恋を知った日

天界は、刻が止まった世界。ゆえに、朝夜の時刻の変化はあるとしても、空の気分が変わる事は滅多に無い。が天界にやって来た際に、驚いた事の一つに上げられる。突風が吹く事もなく、雷雨が訪れる事もなく、焼け付きそうな陽射しが差す事もない。ただ穏やかな光が満ち、白く清廉な世界が、ただただ広がるのだ。
だが、滅多にないだけで、全くないという事でもない。
実際、今現在は雨に打たれていた。桶をひっくり返した大粒の雨ではなく、霧雨のような小粒で、風が吹けばさらわれてしまうような、柔らかい雨。慈雨、と呼ぶらしい。恵みの雨という意であると知るのは後の事で、小粒だろうが甘くはない事だけはこの時に身を持って学んだ。

「ッはー……まさか、天界にも雨なんぞあるとはなあ」

びしゃり、と水を含んだ白衣に袴。まあ、こうなっては仕方ない。《速瀬》の術でも使って、家に戻るほかないだろう。タ、タ、と小走りでまっさらな大路を過ぎつつ思っていると、彼の眼前に丁度良い門が飛び込む。さしたる大きさではないが、雅な造り汚れもない。其処がどなたかの神々の住居である事は察したが、は心の中で礼をし、迷わずその軒下へ飛び込んだ。
神位云々、派閥云々の問題は、この時だけは綺麗さっぱり忘れた。
濡れた髪を掻き上げ、首筋にまとわり付いた水気を払う。衣服を絞りながら、優しくも決して甘くはない雨を見上げる。
それにしても、此処はどの神の住居だろうか。門先から中を伺うようなみっともない真似はしないものの、静かな優美さは門構えからすでに感じている。未だ天界の土地勘 ( と称して良いかは不明だが ) には頼りないとしては、覚えておきたいところでもあるが……。

などとぼんやり空を見上げていれば、閉ざされていた門が、ギイッと唐突に開かれる。
思わずギョッとなって、衣服を絞っている体勢のまま振り返ると、澄ました縹色の瞳とぶつかった。

「……何しているの、殿」

挨拶は抜かして、そう言い放ったのは、門の向こうから現れた一人の少女……否、女神だ。蓮の花の飾りで結い上げた髪と、何処か澄ました凛とする面持ちと眼差しが、を見上げる。ただ今はあからさまに訝しんでいる、と言って良いだろう。じとり、との全身を見て、女神である八葉院蓮美は「濡れるなんて馬鹿ね」と言った。笑っていない分、本当に馬鹿にされた気分だが、は大して気にもせずカラリと笑った。

「申し訳ない。急に雨に降られてな、思わず軒下へ入ってしまった」
「別に、それは構わないけど」
「蓮美殿は、これから出かけるのかな。直ぐに俺も立ち去る、気にしないでくれ」

さて、もう一度走るか、と前を見据えたを、蓮美はふっと目を細め、門を開けたまま静かに戻っていく。背を真っ直ぐにした後ろ姿をはしばし見つめて首を傾げるが、蓮美は肩越しに振り返り早口に告げる。

「来れば」
「……良いのか?」
「……元々、出かける予定なんて無いし。ただ誰か来た気配がして、見に来ただけ。貴方も、氏神でしょう……身なりくらい、気にしなよ」

物事や人の心の流れを読むに長けた、水の女神だ。口調こそはつんとしているが、を気遣っているのは明白である。は瞬きを数回繰り返した後、「感謝する」と礼をした。蓮美は慌てて前を向くと、「早く来なよ」と呟いてさっさと進んでいく。は今一度礼をすると、門をくぐり蓮美の後ろへ続いた。
門の向こうには、石を敷き詰めた小道が続いており、左右は穏やかな小川が流れている。そう長くはない小道の先には、物静かな庵が佇んでいる。水上に建てられたようで、周囲には池が満ちている。その水面には、幾つもの蓮が密やかに咲き誇り、薄桃色の花弁で埋め尽くす。花と水で彩られ浮かぶ建築物の様は、酷く幻想的であった。
しばし見惚れていると、先を行く蓮美が振り返りを促す。厳かな気分で庵へ踏み入れると、家主である蓮美はさっと中へ入り、「少し待って」と相変わらずつんとして告げる。数分と絶たない内に彼女は戻ってきて、の広い肩へと上掛けの衣を羽織らせると、其処から板の間へ上がり、客間へを通した。
はその間、珍しいものを見たような気分になっていた。

「……意外だな。蓮美殿の事だから、追い返すとばかり」

つい本音をこぼすと、蓮美の顔が明らかに不機嫌に塗り変わった。「お望みなら、今すぐにでも追い返すよ」と呟かれ、は慌てて謝ったが、彼女はプイッとそっぽを向いてしまう。

「悪かった、口が滑った」
「……殿がどう思っていたかは、今ので知った」
「怒るなよ、謝るから。な?」

視界の片隅で、謝り倒す仕草が見える。ちらり、と伺えば、《晴天王》の名を戴くに値する晴れやかな笑顔が映った。気さくで、かといって軽い口調ではなく朗らかにさせる彼の落ち着いた声に、蓮美は神とし先輩であるはずなのに恥ずかしくもなった。……いや、恥ずかしいと思ったのは、そもそもそれだけではないような気もしたが、今の彼女には分からない事である。鋭い言葉で彼とぽつりぽつりと話しながら、濡れた彼の身体を甲斐甲斐しく拭っている自身に気付いても、だ。

「いや、本当に有り難い。雨宿りをさせてもらって」
「……感謝しなさいよ」
「ああ、本当に」

鋭く言っても、はカラリと笑ってしまう。毒気を抜かれるような気さくさは、蓮美にとっても好ましい事であるはずなのに、それに対する返答はつい尖ったものになってしまう。蓮美が視線を下げている事に気付かないは、渡された手拭いで顔を拭く。その後ろで、蓮美は水を含んだ彼の衣服を、上掛けの衣でギュッと押さえ水分を吸い取っていたが、ふとその背を見上げた。
引き締まった腰部から続く、広い背。肩幅もあり、かと言って屈強と言うほど暑苦しくはない。しなやか、と表現するのだろう。
呪われた一族の当主だけでなく、一人の男として立派に鍛えられてきた事実が伺える逞しいそれに、蓮美の手はやむを得ずそれに重ねられているが、なんと自分の小さい事かと密やかに吐息を飲み込む。衣越しであるが、その体躯の感触は確かに伝わってきて、きっと自分の腕力など叶いっこないだろう。
……思えば、に触れたのはこれが初めてであった。もまた、彼女に触れられたのも初めてである。
何せ周囲は美丈夫の男神も多く、蓮美にとっては珍しい事ではないが……不意に意識して、ドクリと胸が震えた。

「――――― あ」

が、唐突に声を漏らす。
蓮美は隠し事を暴かれたような冷たさに肩を叩かれ、ビクリッと大袈裟なまでに飛び跳ねてしまった。が、が正面を向いている為それを知られる事は無く、彼の背に隠れこっそりと安堵した。
「何」普段の落ち着きをもって彼女がつんと尋ねると、は肩越しに振り返って、笑った。一滴伝った雨粒が、頬を流れて筋の浮かぶ首筋をなぞる。は再び、顔を前へ戻すと、蓮美へ告げた。

「綺麗なもんだな」

今気付いたのだが、この客間は庵の周囲を囲む池を贅沢なまでに一望出来るようで、美しい金装飾を施した襖を開けた先には、水辺の景色が広がっている。神聖な花の象徴である、薄桃色の花弁の蓮華が静かに水面を満たし、ゆったりと延びた丸い葉は大きく、雫を受け止める。薄衣のように舞い落ちる慈雨も相まって、幻想的で、かつ穏やかで優しい美しさだ。決して派手さは無く、豪奢さも無いのに、今のこの景観はどのような絢爛豪華なものを見せられても及ばない。

「貴方の名に似合う、綺麗な庭だ。俺は詩人で無いから上手くは言えないが」

は、にこやかに言う。だが、の背に触れていた蓮美の手は、ゆっくりと離れ、身体を遠ざけた。芳しくない空気の気配に、は「おや」と再度肩越しに振り返る。

「変な事を言ったか? 俺は」

だが、彼女は横顔を見せて、そうっと瞳を細める。
微かに奏でられる、降り注ぐ雨と、雨垂れの音が、近付く。舞い降りた沈黙の中で、庵の茅の香りと、穏やかな香が掠めていく。そう長くは無い時間を静寂がたなびいたが、口を閉ざしていた蓮美がそれを終わらせた事で、二人の間に会話が戻る。

「……あの花が生きられる場所、何処か分かる?」

蓮美は言い、の隣に並んだ。表情は普段の澄ました色は無く、険しさが強い。

「泥よ。泥の多い場所で、花を開かせる」

私と同じね、と彼女は呟いた。は微かに目を見開かせ、蓮美を見下ろす。

「綺麗な、早瀬のもとでは咲く事が出来ない。激しく移ろう流れに、負けてしまう。だから、綺麗な花であっても、その下には……真っ黒な泥があるのよ」

蓮美は、淡々と、抑揚無く語る。
……彼女にしては、自虐的な口調だ。少なくともが聞いてきた彼女の声は、澄み渡り、凛と揺るがないものだったが、垣間見た彼女の奥底は、さながらあの蓮華の下にあるはずの見えぬ水底に近い。

「嫌いなのか」
「……そういう訳じゃない。けど、泥まみれなの、あの花も、私も」

蓮美は呟き、再び口を閉ざした。の肩に掛けた衣に手を伸ばすと、無言のまま水を含んだ衣服を拭き取る。その仕草は、先ほどとは異なり、気落ちして弱々しい。多少は乱暴なくらいが彼女に似合うが、どうやら自分は要らぬ事を告げてしまったのかもしれない。口の上手い男であれば、此処で彼女をすんなり持ち上げる事も出来るのだろうが、生憎はさっぱりした性格。甘い言葉など、告げられる訳がない。
しばし考えたものの、良い言葉など浮かばず、だから変に繕うよりも素直に告げた方が良いと思い至る。

「人は、生まれるべくして生まれる―――これは俺の父から言われた言葉なんだがな」

は、蓮美をあえて見ずに言った。

「一族がどういった経緯で生まれたとしても、あっけなく短い人生を終えるとしても、どんな命も無駄なものじゃあないと、俺は幼い頃に教わった。その父も直ぐに死んでしまったが、その間際まで教えてもらった奥義や術より、その言葉の方が酷く印象的でな」

種絶と短命の呪い。
朱点童子討伐という宿願のもとに突き進んできた一族の者達は皆、静かに息を引き取って逝った。そうして後ろには、数多の猛者達の墓標が増え、気付けば自分たちもまた赤く染められ、妖怪や人の屍を踏み越えて居るのだ。その中には、当然も存在している。掲げられた一族の宿命の、重さゆえか。だからこそ、短すぎる生の中で、家族に何を伝え、何を残し、何を思って一日を過ごすのか。

「……もしも俺が、普通の庶民に生まれていたら。そう思った事も無かった訳ではないが、今はわりと、うん、わりと九条一族の男であって良かったと思う」

蓮美は、の後ろ首をじっと見上げていた。朗らかな声に反し、重きを背負う覚悟に似た彼の秘めた想いを垣間見る。

「まあ、つまりは、なんだ。あの蓮の花は見た目だけが綺麗であるという事ではないと、そう思うんだ」

笑ったが、蓮美へと振り返る。其処にあるのは、いつもの朗らかな男の表情であった。

「それに知っているかい。下界じゃあ仏の教えに、あの花は神聖な象徴とされているらしい」

人が持つ、数多の煩悩は泥のように重く濁っている。だが、その上に咲く白い花弁は清らかで美しく、まことの心であると。
蓮美は「だから、何よ」とやっぱりツンとして返してしまったが、の笑みが慈しむように深められ、彼女は動きを止めた。彼の心を映す、深い青の瞳は尖った心を柔らかく吸い取っていく。

「貴方と、同じだ」

急激に膨れ上がった心音に、蓮美は息が詰まりながらも顔を伏せる。彼が言おうとした事の意味を蓮美は理解し、白い肌が真っ赤に染まっていくが、彼女は「そんな訳ないじゃない」と強気に返す。だが、その声音が普段と異なり弱々しく、けれど期待に震えていた事はにも気付かれていただろう。事実、蓮美の指先は、の衣服を僅かに強く握っていたのだから。
二人の間に舞い降りた静寂に、慈雨の雨音が仄かな甘さを含んで寄り添う。優しい雨は、まだ止む事は無い。



蓮美は、普段ツンとしているけど、少し自虐的な面もあるのではないかと私は勝手に予想。自分に自信が持てない感じ。
だって交神の儀の台詞が、心に多大なる萌えを与えていくんだもの。
蓮美、可愛い。

管理人はむしろ、水の女神を愛してる。


2012.04.14