あの瞬間、確かに恋をしていたんだ

――――― 鳥居に浮かぶ、あやかしの狂気。
踏み入れた瞬間、は自らの得物を握る手に、力を込めた。
薄ぼんやりとした、重い大気を泳ぐ鬼火の灯りは妖しい軌跡を描いて落ちる。たなびいた残光の向こうで、この最奥の間の主の姿を見出す。
艶やかな着物を纏った、美しい女性。その美貌から既に理解出来る……豊満な肉体を持ち、きっとあらゆる慈愛すらも相手に与える事が出来るだろう、と。

……その瞳に、狂気が無ければ。
表情を、悲しみに歪ませなければ。
赤い唇で、恨み言葉を紡がなければ。
もっと言えば、彼女が《本来の姿》であれば。

抱いた想いの強さのあまりに、狐の耳と、九つの尾を持つあやかしに身を堕とした彼女は、辺り構わず激しく咽び泣いて、らに言った。

「亭主が嫌いだ! あの女が嫌いだ! 世ン中が嫌いだ! 人間が嫌いだ!
だけど……弱虫のあたしが、イッチ番嫌いだあ!!」

そう言って彼女は、自らの身を絡め取ると黒々とした業に嘆き、たちへ爪を向けた。

……かつて、信仰厚く《お稲荷御殿》と呼ばれ親しまれた神社である、鳥居千万宮。
妖怪共が跋扈するようになったその地の最奥《狐美姫の間》にて、ただ一匹で嘆く雌狐の正体は。
赤子を願って百日と一日、念願叶い捨てられていた子を拾ったものの、亭主に捨てられ首を吊った、女であった。
は不意にそれを思い出し、何と悲しい事かと思った。狐となった彼女の目には、正気を失うまでに絶望に狂った女の末路と、今もなお縛り付ける情念が滲んでいる。紅い瞳には、枯れぬ涙が溢れている。
哀れと思いながらも、は心の何処かで納得もした。何ゆえ其処まで身を堕としたかは知らぬが、そうなるには当然それだけの想いが生前にあったのだろう。亭主への想いか、拾った子への想いか、はたまた首を吊った己の浅はかさか。魂となってもなお生々しく、明白。なんと人間らしい事か。が、短命と種絶の呪いを掛けられた一族がゆえに、あまりにも短い人生だがその中で自らが成し得る事を戦いで願うそれと、ほど遠いように見えて限りなく近い。
とは言え、面倒な事を考えないのがの性分。彼は暴れ狂う雌狐を見つめ、槍を構えた。

がまだ少年で当主となる以前の、九尾吊りお紺との出会いであった。
彼女が永きに渡る業より解き放たれた時、全ての想いの根源を知る事になるが、その時はただ狂った妖怪を討たんが為にぶつかった。

それから再会したのは、再び同じく、鳥居千万宮の最奥《狐美姫の間》だった。最初と異なるのは、彼は若くして当主となり、隊を率いる長でもあった事だろう。

彼女はやはり、業に囚われていた。どうして、どうして私だけいつもこうなんだろう。彼女は嘆き、激情に叫び、瞳を濡らした。九尾吊りお紺が攻撃へと転じる直前、は静かに口を開いた。

「――――― 貴方が恨んでいるのは、一体何なのだ」

お紺のほっそりした白い手が、ぴたりと止まる。蠢いた九つの狐の尾が、ざわりざわりと地を撫でる。
「当主様ッ」隊員であり家族でもある一族の者達が非難めいた声を掛ける。も無論、それが危険であり業に囚われ正気を無くした相手へする行為とするにはあまりに不適切である事は理解していた。だがずっと、目の前のこの彼女が不思議でもあった。それは短い生を歩むの中で、確かに存在していた。
お紺は、美しい蜜茶色の髪をそっと首筋で揺らし、顔を上げる。それはとても、鳥居千万宮を鬼の住処に変えた親玉妖怪の仕草と一瞬思えないほどであったが、を見るや彼女は牙をむいた。

「あたしに同情しているつもりかい? ……止めとくれ、アンタに何が分かる、アンタなんかに!
金は失い、亭主に捨てられ、私じゃない女と消えて! アンタになんて、この惨めさ分かる訳がない!」

の声は、まともに届きそうでない事は今のでも十分に分かったが、それでも彼は槍を握り言葉を止めなかった。

「そうだな、これはきっと不愉快な同情かもしれない。貴方にしてみれば。
けれど、ほんの少しだけ、想いを抱えていく事の辛さは……分かるような気がする」

どんなに願っても、続かない命の短さ。幼い頃に九条一族の屋敷にやって来たその日から、すでに感じていた死の気配。あれは、を何度も苛んだ。
だがは、カラリと笑って、そう言ってみた。お紺の血が滲むような眼差しに、微かな穏やかさなど欠片もない。けれど彼女は、九尾の狐の姿で、の前に攻撃をせず鎮座している。

「何だろうな、俺は口が上手くはないが、決められた出来事もそうでない出来事も、向かう先は結局自分の足次第であるから」
「あたしに、説教のつもりかい」
「いや、俺はそこまで生きていないし、大層な人間ではない。これは、ただの若造の戯言だ。そう、貴方の人生の半分も生きていない、若造の。
だから、笑い事として覚えていてくれないか」

は、にこりと笑う。毒気を抜く、それでいて気さくで朗らかな笑顔が、お紺の前に表れる。

「貴方の抱えたものを知りたくなった、若造の……九条一族が当主、九条の些細な言葉だと」

お紺の瞳が、明らかに見開かれた。妖気渦巻く《狐美姫の間》に、一瞬の静けさが訪れる。の疚しさの無い眼差しが、その時確かに、お紺に正気を戻した。だが直ぐに、彼女の心に生前の感情が舞い戻り、目の前が赤く滲んでいく。

「アンタに……分かる訳がない、みんなみんな、死ねば良い! あたし以外のものなんて、みんな、みんな不幸になれば良いのよお!!」

ざわり、と九つの尾と、耳が、毛を逆立てて蠢いた。
をそれを見つめて、握った槍を静かに構えた。

「けれど、今はこれしかないな。……九尾吊りお紺殿、いざ勝負!!」

再び、飛び散った戦いの火花。けれど、戦いの間、の眼差しは何度もお紺の瞳とぶつかった。狂気と、嘆きと、憎悪の複雑に混ざり合った赤い瞳。けれどその僅かなところで、お紺の生前の穏やかさが……ほんの微かに、見えたような気がした。

鳥居千万宮の最奥で響いた狐の声は、果たしてどのように聞こえただろう。



九尾吊りお紺は、最高に綺麗だと思う。
敵グラフィックでも、あの美しさは反則だろうに。
何であんなに綺麗な人を捨てたんだい、亭主よォォォォォ!!
俺が貰いたい。

( お題借用:ジャベリン 様 )


2012.04.16