彼のみが知る心

 ワロン島に存在する村の一つ――――ウェイプで暮らしていた少女は、午前中に用事を済ませ海へと遊びに行くのが日課であった。
 村人の目をすり抜け、珊瑚の群集が広がる浅瀬へ走る。岩礁の上を注意深く跳びはねて進み、その先端で立ち止まる。

「ギーちゃん!」

 少女が呼ぶと、緩やかなに波打つ澄んだ海面へ魚影が浮かび上がる。少女が抱えるには大きいが、成人から見ればとても小さな影。けれど、現れた魚は海面から顔を覗かせ、はっきりとした意思を持ち少女を見上げていた。

「ギーちゃん、今日はお魚のご飯を持ってきたよー」

 片手に持っていたバケツから、撒き餌の団子を取り出して、魚に見せる。その魚は、しばらく少女の持つ魚用の餌の団子を窺ってグルグルと周ったが、落ち着いて再び止まると――――。

「ギーッ!」

 元気よく鳴いて、小さいけれど立派な牙の並ぶ口を開けた。
 その口に向かって、少女は満面の笑みで餌の団子を放った。


◆◇◆


 バファル帝国の首都――――メルビルを船で立ち、幾日。天候の崩れる事のない大海原の旅は、平穏そのものだった。
 海風が力強く吹く甲板に上がって海鳥に餌を投げたり、部屋でのんびりとくつろいだり、非常に心穏やな海路であった。
 この客船が向かう先はワロン島のウェイプなので、船には人の姿はそれほど多くはなく、どちらかと言えば乗り合わせた人々はワロン島に所縁があるのだろうと想像する。風へ当たりにやってきた甲板にも、人影は達のものしか無かった。静かな旅路で、気が楽と言えば楽である。
 縁から身を乗り出すように背伸びして海鳥に餌を投げるアイシャと、「危ないですよ」と言いながら見守るアルベルトが、直ぐ側で展開されてる。それを微笑ましく眺めながら、は船の進む先を見つめる。久しぶりのワロン島は、まだ遠いだろうか。

「久しぶりですね、ワロン島は」

 話しかけてきたゲラ=ハに、は頷く。ゲッコ族という人とトカゲの姿を併せ持つ種族は、ワロン島でのみ暮らしている。彼とっても、にとっても、向かう先は故郷だった。

 が生まれ育ったワロン島を出る切っ掛けとなったのは、風の噂で耳にした海賊たちの仲間割れである。ホークとゲラ=ハが、海賊を裏切り帝国に寝返ったという罪を犯し追い立てられたという噂を耳にした時、ああブッチャーの策略だと、は直ぐに理解した。必要以上の争いと略奪、ごく普通の市民には一切の手出しをしない信条を掲げるホークが、絶対にそれを違える事はない。ブッチャーは、そんなホークと対極の位置にある男だった。は元々、以前からホークやゲラ=ハと交流があったから何かと絡まれたりもしていたので、よく分かっていた。彼らを探しに行こうと心に決め、彼女はワロン島を飛び出した。
 そして、海沿いの街を捜し歩く一人旅を経て――――現在はこうして、無事再会を果たした。

「ね、懐かしい。そんなに昔の事じゃないのに、時間が過ぎるのはあっという間で」

 海風に揺れた髪を、そっと撫でつけ押さえる。

「ゲッコ族の族長さん、元気かな」
「……長は変わっていませんよ。息災の意味でも、人間嫌いの意味でも」

 静かな低音は、小波の音色のように心地よく響いた。船首に座っているジャミルが、吹き出すように笑う。

「違いないな、あの族長さんなら」
「ふふ、そうね、そっちの方が逆にあの人らしいから嬉しいかも」

 閉鎖的な環境を嫌い、ゲッコ族の村を飛び出したゲラ=ハと、邪神サルーインによって立ち上がったゲッコ族の生い立ちゆえにエロールの子の人間と関わる事を良しとしない族長は、非常に相性が悪い。かつてあったゲッコ族誘拐の事件の際には、それが露呈し互いに険悪であったけれど、解決した現在は多少は距離が埋められた。それでも一線があるのは、ゲラ=ハの意地か、族長の意地か。達にとっては、いずれ解消されるものであると思っている。例え今、平素は紳士的なゲラ=ハが珍しく口を尖らせているとしても。
 美しく染まる真っ青な海原に、白い飛沫が上がる。遠い果てまで続く青を見つめ、はゆったりと息を吐き出す。
 ああ、懐かしいといえば、そうだ。

「……ギーちゃん、元気にしてるかなあ」

 呟いに、ゲラ=ハとジャミルの視線が集まる。「ギーちゃん?」と不思議そうに反芻する彼らへ、あっとは声を漏らす。

「ごめんね。そんな、大した話じゃないよ」

 軽やかな足取りで、ジャミルが船首から甲板へ降りる。アイシャとアルベルトも近寄って来た。海鳥への餌投げは終わったらしい。

「ギーちゃんって? のお友達?」
「私も初めて耳にしました、そのような名前は」
「うーん。友達というか、ペットみたいなものかなあ……」

 は過日を想起しながら、仲間へ語った。

 昔と言っても、少女時代にまでは遡らない。齢十二、十三程度の頃だろうか。
 幼い頃に両親を亡くしたも、その年にもなれば痛みを乗り越え、村で一人暮らしするのもお手の物な、立派な女になっていた。
 海と隣り合う環境から、海辺はすっかり彼女の庭となり、夜出歩く事はないにしろ日中は其処で遊ぶのがお気に入りだった。今も海は、彼女の日常の一部である。
 そして、その庭のようなものであった海辺で、は後に《ギーちゃん》と名付ける存在と出会う。
 其処は珊瑚が群集する浅瀬で、小魚の楽園だった。もっぱら其処がお馴染みの遊び場だったわけだが、その日は見た事のない魚が顔を出していた。尾びれや背びれが中々に尖って立派な、青い鱗の魚。小魚ではなかったが、漁師たちが自慢げに見せる魚たちと比べれば断然小さい。それに鱗の表面は傷だらけで、岩礁にでもぶつかったのだろう。
 けれど、妙に気になってしまったのは、その傷だらけの魚が水面から顔を出してじっと見上げていたからである。丁度の手に握られていた、おやつのクッキーを。
 魚と言えば、何処を見ているのか定かでない感情のない眼をしているが、その青い魚については何か違和感を感じたのだ。まるで、生物としての明確な意思――知性があるような、目つきをしていた。
 は気まぐれに、握っていたクッキーを一枚砕いて水面に投げた。魚はそれを訝しむように、しばらくグルグルと回っていたが、ぱくぱくと食べ始めたのは直後だ。そして、魚は綺麗にクッキーの欠片を全てついばんだ後、に向かって鳴いたのだ。「ギーッ」と。
 見た事も聞いた事もない、鳴声を上げる不思議な青い魚がすっかり気に入り、安直に《ギーちゃん》と名付けた魚のもとへとは毎日餌を投げに行ったのだ。


「――――いや、ちょっと待て」

 話を遮ったのは、ジャミルであった。

「魚って……鳴くもんなのか?」
「だって本当に鳴いたんだもの。ギーッて、すんごい声で!」
「ああ、だからギーちゃんなのですね」

 アルベルト、突っ込みどころは其処じゃねえよ。ジャミルは静かに、アルベルトの腕をついた。

「まあ、本当不思議な話なんだけど、それからしばらくギーちゃんと過ごしてね。名前を呼ぶと返事をするし、ハイタッチの芸を教えたら水面ジャンプして手のひらにタッチしたんだから」
「おい、それマジで魚かよ?」

 信じられない事に、間違いなく魚だったのである。

「頭の良い魚で、ペットが出来たみたいで嬉しかったなあ」
「ねえ、それって、どんな種類の魚なの?」

 アイシャに尋ねられたものの、は首を振った。ギーちゃんと名付けたあの魚が何であったのか、実は分からないままなのである。海に囲まれ本土からは隔絶された島で、調べようも無かった事も要因だ。それらしいものを探し当てる事も出来ないまま数年後、ギーちゃんは浅瀬から姿を消した。

「最後に見たギーちゃんは、結構立派なサイズになっていたから、きっと大人になって海に戻ったのね。何故か傷だらけな鱗は治んないでそのままだったけど」

 あれから、さらに数年と経過している。せめて漁師に捕まって食卓に並ばず、海流を自由に泳いでいる事を願う。
 「ギーちゃん、このくらい大きかったんだよ」とは身ぶり手ぶりで説明する。両腕を目一杯広げたその大きさは、大人一人は楽々としがみつけるサイズである。「すごーい」とはしゃぐアイシャの側で、ゲラ=ハは小首を傾げる。

「はて……何やら覚えのあるような気がしなくもないのですが……」
「そう? もしかしたら海の上にずっと居るゲラ=ハとかなら、見れば分かるのかもね」

 もっとも、相手は犬猫ではなく魚。会えるものではないと既に知っているし、仮に会ったとしてもかつての《ギーちゃん》と姿は異なるだろう。

「何年経っても鱗の傷は治らなかったし、もしかしたらそのままかもしれない。けど、目は今もよく覚えてるの」
「目、ですか」
「そう、ギーちゃんの目は真っ赤な色をしていて。水中でもあの爛々と光る赤い目は印象的だったなあ」

 懐かしく思い出したら、ギーちゃんに会いたくなってきた。どうしているだろうか、食卓に並んでいない事ばかりを願った。
 甲板の手すりに頬杖をついて、はほのぼのと微笑む。けれどその隣では、ゲラ=ハが「赤い目の、蒼い魚……」と神妙に呟いていた。



 一行の乗る客船は、その後順調に海路を進む。問題に遭遇する事もなく、間もなくワロン島も見えてくるだろうと話していた――――そんな時であった。
 危急を知らす笛の音色が、物見台より鳴り響いた。次いで聞こえたのは「モンスターが現れたぞ!」という、船員の叫び声である。
 たちは各自武器を持ち、甲板へ走った。
 甲板では、既に船員たちが慌ただしく走り回っていた。客船自体は大きな造りをしていない為に、船員の数もそれほど多くはない。当然、加勢するべく達は船員に声を掛ける。

「ああ、すまねえな、助かるよ!」
「いえ、それより状況は」
「航路上に、水棲系のモンスターの群れが確認された。数はちょいと多くてな……くっそ、ついてねえや」

 望遠鏡を覗き確認しながら、船員は忌々しそうに呟いた。

「ともかく、甲板に乗り上げてくるモンスターは我々が排除致します」
「ああ、頼むよ。船はちょっとくらい傷ついても良い、荷物と客が無事なら」

 アルベルトとアイシャ、ジャミルが武器を構え、ゲラ=ハは鋭利な爪の伸びる両拳を鳴らした。も細剣を引き抜いたが、その時船員が背後で呟いた。

「ヌシが出てくれりゃ、こんな事もないんだけどな……ともかく急いであいつの居る海域にまで行かないと」

 ……ヌシ? 聞き慣れない言葉を耳にし、は振り返る。

「あの、ヌシというのは……?」
「あ、ああ、船乗りの間じゃ、最近有名な話でさ」

 船員曰く、ワロン島に近い海域には、最近“ヌシ”が現れる。と言っても、正確な姿は誰も見た事はないので、便宜上ヌシと名付けて船乗りの間で語られているだけなのだが。
 ヌシと名付けられたその生物は、ワロン島に近付くモンスターを片っぱしから退ける好戦的な性格をしており、客船や貨物船がワロン島に近い海域で襲われるとそれが現れ蹴散らしてくれると、最近語られている。もっとも、船を助けてくれるのではなく、正しくはその船に群がるモンスターを目的として現れているに過ぎないのだろうが。
 何にせよ、そのヌシは船には目もくれずモンスターの群れと戦ってくれるので、襲われた船はその間に危機をすり抜ける事が出来る。その為に船員たちの間では、姿見た事のないヌシが幸運の象徴とされ、ワロン島の海路が近頃安定しているのはヌシのおかげであると語られていた。

 そう船員は語ってくれたが、首を捻るのはワロン島出身のとゲラ=ハである。そのような結果的には有り難い存在を、耳にした事など無かった。現れたのは最近だというので、マルディアスを旅している間に確認されている生物なのだろうが……。

「そのヌシとは、一体何なのでしょうか」
「ヌシはいつも水中に居るからな、正確に見た事はないが、ただ……そいつが現れる時は決まって、やたら大きな魚影が見えるらしい。さぞかし立派な、海の魚なんだろうよ」

 立派な、海の魚。モンスターの群れへ自ら突撃するほどなのだから、恐らくは十中八九、そのヌシと名付けられた存在もモンスターであるのだろう。
 薄っすらと予想をしながら、達は甲板で武器を構え、戦闘態勢へ入る。ワロン島周辺の海域を目指す船の航路上、渦巻くモンスターの群れへその船首が切り込んだ。波に揺られながら飛沫を上げ前進する船へ、青い海面から飛び上がったモンスター達が襲いかかった。


 海原に浮上するモンスターの群れを突っ切り、追い払いながら進む船は、ワロン島の海域へと近付く。甲板に乗り上げるモンスターを退ける事に集中する達は、全く気付かなかったが。
 その頃、既に海面下の静かな世界から、新たな生物が水泡を吐き出して、船に近付いていた。
 海面を騒ぎ立てる、魔物の群れと、一隻の船。映し出される光景を認めた巨影では――――真紅の炯眼が爛々と輝いていた。


 は、モンスターに突き立てた細剣――レイピアを払い、荒く息を吐き出す。そんなに長い時間を戦っているわけではないが、思ったよりも数が多かった。手のひらや背中には、少しだけ汗が滲んでいる。また波に揺れる甲板は、足元をふらつかせるので足場も悪い。
 間を空けず続けて襲いかかってくるモンスターを、コーラルピンクのスカートを振り上げて蹴り飛ばし、レイピアを突き刺す。ともかく、船の内部に侵入されないようにしなくては。はしっかりと前を見据えた。もう、ワロン島が見えている。

さん、もう少しですよ!」

 アルベルトの言葉に、は笑って頷く。

「ヌシとかいうヤツが、さっさと出てきてくれりゃあ良いんだけど、な!」

 同じレイピアを持つジャミルは、絶妙なバランス力で船の縁からモンスターを蹴り落とす。

「それよりも心配なのは、この数のモンスターが全て船から離れてくれるか、ですが」
「そ、そうだね……船も危ないし、モンスターが島に近付かれちゃったりしたら大変」

 ゲラ=ハとアイシャの会話を聞きながら、はふと思った。モンスターの群れに突撃するような好戦的な、そのヌシとやらが同じモンスターだとして。
 そのヌシは、どうして船を襲わないのだろう。
 幾らモンスターの群れを第一にするとしても、その後船を襲う事なんて訳ないはずだ。船乗りの話が本当であるならば、それだけ好戦的なものなら海上を進む船とて敵と見ても良いだろうに。それではまるで、本当に船を守っているような――――。
 が考え込んだ、その時。物見台で周囲を見ていた船員が叫んだ。

「――――ヌシが出てきたぞー!」

 歓声にも似た声が、途端にわあっと上がり海風に響いた。見れば、甲板で銛を両手で握る船員達は、助けがきたとばかりに船の後方を振り返っている。乗り上げたモンスターを一度退けた達も、船の縁へと駆け寄って後ろを見た。
 白波が線を描く、船の後ろ。青い海面に、何かの巨影が浮かび上がっている。中型程度の旅客船よりは無論小さいが、それでも人間よりも遥かに大きい。まるで、何かに導かれたような現れ方だ。ただ、光の加減で、今一つその輪郭を掴めない。魚なのか、それとも別のものだろうか。

「――――モンスターが来ますよ、気を抜かずに!」

 アルベルトの声に、はハッとなる。それどころでない状況は変わらないのだ、ともかくこのヌシとやらが群れを襲うのであれば、その隙に切り抜けなければ。はレイピアを握り直し、再び乗り上げようとするモンスター達と対峙する。
 けれど、その時――――波に煽られたか、モンスターがぶつかったか、船体が大きく揺れた。
 甲板は激しく傾き、は足元を滑らす。縁に掴もうとした指先は宙を掴み、バランスを失った彼女の細い身体は投げ出された。モンスターが群れる、海原の上へ。

!」
「ちょッおい! ゲラ=ハ!」

 ジャミルの制止を聞かず、ほとんど反射的にゲラ=ハは傾いた甲板を自ら滑り落ちる。縁から跳躍すると、の手を掴んで引き寄せる。同時に、ゲラ=ハはと共に海中へ落ちていった。


 投げ出された身体は、ザパン、と激しく海面に打ちつけられ、直ぐに沈んだ。
 塩辛さを堪えながら、酸素を逃さないよう口を閉じる。まるきり世界が、変わったようだった。あれだけ甲板は慌ただしかったのに、水中は喧騒と無縁な静けさにある。ごぽごぽと水泡の立つ音しか聞こえず、押し流される浮遊感に動きはままならない。それでも冷静で居られたのは、元々島国育ちで海と隣り合わせであった事と。

(ゲラ=ハ)

 の手を引き寄せる、鱗がみっしりと覆うトカゲの大きな手。眉を顰めながらも、しっかりと瞳を開けて寄り添うゲラ=ハを見つめた。こぽり、こぽり、と水泡が海面へ上がってゆく。ゲラ=ハはの身体を抱え、水中を蹴って海面へと伸びあがる。
 けれど、底の無い海中からは、自由にその世界を活動する水棲系モンスターが集まり始めていた。追い詰めてゆくように、円を描いて遊泳しつつ距離を埋め、とゲラ=ハへにじり寄る。は手に握ったままのレイピアを、静かに持ち直して切っ先を向けた。

 だが。

 足元から集まる、モンスター達のその向こう。
 黒い巨影が浮かび上がるのを、とゲラ=ハは見つけた。それはきっと、船乗り達が喜んだ、《ヌシ》と呼ばれる何かだ。
 魚か、それとも。海中の滲む世界では判断のつかぬその影は、間違いなくとゲラ=ハに近付いてくる。それは次第に大きくなってゆき、立ち昇る水泡は増え、海流の動きを変えていった。
 これは、まずい。明らかに、まずい類のものだ。
 足元から這い上がる威圧感に、背筋が震えた。警鐘をはっきりとけたたましく鳴らす、本能的に恐れる気配。それは、今船を襲うモンスターの群れにはない、上位者の――――。

 光の当たる海面に近付くにつれ、その巨影の全貌が明らかになる。透き通った蒼い水の世界で、露わにしたそれは――――。

 四方からいよいよ、モンスター達は襲いかかる。けれど、それよりも早く、ヌシと呼ばれる生物は尾びれを動かし速度を上げ、そして。
 とゲラ=ハの眼下で、牙の生え揃う顎を開いた。それはまるで光の無い洞窟のようだと、はのん気に思っていた。
 と、いうのも。

(水中でも見える、真っ赤な目……)

 群れを成す水棲系モンスター達を、一度に噛み千切るそのヌシは。




 とゲラ=ハが海へと落ち、大騒ぎであったのは甲板に居るアイシャやアルベルト、ジャミルだった。
 今にも後を追って飛び込みそうなアイシャとアルベルトを、ジャミル一人で必死に制止する光景は、ほとんど戦いどころでは無くなっている。しかし二人が慌てるのも無理はないというもの。旅客船の隣は、餌を投げ込まれた猛獣が我先に奪おうとするように、激しい水飛沫が上がっているのだから。

「わーん! ー! ゲラ=ハー!」
「お前らまで追いかけたら状況最悪だろ! 落ち着け!」

 ジャミルはそう言ったものの、二人が無事であるか否か、彼とて案じている。船の後方にあったヌシと呼ばれる生物の巨影は、二人が落ちた瞬間すっと海中へ沈みこみ消えてしまった。まさかと、嫌な想像が働くのは仕方ないだろう。ヌシと呼ばれる生物は、所詮人間を守ってくれる存在ではないはずなのだ。
 ともかく、落ちたのは日頃海と縁のあるとゲラ=ハだ。直ぐに上がってきてくれる事を期待し、梯子と浮き輪を急ぎ準備する。船員達を巻き込んで慌ただしく走り回る三人であったけれど、誰ともつかぬ声が「あっ!」と上がった。旅客船の隣で激しく立ち昇った飛沫がいつの間にか止まり、その海面に二つ分の人影が浮上する。ぷは、と息を吸い込んで覗いた顔は、投げ出され沈んでいたとゲラ=ハのそれである。

、ゲラ=ハー!」
「だから落ち着けってのアイシャ!」
「今そちらに、浮き輪を投げますので!」

 アルベルトが叫ぶと、とゲラ=ハは何故か困惑したように顔を見合わせ、首を横に振った。どうしてこの場面と状況で断れるのかと、三人はぎょっと目を剥いていたが――――その理由を知ったのは、直後である。
 モンスターの群れによって激しく荒れていたが、嘘のように静まり返った海面で、とゲラ=ハは穏やかにぷかぷかと浮いている。だが、その身体は突然、白波を立てた海原の上に持ち上げられ、旅客船と並行し移動を始めた。
 座り込む二人の足元には――――何かが、居た。
 穏やかさを取り戻した海原を割りながら、悠然と泳ぐ何かの背。目映い陽射しを浴び眼下で露わになるその背には、鋭利な背びれが伸びていたがあまりにも大きい。またその巨大な体躯は、蒼い海原へ溶けるように同色の色を纏っており、頑強な甲殻か、或いは鱗がびっしりと覆っている事が窺えた。
 あれは果たして、何だ。
 海に映る陰影は魚の形をしているけれど、全体的に鋭く尖り攻撃的な輪郭を持ち、単純に魚という種に収まらない。しかも海面から覗くその立派な体躯には、幾つもの傷痕を刻みつけ、長大な魚影をより一層只ならぬ存在に仕立て上げている。
 今二人が乗っている生物が何であるのか、船に居る全員は分からず硬直していた。ともかくこの妙な状況で分かる事は、二人が無事であったという事と。

「……まさか、ヌシ?」

「――――ギーちゃん!」

 船と海上の温度差が、其処にあったという事くらいである。
 海水まみれのが嬉しそうに凶悪な背を撫でると、その生物は応じるように鳴声を響かせた。平穏を取り戻した海原を再び震撼させる、怪獣の如き咆哮を。

 危機を脱した、と思われる旅客船は、その後妙な空気のまま無事にワロン島へ到着する。とゲラ=ハを乗せた魚影を、横に張り付かせたまま。




「――――で、なに? 要するに、船乗りさん達が言っていたヌシっていう生物は」
が昔餌を上げていた、ギーちゃんなる魚であった、と」

 ワロン島の村から離れた入江に、穏やかな波が寄せ、再び引いてゆく。響き渡る小波の音色は心地良いのに、一行の心には疲労がどっと残されていた。
 ただ一人、を除いて。

「いつの間に戻って来てたんだろう。相変わらず傷だらけなのね、ギーちゃんタッチ!」
「何でそんな悠長なんだよ!」

 ジャミルの突っ込みなど聞かずに、岩礁の上に立ったは、海面へ腕を伸ばした。差し出されたその手のひらへ、蒼い魚が水飛沫を上げて飛び出し、頭部――ドリル状の先端を小さな手のひらへタッチさせた。ザパン、と激しく波を立てて沈む巨大な魚に水を掛けられながらも、わあ覚えてる、とは喜んだ。が、仲間達は皆、複雑な表情をしている。
 それもそのはずで、が《ギーちゃん》と名付けて可愛がったかつての魚の正体が、問題だった。

 厚い頑強な蒼鱗を纏い、頭の先端から尾びれの端まで鋭く尖った、巨大な魚――――もとい、水棲系のモンスター。
 水辺に生息するその種の中でも、第二位に位置する凶悪な巨大魚で、並みの冒険者では相手にすら出来ない大物だ。その生物の名を――――化石魚と云う。

 今まで直接拝んだ事は無い存在だったが、まさか、目の前のこの生物がその化石魚とは。海賊という立場上、船の上で遭うだろう脅威は基本的に頭に叩きこんでいるゲラ=ハは、妙な気分であった。化石魚とは非常に凶暴で、海に落ちて出会ったら一呑みされて成す術なくお終いなのだが……。
 今は、入江に陣取って、――エロールの子の手のひらへタッチする芸を得意げに披露している。
 そんな事をする化石魚もどうかと思うが、水棲系モンスターの上位にある存在へ芸を仕込んだだ。何故当時気付かなかったのかと彼女に問えば、「小さくて可愛かったし、化石魚の稚魚だなんて思っていなかった」という返答が戻ってきた。そうだとは思う、思うが、しかし。何か腑に落ちず、目の前の光景に呆然とする他ない。

「ギーちゃん、ドリルプレッシャー! なんちゃって――――」

 冗談混じりに言ったの言葉に従い、傷だらけな歴戦の化石魚ギーちゃんは、その尖ったドリル状の頭部で、入江の一角の岩礁をぶち抜いた。ほんの一瞬の間に、入江の形が変更される。
 ……何と言うか、目眩がする。高々と舞う海水の飛沫を浴びせられながら、ゲラ=ハは頭を抑えた。背中に張り付くアイシャが悲鳴を上げている。

「ごめんね、今クッキー無いから、水浸しの干し肉でも良い?」
「あ、あげて大丈夫なんですか……うわっ!」

 は鞄を漁り、海水を吸って膨張している干し肉を掲げる。その途端、化石魚の赤い双眸がギラリと光り、洞窟のような大きな口を開けた。何でも噛み千切れそうな鋭い牙を、豪快に剥き出して。
 アルベルトは驚いてやや退いたが、は慣れた手つきで干し肉を放り投げる。噛まずに飲み込んだ化石魚は、やはり怪獣のような咆哮を上げて、海の中を泳ぎ始めた。

「お、襲ってくる気配もないですし、不思議な感じですね……」
「うーん立派になっても可愛い、ギーちゃん」
「いや可愛くはねえけどよ」

 はニコニコと笑いながら、その場にしゃがんで腕を伸ばす。海中に腕を沈めると、その指先に化石魚の背中がすり寄った。ザリザリとした質感を宿す、分厚い鱗。この腕を噛み千切る事は、きっと今も昔も容易な事だろうに。どうしてだろうと、とて思う。
 船から海へ落とされた、つい先ほど――――この傷だらけの化石魚は、決して達を害さず、海中に集まった魔物の群れのみを一掃した。
 上から二番目に位置する水棲系の強者は、その傷だらけの歴戦の風格に相応しい力で、群がる魔物を漏れなく全て退けた。ただの一頭によってあれだけの数の魔物が倒される、或いは散り散りになって逃走する光景は、も驚き呆然としていた。その赤い目が彼女へと定まった時、次は私達かなと思ったけれど、尾びれを柔らかく動かした化石魚は、達の足元へと一度沈み込む。そして、その背で持ち上げ海面にまで引き上げた。
 正直、不思議な事ではあると思う。エロールの生み出した人間と、サルーインが造り出したモンスター。神々がそうであったように、敵対関係である事はきっと、変わらない事実だ。けれど、全てのモンスターがサルーインの手足となる事を望んではいないように、この化石魚も、その内の一頭なのだろうか、とか。むしろ人間が思う以上に、モンスターとは自由気ままなのかもしれない、とか。色々と、も考えるのだ。
 けれど。

「ギーちゃん、もしかして本当に、ワロン島にやって来る人達を守っていたの?」

 海中の化石魚は、当然何も言わない。けれど、触れるの手に牙をむく事もない。
 水の中で煌めく赤い眼は、凶暴性を匂わせながら、あの日と同じ生物の知性を浮かべていた。こぽこぽと上ってくる大きな水泡が、の手の甲を掠めてゆく。
 何であれこの化石魚は、無防備に近付いて餌を投げた少女も、ワロン島で暮らす人々も、海原を行き交う船も、襲わなかった。魔物がエロールの子を憎むというのならば、今此処に人間が立ちその身に触れていると言うのに。海中を静かに遊泳する、ただの魚のように、静かに其処へ存在している。

「なんて、ね」

 結局その心は、この化石魚にしか分からない事。は、深く考える事は止め、改めて笑みを浮かべる。

「ありがとう、ギーちゃん」

 化石魚は、海面から凶悪な顔を出すと、牙の揃う口を開けて鳴いた。あの日よりもずっと立派な、グオオオ、という怪獣のような声で。


 その後、一行は村にあるの自宅へ向かい、すっかりと海水まみれにされた衣服を乾かす事にした。その間、着るものはないので――――。

「ギーちゃん、沖に向かって全速前進!」
「キャー! 速いィィィィィ」

 村の露天で水着を買い、海遊びに耽るのであった。
 化石魚ギーちゃんの背中に跨って蒼い海原を走る、とアイシャの声が賑やかに響く。最初は怯えてゲラ=ハの背中に張り付いたままのアイシャであったが、今では楽しそうにはしゃぎ化石魚の背中を満喫している。肝の据わったタラール族の少女である。
 海風を切り、飛沫を足で蹴りながら走る感覚は、とても清々しく心地よい。旅客船にはないスリルが味わえた。

「……何だろうな、これで良いもんなのかね」
「さあ、良いんじゃないでしょうかね……」

 人気のない海岸で見守る、ジャミルとゲラ=ハも大概複雑な顔をしているが、恐らく最も複雑な心境にあるのはアルベルトだ。難攻不落の名城と謳われたイスマス城主、ルドルフ侯の息子。そして、魔物の群れによって落城したイスマスより唯一脱し、両親を失い、姉とも生き別れた、過酷な運命を背負う少年。アルベルトの目には、どの魔物も憎い敵に映っているはず、と案じて彼を窺うも。
 アルベルトは、意外だが落ち着いた表情をしていた。
 ワロン島を囲む蒼い海を、とアイシャを背負って泳ぐ、傷だらけの化石魚。憎さよりも不思議さが真っ先に浮かんできて、また仲間を批難しようとは思わない、というのが彼の言葉である。過酷な生を負いながら、彼の蒼い瞳は真っ直ぐと前を見ていた。そういう所が、アルベルトの持つ不思議な強さかもしれない。

さん、私も乗せて頂いても?」
「もちろんー! ギーちゃん、戻ってアルを乗せてあげて」

 やはり恐ろしい怪獣の鳴声を上げて、化石魚は尾びれを動かし沖から浅瀬へ戻る。「さあ乗んな」とばかりに背中を寄せた化石魚へと近付く、アルベルトの足運びはかなり恐る恐るとしていた。だが、いざその背に跨って海上を走ると、直ぐに楽しそうに笑みを浮かべた。

「……世界は広く、不思議な事ばかりです。心強い仲間を得たと思う事にしましょう」
「ゲラ=ハ、考えるの面倒になっただろ」
「さて私は昼食の魚を素潜りで取ってきます」

 海に飛び込んだゲッコ族の騎士を見送り、ジャミルは一度大きく息を吐き出すと、腰を上げた。

! 俺も乗せてくれー!」

 ジャミルも考える事を放棄すると、化石魚ギーちゃんの背に乗って楽しむ事にした。



PS2ソフト【ミンサガ】、ゲームアーカイブスおめでとう! そしてありがとう!
という思いを込めつつ、絶賛プレイ中の管理人が久しぶりに執筆。

要するに、化石魚と仲良くしたかった話です。

全雑魚モンスターの中で、堂々一位。だって倒しやすいわりに技閃き率もおいしく、終盤の技閃きラッシュには欠かせない存在と思い込んでいるので。
ミンサガのモンスター、わりと個々によって知性などがまちまちだと思います。四天王の配下は、人の言葉を喋る上にボスの言う事を守りますし、神々の部下も然り。(ウコム神の僕という人魚のマリーンとか)
というかモンスターは既にサルーインの意識から離れたところにあると思うので、自由ですよね。我らが閃き道場師範、フレイムタイラント先生も「同じモンスター同士何をしようと気にしない」と言っているし。
……なら別に、化石魚たんと仲良くしても良いですよね?!

そんな感じに、勢いだけで書き上げた化石魚ギーちゃん。調子に乗ってまた書いたりするかもしれません。


2015.05.03