04 とある竜人の苦悩

 何でこんな場所にいるのかと、遠い目になった。
 夜が明ける前からの明朝の巡回任務に当たった後、己の騎者であり友人でもある能天気男に連れられた場所は、街外れの喫茶店。ガーデンパーティーという名の未婚の同僚達がこっそり催した婚活パーティーが開かれるそこに、どういう訳か自分まで参加させられた。しかも、ほとんど無理矢理に。
 夜明け前の仕事に身を投じたのは、男女の集いに参加するためなどではない。けっして、ないというのに。
 仕事を終えたばかりの隊服のまま参加させられて、明らかな場違いで浮いている事がひしひしと感じられ、みっともなく泣きそうになる。空気を読めていないと思われる上に、意に添わぬパーティーなど、ほとほと苦行でしかなかった。
 一体これは、何の仕打ちなのだ。
 押し込んだ能天気男と、ニヤニヤ笑う同僚達に、どのようにして制裁を加えてやろうか考えながら庭園の隅に避難していた――その時だった。

「朝早くからのお勤め、お疲れ様です。あの、いつも国をお守り下さって、ありがとうございます」

 己の胸の位置にすら頭の天辺が届かない――――小動物と出会った。




 碧空と竜翼の国、アルシェンド。
 古くからこの国では有翼の種族――鳥人や竜人、有翼獣など――が暮らしていた事から、そんな風に呼ばれるに至ったと語られている。
 アルシェンドは、世界に存在する名だたる大国諸侯の一つに数えられているが、その理由はやはり彼ら有翼の種族の力が大きい。彼らの特徴である空を自由に飛ぶ翼を活用した、迅速さに特化した運搬業や、船や街道が主流だったそれまでの荷運びの概念を打ち破った空路による貿易業など、全て彼らの翼の力によって発達している。今では多くの国もしている事だが、お家芸とまで言われるのはやはりアルシェンドだ。
 だが、この国の、アルシェンド騎士団の目立ち様といったら、それ以上なのだろう。国に仕える彼らの顔ぶれは、人間と有翼の種族といった今や珍しくは無い異種族混合編成で整えられていて、隊服は蒼を基調とした清々しい気品が込められている。
 ただし違うのは、その組織の形態だった。
 この国では往々に見られる竜人族は、実は他国では早々見られない希少な種族で、その最大の特徴は竜に転変する能力を有する事。そして騎士団に所属する竜人は、竜となってその背に人を乗せて空を翔ける。
 つまり、人と竜が二人一組となるペア制度が、この騎士団の最大の特徴だ。
 さながら、物語から抜け出て来た、竜騎士そのもの。傍目に見ても凛々しく絵になるのでとても目立つが、決して簡単に成せるものでもない。乗る側、乗せる側の訓練は非常に厳しく、互いの息が合わなければ十分な力は発揮出来ない。またそれ以前に、竜人はその背に他者を乗せる事を滅多に許さないほど、誇り高い気質を有している。従って実際に竜人に乗っている騎士は本当に極僅かで、ほとんどは人里で繁殖されている騎竜用の小型の飛竜だったりする。
 もっとも、彼らに限らず、竜とつくものは総じて気位が高いのだが。
 竜に触れ、乗る事を許され、ようやくそれで一人前の騎士に認められる。異種族同士、互いが互いを認め、対等に接し合い、心を近付ける事で成せる職務……ある意味では、現在の世界の姿と課題をそのまま反映させたようなものであった。

 ちなみに、竜人の転変した竜と、繁殖され訓練を受ける飛竜は、全くと言っていいほど外見が異なる。竜人が転じる姿は、個人によって色も鱗も身体の造形も様々で、何一つとして同じ所が無い。そして屈強さと大きさも、人里で生まれた小型の飛竜より竜人の転じた姿の方が、遥かに勝っているという。だから人と竜人のペアは軒並み、隊長であったり団長であったり上位の地位に属しているのだろう。
 野で生きる巨大な竜達にも、勝るとも劣らない気高い勇姿。彼らに触れる事を許されたいと願う者は多い。


 そんなアルシェンド騎士団は、それぞれ役割付けた支部を各地に展開させている。国内の一角、自国と隣国を隔てる国境線が間近に引かれたとある領地には、騎士団国境支部が存在していた。
 険しい山脈と大河が国境線を丁度覆い被さり、雄大な景色でありながら隔てる壁ともなっている。これを目と鼻の先に掲げて、国境支部の建物が構えている。特に事業なども展開されていない街の郊外にある為、領民がやって来る事も滅多になく、国境支部とその区域は関係者のみが行き来をしている。
 ここに配属される騎士の役目は、国境付近の警備と監視だ。不穏な動きがあれば危機を看破し報告、国境を侵略される有事の際にはいち早く迎撃、そういった役割が課せられている。そのため、国境支部区域内の関連建造物には、武器庫などの戦闘施設も数多く備えていた。支部というよりは、言うなれば砦、また要塞に近い佇まいだろう。ただ現在は、隣国諸侯との関係は安定し、此処数年は国境侵略の危機はないとされている。
 危機は無くともその任務を果たし、またそういった万が一に遭遇した際のために備えるのも、役割であると言える。


 お国柄の様々な事情と形態は存在するものの、アルシェンドとて多くの者が生きる場所。世界各地の国と同様に、異種族同士の交流を深め、互いが得意とする分野で協力し合い、よりよい道を模索する日々が続く。そこに優劣は無く、市民も騎士もそれぞれの心を抱えて生きている。
 そして今日も、平穏長閑に過ごす者もいれば……心が暴風域に達している者も存在していた。
 ちなみに後者は、精神が高潔であり誇り高いとされる竜人族の、とある騎士の男性である。




 ――――国境支部、第一部隊長の部屋。
 今は暖かな季節であるはずのアルシェンドに、氷が降り注ぐ極寒の嵐がその部屋を襲っていた。

「そう怒るなよ、悪かった。この通り!」

 暖かな陽射しを窓辺から受ける、部屋の主であり、国境支部従事の第一部隊長の人間――アシル。明るい茶色の髪と瞳を持つ人間の男性で、二十代半ばにして隊長職に就いているが気取らずに騎士達と接するのは、市井(しせい)、庶民の出身だからだろう。
 彼は天板の大きな机の前に腰掛け両手を付いて謝ってはみせているものの、その顔には朗らかな笑みがこぼれている。

「お前のその顔が言葉と一致していないんだよ。この脳天気男」

 ……対して、アシルの前に佇むは、彼の騎竜兼第一部隊副隊長の竜人――テオルグ。陽射しに溶けぬ黒髪、縦に裂けた瞳孔の碧眼を持ち、額からは後ろへ反り伸びた四本の角。肌の上には所々と白い鱗が散りばめられている。部隊長の騎竜でもある騎士だが、その背後に氷の嵐を背負っているせいか、国の騎士というより国の怨敵・怒れる暴竜。
 彼らを中心とした著しいまでの温度差が、そこにあった。

「いや俺なりにお前の事を心配してだな、まあうっかり勢い良く無理にしてしまったのは悪かった。それは謝る、我が腹心」
「謝るついでに、これを直してくれ。間違いだ」
「俺の謝罪は、この空の果てまでつづ……え、どれどれ」
「これ、あとそこもだ」

 テオルグは脇に抱えた書類をアシルの前に放る。長い指がその箇所を示すと、うっかり! などと言いながらアシルは羽根ペンを取った。

「さっき読み返して大丈夫だったはずなんだがなあ。助かった」
「しっかりしろ。お前を乗せる竜としても、隊に示しが付かない」
「そういう所が堅いよなあ……テオは」

 アシルは相変わらずのほほんと笑い、修正を入れた書類を横へと置いた。

「でも、前は怒って無かったじゃないか。非番で、節度を持って、絶対に周囲に迷惑を掛けるような真似さえしないと誓える奴は楽しんで良いと」
「それは他の騎士達の話であって、俺が参加するとは一言も言ってはいない。……俺がああいう集まりを苦手にしている事は知っているだろう」
「まあ、新米騎士時代からの付き合いだしなあ。それは悪かった」

 苦笑いしたアシルを見下ろし、テオルグはようやく凍てついた威圧と空気を緩めた。

 テオルグの怒りの原因は、つい先日の事だ。
 街の外れの喫茶店で、非番の騎士たちの婚活……もといガーデンパーティーが開かれた。「出会いが無い、出会いが……」などと切なくこぼす騎士達が言い出したのが切っ掛けで、それを耳にしたこのアシルが持ち前の気さくさで何処からか会場を見つけて用意した経緯がある。それについてはテオルグも、非番であってかつ騎士の職務を汚さずに振る舞える者のみ行って良しとは告げた。あの時の幾つも上がった野太い歓声に、全く仕方のない奴らだと笑ったものだが……。
 夜勤明け、さて隊舎の私室に戻って仮眠をと思った彼を待ち受けていたのは、アシルの忌々しいほどの爽やかな笑みだった。正直、嫌な予感しかしなかった。テオルグは本能的に回避しようとしたが、そこを躊躇なく突破してきたアシルによって、あれよあれよと連れ出された。隊服のまま。
 そして針の筵に座るような思いを耐えたその翌日、さらに降りかかったのは同僚達による生温かく優しい眼差しの数々だった。迷惑を掛けなければ良しと言った張本人が、隊服のまま突っ込んできたのだ。副隊長も本当は婚活に来たかった、などと捉えられても仕方ない。仕方ないが……。
 実に不本意かつ、不名誉である。
 憤慨するテオルグの一連の原因が、己の騎者であり上官であり友人でもあるアシルだというのが、ますますその怒りに拍車を掛けた。

 別に、俺、そんな風に思ってないから!
 婚活したかったわけじゃなくて、無理矢理押し込まれただけだから!

 というような事を噂する同僚達へ丁寧に説明しても、ふっと微笑まれ「分かってるから」「大丈夫だよ、気にするなよ」「俺たちはお前が、誇り高い竜人って知ってるからさ」などと宥められる始末……。いやその分かったというのは何を示唆しているのだろうか。彼の行き場のない思いは、払拭されるどころか支部内で語られる羽目になった。残念極まりないが、今日の事である。
 元々テオルグが、堅実というかいわゆるお堅い性質である事くらいは、誰もが知っているはずなのだが……。あれはきっと、良い噂の種が出来たとでも思っているに違いない。
 飛行訓練は覚悟しておけと、テオルグは胸中で呪いを呟いた。

 なにはともあれ、全面的にアシルのせいである。悪い奴でない事くらいは長年の付き合いから知っている。そうでなければ、高潔な竜人がけして乗らせぬという背中に跨がる事を許してはいない。
 だが、言わずにいられない。頼むからもう勘弁してくれ、と。

「今後はもう止めろ……良いな」
「分かった、肝に命じる」

 大仰しく頷いたアシルに、若干の不安はあったもののその言葉を受け入れる事にした。テオルグの心は、依然として晴れないが。

「まあ、でもさ、お前の事を思ってやったってのは、嘘偽り無く本音だ」
「何だそれは。さっさと身を固めろというのか」
「あーいや、そっちじゃない」

 机に頬杖をついて、アシルの目が動く。明るい茶色の髪の向こう、鳶色の瞳が猛禽のように鋭くなるのをテオルグは見た。

「聞いたぞ、国境支部に配属された新米達になかなか大層な呼び名を貰っているようじゃないか。何だったっけ……下竜(げりゅう)、だったか」

 竜人の間では、空を飛ぶ竜の誇りを貶し、地を這う者であると辱める言葉だ。また、竜そのものの存在を貶める意味も含んでいる。
 だがテオルグは、ああ、と思い出したように呟いた。

「そんな事もあったか」
「そんな事、か。そうだな、お前は俺よりも温厚だ。市井根性では十分に買っても良い喧嘩なんだが」
「隊長が喧嘩などと言うな。特に危険のない国境支部だからと舐めた態度で訓練に臨んだ新米だった、思っていた以上に厳しくてつい出たのだろう。直ぐ後には先輩騎士に叩きのめされていた。言いたい奴は好きに言わせておけばいい」

 実際、国境支部はそう思われても仕方ないが、これでも国境の山脈を見回る部隊だ。吹き下ろす山風の強さと変則的な流れの変化を読めるようにならなければ滞空するのもままならないので、空中訓練はかなり厳しい。これに文句を言うようでは、国境支部ではやっていけないだろう。今の季節は暖かいから良いが、冬は凍えるほどの風が吹く。その中を見回り、時には専用の竜で飛ぶ事になるのだから……訓練の厳しさの意味を、彼らはその時知る事になるだろう。
 ちなみに空中訓練の厳しさはある意味どの支部、師団よりトップなので、何故かやんちゃが過ぎる新米やら鍛え直しを課せられる騎士、あと自ら志願する変わり者が配属されるのは公然の秘密だ。毎年、余裕の顔で入ってはボコボコにされ絶望的な表情で塗り潰されるのは、もはやこの支部の恒例行事でもある。

 テオルグの気にも留めていない様子を見て、アシルは肩を竦める。平素は気も良く面倒見の良い、騎士達に慕われるアシルであるが、伊達にこの年齢で隊長職には就いていない。朗らかな笑みを浮かべている事が多いけれど、竜に乗る騎者として必要な空中戦技を身につけた武人の姿を、その下に綺麗に隠している。過去、この気さくさに惑わされて喧嘩を売り、ボロボロに負けた者達は数知れず。
 気さくではあるが、食えない人物なのだ。上に立つその覚悟が、表立って全身に表れなかった良い例である。

「俺はな、そういう堅実な性質を持つお前がもう少しだけ多くの人たちに知られても良いと思ってな。まあ見事に滑って空回ったけど。お前の背に乗る事を許された友人……いや、盟友としては、切に願うわけよ」

 そしてこういう事をさらっと言うのが、アシルとテオルグの違いだろう。

「それであわよくば嫁となる女性、いや女の子でもいい、それが出来れば俺が今後楽しくいじれるとも思った」
「おい」
「……あ、いや、うん。それは置いといてだ!」

 置いといてもらっては困るのだが、と思うテオルグを余所に、アシルはにっこりと笑う。そして声を潜めて、小さく尋ねる。

「……ところでさ、婚活発足させた奴らから聞いたんだけど、お前、お店の子と一緒に居たんだって? それも、凄く小さくて可愛い、小動物みたいな子と」

 ――思わず、テオルグは空気を噴き出した。
 ある意味では、今もっともつつかれたくない部分だった。

「あのテオルグが珍しく笑っていたともっぱらの噂で……んぶ」
「そっちの間違っていたやつは支部長へ届けに行けよ。俺はそこまで尻拭いはしないからな」

 アシルの顔面に、無造作に置いてあった本を叩きつけてぐりぐりと押す。鼻頭が赤くなるまでひとしきりそうした後、テオルグはアシルの部屋を去った。
 翻った蒼い隊服を見つめ、アシルは苦笑いをこぼす。

「……だから堅いんだよ。俺くらいしか分からないぞ」

 仕方なさそうに呟き、机の上に未だ広がる書類を手に取る。

「しかし、喫茶店の店員ねえ……もしかして……」




 廊下を通るだけでも浴びる視線を耐え抜き、テオルグは自らの私室へと戻った。国境を監視し、場合によっては迎撃に備える支部であるので、建造物はどちらかと言うと砦、要塞に近く、華美さは少ない。よくて談話室と食堂くらいだろう、飾られているのは。廊下も、騎士達にあてがわれる部屋も、装飾は少ない。ちなみに当然だが、隊長や副隊長などの地位にある騎士は個室だが、他の騎士は二人一部屋の相部屋が基本だ。
 はああ、と大きな溜め息を一つ落とし、ふらふらとテオルグは机へと向かう。椅子を引いて深く腰掛け、背もたれへ寄りかかる。そして迷わず――――ガン、と目の前の机に、握り拳両手分を叩きつけた。堅い鱗のお陰でほとんど衝撃も痛みも無かった。

「くそ……」

 テオルグにしては珍しい悪態の付き方だったが、今はそれを見て首を傾げる者はいない。
 無造作に掻き上げた黒髪の向こうで、鮮やかな碧眼が苦悶に細められた。先日のガーデンパーティーから続く、周囲の反応もそれに含まれるが、今長身な竜人を悩ませているのはそれでなく。


 ――……ところでさ、婚活発足させた奴らから聞いたんだけど、お前、お店の子と一緒に居たんだって?

 ――それも、凄く小さくて可愛い、小動物みたいな子と。


 アシルの呟いた言葉が、脳内で繰り返される。
 あの時うっかり、確かに小動物のようだったと、頷きそうになったテオルグが居た。
 怒りではないが、焦燥感のようなものが彼の中で渦巻く。早く忘れてしまった方が良いと、気持ちを切り替えろと、早口に責め立てているのに。らしくもなく切り捨てられず、ますますガーデンパーティーの件を意識してしまい、現在のように狂わせられてしまう。悪循環だった。
 しかし、あれは。“彼女”は。

 ……いや、なんだ、もう。

 感覚はないはずなのに、むず痒く疼く四本の角を掻く。絶叫したい胸中を抑え込み、彼はひたすら机の前に座り額を覆っていた。


 テオルグは、この通りに竜特有の高潔さも持ち、なおかつ彼自身は堅い気質の男性で、騎士に就いた以上はその職務を全うする事を常日頃から第一に置いている。従って趣向や私生活がどうなるのかは自ずと分かるというもの。他者がパーティーに参加する分には構わずとも己がそこに行くのはどうなのだろうと、素で思っているくらいだ。興味がからきし無いという訳でもないが、今は必要でないとすでに結論づけている。
 そんな中、了承も何もしていない状態で、ガーデンパーティーに突き飛ばされた。あれは本当に居心地が悪く、神経が盛大に削れていった。
 空を翔る竜の系譜へ連なる希少な竜人と言っても、苦手なものの一つや二つくらい存在しているからして。
 それでも、あの日最後まで耐え抜いたのは……騎士達の集まりに会場を提供した、喫茶店の従業員の存在が大きい。
 庭園の陰に引っ込んで、時よ過ぎ去れと呪いのように思っていたその時、背後から物音がして思わず勢いよく振り返った。からかいに来た同僚か、それとも騎士という立場に懲りずに色目を使いに来た女達か、睨みを光らせた視線の先で佇んでいたのは。

 凄く小さい、人間の少女だった。

 十六、十七歳前後の僅かなあどけなさの残る顔立ちに、素っ頓狂に驚いた仕草が浮かんでいる。目の前で大きな音を鳴らされた、小動物を思い出した。けれど彼女ももしや参加者かと疑念も拭えず、思わず勢いのまま、重く「何か」と呟いてしまって。
 次の瞬間、テオルグは直ぐに後悔した。

 少女はエプロンスカートの裾を握りしめて、次第にあわあわと唇を戦慄かせ、蒼白してしまった。

 自らよりも、十歳は年下の少女を、怯えさせた。苛立っていたとはいえ、あまりに大人げなさすぎる。グサリと心に刃物が突き刺さるのを自覚し、穏便に謝罪を入れると彼女はゆっくりと硬直を解く。そして「飲み物も口にしていなかったようなので、合わなかったのかと」としどろもどろに呟いた言葉を耳にして、直ぐに合点がついた。彼女は、喫茶店の従業員だ、と。
 よくよく見下ろせば、襟刳りの開いた衣服とエプロンスカートはパーティーに参加している多くの者達とは違って簡素で、働く者の身なりだった。苛立ちが過ぎ周囲も見えていなかったという事を猛省し、心よりの謝罪を今一度告げた時、怯えていた少女は安堵したようにはにかんだ。

 ……それにしても。
 本当に、何だ、この目の前の生物は。

 テオルグは表面上は冷静さを張り付かせおくびにも出さなかったが、内心では怒濤の感情が巡っていた。それまであった怒りなどの類が全て何処かへ消えて、混乱や戸惑いといったものにすげ替えられてしまった。わざわざ気遣ってやって来た従業員の少女を見下ろし、テオルグは思った。
 何だこの小動物は、と。
 元々、小柄な背丈なのだろう。同年代の娘達より幾分小さく華奢で、男の枠でも長身に属するテオルグが正面に立つと、その差が顕著に窺えるほどだ。少女の頭は、己の胸にも届いていない。よくて胸の下、あるいは腹部だろう。おまけに武人として鍛えられてきた肉体の太さと厚さもことごとく違っているせいで、彼女の小さく頼りない様はより顕著なものになる。第一印象に小動物を見いだした自分は、悪くないはずだ。
 小さなその従業員の少女は、心根が非常に優しいらしい。夜勤明けである事を知ると大層驚き、しばしお待ちをと告げると、ちょこちょことした動きで元来た道を戻っていった。そしてしばらくして、再びちょこちょこと駆け寄ってくる。何という、小動物感。
 少女はテオルグの前へと再び佇むと、そのほっそりとした手に持ったトレーを差し出してきた。飲み物と、軽食を乗せたトレーだった。そのまま腕を伸ばしてもテオルグの腹にぶつかるだけだという事に気付いたのか、恥ずかしそうに頬を染めると、それを少し掲げるように持ち上げた。そして、ゆっくりと告げた。「朝早くからのお勤め、お疲れ様です。あの、いつも国をお守り下さって、ありがとうございます」と。そよ風に揺れる瑞々しい若葉のように、耳に心地よいその清楚な声で。

 何だ、たぶんきっと、自分は今回の夜勤明けが珍しく堪えていたに違いない。何て事のない気遣い一つに目眩がし、挙げ句危うく倒れ掛けたのも、きっとそのせいだ。そうに違いない。でなければ、脆弱さを淘汰する気質が強い竜人が、そんなみっともない姿を陽の下で晒すなど。
 もちろん、その後はそのまま倒れる事など矜持が許さず、大地を踏み抜く勢いで二本の足を立たせた。
 鱗一つない人間の、小さな柔い手からトレーを受け取ると、彼女は安堵と喜びを一緒にして笑みを深めた。少女はその後、パーティー終了の時間までテオルグの元には訪れなかった。恐らくは意図せず参加させられた苦さを理解しての事だったのだろう。世話になっておいて声も掛けないのは悪いと、終わる間際に彼女のもとへと向かった。
 呼びかけると、彼女は振り返った。若草色のリボンで括った金とも銀ともつかぬ繊細な色合い――薄いアッシュブロンドか、あるいはシルバーグレイか――の髪の揺れる動きの先に、あの少女の顔。あまりにも小柄なせいなのか、テオルグが大きすぎるせいなのか、そのまま話すとほぼ視線が直下で向かってしまうので、考慮して自らの背を曲げて空のトレーを差し出す。彼女は嬉しそうに微笑んで、テオルグを見上げてきた。格別に着飾っていないのに、不思議と美しく感じる、純朴な優しい微笑み。陽の光を受けた瞳は、なんと綺麗な緑色か。

 何だこの小動物は、という第一印象は。
 何だこのくそ可愛い小動物は、に変わった瞬間だった。

 それゆえに、同僚達が多く居るという事を忘れ、テオルグは表情を緩めてしまった。ただでさえ国境を守る副隊長として目立ち、普段それほど笑わない、おまけに意図せずチビ(少女)とデカ(竜人)の図を作り出してしまえば、それはもう誰のせいでもなく目立つ事この上ない。だから現在、先日の件が話の種になっているのだ。

 ……しかし、それだけであれば、ここまでテオルグも乱されていなかった。

 興味を持つ切っ掛けは、非常に些細であると世間一般で言うけれど。それがまさか自分にも当てはまるとは思っていなかったというか。疲弊している時だと向けられるもの全てがじわっと染みるというか。

 まあ、つまりは、そういう事で。

 物静かな佇まいではにかんだ、やたらと可愛い小動物の姿が、後になっても彼の脳裏にくっきり残っていた。

 小さな身の丈と、華奢な身体つき。庭園の花の香を孕んだ風に揺れた髪は、繊細な色を宿して煌めき、緩やかな波を打つ。穏やかなまなじりに見えた長い睫毛の向こう、瞳は透き通る緑色。普段身を置く騒々しく荒れた環境とは切り離された場所にある、物静かな空気とはにかみは、元々喧噪を好まないテオルグにとってはささくれた神経を宥めるようだった。
 少女のあどけなさと、女性に至る途中の危うさ。小柄な背丈と華奢さに不釣り合いな大きな胸に視線がいった事や、それを妙に悩ましく感じてしまった事は何処かへ捨て置くとして、従業員としても好ましい印象を抱いたのは確かだった。

 だから、こそ。

 テオルグは小さく、溜め息をつく。

「……仕事しよう」

 少女はただ従業員として気遣っただけだ。そして自分は、それを勝手に感動しているだけだ。国境を守る騎士であり隊長を乗せる騎竜である自分が、もうあの場所へ行く事もないし、過熱したこの空気もあと数日もすれば治まる。印象深い小動物な少女の面影も、消えるだろう。
 ただ浮かれているだけだ、周囲も、自分も――それだけだ。
 テオルグはそう言い聞かせた。まして自分が何であるのか、とうの昔から知っているからこそ、そう思わなければならなかった。


 ――俺はな、そういう堅実な性質を持つお前がもう少しだけ多くの人たちに知られても良いと思ってな


 あれは阿呆な脳天気だが、ああいった言葉を率直に告げられる点については感心している。だから気難しい竜人が生涯において身内と伴侶、盟友にのみ許す騎乗の一枠を、テオルグはあの男に差し出した。
 もっとも、人の心を解くのは上手いが、余計な面倒を引き起こす天才でもあるのだが。

(ああ、でも、そういえば……)

 テオルグはふと思い出す。あの少女、妙に懐かしい匂いがした。同種族と対峙した時の懐かしさと言おうか、非常に近しい感覚がしたのだが……引っかかりながらも気のせいであると頭を振って払う。あの少女の何処に、そんな要素があったか。耳は丸く、体つきも華奢で、白い肌に鱗はなく、角もなければ目も裂けてはいない。
 異種族であっても、同種族ではない。
 力なく笑い、テオルグは机の上の仕事を片付ける事にする。午後は盟友を乗せ、国境支部名物の厳しい飛行訓練がある。考えたところで、もう、仕方のない過去だ。



中身と見た目でマイナス評価を受けがちな、鋼の竜人。
ただし死んでる時に現れた少女の普通な優しさに、じわっとするこの頃です。


2015.02.01