石竜子の接吻

――――あ

は思い出したように、心の中でのみ呟いた。それは見えぬ胸の奥だけでは留まらず、表に出てきてしまったようで、気付けばの顔は不思議そうに僅かに色を変えた。
それを眼下に見下ろしていたゲラ=ハも、釣られたように正面で瞬いた。獰猛な爬虫類の、感情味がやけに少なく味気ない眼が、素っ頓狂にパチパチと何度も。

ゲッコ族という、邪神サルーインの加護のもと知恵を得て進化を果たしたトカゲの一族の出身である彼は、容姿の通りにトカゲそのもの。獰猛な気配の漂う頭に、牙の揃う顎、鱗で覆われた肉体、長い手足、名残の短い尻尾と、人ならざる要素が多々ある。が、そのくせ操る言葉はどの人間より理性的で、心地よい低音声。人間の性質も持ち合わせているので、身体つきは男性の逞しさを兼ね揃えている。トカゲと人間の、相反する二つの性質を持つ一族。それがゲッコ族。彼が生まれた、一族だ。

しかしながら、今もを抱きすくめているその鱗に覆われた腕は、穏やかそのものである。自らの膝の上へ座らせ、背中を支える仕草の紳士さときたら、僅かな粗暴さすら見当たらない。下手したら、彼を除いて此処まで紳士的な異性が居ただろうかと、思うほど。これで海賊の一員というのだから、本当に不思議なものだ。
そんな自慢の恋人を膝の上から見つめ、はしばし動きを止める。彼は彼で不思議そうに瞬きをし、小首を傾げる。見開いた爬虫類の瞳に、の姿が透けて映っている。

「……どう、しましたか」

まるで、久しく眠っていた絡繰りが、長い歳月を経て動き出したように。
ゲラ=ハの声が、躊躇いがちにその顎からこぼれた。
膝の上に抱えたを、今一度抱き寄せると、鼻先での頬をつつく。人の肌とは異なる、鱗の滑らかな感触が微かに感じられた。

「……えっと、あの」
「はい」

の腕は、ゲラ=ハの首へそうっと回されていて。向き合った二人の胸の間の隙間を埋めるように、ゲラ=ハの腕が背中と腰を捕らえて。
小さな椅子の上で窮屈に触れ合う二人の隣では、海風に揺れるカーテンが視界の片隅を時折泳ぐ。
この光景だけを見れば、きっと甘やかな男女の秘め事に見えるに違いない。
が、はじいっとゲラ=ハを見たまま、動かない。何かを、考え込んでいる。
呼気が掛かってしまうかもしれない眼前で、真っ直ぐ向けられる瞳。触れるか否かのもどかしいところで、柔らかな彼女の胸はコーラルピンクの衣装の向こうで空を押す。海に囲まれた島国では珍しい、白い肌とその肉体の細さは既に腕と足で知っている。長い睫毛と色づいた唇の形を、妙に気まずい気分になりながらもしっかり見据えているゲラ=ハとて、男である。表情の変化がないのも得だ、とゲラ=ハが思っていると、がようやく呟いた。形よい唇がゆったり動く様は、何故か奇妙な艶めかしさがあった。

「あのね、その……」
「はい」
「どうやって、キスすればいいのかな……?」
「はい…………はい?」

聞き間違えか、とばかりにゲラ=ハは見開いた目をさらに見開かせる。あ、何だか初めて見た仕草……とはぼんやり思ったものの、目の前でそう驚かれると、気恥ずかしくもなる。

「キス、ですか……」
「あ、いや、まあ……」

その低い素敵な声で、反芻されると……。
は口にしておきながら逃げたくなったが、ゲラ=ハの両腕は僅かも動かないので、仕方なく膝の上で大人しく座ったままでいる。せめて、彼の首を抱きしめた腕を弛め、ぽつりぽつりと続ける。

「私、ほら、その、どうしても……ゲラ=ハの目の下とかに、なっちゃうけど」
「ええ」
「それでも、良いかなって」

目の下なり、鼻先なり、額なり。の唇は、ゲラ=ハの顔に触れてきた。別にそれが嫌になったからではない。むしろ好んでいる。ただ、ふと、世間の恋人たちの唇同士の口付けは出来ないなと思っただけだ。

「あ、不満があるとか、そういうのじゃないからね。ただ、何となく思っただけ。本当よ」

……怒った? が慌てて付け加えるが、ゲラ=ハは気にしていないようで「分かっていますよ」と静かな笑みを含んで返した。ほっと安堵しつつ、はゲラ=ハの顔を見つめる。

「他の人たちは、どうしてるのかな」
「さあ……ただ、恐らくゲッコ族と人間の恋人というものは、世界でそう居ないとは思いますよ」
「それも、そうだなあ」

ゲッコ族と隣り合わせに暮らしているこのワロン島の人々でさえ、とゲラ=ハのようなゲッコ族と人間の男女仲を不思議がる声は何度も上がっている。少なくとも、あの様子から非常に稀な関係を築いている事は分かった。
小さなワロン島でさえこれなのだから、ゲッコ族をそう認知していない広い大陸では……。

「それに」ゲラ=ハの低い声が、付け加えるように告げた。

「ゲッコ族には、そもそもキスという習慣がありませんからね」

は、はたと思い出した。「あ、そっか」ぽんと呟くと、目の前でトカゲの瞳が笑うように細められた。

彼らの暮らしぶりは、ゲラ=ハを通じて幾らか耳にしている。ワロン島の大部分を埋め尽くす、鬱蒼と広がるジャングル。その玄関口ともいえる大河のほとりに、洞窟を作り集落を作っているとか。他種族を寄せ付けないよう、幾重にも仕掛けを巡らせて道を隠し閉ざし、それを突破し奥へ奥へと潜ってようやく彼らの集落に到着する。陽の光のない大地の下で過ごす彼らは、正にトカゲだろう。人間の習慣を取り入れる事はないだろうし、何より……その顔の作りが、行為に不適合である。

「キスという行為については、人間特有のものなのだと。私も最初その話を聞いた時は、驚きもしましたが」
「あ、嫌だった……?」
「まさか」

即座に否定し、ゲラ=ハは笑う。表情は変わらない、けれど声は愉快そうに揺れている。

「けれどそれを聞くという事は……少なからず、その行為に興味があるという、事ですか」
「ちょ、そういう風に聞かれると……何だか語弊が……」

しどろもどろ、は声を濁らす。だが目の前のゲラ=ハは、を抱えて真っ直ぐと見据え、「違うのですか」と首を傾げる。
……正しいか否かと聞かれれば、正しいのだけれど。
そしてちょっとその仕草が可愛く見えてしまうのだけれど。
は、やや困り眉を下げる。その言葉を探る様を楽々と正面から見ているゲラ=ハは、内心では愛しさに浮上する気分であったが、は知らぬ事である。

「た、確かに、まあ、興味はあったけど……でも、やっぱり良いの。自分で言っておきながらだけど……。この口だと、出来ないものね」

互いの事を指し、は小さく笑う。
人間の口と、トカゲの口。誰が見ても、その形状の差異は明白だ。
例えば絵本なり、世間の恋人たちなり、あのキスを思い浮かべでみても、仕方のない事だ。別にそれが出来ずとも、から触れる事はいくらでも可能である。それで、問題もないのだ。
眼前にあるゲラ=ハの鼻先に唇を寄せて軽く触れ、それから鼻筋を伝って眉間に。上からのぞき込むように身体を少し伸ばすと、自然と膝を立てた中腰の体勢となり、ゲラ=ハの閉じた顎に柔らかな胸がぶつかる。
ふわりと香る、彼女の香り。ゲッコ族の身に纏う、鱗にはない柔らかな素肌の滑らかさ。

「……すみません、

の唇が、はっと離れた。

「どうして、謝るの?」
「私が、【人】であったならば」

少し顔を離して、はゲラ=ハを見つめた。細めた彼の眼は、申し訳なさそうな翳りがある。
ゲラ=ハが、謝る事じゃないのに。彼は妙に真面目な部分がある。静かで、優しくて、ゲッコ族と人間の差異を誰よりも痛感しているから、なお一層些細な事をも自らの非にしようとする。は少しばかり苦笑いを浮かべ、首を振る。

「私が、先に言った事よ。ゲラ=ハは謝らなくて良い」

それに私、こうするの好きよ。は悪戯っぽく、わざと音を立てて眉間に口付け、申し訳なさそうにする爬虫類の眼の下にも唇を落とす。

「それを言ったら、私がゲッコ族だったら状況が違ったのかなって、思っちゃう。ごめんね、私が言い出したから」
「貴方が、謝る事ではないですよ」

ふっと、ゲラ=ハからようやく強張りが呼気となって抜け落ちる。の背を抱きしめる腕に今一度力が込められ、ぐっと引き寄せられた。僅かにあった二人の、胸と胸の間の距離が詰められる。

「それにしても、キス、ですか……」

双方の立場が違うゆえの、謝罪の応報は止まった。だが、会話は再び振り出しに戻される。

「や、だから、それは」

別に、良いのよ。そうは慌てて言おうとしたが。

「――――試してみますか、私たちなりの」

あの素敵な低い声が告げた言葉に、その先の声が出てこなかった。

へ、と。はしばらく、面食らって瞳を瞬かせる。
数センチ先の、ゲラ=ハの顔を見下ろす。彼の目は、真っ直ぐとを見上げる。何故か急に、爬虫類の匂いが漂っているように思えた。

?」
「え、な、え……?」
「ですから、私たちなりの」

何を、というのは、言われずとも容易に察した。あらゆる思考を吹っ飛ばし真っ白に染まった脳内に、ゲラ=ハの声が繰り返し再生される。
自らが、言ってしまった事とはいえ。
の驚いて呆けていた表情が、次第に赤く染まり困惑で歪んでゆく。その様を眼前で見て、場違いに可愛いなどとゲラ=ハは思っていたが、言われたはそれどころでない。

「や、でも、良いよ、私ッ」
「こら、逃げない」

逃走を図り退こうとする細い身体を、膝の上に座らせて腕でがっちり固定する。外見は細身なゲッコ族と言えど、男、その上日々海賊の暮らしで鍛えられた彼だ。の逃走を阻止する事くらい、簡単な事である。
中腰だったは、ぺたり、とゲラ=ハの足の上に座り込む。そうする事を余儀なくされる。背と腰を支えるゲラ=ハの腕が、力強く、彼の胸へと引き寄せる。決して乱暴でないけれど、逃げられない、不思議な静けさ。

「興味という点では、私も以前からありましたもので」

そう告げる低い声が、の耳をそうっとくすぐった。思わず、肩が跳ねる。

「貴方が私にしてくれるように、私も貴方に出来たならばと。これでも、思ってはいるのですよ」
「あ、う……」


こつり、と鼻先がの頬をつつく。こそばゆく顔をしかめると、額がすり寄ってきた。トカゲの顔だからか、どことなく獣を彷彿させる仕草。滑らかな鱗の質感を顔全体で感じながら、視線を彷徨わせる。
ゲラ=ハが分かっているかどうかは不明だが、甘やかされたり我が儘を聞いてくれたり、そういった優しさには慣れていない。ワロン島での暮らしは長いが、両親はその半分の時間も側にはおらず、村人たちに面倒を見て貰う内に肉体より心の方が早く大人になった。ゆえに、自らの願いより、他者の願いの方を優先する癖がついてしまっている。それがどんなに些細な事であっても、だ。そのの癖を、上手い事回避しながら些細な願いにもってゆくゲラ=ハには……少しだけ、困惑する。
意図しているか、していないかは、置いといて。
ゲラ=ハは、そういう優しい性格なのだ。

……ずるい、なあ。

とは思いながらも、その性質に惹かれているのは、このであるが。

「……え、と」

ゲラ=ハの足の上に座り込んだの身体は、少女のように縮こまった。触れ慣れた、ゲラ=ハのトカゲの手が、その背を撫でる。鱗に覆われていても、大きな、男性の手のひら。

「……お……」
「お?」
「お、お手柔らかに……お、お願いします……」

序盤から既に、モゴモゴと口ごもって言葉になっていたかも怪しいが。
はい、と頷いたゲラ=ハの珍しく上機嫌な声に、聞こえてしまったのだろうなとは頬を染める。
しかし、唐突に【ゲッコ族と人間のキスの方法】を模索する事になったが……。

「な、何からすれば……」

恋愛偏差値の低さは自覚している、笑うなら笑え。
はぬいぐるみの如く抱きかかえられたまま、ぽつり、と呟く。
ゲラ=ハは「そうですね」としばし真面目に考え込んで、それから。

、顔を上げてみて下さい」
「うん……?」
「ものは試しですが……」

そう言って、ゲラ=ハの顔が屈む。降りた影に顎を上げたの前で、突然ゲラ=ハの口が開いた。上下にパカッと開いたそこには、トカゲらしい牙が揃っており、その迫力は爬虫類系モンスターを一瞬で想起させた。思わず悲鳴が出そうになったなんて恋人にする事じゃないが、目の前で急に口を開いたゲラ=ハだってどうなのだろう。
わ、とは声を漏らし僅かに仰け反る。だが、開いた口は素早く向かってきて……。

カプリ

そんな効果音が似合いそうなくらい。
ゲラ=ハの横へ傾けた口が、ものの見事にの両頬を挟む。

「……んむ?」

視界が遮られ、見えるのは彼の表皮のみだ。牙が当たるものの痛みはない。甘噛み程度の感触だ。しかしこの光景、端から見れば捕食光景でしかないと思うのだが……むにむにと噛まれたり緩められたりとされ、は首を傾げる。
……キスというには、少し野性的のような。
疑問に思っていたものの、ひとまず大人しく挟まれたままで居たであったが、目を見開いたのは次の瞬間である。

ぬるり、と。何かが唇を撫でる。

「! わ……ッ?!」

驚いて開いたの口に、それが入り込む。細長く平べったい、何か。しかしながら、自らの口に侵入してくる何かを考える余裕など、この瞬間に全て吹き飛び大混乱に陥っていた。
口の中で、別の生き物が蠢いているような。逃げようとする身体はゲラ=ハの腕がしっかり捕らえているので叶わず、逃れようとする顔もゲラ=ハの顎に挟まれて動かず、ならせめて舌くらいと引っ込もうとするそれも、侵入してきたものがぬるりと絡まる。
呻き声の漏らすの声は、文字通りにゲラ=ハの口の中で消えてしまい、彼に届いているかどうかも怪しい。
口内の天井と、歯茎が、撫でられる。ニチャ、と時折鳴る音が脳に響く。味わった事のない感触に、はギュウッときつく眉を寄せて視界を閉ざし耐える。

「んーッんーッ!」

ゲラ=ハの肩を掴み、懸命に押す。ふと、動きが緩んだが、離れはしないらしく大混乱のの背が撫でられる。鱗に覆われ鋭い爪も生えた手なのに、優しく、宥める仕草。暴れ震えたの身体が、ぎこちなく弛緩する。ふう、ふう、と吐き出す息は遠慮なくゲラ=ハに掛かってしまっており、女としては少々恥ずかしいが、向こうも結構吐息を掛けてくる。それよりも、この状況の方が今はとんでもなく恥ずかしい。
幾らか落ち着いて、は薄く瞳を開く。やはりそこにあるのは、開いた彼の口と、頬の表皮。今まさに自分の口の中で動いているのは何か、彼女はようやく理解して震え上がった。
二股に分かれた、トカゲの舌……ゲラ=ハの舌。
ものは試し、というわりに、レベルが高すぎるのではないだろうか。様々な段階をすっ飛ばして急に上級者向けの性技を味わっている気分だ。心臓に悪い、事実先ほどから自らの鼓動が恐ろしいほどドンドンと胸を叩いている。これだけ身体が密着しているのだ、きっと彼にも気付かれているだろう。

「う、う……ッん……ッ」

手酷く扱う乱暴さはない、けれど、逃げようがないと予感がして、はゲラ=ハの人とはまるっきり異なる舌に翻弄され続けた。掴む手に力が入らず、震えた身体がぐったりとする頃に、ようやく彼は捕食じみた口付けを終えてくれた。 ……いや、口付けというよりも口淫と称した方が良かったのかもしれないが。
両頬を挟んだ上下の顎がパカッと外れ、長い舌が抜けてゆく。くたりとするの耳を最後に辱めたのは、チュルリと鳴ったあからさまな濡れた音色だった。
ブルブル、と戦慄いた背が前へ倒れ、はこてんとゲラ=ハに寄りかかる。

「……?」
「……」
「ええっと、すみません……?」

ぐったりした腕を上げ、ゲラ=ハの頭を叩く。力など入っていないから、きっと痛くも何ともないだろう。

「……全然、お手柔らかじゃ、ないんだけど……」
「すみません、つい」

ついって。もそりと頭を動かして恨めしく見上げた先で、ゲラ=ハの顔が何となく笑っているような気がした。それでいて、鋭い爬虫類の眼に奇妙な熱さも宿っており、抱きすくめられたは吐息を漏らす。

「……いきなりは、ちょっと、心臓に悪いよ……」
「嫌、でしたか」
「嫌というか……その……」

本当に、食べられるかと思った。
消え入りそうな声で告げると、ゲラ=ハは一瞬驚いて、それから「そうですか」とやたら満足そうな声で頷いた。

「……人間のやり方とは随分、外れているかもれませんが。もし嫌でなければ、今後も良いですか」

あ、あれをか。の見開いた目には、困惑が再び過ぎった。だが、特別「嫌!無理!」というほどの感情も無かったのも、事実である。きっとゲラ=ハであったからなのだろうが……思い返しただけで、身体がまた震え上がる。恐怖、ではなく、熱を帯びた期待あるいは不安か。
ゲラ=ハの足の上に小さく収まって抱きすくめられ、の頭はごくごく小さく縦に揺れた。

「……まあ、私も」
「……?」
「これは、せめて二人だけの時にしたいと、思ってます」

強く抱いた彼の腕が。寄りかかった胸が。お尻の下の足が。普段よりも格段に熱かった事を、はその時気付かなかった。



ゲラ=ハとイチャイチャしてみたかっただけ。
キスっていうか、捕食光景。

(石竜子=トカゲ)

2013.06.18