天使の似姿、獣の本性

大嫌いな女のいる天界は、相も変わらず詰まらなかった。
寒くはないが暖かくもなく。腹が空くわけではないが、満たされることもなく。
禍々しい炎が埋め尽くす、名に相応しい《紅蓮の祠》で呪い事を呟いていた方が、よっぽど楽しかった。亡者と妖怪が跋扈する大地は赤く、足元は紅く、空気は燃え、見るもの全てが紅蓮に飲み込まれる様はまさにその名に相応しく生々しく素晴らしかった。
自分の性に合っていたのは、こんな世界ではない。

……はずだった、のだが。

( ……陽だまり、みたい )

ほっそりとした腰にまで届く、豊かな艶のある赤い髪が、陽気に満ちる木漏れ日に照らされる。かつては、紅蓮の炎に燃え盛っていたそれも形無しで、頭の天辺で揺れた猫の耳が、しなだれるように緩く力を抜く。

雌猫の神だけあって、彼女の容姿は白猫と人の、いわゆる半獣半人のもので、鼻は少し桜色で、ヒゲがピンッと伸びている。ほっそりした身体に纏った紅蓮模様の白の着物から、覗いた白い手も獣のそれで、赤い尻尾もそのものだ。
けれど、猫の特徴も含んでいる為か、身体は細くすんなりとしており、翡翠色の瞳はぱっちりとし何処か悪戯な妖艶さすらある。それを自身も知っているのだろう、仕草は恐らく容易に男を誑かすほど、色の混ざったものだ。
天界でも、高位の地位にある火の女神――赤猫お夏。
かつて、太照天昼子を気に入らないが為に火を放って、罰として天界を追われた彼女だが、《紅蓮の祠》より解放された今はその悪さをする様子は……ないとは、言えない。

だが、少なくともこの瞬間は、その嫉妬深さや同姓への辛辣さは微塵も無いだろう。
何て事はない、平民の暮らしに見られる簡素な平屋造りの家屋の側の庭で、すっかりくつろいでいた。特に手入れをしている訳ではない、けれど立派な大樹の下でごろりと転がっている彼女を見て、あれが火遊びが過ぎた女神かと思うところだ。

そよそよと、時折頬を撫でる風。
優しく降りてくる、木漏れ日。

お夏は、こんなはずじゃ無かったんだがと思いつつ、身体の下に敷いた布をいじる。
よいせ、と横たえた身体を起こして横座りになると、お夏の頭上に影が掛かる。

「待たせた、お夏殿。お茶を用意した」

出たな、元凶。
などと、お夏は勝手に現れた人物のせいにしながらも、「本当にね」と悪態をついてみせる。少女の可愛らしい声で厳しい言葉を呟いているものの、その語尾は妙に柔らかい。

「あたしを待たせるなんて、良い度胸じゃないか」
「すまない、あまり熱いお茶では申し訳ないだろうと思って」
「あたしを舐めてんの?」

じとり、と見上げると、お夏の横にその人物がしゃがんだ。
二十代前半、あるいは半ばの精悍な顔立ちの男性で、少し焼けた肌色をした頬には、からりとした笑みが浮かんでいる。お夏の鮮やかな赤い髪と同じ赤髪を持っているが、彼女と比べれば穏やかで茶色っぽさも混じっており、例えるならば蘇芳色に近い。
お夏とタイプは違えど目立つ容姿であるが、その瞳は……青く、澄んでいる。さっぱりとした気質が既にその眼差しからも窺えて、お夏の悪戯さなど容易く受け流されてしまう。
それが、また何とも言えない苛立ちを覚えたが、お夏の前にほんのりと温かい湯飲みが差し出されて、文句には繋がらない。

「どうぞ、お夏殿」

お夏は鼻を小さく鳴らし、半ば奪い取るように受け取った。湯飲みの縁へ口を付け、こくんと飲み込む。もっと腹立たしい事に、本当に丁度良い温度で喉を下った。

「……悪くはないよ」
「それは何よりだ」

にこり、と男が笑う。邪気のない、それでいて下品さの無い仕草で。

……文句の一つも、言ってやろうと思ったのに。

お夏は、ふうっと息を吐き出すと、背にあった樹木の幹に寄りかかる。
男も、同じように腰を下ろすと、用意していた自らの分の茶を口に含んだ。

……《紅蓮の祠》からお夏を解放した、ある人間の一族。それが、太照天昼子が描いた、朱点童子を討つ為の最終兵器の、第三の朱点童子である事は容易に分かった。もともと、太照天昼子の計画をおじゃんにしてやろうとしたのはこの赤猫お夏本人で、朱点童子一族が種絶と短命の呪いをかけられたのは彼女が片棒を担いでいるのだから、知っていて当然だ。
だがその一族の強さときたら、朱点童子を討つ為に地獄巡りをしているだけはあり、お夏は何度も敗れ業を絶たれてしまった。
その時、部隊にいたある槍使いの人間が、こう言った。この力は、代々命を繋いでくれた先代たちの想い、そして願い、教えだと。特に、お夏を苦しめた槍使いのその人間は、一族の数代前の当主の見本があったから、此処まで来れたと告げた。
その当主は、当然その頃には他界し短い命を全うしている事は言わずもがな。けれど、その魂は天界に導かれ、氏神となったと聞いた時、お夏は思った。
あんな面白くもない天界に戻される文句の一つ、そいつに言ってやろう、と。
そうして舞い戻ってきた天界で、彼女は直ぐに、第三の朱点童子一族から見出されてきた氏神たちの話を聞いた。あの槍使いの人間が言った、何代も前の一族当主の名を口に出すと、その居場所は直ぐに判明し、彼女は突撃していったものだ。

……そう、この男――《九条晴天王》のもとへ。

ただまあ、誤算であったのが、どういうわけかこの男の暮らす場所が、居心地良かった事だ。常軌から逸脱した存在である、神と人の間の子によるものか、有るはずのない温もりが其処には存在していた。昼子を忌み嫌う者同士で気の合った、黄黒天吠丸にはないものが。

だが、そうは言っても、氏神とてこの男も、あの一族の者。
お夏にとって、太照天昼子の計画など興味はないし、むしろことごとく邪魔してやろうという気にさえさせるのだが……。

( ……なんだか、しばらく見ない間に、様変わりしちまって )

流動的な物事を嫌う神は皆、太照天昼子と対立し、結果天界を追い出されたものが多い。お夏もその一柱だ。けれど、その神々はもちろん、昼子一派の神々も含んで皆、不思議と……何かが、変わっている。お夏は長い事天界を離れていたから、余計にそう思った。
あの一族と、関わった為。
小耳に挟んだが、太照天昼子の革新派、そしてお夏も身を置いた保守派の他に、一族の一派もあるとか。大半が一族に深く関わった神々たちで、特に敦賀ノ真名姫の存在は大きい。天界屈指の美貌を持ちながら、強い力を秘めた人魚の女神。人にも裏切られ、神にも見放された彼女が、心より一族と付き合っているのは天界ではもう既に周知の事実。その一派が天界に台頭するような素振りはなく、そのつもりも毛頭ないようで、ただ単純に下界の一族を見守っているだけだが、影響力は少なくないだろう。

そんなのどうでもいい、とお夏は思っていたのだけれど―――――。


木漏れ日の暖かさに翡翠色の目を細め、ふっと横に座るを見上げる。
筋の浮き出た首筋から続く、肉体の鍛えられた輪郭や、武骨な大きな手。
吠丸も、屈強な男神であるが、この男も勝るとも劣らない。
ただ、氏神という、一端にも神の位に身を置いているわりに気品というものは少なく、下界の平民そのもののざっくばらんな性格である事はお夏も理解した。文句を言いに来た彼女を客神扱いして、現在に至ってはすっかり話し相手になっているのが証拠だ。
けれど、その飾らない仕草は……お夏の、性にも合った。

「あんたさあ」
「ん?」
「あたしの事、もっと警戒したら良いんじゃないの?」

何せ、彼らが短命と種絶の呪いを掛けられたのは、このお夏が計画をばらしたからである。有る意味では、朱点童子である黄川人と同じく、敵でもあるはずだ。
だが、はしばし考えた後に、特に気にする風もなく、「そうだろうか」と呟いている。

「貴方は、太照天昼子に反発した女神で天界を追われたと聞いたが、かと言って何も警戒する必要はないのではないだろうか」
「……馬鹿か素直か、どっちなんだろうね」
「それに、貴方が此処にいるという事は、俺の家族は皆それだけ強くなったという事だ。かつての当主としては、多少はその強さに貢献出来ていると思うと、嬉しいな」

まあ、そう喜んで良いものではないけれど。
は肩を竦めて小さく笑うと、お夏の瞳を見つめ返した。

「お夏殿は、どうだろう? 一族の事を、気に入らないと心の底では思っていたりするのか?」

お夏は、数回瞬きをすると、ニイッと悪戯な笑みを浮かべる。細い身体をへ寄せると、赤い髪を彼の腕に触れさせる。

「さあね、どっちだと思う?」
「願わくば、火を放たない程度には、好いていてくれると嬉しいな」

が返すと、お夏は笑みを深める。

「それは、あんた達次第。あたしは火遊び好きの猫だよ、付けさせるか否かは、どうかな」

しなだれた身体を、ぐっと持ち上げての顔を覗き込んだ。誘惑するように吐息を漏らして、尻尾を左右に緩やかに揺らしてみせる。

「それは……どっちの方が、良いのだ?」

の表情は、変化がない。さっぱりしたままだ。
それはそれでつまらない反応だと、お夏は思っていたが……。

「……さあ、どっちだろうね」

鈴のような声で、愛らしく囁く。触れたの腕は温かく、お夏をまた日溜まりへと誘った。

( この男は、あたしに火をつけさせるかな? )

……気に入らない女がいる天界は、相変わらずつまらないけれど。
この場所は、そう悪くはないと、思うこの頃のお夏であった。



赤猫お夏は可愛いけれど、猫らしい感情の豊かさがあると思う。あと、非常に生々しい言動が良い。
小説で、天界の掟を破った片羽ノお輪を、地獄に落としてしまおうかと嬉々として提案するシーンなんて、まさにそれ。見た目によらず、かなりの性格。
だけど、それもまた彼女の魅力。

まあつまり、可愛い女の子は正義です。


2012.06.01