23 羽狂い(4)

 姿を見せた羽狂いは、その後駆けつけた騎士達も加わって無事に捕らえられ、他支部に引き渡しとなった。暴れ狂う竜ですら壊せない特別製の鎖と檻によって身動きを奪われた羽狂いは、四肢に手傷を負ったものの命に支障はなく、威嚇の唸り声を漏らしながら運ばれてゆく。

「これで、二頭の内の一頭ですね」
「そうだなー。あんな馬鹿でかい猿が、あともう一匹居るとか」
「まったく、とんでもないですね」

 軽口を叩きながら、数頭の騎竜に持ち上げた檻が遠ざかるのを見送る。
 一時はあわや大乱闘という事態に見舞われた街道も、ようやく落ち着きを取り戻し、爽やかな風が吹いている。ひとまず目の前の問題が片づいて、知らずほっと安堵するアシルだった。

 羽狂い。竜と有翼獣に異常な執着と攻撃性を見せる、古くからの天敵。

 その言葉の通りに、かの大猿は確かに天敵と呼ばれるだけの荒々しい風格があった。初めて見た者も、久しく見た者も、その奇異な外見に戸惑い恐れを感じた。
 しかし、覆い被さるその奇妙な沈黙は、全て羽狂いの見せた脅威によるものではない。
 アシルが薄く気付いているのだから――テオルグも、自覚しているだろう。

「……あの、アシル隊長。その、テオルグ副隊長は……」

 同僚達の面持ちは不安げである。それは恐怖ではなく、困惑や心配の類だ。平素から厳しく頻繁にアシルを追い回すテオルグだが、あそこまで冷徹に激昂する事などなかったからだろう。

「んー気にするな、もう落ち着いてるから」

 アシルはいつものように砕けた笑顔を浮かべたけれど、内心、少々心配ではあった。
 少し離れたところで腰を下ろした白竜は、静かに空を見上げている。あの目はきっと、檻を見送っているのではない。

(まあ、十中八九、ちゃん関連だろうけど……)

 ここでそれを尋ねる事は、さすがのアシルも出来なかった。大きな白竜の後ろ姿は、これまであっただろうかと思うほどに弱々しかった。
 多くの騎士達の気遣わしげな視線を受けながら、テオルグは黙りこくっている。一足早く、先に街へ戻ったへ何か思いを向けているのだろう。


◆◇◆


 とルシェは、暮らし慣れた国境の街に戻っていた。
 隣街に行くのであれば護衛するが、と騎士に告げられたけれど、市場を見るどころではない状況だったので、支部へ帰還する騎士と共に街へ戻ったのだ。

 到着した先は、ルシェの家――つまり、街外れの喫茶店である。転がるように飛び出したルシェの両親に出迎えられ、二人揃ってまとめて抱きしめられた。とても心配していたと告げた彼ら声は、安堵で震えていた。

 事後処理を粗方終えたら話を聞きに来るとの事なので、はそのまま臨時休業の札を下げた喫茶店で休ませて貰う事になった。今や慣れ親しんだ店のカウンターテーブルで温かいココアを飲み、ようやく、の心にも落ち着きが戻った。
 二歳年上といえどほぼ同い年のルシェは、肉親の顔を見て少し泣きそうになっていたけれど、立ち直りは非常に早く。

「羽狂いっていう生き物って、すっごく大きな猿だったの! 初めて見た、あの迫力、天敵って言われても納得いく」

 と、しきりに興奮して頷いていた。あの兄にして、この妹である。両親のゲンコツが落ちたのは言うまでもない。

 彼らの様子を見ても微笑んだけれど、心は全て晴れていなかった。
 しきりに浮かび上がるのは、あの姿。暴れ狂う大猿を踏みつけ、強引にねじ伏せ、牙と共に暴威を剥き出した白竜――テオルグ。
 の華奢な身体の奥に、彼の名が重く広がってゆく。恐怖、それも少なからずあるのだろうが、大部分は驚愕かもしれない。では決して届かない空を、時には猛然と、時には上品に飛翔する彼を見てきたが、あんな風に荒れ狂う様は一度もなかった。
 深い知性を感じさせる蒼い眼は歪み、穏やかな喉の音は咆哮に変わり、どれほどの大きさでも恐れを感じなかった仕草に冷静さは欠片ほどもなく。
 恐らくが困惑している要因はそこなのだ。
 羽狂いと名付けられたあの獣が鎖を掛けられる間も、は地べたに座り込んでみっともなく呆けてしまった。振り返った彼に、なんにも言えずに。

 ……羽狂いという生き物は、竜や有翼獣の天敵であるらしい。それは彼にとっても同じ意味を持つから、ああなったのか。

 それとも。
 あの姿が、“竜”と呼ばれるものの、本来の姿なのだろうか。

 四肢に生え揃った、立派なだけでなく凶器にもなる爪を赤く滲ませていたように。綺麗だとか凛々しいだとか、そんな単純な言葉の範疇にいない存在が、竜なのかもしれない。

 ……だめ、頭が回らない。まだちょっと混乱してるんだ。

 は首を振り、ぐいっとカップを傾けるとココアを一気に飲み干した。口全体に広がる優しい甘い味と一緒に、その重みが消えてくれたら、どれほど良かった事だろう。



 その後とルシェは、出掛けられなくなった埋め合わせに、喫茶店の自慢の庭を眺めながらしばし話し込んだ。
 太陽は上り詰め、時刻は既に昼前。話を聞きに来ると言った通りに、騎士が喫茶店に顔を覗かせた。

「や、少し休憩出来たかな」

 ひょっこりとテラスに顔を覗かせたのはアシルだった。その背後には竜ではなく人の姿のテオルグも佇んでいる。
 とルシェは椅子から立ち上がろうとしたけれど、そのままでいいと制されたので椅子に座り出迎えた。目の前にまで歩を進める騎士の装いには、先ほど荒事があったと感じさせるものは既になく、ぴんと張りつめた凛々しさを纏っていた。

「兄貴としてではなく、騎士として謝罪を。この地域を警邏する者として危険に巻き込み、申し訳ない」
「い、いえ! そんな」

 頭を下げられると、逆にの方が恐縮してしまう。しかしその隣で、ルシェが「いいのよ、謝罪は受け取っておけば」と言った。

「危なかったのは本当の事なんだから。気にする必要はないわ。それにこれが、兄さん……騎士団の仕事でもあるんだから」
「そういう事」

 顔を上げたアシルは、苦笑を浮かべた。

「とにかく、怪我がなくて良かったよ。なあ、テオ」

 テオルグは頷き、静かに瞑目した。普段と変わらない静けさを彼から感じたが、落ち着きがなくなってしまうのは先ほどのせいだろうか。は窺うようにテオルグを見上げた。

「巻き込んじゃった二人には事情の説明と、状況の確認をしたい。疲れてるところ申し訳ないけど、もうちょっとだけ付き合ってくれないかな」

 とルシェは、首を大きく縦に振った。
 喫茶店のオーナー夫妻――つまりはアシルとルシェの両親も加わり、羽狂いという魔獣が現れた経緯やこの近辺にそんな生物が二頭放たれたという事を聞かされた。達が遭遇した羽狂いは、違法商人が逃がしてしまった二頭の内の一頭であるらしい。もう一頭は未だ何処かに潜伏し、現在捜索の真っ最中との事だった。
 とルシェが運行便に乗っていた際に起きた出来事の前後は、出来る限り細かく彼らへ伝える。その上でアシルは「あのタイミングで姿を見せたのは、単体よりも複数の方が魅力的に見えたんだろうなあ」と推測していた。
 魅力的って、どれだけ好戦的なのだろうとは思う。

「しっかし、本当間一髪だったな。街に早めに言いに行ったらすれ違って運行便が一つ出たって聞いて。テオが追いかけようって言ってくれて良かった」

 胸騒ぎがするから追いかけようと、テオルグが言ったらしい。そして間一髪、運行便の有翼獣に張り付いた羽狂いを引き剥がして事なきを得た。虫の知らせというものだったのかもしれない。
 今後しばらくはもう一方の羽狂いの捜索が続く事が考えられるので、とにかく注意をして欲しい――アシルとテオルグは最後にそう締めくくった。

「紙にもうちょっと綺麗に書いておいた方が良いか。ルシェ、運行便の状況をもう一回言ってくれるか? 図に残して支部に報告するから」
「分かった」
「あ、私も……」

 も続こうとしたが、ルシェにそっと制された。「私だけで大丈夫」と笑う彼女は、力強く自らの胸を叩く。案じてくれている事をは直ぐに察して、ありがたさと申し訳なさを胸に抱いた。怪力があるだけで、ちっとも役に立っていない。
 せめて喫茶店の、薪割りぐらいはするからね。
 一週間とは言わず一ヶ月分の薪割りをしようと、は一人目標を立てた。
 そして、ルシェとアシルは喫茶店の中に入ってゆき、喫茶店自慢の庭が見えるテラスには残される。その傍らには、テオルグの姿もあった。
 不意に訪れた静けさが、風と共に通り過ぎる。は、何故か少し気まずさを抱いた。もともと物静かな彼であるけれど、重い空気が漂っているように感じるためだろうか。はそれを振り払うように、普段の調子で彼へ話しかけてみた。

「あ、あの、さっきはありがとうございました」
「……いや、気にする必要はない。怪我がなく良かった」

 返す言葉も心なしか坦々とした響きを有している。普段よりもやはり冷ややかだ。どうしたんだろうと、は何度も思う。

「で、でも、びっくりです。あんな生き物がいるんですよね」

 有翼獣や竜の天敵――羽狂い。テオルグの転変する白竜よりも小さいが、騎士団の騎竜と同等か、あるいは少し大きい体格で、十分に脅威を感じさせた。
 しかしの頭に残っているのは、大きくムキムキした猿という事であった。あれこそ怪力ゴリラだろう。

「テオルグさん達が追いかけてくれて……その、良かったです」

 は、ふわりとはにかみを浮かべた。

「……そうだな、この辺りには、本来居ない生物だが……」

 ふと、テオルグの言葉が止まる。不自然な沈黙を感じてはそっと窺う。

「……恐ろしい生物である事は、変わらない。羽狂いも、俺も」
「そんな事。テオルグさんは恐ろしい人なんかじゃないですよ」

 だってあんなに綺麗な白竜の姿を持つ、竜人なのだから。それにどれほどの人物であるのか、も見聞きしているのだから。

「同じじゃないですよ。それに私、テオルグさんが本当に綺麗って、触りたいなあって思うくらい……」

 ハッと、は口を閉ざす。これは余計な事だ、何を口に出して言ってしまってるのだろう。慌てて取り繕っていると、テオルグからふっと自嘲するような呼気が漏れた。

「貴方からすれば、俺も羽狂いもそう変わらない存在だ」
「え……」
「怖かっただろう――俺は」

 見下ろすテオルグの瞳は、鋭い眼光を放っていた。一瞬、の華奢な丸い肩が震えた。どうして急に、そんな事。はぷるぷると細い首を振って、そんな事はないと返した。

「テオルグさんは、怖くないです」
「……無理はしなくて良い。俺が羽狂いを抑えた時、青ざめていただろう」

 それは。の小さな唇が、無意識の内にきゅっと強ばる。
 普段見ないテオルグの姿に驚いた、あるいは困惑したのは事実だが、何もそれでテオルグを怖いと思う事はない。こうして彼の前に居たって、恐怖なんてないのだから。

「ほ、本当です、怖くなんてないです」
「……貴方の、心根が優しい事は知っている。どうか、無理はしないでくれ」

 重ねられるテオルグの言葉に、は訳もなく泣いてしまいたくなる。違う、違うんです、あの時腰を抜かしたのは、呆然としたのは、テオルグさんじゃなくて。

「は、羽狂いは怖いと思っても、テオルグさんを怖いなんて、そんな。どうしてそんな事を、い、言うんですか」

 これではまるで。
 がテオルグに抱くもの全て、否定されてしまいそうな――。

「……嬢」

 テオルグの低い声が、苦しげに呟かれる。

「俺は、“人”でない」

 テオルグは片腕を上げると、へ差し出す。彼の筋張った手の甲に宿る白鱗が、瞬く間に長い指先や手首にまで広がってゆく。そうしての眼前に差し出されたのは、人の手ではなく――。

「“竜”だ」

 薄氷色を帯びた白鱗が覆う、頑強な竜の手だった。
 は思わず椅子から立ち上がった。けれど、唐突に細い首へ触れた冷たい質感に、その動きを止められた。音もなく重ねられた大きな竜の手は、の首を握りしめるようにすぼめられ、爪先を喉元に押しつけていた。何の脅威もない人間の丸い爪とは真逆の、刃物のように鋭利な尖った爪だ。たったそれだけでも傷つける事は可能なのだと、はまるで告げられているような気分になった。

 貴方が竜であると、人でないと、随分前から知ってます。
 なのにどうして、それを今、この瞬間に言うんですか。

 尋ねたくて、けれど声に出なくて、はテオルグを見上げるばかりだった。

「……思い出して良かった。俺が竜だと」

 彼はそう独り言のように呟いて、力なく口角を上げた。形だけの歪んだ微笑が、酷く残酷に見える。

「……貴女は、俺に触るべきではない」

 決して、乱暴な素振りはない。しかし喉元に押しつけられた彼の爪先は、告げる事も近づく事も、確かに拒んでいた。


 私は……何か、貴方の気分を害してしまいましたか。

 気高い竜の心を、蔑ろにしてしまいましたか。


「……ゆっくり休め、疲れただろう。残りの羽狂いは必ず捕らえるから、それまでは、気を付けていてくれ」

 そのタイミングで、アシルとルシェが戻ってくる。テラスに広がるただならぬ雰囲気を察知し、二人は揃ってどうしたのかと驚いた声を上げた。

「アシル、先に外で待機している」
「あ、ちょ、テオ!」

 引き留めるアシルの声をも振り払うように、テオルグは一礼し背を向けると、足早に去ってゆく。

「ど、どうしたの? 何かあった?」
「あ、あいつ、変な事でも言った? ちゃん?」

 兄姉らしい同じ仕草で、二人が顔を寄せる。はそれに上手く反応出来ず、訳もなく首を振って細い眉を寄せた。

 淡く色づいた想いが、あっという間に遠ざけられてしまった。
 他ならぬ、テオルグ本人によって。

「……怖いなんて、思ってないのに」

 “私”が、思う事なんて、ないのに。
 どうして。
 けれど、そう言えない自分の弱さを、は今、酷く憎らしく感じた。



改めて異種族である事を知らしめる、大切な話。
良くも悪くも《違う》という事を、捨て置いたままでは進めません。


2015.10.24