許される限りの祈りを捧げる

温かい、心穏やかになる心地良さ。小春日和のようだと、思った。
質素な茅葺屋根の平屋造りが、天界にありて不思議な温もりで満たされていく。取り立てて珍しいものが見える縁側ではないが、何気なく芽吹いている野花が今はお紺の世界を何よりも美しく彩っている。
金色の狐の耳と九つの尾を持った、美しい狐の女神―――九尾吊りお紺は、無造作ながら優美な色香を浮かべ、ゆったり腰掛けていた。紫苑色の着物に身を包んだ彼女の腕の中に、宝物のように抱えた大切な存在が眠っている。

「よしよし、良い子」

丸い額に印を持った、ふわふわの柔らかい赤ん坊。
お紺の豊満な胸に寄りかかり、とっぷりと眠っている。誰に似たものか、食欲あり、寝つきも良く、それでいて困らせる事をしない男 ( おのこ ) であった。
つい数日前に生まれたばかりであるのに、もう首がしっかりと据わってきている。九条一族の屋敷の世話全般を手伝うイツ花という少女の話では、二ヵ月後にはもう下界へ行くそうだ。こうやって抱く期間すらも短いと思うと寂しいが、それに勝る幸福感と責任感がお紺を押していた。
あやしながら見下ろす赤ん坊に、男の面影がある。お紺をかの地より解放した者であり、一族の当主、そしてお紺の願いを聞き入れ老いた身でありながら天界にやって来た男。
お紺とて、初めて挑んだ交神の儀であった。行う事は男女の交わりであっても、神と九条一族にとっては意味が違う。愛しさだけでなく、命を繋ぐ重要な儀式なのだ。とはいえ、その一ヶ月、悦楽に濡れた日々であったのは間違いが無い。あやかしに身を落としていた期間が長かった為に、久方ぶりに男に抱かれてついあれこれとせがんでしまった。それでも、あの男はお紺のしたいようにさせて、応えた。外見に比べ、既に肉体の年齢は老いているというのに。

それでもお紺に応えたのは、もう自らが長くないと悟った事と、その命を繋ぐため、なのだろう。

――――― 二度も命を無下に扱った愚か者には、眩しすぎると思った。

呪われた生涯を、妖怪と一族の血の海に全て捧げた生き方が、尊いと、素晴らしいと、容易く口にするわけではない。
……けれど、少なくとも、自らの子と思って拾った赤ん坊を絞め殺し、自身も首を吊った女が、彼の必死な生き方を否定出来るわけがない。

「黄川人……」

腕に抱いた赤ん坊と、自ら絞め殺した赤ん坊の、面影が重なり合う。どちらも赤い髪だからか、お紺の眉が切なく歪んだ。
決して、彼にはもう伝わる事のない悔恨の念。それでも、今もお紺の胸にしがみついて、責め立てる。何故あの時、あの子を殺したのだろう、あの子と生きていく事が出来なかったのだろう、と。
そしてそれが、お紺を鳥居千万宮の最奥の地へ縛り付けていた、最たる根源であった。

許して欲しかった。あの子に。

高位の土の女神へと、魂を昇華した今でも、そう願ってしまう。

「あぅ……」

舌ったらずな幼い声に、お紺はハッとなった。腕の中でとっぷり眠っていた赤ん坊が、目を開いている。ぽやん、と眠そうではあるが、お紺の気質を継いだ琥珀色の瞳が、母たる彼女を見上げている。

「起きたのかい? 随分と、眠っていたねえ」

微笑みながら、揺り篭のようにゆったりと腕を揺らす。
ふにゃ、と笑った赤ん坊には、父親である男と同じ邪気の無さが輝いている。


――――― 貴方は、あやかしに身を落とすほどに、亭主を愛して、子を愛した。
その愛が、今度は貴方の首を絞めぬよう、あって欲しい。
どうか俺と、俺の子を、宜しくお願い申し上げる。


交神の儀の一ヶ月、男はお紺にそう言っていた。同情でもなく、憐憫でもなく、ただ真に願って。
嬉しかった、かつてあやかしになっていた愚かな女を、信じてくれている事が。
けれど、業から解き放たれたお紺は、それに甘える事はない。

ならば私も、貴方の想いに応えよう。この子を二ヶ月の間大切に預かって、育て、教え、男のもとへ向かわせよう。
黄川人を拾った時に出来なかった事、それだけでなく男の一族の為に、お紺は神の立場を超えてそう心に決めた。

赤ん坊に食事をさせて落ち着いた後、彼女は質素な茅葺屋根の平屋を離れた。きょとりとした赤ん坊を抱きかかえたまま、彼女が向かった先は、《天橋立 ( あまのはしだて )》であった。
叢雲が満ちた場所で、さながら天上の雲の川のよう。その景色はもちろん美しいと言う他ないが、視界を美しく彩るのがこの地の役目ではない。真の役目は、この《叢雲》にある。
お紺は叢雲のその縁へしゃがみ、そっと覗いた。赤ん坊を大切に抱えて、紫苑色の袖を伸ばす。これは、他の神より聞いた事だが、こうして雲を払うと、その水面にある風景を映し出すらしい。
お紺の細い手が、静かな心で雲を払う。ふう、とたおやかに吹きかけた吐息に合わせ、叢雲が敬意を示すように流れてゆく。
その次の瞬間、叢雲の水面が透き通り、鏡のように輝くと、其処へ徐々に景色が浮かび上がった。

最初に飛び込んだのは、緑だった。若草の瑞々しい色彩で、それを揺らす風には芽吹いたばかりの花の香も含まれているように見える。
大きな屋敷の、広い庭先の光景のようで、真新しい葉を纏った樹木のもとで幼い少年と少女が、剣と槌を振るっている。不恰好ながら、一生懸命で微笑ましくもある。
お紺はしばし見つめた後、視線を動かす。そして、目的のもの―――人物を、見つけた。
縁側にて、肩に着物を羽織らせて座った、男性だ。少年と少女を見守りながら、時折何かを告げている。声は聞こえないが、恐らく指導しているのだろう。やや病弱な気配、けれどそれに勝るどっしりと構えた様は誰よりも存在感がある。

お紺は、ほうっと見つめた。細めた瞳が、穏やかに笑みを湛える。

「……見えるかい? 坊や」

あぶ、と声を上げて、腕に抱えた赤ん坊はお紺を見上げる。
まだ分からないかもしれないけれど、お紺は赤ん坊をやや傾け、下界を映し出す水面を覗かせた。赤ん坊はそれを不思議そうに見つめて、パタパタと腕を揺らしている。

「ふふ……あれが、坊やのお父さんだよ。素敵な人だろう?」

言いながら、お紺の胸も酷く熱を帯びる。
この子の父親であり、自分との間に子を残した男。
赤ん坊も、分かっているのだろうか。映し出された赤髪の男を、嬉しそうに見つめており、上機嫌に声を出している。

「坊や、大きくなったら、お父さんのところに行くんだよ。あたしの事、全部許してくれたあの人のところへ」

くすぐるように赤ん坊の頬を指先で撫でると、身を捩って明るく笑う。
……そう、この子はあの男との子であって、亭主を繋ぐための道具でもないし、黄川人の代わりでもない。
九条一族という、呪われながらも短い生を必死に突き進む者たちの血を引き、そしてこの子も必死に生きていく、悲しくも激しい定めを受けでいる。
二度も命を無下に扱った自分を、一族の血の中に加わる事を許してくれた……あの男のように。きっと。

誰かの為と、生前そうしていたお紺の愚かな優しさ。けれど業から解き放たれた今は、優しさに強かさも加わり、一層美しい女神となっていた。
そしてそれは、他ならぬあの男と、この赤ん坊の存在が、背を押している。

……あたしは、今度こそ《母親》になるよ。アンタに恥じない、女として―――――」

愛した男と、同じくらい愛した赤ん坊の為。
お紺の美しい横顔に決意が秘められた瞬間、縁側に座っている男―――が不意に天を仰ぎ、下界を見下ろすお紺の視線を見つめ返した。



一族きっての槍使い、
彼はその生涯、多くの妖怪と堕ちた神と戦ってきたが、その中でもっとも多く戦ったというのが、鳥居千万宮の親玉である九尾吊りお紺だったという。
業を解き放って天に昇った彼女との間に、は一人の男子をもうける。後に彼は、父と同じ槍使いとなり、が築いた槍の技術を早くに会得し、父が成せなかった事を遂げた。
けれど、父譲りの性格と、母譲りの穏やかさから、特に幼い一族の子ども達から人気の、朗らかな当主であったという。

そんな彼の好物であったものは、きつねうどんであったとか。
母である神に、よく似た結果でもあろうと一族の者は語る。



お紺は、神となって天界に昇った後は、生前の痛苦を乗り越えて一層綺麗な人になると嬉しいな、という願いから。
主に管理人の願望である。俺屍は、まさにロマンスの塊。

お紺を解放した後は奉納点もギリギリあるし、次の交神の儀にも余裕あったから、その時の当主でしかも討伐隊にも居た男を婿に出したという無理をした実話が……(笑)
おかげで素敵なロマンスが生まれたありがとう。

( お題借用:Lump 様 )


2012.07.27