例え少女の約束事でも

女神が、見えた。
とても美しい金色の狐の姿をした、女神が。

藍色に染まった何の変哲もない寝室に、開け放たれた襖の向こうより月光が指す。柔らかく、けれど目映い銀色の光。厳かなそれをほっそりした背に受け止めている女神もまた、金色の目映さを纏っている。月光に照らされた、その艶のある髪の何と美しい事か。艶やかな紫紺色の着物を纏う身体の、豊満な事か。は見つめ、自分も大概男だなと一人笑う。
目の前の女神は、そんな浅ましさを一切浮かべていないというのに。

しばしぼんやりと見上げていたの前で、その女神は狐耳を微かに垂れ下げ、囁いた。

「……嘘つきだね、アンタも」

カナカナ、と鈴虫の声のささやかな歌声にも映える、静けさ。
女神の唇の端は、切なく強張っている。は、布団に横たえた身体を、ゆっくりと緩慢に起き上がらせる。鈍い、痛みのような重さが全身にまとわりついて、先陣を切って妖怪どもを斬り伏せた血気盛んさはもう無い。
開け放たれた襖を踏み越えると、女神はの側に歩み寄った。しずしずと膝をつくと、の背へ腕を回し支えた。

「……下界に関わる事は、御法度なんじゃあ無かったのかい。九尾吊りお紺殿」

は笑って尋ねる。
「元は人間のあたしだよ、神様の掟なんて知るもんかい」そう告げた、狐の女神……九尾吊りお紺に、は笑い声を上げた。そして、隣に寄り添った彼女へと、顔を向ける。

「あの場所から、解放されて良かった」

鳥居千万宮の、最奥《狐美姫の間》で嘆く狂乱の雌狐。九条一族の討伐隊が、それを見事解放し天界へ昇華したという吉報に、他ならぬが何よりも喜んだものだ。
狂わんばかりに世を妬み、恨んだ九尾の雌狐の瞳には、彼女本来の母性が浮かび。
艶やかな着物に包まれた身体は、あやかしの気配を浄化され土の女神の包容力が薄絹のように纏われている。
何より、かつての優しい美貌を取戻した彼女は、何と見目麗しい事か。
自分が出来なんだ願いを、一族のものはよく果たしてくれた。本当に。
だが、その本人はあまり芳しくなく、口を閉ざしている。

「……あたしは、アンタに解放されたかったよ」

は、苦く笑った。「すまない、俺もそうしたかったんだが」と、彼はそう明るく言ってみた。お紺も、既に彼の状態を理解しており、だからこそ、それ以上言わなかった。

かつて、幾度も九尾吊りお紺のもとへ向かい、戦った槍使いの当主。
だが今は、もう当時の若さは無く、討伐隊に加わる事無く屋敷にて待機し、一族の子どもたちに教えを学ばせたり、討伐隊を見送る事が多い。その理由など、考えるまでもないだろう。
の身に、短命の呪い故の老いる時期が訪れようとしていた。
彼自身が、理解している。もう、長くはないという、日々色濃く感じさせる避けられぬ一族の予兆を。

「もうちょっと若ければ、行けたんだけどなあ。はは……鬼朱点討伐と、その後の対応で、頑張り過ぎたみたいだ」

――――― 宿願を果たすべく、大江山の朱点童子を討ち取った直後の事だ。
鬼の肉体に封じられていた、真の朱点童子たる《彼》が現れ、京の都周辺はいよいよ地獄絵図と化した。より強敵となった妖怪どもを食い止めるべく、奮戦したたちであったが、襲い掛かる厳しい逆風を守り抜く為立ち向かった代償として。

その命を、削る事になった。

……後悔は、ない。

けれど。

「……馬鹿だねえ」

お紺は静かに笑い、の背を支える細腕へ力を僅かに込める。

「あたしの事を知りたいなんて、大口叩いた坊やのくせにさ。もう、悟ったみたいな顔しちゃって。早すぎるよ」
「面目ない。俺もそう思っていたところだ」

の笑みは、あの時のままであったが。
その面持ちに滲む力無さは、隠しようがない。
お紺は、広い背を撫で、呟く。

「……知らないまま、あたしを置いていく気かい」

静けさが、押し寄せる。まるで、責めるようなそれに、はすうっと青い瞳を細めた。
後悔はない、だが、解放されて生前の穏やかさを取り戻した彼女と言葉を交わす事も、もう少ないとは。
短命の呪い、か。何とも面倒なものを掛けてくれたものだ、あの男。
朱点童子への恨みだけでなく、自らの不甲斐なさ。少なからず、それもに存在していた。
お紺の、紅で彩られたほっそりした指先が、布団に置かれたの手に重ねられる。手遊びするように、お紺の指との武骨な指が静かに絡む。

「……ねえ」
「ん? 何だ」
「……交神の儀」

意図せず言われた言葉に、は僅かに目を見開いた。
お紺は、美しい顔をの広い肩に擦り寄せ、頬を乗せる。少女には無い艶やかな仕草に、の背が微かに震える。

「子どもを残す、唯一の儀式なんだってねえ。神と交わり、より強い子を残す。一ヶ月を、天界で過ごすしきたりとか」

甘い言葉を囁くように、お紺はそう言う。
交神の儀―――――それはだけでなく一族の責務でもあり、承知の事だが、それをこの時に言うのは……。

「……天界においでな、
「お紺殿」
「あたしが母親じゃあ、不満かもしれないけどさ」

それとも、こんな小母さん相手じゃあ気が乗らないかい。
冗談っぽく笑っていたが、お紺の瞳は真摯にを見上げていた。その妖艶な眼差しの中に、彼女が人知れず下界に降りての前に現れてきた理由も、垣間見た気がした。
は、しばし口を薄く開いて押し黙っていたが、ふっと笑みをお紺に返し、コツリと額を彼女の頭の天辺に重ねた。金色の狐の耳が、の顎を柔らかく撫でる。

「俺から言わないんじゃあ、なかなか格好が付かないじゃないか」
「ふふ、年上の特権だよ」

お紺は笑っていたが、そうやって言い合える事も、もう残り少ないのだと分かっている。だから、彼が別の女神のもとへ向かう前に願い出た。
辺り構わず狂っていた頃、自分を知りたいと言った若造の言葉……あの時確かにお紺は、一時ばかりでも正気を取り戻していた。その男の為に自ら願い出る事、例え最高神がお怒りになろうが構う事ではないのだ。
その中に、一族への恩義、はたまた同情心も含まれているが、少なくとも今の彼女にとっては―――――。

「ね、おいでな。あたしの所に」

お紺の眼差しが、獅郎へと注がれる。月光に淡く照らされた金色の髪と、年齢と共に増した女性の艶やかな笑み。生前のお紺のものだけでなく、その頬に浮かぶほんのりと帯びた桜色を、獅郎は見つける。二人の間に、静寂が訪れるが、笑みをこぼすように吐き出された獅郎の吐息が響く。

「……近い内に、必ず。貴方のところへ向かうさ」

の視界に映らぬところで、お紺は甘く微笑む。
寄り添った二人に降り注いだ月光が、藍色の雲に遮られると同時に、彼女は天界へと戻っていった。

その後、現一族当主のは時期を計り、交神の儀を執り行う事になった。
果たせなかった約束を、叶えるように。
彼は、迷う事無く九尾吊りお紺の名を出し、彼女の元へと向かった。
天上の世界で出迎えたお紺は、コンコンと冗談めいて笑いながら、今度はちゃんと来てくれたねと囁いた。



九尾吊りお紺さんはクソ綺麗だと思う。
大切な事なので、何度でも言う。

そのまま裏に繋げても良かったのですが、それは別の話で。
でもお紺さん相手とか、年上だから女性ユーザーよりも男性ユーザーの方が喜ぶ感じになりそうですね。需要はないかもだけど、好きだから書く。

いえ、私は人妻も大好きでけどね? ( 黙れ )


2012.04.29