稚拙な心臓をとめて

が思うに、八葉院蓮美という女神は。
表面は気丈に振舞い、男神にも決して後れを取らぬ澄ました気迫を見せる。だがその実、生真面目で相手を気遣う性分でもあり、ゆえに相手を思うあまり強く言ってしまう事も多々ある不器用さもあって。だから、彼女はそんな自らの性分を嫌って《泥》と例える事もしてしまう。
自身にも他者にも厳しく、深い愛情の心の温かさを、底へ底へと秘めてしまって、なかなか表に出せない難儀な性格。それが、この水の女神だろう。
がその事実をようやく知るようになったのは、ごく最近の事であった。氏神となって天界に昇ってきてから、親交のあった那由多ノお雫を仲介に彼女と知り合ったけれど……まさか、が天界で暮らしていた幼少期から懸想してくれていたとは。全く、気付かなかった。
蓮美曰く、「殿が鈍くて気付いていない事はもう知っていたし、諦めていた」との事。
……その痛烈な言葉たるや、かつて槍の教えの基礎を築き上げた一族歴代当主の一柱を、一瞬にして轟沈させたほどだ。
だが、そう素っ気無く告げる蓮美の横顔は、仏頂面に澄ませているあの表情を仄かに色づかせ。の腕にぴったりと寄り添って。何処か満足そうに薄く微笑んでいた。

蓮美という女神の、表へ表れにくい温かい情を、改めて確認し。
それを一途に捧げられる天界の日々は、決してつまらないものではなかった。


蓮美は懇意の異性が出来たとて、普段の振る舞いを変化させる事はない。大雑把なの行動を厳しくチェックするし、二人きりであったとしても凛とした姿勢を崩す事もない。
ただ、そこに混じる、薫る程度の甘い笑みでも。ぎこちなく触れる指先でも。不器用げに寄りかかる身体でも。
彼女の性分を思えば、それだけでも十分過ぎるものだった。恐らく天界に居る神たちさえも、驚く事だろう。

蓮美は、近頃はのもとにも頻繁に足を運ぶようになった。以前はの方が会いに行く回数が多かったけれど、素っ気なく声をかけて縁側に腰掛ける細い背は努めて平常。けれど、言葉の少なさを埋めるほどに行動は雄弁である。
特に何か色めいた会話をするでもなく。そうして寄り添うこの静かな空間が、にとっては何よりも心穏やかにさせた。無論、この女神……蓮美も。

「さて、茶でも淹れようかな。蓮美殿」

は、立ち上がろうと片膝を立てる。それをそっと横目に見て、蓮美が相変わらずの澄ました声で呟いた。

「……たまには、私が淹れる」
「え?」
「湯と、急須の場所は? あと茶葉も」
「あ、ああ、直ぐそこの火鉢に湯を沸かしてあるし、茶葉と急須もそこに」

眼差しの強さに圧され、は思わず答える。蓮美は「そう」と短く頷くと、履き物をそっと脱ぎ、縁側より上がった。凛と伸ばした細い背に、結い上げた髪がさらりと流れ、静かな歩みに合わせ揺れる。彼女の象徴である蓮華を模した衣装は、質素な平屋造りの家屋の風景に鮮明に浮かび上がるほどに美しく、存在を際立たせる。
の前をスタスタと横切ると、縁側の横の畳部屋を窺い、火鉢の上の湯と無造作に置いてある急須を見つける。その側に腰を下ろし、衣装の裾を丁寧に広げて背筋を伸ばした。
は思い出したように立ち上がり、蓮美の正面に座った。

「蓮美殿に、そのような事を」
「別に、気にしないで。私がしたいだけ。いつも殿に、淹れて貰っているから」

素っ気なく、薄い桜色の唇は告げる。蓮美はをろくに見ず、早々に茶の支度を始めてしまったが、わざと視線を合わせないよう伏せる群青の瞳が何ともあからさまで。強がった恥じらいが明瞭だ。それと同時に、彼女が真にそうしたいという、気遣いも読み取れる。
そうか、と小さく笑うに、蓮美は何も言わない。丁寧に捲った袖から、細い腕が現れ伸びる。健康的な肌艶をしたそれは華奢で、指先まで細くしなやか、それなのに生真面目で堅実な仕草。火鉢にかけた湯を、二つ分の湯呑みに淹れて茶器を温める。その隣で、ほんのり暖かな急須に茶葉を落とし、湯を淹れ、蓋をする。正しく手順を踏み、真剣に行う指先は、香り立つ茶と豊かな茶の色にも動じない。淡々と云えば淡々、しかしその堅実さは絵になるほどの美しさだとでも思った。
の普段淹れる姿勢が、どのようなものか彼自身も己で理解はしていない。だが、少なくともこの女神の美しさには到底及ばないだろう。
質素な茶器と、質素な畳部屋か、彼女の周囲で天上の雅さを得たようでもある。

「……そんなに見ても、面白くないでしょ」

ぽつり、と。蓮美の声が呟かれていた。
正面から大の男が、それこそ珍しい光景に食い入るが如く視線を寄越していれば、さすがの彼女も気にはなるというもので。合わせないよう下げていた群青色の瞳が見上げていた。恨めしげにジトリとしているが、その一方では色濃い恥じらいもある。
は、首の後ろを不器用げに掻きながら「すまない」と笑った。

「茶を淹れるだけで、ずいぶん綺麗な景色だと思ったものだから。申し訳ない、不躾だった」
「……だから、」

蓮美の涼しげな眦が、ほんのりと桜色に染まる。

「……殿は、そういうところが嫌い」
「えッ」

狼狽える彼の前で、蓮美は湯呑みに淹れた湯を別の茶器に移して捨てる。ぱしゃり、と軽い音が響く。それから、急須の持ち手を左手で握り、そっと持ち上げる。右手の指先で急須の蓋を押さえると、ゆったりと円を描いて中身の湯を転がし、温めた湯呑みへと注ぎ口を傾けた。
立ち上る湯気に茶の豊かな香りが含まれ、のもとにも漂った。

「そ、そういう、繕わないで、率直に物を言うから……」

丁寧に淹れた茶の向こうで、蓮美の澄んだ顔ばせが、羞恥でしかめられていた。見れば急須を持つ両手も、微かに震えている。
お前はいつもざっくばらんで、女心の理解力も皆無だ――氏神として昇る前の、生前の頃、身内からよく言われた言葉。身に染みているが、思わず謝ったものの、蓮美は首を振って、急須を置いた。透き通った緑色の茶を満たした湯呑みをへと差し出し、膝の上に両手を置いた。

「べ、別に、き、嫌いだけど……き、嫌いじゃないから」

どっちなのか不明瞭ではあるが、真っ赤になった蓮美の表情を見れば、自ずから察して。
は安堵に笑みを浮かべる。「そうか」陽を浴びて少し色濃くなった肌色と、赤い髪に映える、お日様の笑顔。蓮美は不器用げに視線を逸らして、「飲みなよ」と小さく告げるしかない。

「ああ、有り難く」

は差し出された湯呑みを持ち上げ、口に運ぶ。その正面では、蓮美の 視線が強ばっていた事に、は気付かない。
何だか普段淹れる茶とは思えない豊かな香りを覚え、そっと含む。渋みもなく、スッと通ってゆく温かさにある種の感動さえ覚える。やはり淹れ方は重要らしい、と僅かなショックもあったけれど、ともかく。

「美味しい」

飾りっ気のない言葉。けれど彼が出来る最大限の賞賛。ほっと溜息を含んだ声は、柔らかく響いた。
すると、正面の蓮美の面持ちがふわりと綻ぶ。微かに、柔らかく。色づいた眦から鋭さが解け、口元に安堵の仕草があった。それはほんの一瞬ではあったけれど、の目はそれをしっかりと見留めた。

「……そう」

素っ気なく告げて、蓮美は急須を持ち上げて再び茶の準備を始める。

凛と澄まして、生真面目で。分かりづらいのに、内の情は深く、ふとした時に見せる柔らかさは正しく蓮華の花。彼女は事嫌うけれど、はその花を時折思い出す。
蓮美の神域で咲き誇る、泉の上の蓮華たち。今もきっと、純白の花弁を慎ましく咲かせているのだろう。

言葉少ない心地よい静寂の時間が、しばし流れる。二、三杯ほど茶を飲んだ後、茶器を丁寧に片付けた蓮美がふと呟いた。

「……ねえ、殿」
「うん? 何だ」
「これは別に、答えてくれなくても構わないんだけれど」

自身の膝の上へ置いた手の、指先が遊ぶように揺れている。
は首を傾げつつ、何だろうか、とその先を待つ。

「……比べる、訳じゃないけれど」
「ああ」
「……交神相手だったあの方も、お茶は淹れたの?」
「……ああ……あ?」

間の抜けた声が、から漏れた。一瞬、何を尋ねられたのか分からなかったが、正面で律儀に待つ蓮美の姿を見て「えーと」と首の後ろを掻く。

「えっと、あの方って言うと――――」
「名前は、言わなくても分かるから」
「そ、そうですか……」
「……で、どうなの」

じっと、蓮美が見つめる。群青の瞳に真剣な鋭さがある。何故そのような事を尋ねるかは分からないが、此処で曖昧に返すと痛烈に非難されるであろう事は容易に想像ついて、記憶を掘り起こす。あの女神との、交神の儀の時で良いのだろうか。

「淹れてくれた、な。うん、淹れてくれた」
「……そう、じゃあ、他には。何を、してくれたの」
「えっと、他には……」

ふむ、とは腕を組む。
……交神の儀。初めての儀式であった事と、天界に上がった事で、ガッチガチに緊張していた。正直そればかりが印象にも強いが、そんなへ茶を用意し、食事も自ら用意し、床につくまでの間ささやかな歓迎と気遣いをしてくれた女神の優しさは鮮明だ。短い一生の中での、ほんの一時の逢瀬がどれほどのものであったかは計りかねるが、義務の儀式であっても男女の甘さはあの時あったのかもしれないと、思えば言えるかもしれない。
……と、そこまで口にしてはたと意識を呼び戻す。
案の定、蓮美の顔が目の前で不機嫌にしかめられている。別に其処まで聞いていない、とでも言いたげな顔でもあるが、尖った唇はを叱りつけはしなかった。
「……そう、食事と、身支度の……」の言葉を反芻し、何かを考え込む。若干不安に駆られたは、「蓮美殿……?」と窺う。
彼女は、ぱっと顔を上げると、次いでにこう言った。

「……私も」

強ばった表情が、薄く色づく。絞り出した彼女の声と、ぎゅっと握った細い手に、さながら勇気を振り絞った仕草を見出す。

「……私も、貴方に、そうしてあげたい」

は、天界に来てから恐らく初めて。
目を真ん丸に見開き、声を失うほどに驚いてしまった。
蓮美の咎めるような声が掛けられるまで、は馬鹿みたいに硬直していた。



―――― 曰く、交神の儀の相手であった女神が行った事は、自分も行いたい。
蓮美が告げた言葉は、彼女の性格を思えば、口にはしないが稚拙で少女じみている。それこそ、恋を知ったばかりの娘子のような、あどけなさ。
いや、那由多ノお雫の文の一件でも理解したように、奥底に閉じこめた彼女の感情は、澄ました仕草からは思いも寄らないほど募り切望が滲んでいるのかもしれない。
ともかく蓮美が不意に告げた言葉は、を十二分に驚かせ事は確かである。それを見て蓮美は「無理にとは言わない」としゅんと落ち込んだけれど、同時に蓮美が感情を吐露する事も今まで少なかった事も彼は気付いて。澄ました仕草で引いた一線の向こう側、許されざる不可侵略の領域、の存在が其処に加わる事をどうやら認められたようだった。
彼はしばし考えた後、落ち込む蓮美へ首を振って見せて、ただ一言。「ありがとう」と告げた。
蓮美はそれこそ、先ほどののように驚いて、次いで整った顔ばせを染め上げる。の気持ちも、どうやら蓮美へ届いたようだった。
強ばりが解けた表情はうっすら嬉しそうにし、質素な厨房へと立った彼女の真っ直ぐな姿勢良い背は。とても、満足そうでもあった。



永遠を夢見て、不老不死の術を手に入れ、あらゆる変化を失って本当の意味でも死んだ古の人々――現在、《神》と呼ばれる彼らが暮らす天界は、同じく時が止まり全てが死んでいる。
氏神として召し上げられたとて、例外ではない。肉体を失い魂となった彼は、老齢による束縛からは解放され最盛期の頃の体力のまま、天命を全うした時の力を得たものの、天界の掟には従わざるを得ない。
暖かくもなく、寒くもなく。眠る必要もなく、休む必要もなく。腹が減る事もなく、満たされる事もなく。朝、昼、夜の変化があっても、普遍的なこの世界では直ぐにつまらなくなるのだろう。

けれど、今は。
例えそんな事情がにも課せられても、だ。
生真面目な女神が自分の為にと用意した食事は、全て味わい食べるべきである。

性格が見事に体現されたような、整った配膳に丁寧な盛り。屋敷に居た大雑把なイツ花とは正反対の、何処までも光る堅実さが逆におかしくもあったけれど、は心から笑顔を浮かべて箸を取った。
畳部屋に座り、平凡な縁側から見える庭を臨む食事。かつての、一族の屋敷の食事を思い起こさせる。少しばかり早いが、時間もちょうど、夕暮れの頃。大勢でガヤガヤとした食事で、若い者たちはおかずの取り合いも多々あって。たまにイツ花が適当に食事を作って、火の通っていない野菜が出てきた事もあった。今では、懐かしい記憶である。
ただ違ったのは、今のの隣には、水の女神が寄り添うように座している事だろう。

「懐かしいな、屋敷の頃を思い出した」

両手を合わせ礼をした後、椀を取り口へ運ぶ。あ、美味い。

「……私は、ずっと天界で見るばかりだっから、貴方たち一族の事は深くまで分からないけど。そう、思い出すの」

蓮美は呟いて、同じようにの視線を追った。

「ああ、いや、すまない」
「いいえ、別に、気にしないで」

首を振ると、高く結い上げた髪が左右に揺れる。

「私は、圧倒的に……知らないから。貴方の事も、一族の事も。だから、話してくれて構わない」

少しだけ口元を緩めて、蓮美は、を見上げていた。
彼女がわざわざこうしているのは、もしかしたらその念も、少なからずあったのだろうか。遠くで見るばかり、一族から交神の儀の申し出がない限り手出しは出来ない、あの澄ました表情の下には……どのような感情が秘められているか、未だには分からないけれど。

交神相手の女神に、まるで対抗しているような行動は。
可愛らしいものがある、と彼は思う。

口に出せば、きっと彼女は怒るだろうから言えないが。

「……さ、食べなよ。温かい内に。お腹が満たされる訳じゃ、ないけど」
「いや、満たされるよ。蓮美殿」

え、と不思議そうにした蓮美へと、は笑った。

「こんなに美味しいのを用意してもらって、満たされない訳がない」

告げると、蓮美は「馬鹿」と呟いて、顔を伏せた。
ああ、ほら、その顔。
強がって、恥ずかしさを堪えたしかめた面もちに、は一層笑う。
それでも、空になった椀に白飯を真面目によそうのだから、彼女はやはり彼女である。



蓮美さァァァん!!
嫉妬して静かな対抗心燃やす蓮美さんを、全力で愛し隊。

交神相手の女神は特に決めてないので、どうぞ皆様好きなように想像して下さいませ。皆様の、俺嫁な女神を。

次こそ、裏だな。
そろそろ蓮美さんを、夜的な意味でも愛そうか(自重しろ)

( お題借用:エナメル 様 )


2013.03.23