめ、ゆっくりと一文字ずつ噛みしめて再度告げる。

「お願い……ジンオウガさんの、ところに」
「でも……」
「お願い」

があまりにもそう言い続けるものだから、折れたのはやはりレイリンの方だった。付き添う事を条件にし、コウジンとカルトも連れて影丸の家へ向かう事にした。外は、あのユクモ村の紅葉で彩られた温泉の風景だった。賑やかな市場通りへ向かい、村人などから「大丈夫か」と声を掛けられたが、今のには届かない。地を踏んでいる感触が薄いほどの、酷い倦怠感が全身に冷や汗を溢れさせていたが、意識は一点にのみ集中する。

「此処が、師匠の家ですよ」レイリンは市場通りの直ぐ側に佇む家屋の前に立ち止まる。そういえば、影丸の自宅に踏み入れるのは初めてだな、なんて飛んでしまいそうな頭で考えていると、カルトとコウジンが長暖簾を捲り上げてレイリンとを通した。そしてそのまま、影丸とヒゲツの名を大きな声を張り上げて呼ぶ。

さん、大丈夫ですか……?」
「だ、大丈夫かそうじゃないかって、言われると……ちょっと、大丈夫ではない、かな」

笑って見せたつもりだったが、レイリンのこの不安そうな面持ちから察するに上手く出来なかったのだろう。支えてくれる細い少女の腕が、ぐっと強く肩を抱く。やっぱりハンターね、見た目によらず丈夫な子だわ。

ほどなくし、ドタドタと音を立てて階段の上からヒゲツが顔を覗かせた。 を見るや途端に表情を変えたが、「ジンオウガさんは」と掠れた声で尋ねると、賢い彼は直ぐに察して「旦那の部屋に」と告げる。その向こうで、素っ気なく短い声で「アイツらか、上がってもらえ」と言ったのが聞こえる。

さん、階段、昇れますか」

平気よ、昇って見せるから。意志に反し弱く頷くと、決して広くはない手すりも簡素な木の階段を、レイリンに支えられながら肩を並べ、ゆっくりと進む。その前方ではコウジンとカルトが、時折振り返りながら駆け上がり、を引っ張る。
はあ、と息を吐いた足下で、ヒゲツと視線がぶつかる。金色の、獅子のような瞳。今はその鋭さが薄れ、困惑の気遣いの色で揺れている。

「……、で良いのか」

ヒゲツの後ろで、影丸の声がする。僅かに視線を上げると、彼の足が見え、同じように困惑する影丸の顔を捉えた。
桜色のアイルーが、等身が上がりまして人間に変われば、こういう反応にもなろうか。変化した、というよりは、戻った、という表現が正しいのだが……いや、今はそれよりも。

「……ジンオウガ、さんは」

影丸は、ふっと顔を横に向け、眼差しで指し示す。それに従い、も焦点を定めながらゆっくりと移動させる。
壁際に寄せられ和柄のキルティング布が掛けられた寝台の上、昏々とし横たわる長身な男性がぼんやりと映る。はレイリンの支える腕からそっと抜け出すと、身体を立たせて歩み寄る。彼の枕元に佇んで、その眠る顔を見下ろしてみた。
三十歳前後の、精悍な顔立ち。少し肌色は青く鈍いが、鼻筋や顎、首などスッと伸びている。影丸の、しなやかな細身の身体とは異なる筋骨がしっかりした体躯の輪郭は、ハンターとして盛りであると既に印象付ける。

……髪は、伸び放題な感じね。
私より凄いわ。

セピア色の褪せた写真で見たかつての彼は、首筋に掛かる程度の溌剌とした短髪であったが、恐らく背中にも届いているのだろう。彼の額へ手を伸ばし、その顔に掛かる前髪を払う。毛先のまとまっていない、乱雑なそれは、や影丸の漆黒の色ではなく、茶色に染まっている。人が手を加えて染色した、あんな不自然な色ではなく、鮮やかであるけれど何処となく視界にも心地よい赤銅色で……そう、ユクモ村に馴染む色だ。

……鮮やかな碧色も、黄土色も、堅い感触も、王者の強さを象徴した姿も、何もない。
これが、彼本来の姿なのだろう。奇妙な違和感もあったがそれは恐らく自分とてそうなのだろうと、変にくすぐったくなる。

ただ、彼女がこの姿を取り戻した事より、彼が諦めていた本来の姿を得た事の方が、何よりも喜ばしかった。
ドキドキノコの引き起こした作用は、奇跡ではなく新たな苦悩の始まりなのかもしれない。御伽噺や与太話の類へ確実に入るこの現実を、信じるものは居やしないだろうし、言い回る事も出来ない。結局変わったのは、自身の見た目ばかりであるが……。

「……姿が変わっていた事は、そう悪い事ばかりじゃなかったよ」

彼が、いつだったかそう呟いたように。
もまた、そう共感する。

指先で額を掠めると、ピクリと昏々と眠っていた彼の瞼が動く。酷く緩慢に、時間を掛けて開かれていったその瞳は、今まで見ていた竜の蒼い瞳ではない。ぼんやりとし、部屋に差し込む柔らかい陽射しを受けている、鮮やかな琥珀色だった。
と同じく、状況を理解していないのだろう。宙を見つめる彼に、は小さく笑って、少しだけ身体を傾けて視界に映り込んだ。

「……お目覚めはいかがですか、ジンオウガさん?」

ざわ、と背後で空気が動く。
だがそれに感化されない、薄ぼんやりとした男性は、を見上げて弱く笑う。

「……最悪、だな」

今まで聞いていた、あの声がこぼれる。
というわけで、アイルー編終了いたしました。
いやー楽しかっ……え、終わりですよ。これで。(笑)
超あっさり風味、後味すっきりの喉越し爽やか。それがアイルー編です。

この流れを汲んで、人間編をバシバシとフリーダムに、そして情熱の赴くまま、書き連ねる所存です。好きなように、好きな感じに。
だって私の目的はむしろ、アイルー編ではなく人間編にあるのですから( むしろそれが本音だろ )

アフターストーリーは、人間編で補完致します。あちこちでほったらかしなものがありますしねー……。
ともあれ、アイルー編は無事に終了致しました。お付き合い下さっていた皆々様には感謝申し上げます。ありがとうございました!
また人間編にもお付き合い下されば幸いです。

2012.02.04