さよならはゆっくりしよう

庶民が暮らす質素な平屋造りの家屋に、斜陽の陰った光が寄り添う。色濃くなる影法師は伸び、空気にしんとした静けさが宿る。
生前、下界でも見ていた覚えある平凡な佇まいが、天界に座す神の住居であるなどと、きっと誰も想像しない。だが、過ごす神の本質と心を表す神域の、夕焼けに染まった侘しいこの光景は。正しく、今の【彼女】の心の内なのだろう。綺麗で、優しく、それでいて切なくなる。理由は、分かっていた。
ほんの僅かに表情を曇らせ、はその民家の戸を叩く。返事は、やはりない。入り口から入るのは止め、庭先へ回った。はたしてそこに、彼女は居た。取り立てて見事な花が咲いているわけでもない、彼女にとっては見慣れた質素な庭を、縁側に座ってぼんやりと眺めている。慈愛を湛えている二つの眼は、今は宙を見上げ。此処は天上の地であるのに、遙か遠くへ想いを馳せているのか。柱に寄りかかり横座りするその姿は、豊かな肉体を持ちながら酷く朧気。床板に広がった紫の着物の様もあり、女の儚い頼りなさが纏われていた。肩を滑り背に流れる、薄茶色に近い金の長い髪も、時折風に無防備に揺れる。まるで、そのまま攫われてしまいそうな、毛先の動きだった。
は息を飲み込み、眉を寄せる。あの姿から、はっきりと確信は得た。自分が伝えるよりも一足早く、彼女の耳へ入ったらしい。一応、覚悟は決めてきたのだが……改めて口にするのも憚れる横顔に、はたじろぐ。
「……お紺殿」意を決してが呼びかけると、彼女の肩が一度小さく揺れ、そしてをゆっくり見つめた。花の装飾もあしらったかんざしが、シャラリ、と小さく鳴る。
紅を差したまなじりが、いつもより赤い。夕焼けのせいだけでは、ないのだろう。さすがの大雑把なとて、よく理解する。

「ああ、かい……ごめんよ、気付かなくて」

寛容と忍耐の、土の女神――九尾吊りお紺は、微かに微笑んだ。が、覆いかぶさる翳りの方が強く、無理に笑った痛々しさもある。
よりもずっと年上の、年齢を重ねて妖艶さも匂わす美しい女性だが、今は何だか……少女のようにも見えた。は知らず知らず、息を吐く。
お紺はぎこちなく姿勢を直すと、「お座りよ」と自らの隣を指し示す。は礼をし、足を進めた。彼女の左隣に腰掛けると、縁側の床板が軋み音を立てる。
用があったはずなのに、それを口にする事は今更出来なくなって。は、膝の上で両手を握り締めて、黙りこくってしまった。
だが、お紺はひっそりした声で、囁くようにふとこぼす。

「……逝っちまったねえ、あの子」

重く、それでいて風に消えてしまいそうな声音。
は、お紺へと顔を向け、見下ろす。力なく下がった狐の耳が、視界の片隅で時折震える。
もっと上手い事も言えただろうに、はただ「ああ」としか返せなかった。

「誰かから、聞いたのか」

尋ねると、お紺は緩やかに首を振る。

「聞かなくても、分かるよ。あたしは、あの子の母親だ」

天を仰ぐ。顰めた横顔は、母親そのものだった。
は、膝上の握り拳を解く。右腕を上げ、お紺へと伸ばした。手のひらを重ねた肩は普段以上に頼りなく、引き寄せると呆気なくへと凭れ掛かった。しかと抱きしめると、彼女も片頬を摺り寄せて身を預けた。


――――二年と数ヶ月だけの、天命だった。
あまりに短すぎる、我が子の寿命。しかしそれが、九条一族――朱点童子を討つ為に生まれた第三の朱点童子一族の、決して抗えない定めである。
も、生前そうであったように。
一族の者たちは、始祖も、先祖も、末裔も、皆朱点童子を倒すその日の為に僅か二年余りの短い生を全うし、礎を築き、屍となってゆく。きっと、未来はもっと真っ赤な道筋が作られるのだろうと、一族歴代当主のは予感している。
多くの一族たちと同じく、とお紺の間に生まれたただ一人の男子にも、等しくその掟が課せられていた。母親であるお紺のもとでたった二ヶ月だけ過ごして、天界から下界の屋敷へ来た時、父親のは既に寿命を迎えようとする間際。それでもなお短すぎる生にしがみ付き、薬で死期を騙し騙して槍の教えを全て伝えた。我が子が初陣を迎えると同時に、はその役目を終えて氏神となった。
それからの後の事は、天界から様子を見るだけでしか知らない。呪いめいた当主の指輪をはめて、あの子は多くの妖怪討伐をし、迷宮の奥で捕らえられた神を解放したが、それはあの子が望んでした事なのか。床に臥せて最期を迎えるまで、あの子は何を想っていたのか。には分からないし、お紺とて分からない事だ。

が氏神となって、もしかしたらあの子も氏神となるかと淡く期待もしたが。魂は、二人のもとではなく、来世へと導かれた。

そして我が子もはめた呪いの指輪は、次の当主へ、そしてさらに次の当主へ、渡されるのだ。

止まってはいられない、それが九条一族の短命の掟だ。
けれど、悲しみの念まで妖怪どもの骸の中に放り投げた……わけではないのだ。


「……あの子は、ちゃんと自分なりの、短い人生歩けたのかね。捨てないで、最期まで、生きていけたのかね」

美しい、狐の女神。けれど生前は、自らの子と思って拾った赤ん坊の首を絞めて殺し、挙げ句自らも首を吊って死んだ女。
鳥居千万宮の最奥で狂おしく嘆き悲しんだ雌狐は、天界に昇った今も過ちを懺悔している。どの口でほざくかと、誰かがそしるかもしれない。けれどは、ちゃんとくみ取っている。彼女は自らの過去が、我が子にも乗り移っていないか、不安なのだ。
は、絶対的な自信をもって頷けはしない。だが、少なくとも、あの子は母親の強かな姿を覚えていたし、彼の短い人生は……きちんと、全う出来ていたはずだ。

「俺たちは、あいつが懸命に戦うのを見守って、ほんの少しだけしか手伝えなかった」
「そうだね……」
「だが、それでも、あいつは自分なりに頑張って、満足して死んだみたいだ」

凭れ掛かったお紺の顔が、え、と呟いて上がった。赤いまなじりに、微かな困惑がある。

「あいつの、最期の言葉――屋敷の世話係のイツ花から、聞いてきて、それも伝えようと思っていた」

お紺の瞳が、揺れ動く。聞くのが恐ろしい、と言わんばかりに。妖艶な唇は震えて、はっきりとした言葉を紡げないでいる。だが、しばらくそうしてうろたえた後、呼吸を整えての目を見つめ返した。それを見ては、一つ頷き、ゆっくりと我が子の最期の言葉を告げた。

「『先代と母上の間に生まれた事、この家に生まれた事、恨んだ事は一度もなかった……本当サ』……と、言い残したそうだ」

――――その時。

お紺の瞳から、ぽたり、と雫が落ちた。静かに、それでいて笑みの混じった、涙であった。陽の光の恵みを受けた肌色の頬に、その軌跡が伝ってゆく。

「そう、あの子……そんな事、言ったのかい」

ぽろぽろ、ぽろぽろ。泣きながら、お紺の声は安堵に満ちていた。
はお紺の肩を撫で、上半身を彼女へと向ける。空いていたもう片方の腕も伸ばすと、今度はしっかりと両腕で包んだ。お紺の身体は、着物の上からも分かるほどに細く、豊かな肉付きをしている。成熟した、妖艶な体躯。それが今は、少女のようにの胸へと縋りついた。の背を掻き掴み、全身を預けて、その心を彼に伝える。
上下するお紺の両肩を抱き込んで、は自らの顔をお紺のそれへと寄せた。ひたり、と触れたお紺の頬は、塩辛く濡れていた。

「お腹を痛めて、生んだわけじゃない。だけどあたしは、あんたの子だと、あたしの子だと、思っていた」
「ああ」
「もっと、してあげたい事は一杯、あったんだよ」
「ああ」
「……あたしは、ちゃんと、あの子の母親で居られたかねえ……」

涙で歪んだ、掠れたお紺の声。は、僅かとも隙間を作らぬよう、強く抱きすくめた。

世間一般の母親のように、腹を痛め死を覚悟しながら子を生んだわけではない。
成長を見届け、老いて、子どもに見送られる普通の家族の結末さえ、迎えられるわけではない。

それでも。

儀式の中で命を願って、とお紺は心を重ねて、一人の子をもうけた。
その子を抱きしめた二ヶ月の間、お紺は二度とあの愚かな過ちを繰り返さないよう本当の母親になる事を選び。
その子がやってきて初陣を迎えるまでの間、は一族当主として、父親として、伝えるべき事は伝えた。

だから。

「――――ああ」

は、ただ頷いた。

お紺の肩はようやく弛緩し、そして蓋となっていたものが全て消えてなくなった事で、微かな嗚咽を漏らし始めた。
は彼女が落ち着くまで抱きしめ、そして自らも、涙をこぼした。


気付けば、九尾吊りお紺の神域と住居に寄りかかった、切ない夕焼けが、余韻を残したまま影ってゆく。いつの間にか藍色に染まった世界は、やはりしんとした静けさがあり、お紺の涙を彷彿させる哀愁の星が瞬いた気配がした。
何をするでもなく、とお紺は互いの身体を抱きしめて子どもへの想いに耽った。悲しみを全て吐き出した為か、今は双方ともに落ち着いている。そして二人の胸に残ったのは、せめて来世に生まれ変わった子どもが、今度は平凡な一生を送って欲しいという、ささやかな願いであった。

その姿は、一組の夫と妻であり。

一人の子の、父親と母親であっただろう。



一度は書きたかった話。
親が氏神になっても、その子も氏神になれるとは限らない。

黄川人の首を絞めたとはいえ、お紺さんがずっと鳥居千万宮の奥で親玉になっていたのは、黄川人への謝罪の念によるものと思ってます。
(朱の首輪解放時、彼に向けたあの言葉がその証拠か)
天界へ昇った後、彼女は本当の母親になったと思う。お紺さんは例え女神になっても、もっと幸せになるべき。
そう思う管理人です。

そして亭主の顔を、一度と言わず二度ぶってやりたい。

(お題借用:エナメル様)

2013.06.18