これが神の所業なら、

ゲラ=ハとが出逢ったのは、《互いが何であるか》を知らなかった幼い頃だった。

魔物が存在するマルディアスでは、珍しくはないよくある話。魔物に襲われ両親を失い、世界で一人っきりになった子どもたち。の幼少期は、ものの見事にそれに当てはまっていた。
ワロン島で漁業を営む父母が、ある日を境に戻って来なくなった。嵐に見舞われたか、水棲の魔物に襲われたか。が思うに後者であるだろうが、唐突に彼女は世界で一人っきりにさせられた。
幸いしたのが、ワロン島の人々はを見捨てず、村ぐるみで彼女を一人前になるまで見守り育ててくれた事だ。無償の愛情を注いでくれたワロン島の人々は、にとって家族であり、恩人である。大人になった現在でも、その念は一向に褪せていない。
それでもやはり、父母が突然帰らぬ人となった時は今でこそ朗らかなとて泣いて暮らしたし、まだ父母に甘えたい年頃の少女が一人っきりの夜に耐えられるはずもない。あの頃は頻繁に、真夜中に家を抜け出しては、村外れの海岸にうずくまり、膝を抱えてべそかいていた。
その時に出逢ったのが、ゲラ=ハであった。
といっても当然この頃、彼も幼少期の少年で、今と比べれば可愛げがあっただろう。まだ幼いトカゲの顔立ちに、軟らかい鱗を持ち、小さな少年そのものであった。(それでも外見の異質さは、幼少期からも健在であったと彼は語る)
後になって知ったが、少年は外の世界に憧れて自らの集落を抜け出しては、夜毎こっそり探検をしていたという。ただ、ある晩から、村外れでべそべそ泣いている少女が現れるようになったものだから、気掛かりで。この晩、初めて声を掛けたのだと。
トカゲの姿をした少年に、少女だったは大層驚いた。それこそ、涙が吃驚して止まるほどに。けれど、「怖がらないで」と告げた声は優しい少年そのもので、次いで「どうして泣いているの」と尋ねてきた声も同じくらい優しくて。は、膝を抱えたまま再び泣き出した。

「お父さんとお母さんが、海に行ったまま、戻ってこないの」

幼いながらに父母が二度と戻ってこない事を悟っていたが、認めるほど心は容易くない。グスグスと鼻を鳴らすに、トカゲの少年はおずおずと木陰から離れ、の隣に座った。自分とは違う、鱗に覆われた手が頭に乗せられて、彼女は目元を濡らしたまま顔を上げた。
月明かりに慣れた視界に、幼いトカゲの顔が映る。初めて見た、トカゲの姿形をした少年。丸い牙が映え揃った顎を開き、彼は呟いた。

「泣かないで、泣かないでよ」

よしよし、と撫でる小さな手に、は何だか不思議な安心感を抱いて。先ほどよりも、声を大きくし泣いた。
思えばそれが、父母を思って最後に泣いた晩であった。

それから、名の知らぬトカゲの少年と親しくなったは、夜になるとその少年と会う約束をして遊ぶようになった。それは不定期であったけれど、少年少女の秘密の逢瀬でもあった。
ある時、はふと思った。夜ではなく、昼も遊びに来れば良いのに、と。それをいつもの村外れの海岸で告げると、彼は困ったように目を伏せた。何か理由があるのだろうかと思っていると、彼は怯えながら答えた。

「ニンゲンと、本当は話しちゃいけないんだ。そういう決まりごとなんだ。だから、君とも本当は会っちゃいけないんだよ」
「どうして?」
「ニンゲンとは、違うんだって。僕と君も、違う存在なんだって」

幼いの頭で、その意味を理解するのは難しかった。確かに見た目は違うけど、話も出来るし遊ぶ事も出来る。何がいけないのか、全く分からなかった。

「でも私、ゲラ=ハのこと、好きだよ」

きょとりとして告げると、目の前のトカゲの少年もきょとりとした。そして、ぎこちなく身体を揺らして、怯える仕草を見せる。

「僕の事、怖くないの?」

幼少期といえど、あれは恐らく現在も彼が抱える、心の影の一片であったのだろう。
けれどは、何の躊躇いもなく、にっこり笑って返した。

「怖くないよ」

そうすると、目の前の爬虫類の眼が真ん丸に見開いて、酷く吃驚した様子を見せた。「本当に?」と再度尋ね返す彼に、は「怖くない」と今一度頷く。
ザァァ、と小波の音色が、夜風と共に小さな二人の間を通り抜ける。
彼はしばらくの間黙りこくっていたけれど、次第に眼を緩めて「そっか」と呟いた。表情の変化は無いが、笑っているように聞こえた。

「じゃあ、ずっと一緒」
「ずっと、一緒?」
「うん、ずっと、一緒」

はそれが子どもながらに嬉しかったから、満面の笑みで応えた。
誰にも気付かれない、静まり返った星月夜の下で、人間の少女とトカゲの少年は約束を交わした。小さな小指を互いに結ばせて、ずっと一緒に居ようと囁きあった、ほんの些細な約束事。
子どもの口約束。幼い指切りの誓約。それが何よりも大切であったと、この時は思ってやまなかった。

本当の意味で、互いがどのような存在と立場であるのか知るようになったのは、それから成長した後であった。

ある日を境に、とトカゲの少年が夜に遊ぶ事は無くなった。がこっそり抜け出しているのが、村人にばれてしまったのである。大目玉、というほどではないが、危険だから出歩かないようにと言われてしまうと、従わざるを得ない。にとって村人は皆、親代わりだったのだから。幸いにも少年については見られておらず、彼が叱られるような事態にならなかった事だけがせめてもの救いだった。
けれど、突然会えなくなってしまった事が彼女の後悔となって、数年の間はの重みとなった。

その後、彼女は成長すると共に村での自立を目指し、酒場で従業員となって働いた。忙しくなった日々の中でも、あの少年の顔は薄れる事も無かった。もう会う事も無いのだろう、とは思っていた彼女であったが、あれは蒼い海がオレンジに染まる時刻。ワロン島の村の酒場に、初めての珍客が訪れた。
―――― 海賊である。
海賊といえば、海で悪さをする賊ではないかと思ったのだけれど、面白い事にその海賊たちは、頭領を筆頭に「堅気連中には手を出さない、無益の略奪もしない」という堅い信条を持った海賊一派で。
もともと陽気な彼らの雰囲気もあり、酒場は彼らを自然と受け入れた。だががその時驚いたのは、それだけではなかった。頭領が「うちの操舵手だ」と自慢げに紹介した人物を見た瞬間、幼い記憶が鮮明に流れた。
背丈と身体つきは、年相応の男性のもの。けれど外見は、砂色の鱗を全身にくまなく纏わせており、何よりその顔立ちはトカゲのそれと同等だった。驚いたのは容姿ではなく、その名前で。

「―――― お久しぶりです。村に残っていて、良かった」

全く聞き覚えの無い、低い声音。静けさを含んだ、理性的な言葉遣いに、覚えは無い。けれど、それが誰であるか知っていた。

「……ゲラ=ハ?」
「……変わりましたね、やはり。あの頃とは……互いに」

成長し一人の女性となったを、何処か眩しそうに見つめて。
細めた爬虫類の瞳に、は懐かしさを抱く。それと同時に、何だか上手く言葉を出せない気恥ずかしさと、あの頃の懺悔も込み上げてきて。
幼少時代からの久しい再会であったのに、馬鹿みたいに突っ立って何も言えない、二度目の邂逅だった。

――――あの頃から、互いに変わった。

それは、既に彼も、自身も、知っている現実であった。
光の神エロールが、生み出し愛した《人間》と。
対立する邪神サルーインが、気まぐれに力を与えられ知恵を持ち二本足で立つようになったトカゲの一族《ゲッコ族》。

純粋な想いで交わした、あの指切りは。
果たされもしないと、この頃は覚悟していた――――。




懐かしい思い出を夢に見て、の目覚めは甘くも苦い後味が響いていた。
他人行儀の柔らかいベッドの中で身動ぎし、光の差し込む窓へ視線を上げる。ワロン島で聞いていたうみねことは、また違う鳴声を耳にして、そっと視線を下げる。
生まれ育ったワロン島を旅立って、親しい海賊の頭領と恋人の足跡を辿る一人旅。思っていた通りに無謀ではあったが、海の町を順番に追うと決めた以上はしばらく故郷へは帰らない。バファル帝国の首都であり、大きな港が開かれているメルビルに宿泊しているのは、件の海賊と帝国海軍の騒ぎについて調べる為であるが……。
は、小さく息を吐く。枕へ頭を深く預け、身体を横へ傾け左向きに直す。伸ばした腕の先の、自らの手がふと映り込む。
虚空を撫でる指先。空の手のひらは軽く、手首は物足りない。温かいのに、生温さが欲しくなる。自らの身に染みた、鱗の感触とその硬質も。
無意識の内に形作る、仕草。幼子の、指切りの手の形。弱く伸びた小指の先が欲するものは、何処にもない。

「……ゲラ=ハ」

果たされると信じた約束が、今は胸を痛めつける。
あの頃、もうこれっきりにしようと思って塞いだ感情が、見知らぬものに囲まれた宿屋の部屋でこぼれそうになる。
大切な人を失う恐怖と、恋しさ。
もう一度教えてくれたのは、今は居ないゲッコ族の彼なのに。



少年少女の約束。現在への帰結。
夢主が一人旅で頑張ってる時、二人はきっとワロン島。(最悪)

2013.05.01