御伽噺の再演

マルディアスの世界地図を広げた時、北東の果てでこじんまりと海原に浮かぶ孤島がある。
大陸本土から離れた、古い歴史の息づく小さな島―――ワロン島。
このワロン島は、島の土地大部分を鬱蒼と茂りモンスターが生息する危険な密林――ジャングルが占めており、入り組んだ獣道と多くの洞窟が生き物を迷わせる。その奥地には、古びた遺跡と、様々な伝説が眠っているという。
ともあれジャングルは極めて危険な場所の為、ワロン島で暮らす人々は開けた海岸部に村を作り、漁業や田畑で慎ましく生活を送っている。
島自体は、世界で認知度はそう高くもなく、珍しいものもこれといって無い。アットホームで長閑な、田舎の島。
なのだけれど……ただ一つ、唯一の特徴があった。
それは、人間とは異なる種族が暮らしている事である。

《彼ら》は決して人間たちと交流をしようとはせず、外界を絶つようにジャングルの洞窟に集落を作り、ひっそりと生きている。《彼ら》はトカゲの容姿をし、けれど二本の足で立ち上がり佇む姿は、とても人間に近しい。無論、言葉も操る。けれど《彼ら》は、決して人間ではない。
遙か昔、邪神サルーインは野に生きたトカゲへ知恵を授け、彼らは四つ足から二本の足で歩くようになったという。彼らはトカゲの姿をしながら人の知恵を持つ種族となり、邪神サルーインを厚く敬った。
光の神と全ての神々の父であるエロールが生み出した、人間たちとはそもそも根本的に生まれも存在も異なるのである。
サルーインが気まぐれに知恵を授け、以後言葉を話し歩くようになったトカゲの一族……彼らを、《ゲッコ族》と呼んだ。



ゲッコ族というものは、一様に皆トカゲの顔をしている。姿形は非常に人間に近く、自由に歩ける二本足と器用に道具を使える五本指の手をしているが、全身を鱗に覆われ、古で長い尾を持っていた名残か小さな尻尾も生えている。
祖先が大地を這っていた野のトカゲなのだから、人間と異なる種族である事は外見だけ見ても明瞭だ。
そうしてゲッコ族の現在の長は特に人間を嫌い、決して関わろうとしない。彼らが人里へ現れる事は、滅多にない。

そんな閉鎖的な種族の中にありて、海賊キャプテン・ホークの一派に加わるこのゲッコ族の男性は、非常に希有な存在であると言えよう。
人間たちの生活に興味を持って単身集落を飛び出し、薄暗く湿った洞窟から輝く陽射し注ぐ海原で過ごすようになった彼を同族は皆珍しがって、人々は不思議がったものだが、今やワロン島でも知られた顔である。

ワロン島で生まれ育って、そして暮らしているも、彼の事はよく知っている。なにせ、彼は昔から縁があった人物であるし、この一帯では必要以上の闘争や略奪行為を良しとしない道理と義理を重んじる海賊一派であるし。

何より―――――。

、ただいま戻りました」

愛しい、恋人であるのだから。

キイ、と音を立てて、玄関の扉が開く。柔らかな潮風が入り込み、海の香りが部屋を漂ったが、慣れ親しんだ香りは不快はない。むしろその香りと、間近で奏でられるさざなみの音色は、不思議と彼の声を彩るようだった。きっと彼が、海賊という立場にあるからだろう。

「おかえりなさい、ゲラ=ハ」

明るい茶色――シナモン、あるいは胡桃色の柔らかな髪を泳がせ、は微笑んで駆け寄る。
海に囲まれた朗らかな村に良く似合う、薄いコーラルピンクのワンピースは胸元や太股に大胆なスリットを入れているけれど、その下には別の衣服を着ているので肌の露出も決して厭らしくない。スカートの裾や袖は柔らかく広げられ、見た目に反し動きやすく、駆け寄るの足はとても軽い。
彼女の足が向かう先――玄関に佇む影は、人間のそれではない。姿形はとても近しいけれど、その顔はトカゲのもので、そしてその手も、足も、短いながら生えた尻尾も、砂色の鱗に覆われている。いわゆるゲッコ族の出身で、異質な空気はこの風景にありても非常に違和感があっただろう。だが、ゲッコ族の彼は、開けた扉を丁寧に閉めて、そしてそのトカゲの顔立ちに優しい笑みを浮かべる。静かに腕を広げ、駆け寄ったへと鋭い爪の生えた手を伸ばす。
は迷わず、その腕の中に滑り込むと、両腕を上げて広い肩に回す。自らの顔を、トカゲの顔の横へと持ち上げ、頬を触れさせる。温い温度のトカゲの肌は柔らかいとは言えないが、の表情はうっとりと満たされ緩まった。

彼が普段過ごす場所は、海の上。そして普段居る場所も、海を根城とする海賊たちしか知らない秘境にある、パイレーツコースト。
が暮らすワロン島と正確な距離は分からないが、朧気ながら遠い距離にある事は想像がついた。決して繋がらない空白という事でも無いが、地図と現実は異なる。彼の立場もあって、今日会うのも久しぶりだった。

「良かった、いつもと変わってなくて」
「ええ、ご心配なく」

トカゲの顔に反して、その顎からこぼれた声はとても低く響き、よっぽどその辺の人間より理知的な冷静さを含んでいた。
相変わらず、心地よい低い声。は満足そうに微笑んで、そっと腕を下げた。正面に向き合い、胸と胸は重ねたまま視線を交わした。の腰に回された彼の両腕は、爪が生え揃った爬虫類の手とは思えないほど紳士的に抱き留めている。

も、変わらず。安心しました」
「私は大丈夫よ、この島も、いつもと変わらないわ」

トカゲと人の容姿を持ちながら、紳士的な振る舞いをする静かな男性。それが、海賊という立場でもゲッコ族という立場でも珍しい気質を持った、ゲラ=ハという人物で。
の、自慢の恋人である。



そろそろ陽も傾く時刻、風も静けさに凪ぐ頃。海原の旅も長かっただろうし、の家でゆったりと寛ぐ事になった。
慣れ親しんだ自らの家のように、ゲラ=ハはリビングの椅子へと腰掛け、もまたごく自然にアイスティーと小さな菓子を用意する。
「ホークさんは? レイディラック号のところ?」
「ええ、キャプテンもどうですか、とは聞いたのですが。『邪魔するほど野暮じゃねえ!』と笑って、レイディラックと夜を楽しむそうです」
「あらら……ホークさんらしいって言えば、らしいね」

ふふ、とは笑って、ゲラ=ハの向かいに座ろうとした。が、そこでゲラ=ハの低い声が掛かって、呼び止められる。顔を上げると、目を細めたトカゲの顔が笑みを湛え、トントンッと自らの隣を叩いた。
う、とは一瞬動きを止める。だが結局、彼にも自分の心にも勝てないのは、常日頃の約束である。はおずおずとゲラ=ハの側に寄ると、決して広くはない椅子にもう一人分のスペースを空けた彼を見つつ、腰を下ろそうとする。
だが、その絶妙なタイミングで、横から伸びたトカゲの、男性らしい大きな手が、の腕を取って引っ張る。
わ、と驚いて半ば尻餅をつくように座り込んだ先は、ゲラ=ハの足の上だった。

「……もう」

恥ずかし紛れに文句でも言ってくれようかと思うの側で、ゲラ=ハは珍しく明瞭な笑みを浮かべている。腰に回された腕はやはり優しく、彼の性格が表れる紳士的な仕草で身動きを奪う。少し堅い足、堅い腕、堅い手、暖かくはない温度の宿す皮膚は鱗の滑らかさ。それでも、それらは久しく触れたゲラ=ハの感触で、やはり直ぐに身を許す心地よさがあって。
は、どうせまたするのだろうから、と自らゲラ=ハの胸に横向きで寄りかかる。屈強、というほどでなくとも、広い胸は男性的な力強さがある。こてん、と傾いた頭は、彼の首筋に落ち着いた。

「お、重かったら、言ってね。最近……ちょっと油断して……お菓子食べ過ぎたから」
「いえ、そのような事は」

頭上で、ゲラ=ハが息を吐き出す。吐息に近い声音で、、と名を呼ぶものだから、耳がこそばゆい。その上、酷く心地よい。人間とは異なる筈のトカゲの肉体に、波へ揺れるような安らぎを覚える。

「会いたかった」
「うん」
「本当に」

そっと撫でた手のひらが、何の厭らしさもなく労りに満ちている。
けれど、心地よさに溺れる手前で意識を戻し、寄りかからせた身体を起こす。ゲラ=ハの顔を見つめ、尋ねた。

「何だか、最近は大変そうね」

このところ、も思っていた疑問でもあった。
ゲラ=ハは細めた瞳を開き、微かな苦笑いをこぼした。微かな、疲労が共に吐き出される。

「そう、ですね……やはり、ワロン島にも聞こえていますか?」
「旅人さんが多いし、パブでも聞く。帝国海兵が頻繁に海に出てるって。でもそれより、私が気になるのは、前にホークさんやゲラ=ハも言っていた……」

は、そこで言葉を止める。

「前に言っていた、ホークさんと対立してる海賊と、最近衝突が多いって」

名を、確か――ブッチャー。
パイレーツコーストに集まる多くの海賊たちを統べる、一派の首領だ。
義理と人情、不必要な略奪と殺生をしないホークとは異なり、賊は賊らしく海を自由に進み略奪し、争いも諍いも一向構わないという、過激な思考の持ち主である。
も、実のところは数回会っている。ワロン島に足を運ぶ事もあって、そのたびにパブで好き放題してくれて、そこで働くにとっても招かざる客同然。不埒な視線を遠慮なく浴びせてくるのを、彼女は知っていて、そのたびに気分を害してきた。
ホークやゲラ=ハ、ホークの一派の海賊たちが何かと間に入って制してくれたので、それ以上の事態は起きていないが……。
ともかく、の記憶にも非常に悪印象の強い、海賊である。なまじホークやゲラ=ハが、海賊としても人としても素晴らしいせいか。
そんなブッチャーが、ここのところ顕著にホークを目の敵にし、喧嘩沙汰が絶えないという話はも聞いていた。
海賊の楽園であるパイレーツコーストを、海を根城にする者の掟と摂理で統率する絶大な支持を持つホークが、気に入らないのだろう。

「ブッチャー……まあ、それも関わっていますね」
「海賊のこと、あんまり詮索しない方が良いとは思うけど……その……噂は耳にしちゃうと、やっぱり気になって」

申し訳なく告げると、ゲラ=ハは首を振り「貴方が気に病む事ではありません」と涼しく返した。

「キャプテンとブッチャーの衝突も、実際最近は顕著です。といっても、ブッチャーの態度がほとんどの要因ですが。ただ目に余る行動も増えてきて、その抑制にキャプテンは動き回っています」
「そっか……大変ね。あ、それこそ私が言うべき事じゃないかしら」
「いいえ。全くもってその通りですので」

ゲラ=ハは笑うと、今一度を引き寄せ、彼女の頭に顎を乗せた。

「……最近は、貴方に会いに来れる日が少なくなり、申し訳ないと私の方こそ思っていますよ」

すみません、と呟くと。腰に回る腕が少しずれ、の細い背を撫でた。

「貴方が海賊に対し理解を示し、私に対しても優しいものですから、甘えてしまいますね……それではいけないのだと、私こそが思っているのに」
「そんな事ないよ、私、今も十分に満足してるよ」

「ただ、ゲラ=ハが無理してないか、それだけ心配。貴方、真面目だもの」

悪戯っぽく笑うと、ゲラ=ハは目を丸くして、その後嬉しそうに細めた。

「だから、うちに帰って来た時くらいは、ゆっくりしてね。直ぐにパイレーツコーストに戻るのかもしれないけど、今くらいは」
「はい」
「それに……」

は、視線を泳がせた。不意に躊躇いを見せた空気を感じ取り、ゲラ=ハはを覗き込む。

「わ、私は、いつも待ってるから……ゲラ=ハより、素敵な男性だって……居ないもの」

そういった甘い言葉を口にするのも、本当は苦手であるのだが、思い切って告げてみる。途端に羞恥心が押し寄せ、早くも心が限界まで拍動を加速させた。ゲラ=ハの足の上で一人顔を押さえて悲鳴を漏らしていたが……何故か一向に、ゲラ=ハより返答が来ない事に気付いて。
は、恐る恐る、と頚を傾け窺う。

「ゲラ=ハ……?」

すると、頭の上にあった彼のトカゲの顎がずり落ち、肩口に埋まった。背を撫でていた手が止まり、両腕が強く抱きすくめてくる。僅かにあった隙間が全て無くなり、は戸惑いに声を揺らす。

「……まいりましたね、今日はゆっくりしようと思ったのですが」

呟いたゲラ=ハの声が、珍しく震えている。どうしたのだろう、と思いは身体を僅かに離す。そっと見つめ、視界に映った彼の顔は……。

見て分かるほどに、嬉しそうに、気恥ずかしそうに、弛緩していた。

普段の理性的な面持ちとは異なるそれに、も釣られて頬が熱くなる。

「私も、海の上で思っていましたよ」
「え?」
「……貴方より、魅力的な女性は居ないと。早く会いたいと、ずっと」

その声の低さと熱っぽさが、抱きすくめられた身体に伝染してゆくようで。

「……嗚呼、困りましたね。ゆっくり話もしたいのに、今すぐ貴方が欲しくなりました」

の背に回った手が、後ろから髪を撫でてかき上げる。引き寄せられた目の前で、ゲラ=ハの瞳が、それこそ。
その姿と同等の、獰猛なトカゲを彷彿とさせるほどに鋭い光を放つものだから。
の声は、彼の顎の中に全て奪われた。

そんなに急がなくても、私は居るのに。
これからも、ずっと。この島で、ゲラ=ハと過ごすのだから。

そう思ったは、その時信じていた。翌日も、一週間後も、一ヶ月後も、こうしてゲラ=ハとのんびり過ごす事を。
疑う事など、無かった。


ゲラ=ハがパイレーツコーストへと帰ってから、数週間後。
海賊ホークとその配下が、帝国海軍に海賊の楽園と海賊の流儀を売ったとして追放され、船と共に行方不明になったと聞くまでは。


パブにやって来た旅人から、そんな話をへ聞かせた。信じ難い言葉に彼女が打ちひしがれ、絶望と悲しみと怒りがこみ上げて泣き崩れた時。
そこにいた不思議な詩人が、まるで空気を宥めるように、ある物語を口にする。
邪神サルーインを打ち倒し封じた、英雄ミルザとディスティニーストーンの運命の物語。誰もが知るおとぎ話を、この時詩人が何故語ったのかをは未だ知らない。


英雄ミルザの封印から、百年後のこの年。世界は終わったはずの物語の続きを、再び演じようとしていた。
封印が解け、邪神サルーインが復活しようとしている兆し。
それに呼応して、各地で宿命づけられた人々が、見えぬ流れに呑まれようとしている。
その中に、彼女の恋人ゲラ=ハが含まれている事も。
自身が、既に呑まれている事も。
……未だ、彼女は気付かない。


優しく切ないギターの音色が響き渡るパブで、はただ恋人と、親しい海賊の安否を気遣った。
詩人の眼差しが、くたびれた帽子の向こうから注がれる。優しく、見守るように。



……物語は、始まった。



【ロマンシグ・サガ -ミンストレルソング-】
プロローグ的なものになります。

かつて更新停止しサイトからもジャンル撤去されたものですが。
何だか急に再びカッとなったので、情熱の限り復活させてみました!

あっ待って、石投げないで。
ジャンル撤去したくせに! このやろー! って石投げないで。

ゲラ=ハ……やっぱりかっこいい。私の中で、最強のイケメントカゲです。彼の魅力には抗えぬ。

サイトで以前載せていたものは全て削除したので、新しく書いてゆく事にしました。じゃっかん主人公も違ってたりします。これもシリーズ的短編形式なので、好きなように情熱のまま向かおうと思います。

それにしたって、ゲラ=ハ、やっぱりかっこいいですよね……ッ

2013.3.14