今さら必要なこと

――――― 影丸とレイリンの、最初の頃の話。


半年かけてようやく叶った、ユクモ村在中ハンター影丸への弟子入り。新人の新人であるレイリンはそれこそ天にも昇るくらいの喜びを感じていたが。
始まった彼の修行生活は、なかなかにハードであった。
いや、恐らく影丸は修行のつもりも厳しくしているつもりもないのだろう。だが、もともとハンター訓練でも試験でも関係者に「ギリギリ過ぎる」と言わしめたほど、彼女のハンター技術は新人にしてもおよそ目を当てられるものじゃなかった。そのため、ジャギィ一匹相手しようがファンゴ一匹相手にしようが、ともかく常に命の危機。それに加えて影丸のあくまで普段通りの姿勢もあって、毎日死地へ赴くようなものだった。( というのも普段の彼が採集1の狩猟9くらいの割合のため )
それでも、レイリンは大変だと思うことは多々あれ、辞めたいと思ったことは一度もない。愛想が良いとは言えないし、口数もそう多くない、おまけに少々分かりづらい。けれど、わざわざレイリンに合わせてモンスターを選んだり、生命の粉塵を使用したり、情があるのも確かだ。その背を追いかけ、モンスターと対峙する姿を見れるだけでも、十分なのだ。
弟子入りしたからには、自らも精進する心構えはもちろん出来ている。

……ただ、村人からは、そんな修行風景を「スパルタ教育」と呼んでいる。
むしろ影丸が無意識の分、性質が悪いかもしれない。

そんなものだから、この日もユクモ村集会浴場へ戻って来る頃には、レイリンはへとへとになっていた。ああ、暮れて藍色に染まりつつある風景が、妙に目に染みる。

「……おい、大丈夫か」
「へ、いき、です」

疲れました、と言わんばかりのレイリンの声とはまるで正反対な、影丸の静かな声。
いや彼にしてみれば何てことないのかもしれないが、レイリンにとっては今日も激戦であった。
ユクモガサがずれているが、それを直さず「ありがとうございました」と礼をする。脳内では、機敏に挨拶していたのだが、実際はもう今にもブッ倒れそうな不安を抱かせる声音だったことだろう。
影丸のナルガSヘルムの向こうの瞳が、細められる。案じているのか呆れているのか、顔をしっかり覆ってしまう防具のせいで読み取ることは出来ない。
だが、「……今日は休んどけ」と不器用ながら言ってくれるから、少しは心配されているのかもしれない。こっそりと、胸を温かくさせ、レイリンは目一杯笑ってみせた。

「フンニャ、影丸は分かりにくい上に、鬼ニャ! とんでもないヤツニャ、この鬼畜!!」

……なんて、良い気分で毎回終わらせてくれない、この足元のオトモアイルーのコウジン。
一瞬で滝の如く冷や汗を流させるその言葉は、ここまで来ると彼の特技かもしれない。褒められたものでは、ないが。

「黙れコウジン」
「ゥニャ゛!?」


カァン、と小気味良い音を立て、コウジンのどんぐりネコヘルムの後ろ頭へとハンマーが叩きつけられる。影丸の長年のオトモアイルーのヒゲツだが、コウジンも大概同じことを繰り返す。またプンプンと怒り出すコウジンとは対照的に、ヒゲツは冷静で、そのメラルーの種族にはなかなかない獅子のような眼光で有無を言わせない。
この光景にも慣れたが、苦笑いは止まらなかった。

「十分に休め、しばらくは行くことはねえから」
「はい」

レイリンの体力面と、互いの採取活動なり個人的狩猟なりのことを考え、二人で出かける修行クエストは週二日か三日程度だった。レイリンはむしろそれだけでも十分な生活費や活動費を維持出来るが、影丸はギルドから直接依頼もあるだろうし道具の調達は手間もかかるだろう。それくらいな差があるため、現状では妥当なのだろう。レイリンのハンターランクのことでも、そうなのだろうが。
集会浴場の、受付嬢の座るクエスト受注カウンターで報告などをし報酬を受け取り、レイリンと影丸はそこで別れた。


橙色の暮れる明かりに照らされた、石畳の階段を降りる傍ら、豊かな黄葉の樹木や紅葉が立ち並ぶ。疲れた身体を、視界から慰めるようだった。
この石畳から見下ろした風景を、初めてユクモ村に足を踏み入れて見た時は、感嘆の声が止まらなかった。今も、何度見ても美しい光景だと思う。
コン、コン、とレイリンが降りていく隣を、トリプルアイスクリームのたんこぶが出来上がったコウジンが着いてくる。またヒゲツから、こてんぱんにされたらしい。

「旦那様、今日は大変だったニャ。また鬼の影丸が、変なクエストに連れてったニャ」
「う……まあ、それはそうだけど……」

思い起こすと、遠い目になる本日の修行クエスト。
ユクモ村の周囲に広がる渓流にて、クルペッコの狩猟。対象自体は一頭だが……なにせ師はあの影丸である。そんな優しいものじゃなかった。クルペッコといえば、その特異な鳴き真似で他の大型モンスターを呼ぶことで知られていて、新人ハンターが苦戦するモンスターでもある。慣れぬ内はこやし玉と音爆弾を大量消費することで知られているが……。
影丸に、消費という言葉はない。
なんたって、クルペッコの鳴き真似を止めるどころか傍観し、出てきたアオアシラやドスジャギィを片っ端から相手する始末だったのだから。
レイリンが半泣きになるのは無理ない。影丸曰く、上位狩猟にもなれば二体同時も大量連続狩猟も珍しくない、今の内に慣れろ、とのこと。

正論のはずなのに、暴挙にも思えるのは何故だろう。

ほとんどを影丸が相手していたとはいえ、上位ハンターの風景を垣間見て悲鳴を漏らしていた。
道具は消費しなかったけれど、レイリンの心の大切な何かを大いに削り取ってくれたと思う。

……まあ、思い出さずとも身にしみているため大変ではあったけれど、泣き言は言っていられない。

「大丈夫、ハンターとしてやっていくにはあれくらい強くなれってことよ。きっと」
「……それちょっと違う気がするニャ。それにしたって、影丸は酷いヤツだニャ」

プンプン、とコウジンは頬をむくれる。
……コウジンは、やっぱり影丸を毛嫌いする。ヒゲツとも上手くやっているかどうか定かでないし、不安要素はむしろこの子である。
石畳の階段を全て降り、村長の普段座る長椅子を見やり、そしてその反対側を見る。影丸が暮らしているという一軒家だ。レイリンが先に集会浴場を出たし、明かりは当然ついていない。それをしばし眺め、通り過ぎる。彼の家の裏には、訓練場に続く道があるのだが、その途中道が枝分かれになっており、幾らか高地へ続く細い道を伝うとレイリンの暮らす家がある。村長が、計らって準備してくれたものだ。
家の中へと入り、釜に火を焚いたりしながら、レイリンはふと思った。影丸と、上手くやれているのだろうか、と。
そんなに、悪い関係ではないと思う。最初のクエストで、恥ずかしすぎる勘違いを披露したが、それ以降はそんなに間違いはしていないはずだ。と思ってみたが、今日も野道で足を捻らせ一気に転げ落ちていたような気がした。そんな都合の悪い記憶はそっと片隅に置いていくと、案外悪くないという結果に繋がった。
ユクモガサなどの防具を外し、普段着のユクモ村衣装を代わりに着込む。

ただ、一つ気になることがあるとすれば。

かれこれ十数日と経ったが、影丸の顔を見たことがない。

些細なことといえば些細なことだが、レイリンが見る影丸というと馴染みのナルガS装備の姿くらいだ。たまに違う装備を着ていたが、それでも金ピカな全身甲冑で目どころか顔の輪郭すら分からなかった。
どうやって影丸という人物を認識しているかというと、声音と雰囲気だろうか……。
二十代半ばほどの男性、ということは分かるが。

( ……これはこれで、問題ある、かな )

顔が分からない、とか。
笑える話になるだろうか。

三段重ねのたんこぶを濡れタオルで冷やすコウジンへ振り向き、尋ねる。

「コウジンは、師匠の顔を見たことがある?」
「ニャ? 無いニャー、でも想像つくニャ」

ぺたり、とタオルを乗せて、コウジンは頷く。

「ああいうのは、もの凄く怖い顔をしているか、きっと不細工ニャ!
「ちょ、それ凄く失礼よッ」
「そういう風に決まってるニャ、オトモは旦那様に似るというし、ヒゲツを見れば納得ニャ!」

……よほど恨みを感じているのか、ヒゲツというところにより語尾の強さを感じる。暗にヒゲツが怖いと言っているが、しかしそんな格言あったのか疑問である。

「……師匠がどんな人でも、私はあの人に着いてくって決めたもの」
「ものすっごい、不細工で強面でもかニャ」
「そ、そうよ!」

こ、強面は……ちょっと、可能性あって怖いけれど。
しかし見た目でなく、やはりハンターとしての器量が物をいうはずだから、それくらいじゃあレイリンは弟子を辞めようと思わない。
コウジンは未だ師弟関係をどうにか打ち壊したいと思っているようだけれど、悪いがこればっかりは譲れない。
それが表に出てしまったようで、コウジンの目が挑むように輝く。

「じゃあ明日、見に行くニャ!」
「ええっ?!」

顔を?! それは遊びに行くような言い方していいの?!

「そうと決まれば、今日は武器の手入れを念入りにするニャ。いつでも仕留められるようにするニャ」
「コウジン、それはヒゲツさんに怒られるよ……ッじゃなくて、そんなことは」
「安心するニャ、強面だったら容赦なくブン殴ってやるニャ!」

……なかなか人の話を聞かない子だ。ハンターに似るといったが、この辺りは私に通じるものがあるということなのだろうか。そうでないことを祈る。



――――― 結局、やる気を出したコウジンに押され、翌日になってしまった。

ベッドから起き上がったら、すでに武器の手入れを嬉々とし行っているコウジンを見つけてしまった。ああ、もう、これをどう止めるべきか。
旦那様として全力で阻止したいが、それを上回りこの普段にないやる気である……止めるのもかわいそうな気がする。それが甘いと言われるのだろうが、師のナルガSヘルムの下の顔を見たくないと言えば、見たかったりするし……。

ただ、いきなりそんなことを言って、迷惑がられるのは目に見えている。

あまりの脈絡の無さだ、修行クエスト時でさえ溜め息を吐かれるのに、休みの日にまでそうさせるなんて。どんなことを言われるか、あまり考えたくない。

( でも、そうだよね…… )

師弟でありながら顔が分からないというのも、あまり良いことではないだろうし。
朝ごはんの支度をしながら、レイリンは考え。「うん」と頷く。

「ニャ、殴りに行くニャ!?」
違う。というか、すでに目的が変わってるわよコウジン」

静かに諌め、とりあえず今日の午前は、買い物に出かけることにした。
もちろん、やる気満々のコウジンを落ち着かせるがてら一緒に連れ出して。

ユクモ村の市場は、湯治場として有名なだけあって、観光客向けのものから日常道具までわりと何でも揃う。地方の田舎出身なレイリンには、村の中に市場があるというだけでも感動物だった。
すっかり仲良くなった、道具屋の娘と話をしながら、必要な小麦粉やタマゴなど買い込み、帰路につく。その途中、影丸の家を訪ねてみたが、彼の姿はなく、お留守番担当のオトモアイルーが出迎えた。「旦那様は農場に行ってるニャー」とのことだったので、これはチャンスだとひそかにガッツポーズをした。
「もしも師匠が戻ってきて、用事がないようだったら、私が探していたと伝えて下さい」と頼み、慌てて自宅へ戻る。買い物袋を置き、中から購入した食材たちを取り出し、床へ並べていく。

「旦那様、何する気ニャ? 小麦粉とか買ってきて。早く農場に殴りこむニャ!」
「もう……だから言ってるでしょ。殴りこみには行かないって」
「じゃあ、これは何ニャ? まるで、お菓子作りみたいなラインナップだニャ」

みたい、ではなく、それを目的としている。果物やタマゴが凶器に見えやしないだろう、さすがのコウジンであっても。

「師匠に、お菓子を作っていこうと思って」
「ニャ?! 何でそんなことするニャ、あのヘルムの下の顔をさっさと暴いてさっさと帰るニャ!」

鼻息を荒くするコウジンに、レイリンは苦笑いを返す。

「顔は見たいけれど……いきなり行くのも悪いでしょ。それに、師匠と弟子だけでなくて、もっと人として親しくなるべきだと思うの。
会う時は、大体クエストでしょ? ユクモ村のハンターだけじゃなくて、ここで暮らす人として」

……影丸の顔云々の以前に、そもそもそんなことになっているのは人として親しくない証拠だと思うのだ。だから、こういう何気ないことを積み重ねていくことが、今のレイリンにはもっと何倍も大切なように感じたのだ。
幸いにも、レイリンは実は料理に多少自信があったりするので、焼き菓子でも作って持っていこうと決めたのだった。

パンケーキも良いけど、せっかくだからパイでも作っていこう。

ルンルンで下準備をする後ろで、コウジンが何やら言いたそうにムスッとしている。「嫌なんて言わないでよ」と言うより早く、コウジンの口が開いた。

「何でそんニャに鬼の影丸が良いか分からないニャー」
「だって、先輩だし、師匠だし、仲良くなりたいじゃない」

妙に釈然としない様子だったのが気になったが、レイリンはパイ作りに取り掛かることにした。
背後でブツブツ何かを言っていたコウジンも、数分後には手伝いに名乗りをあげ、何か思いの丈を込めてパイ生地を練っていた。( 怒り? ) ただコウジンの性格か、あっという間にお菓子作りが楽しくなったらしく、終盤は鼻歌交じりであった。
手伝いもあって、菓子作りは滞りなく進み、太陽が穏やかに真上に昇った頃にはレイリン宅から果物の香ばしい香りが漂っていた。

荒熱を取ったパイは、布に包み、バスケットへ入れて両手で取っ手を持つ。早速影丸宅へと向かったレイリンだったが。

「旦那様? 旦那様はまだ戻ってきてないニャー」

お留守番アイルーに言われ、なんとまだ農場で働いているのか、と驚いたが。

「今の時間まで戻って来ないってことは、多分集会浴場ニャー」
「え、もしかしてクエストに……?」
「違うニャ、お風呂ニャ」

旦那様、お風呂好きでよく長風呂するのニャー。
アイルーの意外な一言に声を漏らしながら、レイリンはとりあえず集会浴場へ向かうことにした。

踏み入れた集会浴場は、見知らぬハンターが数人受注カウンターに集まっていたりと賑わっていた。……あの中に師匠居たら、見つけられないなあ。
とりあえずトコトコと番台アイルーのもとに向かうと、扇子をバッと広げた番台さんが調子よく「いらっしゃいニャ、レイリンさん!」と笑った。

「あの、すみません……師匠、居ませんか?」
「ニャ、影丸さん? あー今お風呂入って、丁度上がるようですニャー」

言うなり、番台は顔を浴場へ向け、「影丸さーん、お弟子さんがお見えニャー!」とでっかい声で言った。辺り一帯に響くくらいに。
突っ込むべきかどうか迷いながらも、影丸が出てくるのを待つため、脇の長椅子に腰掛けた。バスケットを隣に置き、コウジンがその反対側に座る。

「旦那様、影丸はきっと凄い強面ニャ、覚悟したら良いニャ」
「だから、そんなの関係ないって―――――」

言ってるでしょ、と言おうと思った矢先だ。レイリンの前に人影が立つ。見慣れたユクモハカマを穿いていて、ほのかに湯気を感じた。
ああ、別の湯治客が上がったのか。そう思い、顔を上げずにいると。

「……おい」

低い、感情みのない声で呼ばれた。「え?」と伏せていた顔を上げると、目の前に佇んでいたらしい人物が瞳に映る。長身な男性で、衣を肩に羽織らせた程度のため何も纏わぬ上半身が真っ先に飛び込んだ。思わずギョッとして、肩が跳ねる。
何だろうかと困惑していると、再度呼ばれて、視線をさらに上へと引き上げられる。
筋の浮き出た鎖骨、首筋を伝っていくと、整った精悍な顔立ちがあった。切れ長な黒い瞳と、同じ黒髪で、風呂上りのためかほのかに濡れている。確か、ディアスタイルと言っただろうか、毛先の跳ねたその髪形が冷静さの滲む空気によく似合い、何処と無く危険なものも感じさせた。表情に、あまり穏やかさがないせいだろうか。
二十代半ばほどの、男性。カウンターに見えるハンターらの中にいる、体格の良い大柄な男性と比べるとしなやかさがあるが、筋肉質で無駄のない身体つきはハンターに通じるものがある。

……いや、冷静に見ている場合ではなくて。

レイリンはプルプルと頭を振り、まじまじと見てしまった男性の上半身を視界に入れないようにする。

「な、何の、御用でしょうか……?」

自分の記憶にはない男性だと、思わず声が震える。すると、正面の男性は不意に怪訝な面持ちになり、首を捻る。

「旦那様に何の用ニャ!」

コウジンが長椅子の上に立ち、フーッと威嚇交じりに言った。だが直後、男性の後ろから飛んでくる、細長い何か―――――。

( というか、あれって )

ドリンク屋の、コップじゃなかっただろうか。
とのんびり思っていると、その細長い―――ドリンク屋の飲み物の入っている竹筒――が、パカァンッとコウジンの額にクリーンヒットする。
……あれ、こんな光景、昨日も見たような。

ひょ、と後ろをうかがうと、真っ黒なメラルーがのしのしとオーラを放ちながら歩み寄って来る。どうやら気のせいでなく、そのメラルーはどう見てもヒゲツだった。

「ヒ、ヒゲツさん?」
「こんにちはニャ、レイリンさん」

ぺこり、と頭を下げたお行儀のよさも、間違いが無い。
コロコロと床を転がった空の竹筒を拾い上げるヒゲツの頭上で、涙目になり額を押えたコウジンが怒りに飛び跳ねている。

「あれ、ヒゲツさん、お風呂から先に上がったんですか?」
「……?? ニャ??」

ヒゲツの表情が、珍しく不思議そうにし、メラルーらしいまん丸の目になる。

「師匠が入ってるって聞いて、待ってるんですが……まだ長湯されてるんですね」

レイリンがのんびり呟くと、ヒゲツは毛づくろいしながら「……レイリンさん、あの」と漏らす。彼にしては、ずいぶんためらった口調だ。
何でしょう、と首を傾げようとした、その時。
肩に衣を引っかけただけの半裸の男性が、ヒゲツの手より竹筒を抜き取った。見上げると、男性は半眼になって、レイリンを見下ろしている。切れ長な瞳が、何か感情を宿らせているような。

「え、あの―――――」

だが、その声は最後まで続かなかった。
静かに振りおろされた竹筒が、先ほどのコウジンのように、額へ落とされる。カァンッ!と、恐ろしく良い音を立てたが、あまりの痛さにレイリンは反りかえって悶えた。
呻き声を漏らし、何をするんだと男性を見上げた。見ず知らずの人にいきなりそんなことをされる理由は―――――。

( ……あれ? )

はた、と動きを止める。影丸の側を片時も離れないヒゲツが、一人で出てくることなんて、あるだろうか。
じんわりと涙の滲む視界にいる、一人の男性。じっと見つめると、その切れ長な瞳に違和感を覚える。呆れたような、静かな瞳。

え?

あれ?

「もしかして、ししょ――――」

パカァンッ!と、もう一発振りおろされる。先ほどよりも高らかに響いた音に、あちこちから奇妙な苦笑いが向けられる。
理不尽な攻撃に、レイリンは痛みを塗り重ねられた額を強く押え、訴えた。

「~~~~~~ッ! い、痛い、です!」
「阿呆か、お前は……」

心底呆れた、この低い声。
昨日も、聞いた。クルペッコの、狩猟の時に。

レイリンは、ようやく理解した。目の前の湯上りの男性が、いっつもナルガS装備で全く表情の読めない師匠であるということを。

「だからって、二回も殴らなくたって……!」
「何で知らない奴みたいな目ぇするんだよ。普通分かるだろう」
「分かりませんよ、だって師匠いつも顔見えないじゃないですか」

男性――影丸は、「そうか?」と首を傾げている。本人にその自覚なし。
ただヒゲツは苦笑いしているから、少なくとも影丸の記憶間違いであるのは当たっている。

コウジンも、ようやく男性が影丸であるということを察したようだが、何故か認めようとしなかった。

「ニャ?! こいつが影丸ニャ?! 嘘ニャーもっと不細工のはずニャ」
「コウジン」
「ヒィィ!」

ヒゲツの獅子のような眼光を受け、コウジンは慌ててパッとレイリンの背中に隠れる。
影丸は首の後ろを掻き、目を伏せる。
今まで、一度も見なかった彼の顔……それがあるせいか、仕草一つで妙に違って見える。長い指の動きと、すっとした首筋や顔の輪郭に、ぼうっと視線が釘づけにされる。

「……はあ、で、何の用だ。番台がでかい声で呼ぶから何かと思った」
「え、あ!」

レイリンはハッと意識を戻し、隣にあったバスケットを持ち上げる。

「えっと、あの、これを師匠に渡そうかと……」
「……? 焼き菓子か?」

影丸は、嫌悪など見せなかったが。
今思う、集会浴場で渡すものではなかった、と。
それに風呂上りで、パサパサしたものより、ゼリーやアイスなどの方が好ましかったかもしれない。

「……すみません」

思わず、謝ってしまった。
しかし、影丸はしばしバスケットを眺めた後、「座って待ってろ」と短く言い、踵を返し番台のもとへ向かった。言われた通りに長椅子に腰かけたまま、ぽつりと待つ。
数秒後、ドリンクを二つ持って、影丸が戻って来た。レイリンの隣に座ると、ヒゲツをその隣に座らせる。

「ほら」
「え?」
「おごりだ、ミラクルマキアート」

たっぷりと甘い香りの飲み物が入った竹筒を差しだされ、ゆっくりと受け取った。もう一本は、自分が飲むかと思えば、「ほら」とコウジンに差し出した。これにはレイリンも驚いたがコウジン本人の方がいたく驚いていて、ビクンッと全身で飛び跳ねていた。

「べ、別に要らないニャ! そんなもので釣られたりなんか……」

目は完全に、ドリンク。ゴクリと唾を飲み込んでいる姿では、説得力もない。
影丸は大げさな身振りで肩をすくめると。

「要らないなら、しょうがないか。ほらヒゲツ、お前もう一杯飲めよ」
「仕方ないから、飲んでやるニャ!!」

影丸の手から、盗み取るように俊敏に取り、早々に蓋を開けて飲み始める。
……師匠、扱いが日に日に上手くなってる。
隠れていた背中から横へ移動し、長椅子に座り嬉々とし飲むコウジンへ笑い、影丸に向き直る。年相応の、大人な男性の横顔と眼差しに、普段にはない落ち着きの無さを感じてしまった。

「で、突然どうした」

やっぱり尋ねられた。返答は色々と考えていたはずなのに、咄嗟に出てこなくなり、レイリンは視線を泳がせながら素直に話してしまった。

「……本当は、師匠のお顔を、見ようと思ったんです」
「俺の顔? ……はーん、コウジンが不細工云々って言ったのはそれか」
「コ、コウジンが失礼なことを言って、すみません」
「いや、それくらい意気が良くて丁度いいだろう」

影丸は、意外にも怒ったりはしなかった。むしろ不思議そうにしていた。
それに少しだけ安堵し、レイリンはそっと続けた。

「……師匠のことは、私声と装備と雰囲気でしか知らなかった。だから、顔を知らないのは、人としての付き合いでも、問題あるのかなって……」
「……」
「だから、その、お顔のことは置いて、その……」

親しくなりたかった、とは彼を前にしては言えなかった。
顔を伏せたレイリンの隣で、影丸は黙ったままだった。迷惑だっただろうかと自己嫌悪に陥るその手前で、影丸の手がぺちりと頭の天辺を叩いた。まるで撫でるような、軽い力だった。

「……お前さ、そう普通に言うかい?」
「……すみません」
「悪いとかじゃなくてな。謝んなくて良いから」

呆れに混じる、微かな穏やかさ。レイリンはそろりと顔を上げる。
すると、「まあそれは置いて」と影丸は声音を改めた。

「で、実際に見た感想は?」

長い指が、何気なく黒髪を掻き上げる。太刀を握り続けた手は、しかし粗忽さがないように思えた。すっとした横顔と、切れ長な瞳、少しだけ楽しそうに緩んでいる。

「―――― 思っていた以上に、若かったです!」

阿呆、とまた憎まれ口叩かれたが。
普段は見えない口元に笑みが浮かび、細められた瞳は穏やかであった。

( あ、この目は、見た事ある )

コウジンとヒゲツが喧嘩しているのを、眺めている時。
華麗とは到底言い難いがたかったが、ジャギィノスを追い払った時。
―――― いつもすっ転んで、みっともなく地面と口付けてるレイリンに、手を差し出した時。

ああ、そっか。
レイリンは、胸に秘かに陰っていた何かを、下ろした。そして、ふわっと温かくさせてた。
呆れてるんだか、笑っているんだか、分からなかった曖昧なまなじり。レイリンが思っていた、悪い風に捉える必要はなさそうだった。

「さて……それ飲んだら、農場行くぞ」

影丸の指が、レイリンの手の中のドリンクを指す。
「何故ですか?」と尋ね返せば、影丸が呆れながらも、口元をつり上げた。
それを見たレイリンは、無意識の内に魅入ってしまった。

「ここでそれを食うと、受付嬢やギルドマネージャーのじいちゃんに取られそうだしな」

足を組み、膝の上で頬杖をつく。「だから、早く飲め」そう言った彼の隣で、レイリンはコウジン並みの速さで竹筒に口を付け傾ける。
影丸はやはり、口元を上げていた。それが世間で言う《笑み》であることは分かっているのに、何か重大な事柄を盗み見たような気分になった。

大人の落ち着きの浮かぶ、精悍な整った顔に見えた。
初めての、不器用気な笑み。

しばらくレイリンの胸は逸り、落ち着くことは出来なかった。
これなら、顔は見えなくて良いかもしれない。



よく愛用する防具は、みんな顔が見えない。
というのを書いてみることにしました。

そして、コウジンはきっと何をしようと、「影丸の頭を殴る」ということに繋がると思うのです(笑)

影丸とレイリンちゃんの、邂逅の一歩目であって欲しい話。


2011.09.23