32 少女の変化、竜の覚悟(1)

 生まれてから十六年。物心ついた時から存在していた、小さな身体に不釣り合いな過ぎた怪力と、本当の意味では向き合えた。
 奥深くに根付いていた劣等感が、テオルグによって綺麗に拭い取られたのだ。
 無意味に隠す必要もなければ、恥じる事もない。その事実を受け入れたは、新たに生まれ変わった心地だった。秘密にするべきと思っていたものがなくなり、重石が取れたような軽やかさ。は初めての気分を味わい、また心から喜んだ。


 そしてその変化は、の心だけでなく周囲でも起こっていた。


 まず、筋肉痛も引いた身体で意気揚々と向かった喫茶店で、国境支部の騎士たち十数名がずらりと並んだ出迎えをは受けた。
 空にまで響き渡りそうな野太い声で「先日はありがとうございやしたー!!」と叫び、直角に背中を曲げて頭の天辺をに向ける。彼らよりも遥かに小さく細い、小柄なに対してだ。びっくりしすぎて緑色の目が真ん丸になった。
 「崖崩れの時は助かった」「俺たちはお嬢様に着いてゆく」「アシルとテオルグを助けてくれてありがとう」などなど、一度にたくさんの言葉を貰ったため全てを理解は出来なかったけれど、彼らが向けてくれる笑顔にとても嬉しくなった。
 おもむろに彼らは、ごつごつとした無骨な大きな手で可愛らしい包みのお菓子を取り出すと、へそっと手渡してきた。手のひらの包帯や風邪の件など聞き及んだらしい。恐らくはテオルグからだろう。
 外見はこんなに厳めしく屈強な雰囲気を放っているのに、手のひらには可愛らしいピンクやらオレンジやらの包み。正直、その対比の方に目を奪われた。

 そして彼らは、最後に。

「怪力でも天使という事実は変わらねえ!」

 拳を握りしめ高らかに叫んだ。

 背後では、空気を吹き出すルシェ、頭を抱えるアシル、鬼の形相を浮かべるテオルグが並んでいた。

 両腕で抱えるようにたくさんの菓子の包みを持って、は国境支部の騎士たちを見上げる。そびえ立つ要塞のごとき威圧感を放っているけれど、とても優しい騎士様たちだと、はほのぼのと微笑んだ。
 ありがとうございます、と相変わらず低い位置で礼をすると、そびえ立つ騎士たちは一様にたじろぎ、膝を折った。

「こんなにちっちゃくて可愛い天使が、どうして鋼の竜人……いや顔面に持っていかれるのか」
「ちくしょう……やっぱり世の中は不公平だ。爆発しろ」

 怒れる顔のままのテオルグ(ちょっと竜化している)が猛スピードで飛んできたが、その時はほくほくと笑ってたくさんのお菓子の包みに夢中だった。


 国境支部の騎士たちから野太い歓待を受けたその後、さらなる出来事がに訪れた。
 の働きが人命救助に大きく貢献したとして、なんと騎士団から褒章を授かったのである。
 褒章といってもささやかで、透明な硝子の枠に収められた小さな表彰状だった。けれどにとっては、これ以上にないものだ。過ぎた怪力が、こんな風に認められるのは初めての事だ。恥ずかしくも誇らしい、くすぐったい気持ちになった。


 そしてそんな事があれば、街の人々にも情報は伝わる。
 力持ち……もといゴリラ怪力のの名前は、一部の人々にじわりじわりと広がった。
 しかし、かつてが危惧していたような、心ない陰口やからかいは全くない。不思議そうにしたりちょっとした興味を見せる人がちらほらと現れるだけで、周囲が大きく変化する事もない。
 が抱いていたあの恐怖は、本当に単なる思い込みだったのだと、その時ようやく気付いた。


 劣等感を消してしまえば、自分にとって世界は、そんなに恐ろしいものではない。
 それを知ったの周辺は、何も変わらない、けれど足りなかったものが綺麗にはめ込まれたような、そんな優しさに満たされた。


 ――しかし、それとは対照的に、微妙な面持ちをしているものも存在している。
 の怪力を最初に知った、ルシェである。
 村で雑な扱いをされ、おまけに散々からかわれ、傷口が開いた状態のまま街にやって来たの涙をルシェは見ている。全ての人に知られたわけではないにしろ、多くの人にその力の事を認知され、大丈夫なのかと心配してくれているのだろう。時々、複雑そうに表情を変えている。
 やっぱりルシェは優しい。そのたびには自信を持って、大丈夫だと頷いた。

 それに。

「怪力な従業員が居るって噂になって、ちょっぴり客足も増えたしね」

 実際、喫茶店にやって来る人々は体感的に増えた気がする。これはこれで良い事だと思うがどうだろう。

「したたかだなー! それは、まあ事実なんだけどさあ」
「ふっきれたらね、何だか怪力とかゴリラ女とか、あんまり気にならないの。ちょっと愛着わいてきたしね」

 二歳だけ年上だけれど、時々お姉さんのように接してくれる友人。の髪と瞳を、ミルクティー色とハーブの色と称したのも彼女だ。そんなお日様のような明るい彼女に、これまで何度も救われた。

「ルシェが居てくれたおかげだね」

 きゅむ、と横からルシェへ抱きつく。

「ありがとう」

 改めて告げると、彼女は「何よ急に」と照れ隠しを浮かべての身体を押す。

「まあでも、一番効果があったのは私じゃなかったわね」

 見下ろすルシェの瞳が、意味深に笑った。その言葉に含まれるものに気付いて、は思わず頬を赤らめる。
 ルシェはにこにこと笑い、「あーあ! 負けちゃった」と冗談めかして言った。

「本気であの竜人の顔、ぶってやろうって思ってたのに。の事とか兄さんの事とか、助けられちゃったから帳消しね。全く」

 ルシェは仕方なさそうに肩を竦める。

「でも、またを暗くさせるんだったら、その時こそは平手打ちが炸裂するわ」
「ふふ、そうならないようにしなきゃね。私も」

 せっかく大きな一歩を踏み出せたのだ。今度こそめそめそしていないで変わらないと。
 は手のひらを握りしめる。誇れば良いと、他ならぬテオルグも言ってくれたのだから。

「……やっぱり、思った通りね」

 ルシェは呟いて、の両頬をむにっと摘まんだ。不思議そうにするの表情を、ルシェはまじまじと見下ろす。

 半年前に出会った時から、の表情は気弱で自信もなさそうだった。
 持って生まれた人並み外れた力を、幼い頃から散々に言われてきたらしい彼女。詳細は全て聞かなくても、喫茶店で働き始めた初日に見せたあの涙で全て悟った。
 もう平気だと、もうこの力と上手く付き合っていると、は何度も言っていたが、そのたびにルシェも何度も思った。絶対に平気ではないと。
 けれどそれを簡単に否定もできなくて、とにかく彼女が気遣わしかった。時々浮かべる寂しそうな、あるいは切なそうな笑みが、そのままの持つ傷痕を表しているようだったのだ。

 しかし。

 ルシェの前に居るからは、もうその面影はない。事あるごとに過ぎった頼りなさも自信のなさも、すっかり消し飛んでいる。
 雨降って地固まる、という事だろうか。劣等感を突き抜けさせる存在があの人物であるのは、少しばかり悔しけれど。

(こんな良い笑顔見せられちゃったらねえ)

 劣等感の影は、もうすっかりと見当たらない。こちらまで思わず緩めてしまう、ほのぼのと温かい穏やかさが浮かんでいる。さながら日向に咲く小さな花の、優しい慎ましさ。

 ルシェが思った通り――気弱な仕草のなくなったは、とびきり可愛かった。

「ルシェ?」

 頬をつままれたまま首を傾げるに、ルシェは小さく笑みをこぼす。

「……なんでもない! が吹っ切れて元気になったのなら、それが一番良い事だわ」

 むにむにと頬を摘ままれながら、も笑った。



 多くの人々に理解して貰える幸福。墓場まで持ってゆこうと思っていた時には絶対に得られなかった、ぽかぽかとした心地にの心はますます軽やかに晴れてゆく。
 ただ、劣等感を克服したためだろうか、同時にふと思う事も最近になって増えた。
 それは――。



「私のご先祖様って、一体何なのでしょうね」

 は呟くと頭上を仰ぎ見た。背面からにゅうっと伸びた太い首の先、四本の角を持つ白竜の頭部。青みを帯びた白鱗に覆われる、凛々しい輪郭の中で瞬く青い瞳との視線が交差する。
 陽射しを受けてより一層冴えた輝きを放つ、視界に全て収まりきらないほどの大きな白竜。今日も今日とて勇ましくも気品溢れる、竜の姿のテオルグだ。
 何処を見ても隙のない彼は、の顔の横へ竜の頭を並べる。瞳孔が縦に細い竜の眼は、それだけで他を圧するものを放つけれど、恐ろしさはない。青玉のように綺麗で、ぼうっと見惚れるだけだ。

 よく晴れた国境の街の、噴水広場。商人や旅人などが連れてくる有翼獣が、唯一降り立つ事を許可しているその場所に、とテオルグは居た。

 彼が人の姿ではなく竜の姿なのは、単純に待機時間だからである。首元に取り付けられた騎乗用装具の通りに、その背中にアシルを乗せていたが、その彼は同僚の騎士たちを連れて用事を済ませている。何でも街道で重量系の荷物をぶちまけた商隊があったらしく、その運搬の手伝いだとか。テオルグは、騎竜の監視らしい。
 いつだったかと同じ状態だ。
 ちなみに、以前テオルグは竜の身体をそのまま人の形に変えたような人身竜頭の姿を見せている。あれで街の通りも普通に歩けるのではないかと思ったのだが、実は意識して作り変える姿らしくとても面倒らしい。それでもその姿になったのは、あの場では最適だったそうな。(と視線を合わせるためだったり、衣服の関係であったり)

 話は戻して。
 の呟きに、テオルグの青い瞳が瞬いた。それを見つめながら、は続ける。

「前はとにかくゴリラみたいな怪力で頭がいっぱいだったんですが、ゆとりが出来たらそっちの方が気になってきました」

 この怪力の所以(ゆえん)である、遠い遠い昔で結びついた異種族とやら。果たしてそれは何だったのか。

「テオルグさんにもお話しましたよね。私……というより、私の家のご先祖様、異種族と結婚したって」
「ああ」
「小さい頃からこんな状態で、それが何なのか家族で調べて分かった事だったんです。すごく昔に異種族と結婚したっていう、それらしい記録があったって」

 けれど、それも古くて確証はなく、結局その結びついた異種族というのも何だったのかさっぱり分からずじまいである。家族も家族で、「たとえ祖先がゴリラでも問題ない」と、そっちの方に落ち着いてしまった。おかげではちっとも慰められた気はしなかった。
 奥地にある小さな村だったし、それ以上調べる手段もなかったのでここまで来たけれど。

「ご先祖様って、何だったのでしょう」

 もしかしたら、本当にゴリラの獣人かもしれない。あるいは、下手したら《羽狂い》のような、筋骨隆々とした大猿かもしれない。
 今も調べる手段はないから、想像ばかりがの中で膨らんだ。

「やはり、気になるものか」
「それは、やっぱり。あ、もちろん、ご先祖様がゴリラでも気にはしないですよ!」

 おかげで、こうして人のお役に立ててるんですからね。ふわりと微笑むからは、暗い影はない。

「それに……」
「ん?」
「な、何でもないですッ」

 何かをぽそぽそと呟いて、は顔を逸らした。その頬は微かに赤らんでいる。
 空気に溶けるような呟きであったけれど、聴力も格段に高まる白竜姿のテオルグにはしっかりと筒抜けだ。


「だって、テオルグさんの事知りたいって言ったのに、自分の事も知らないんじゃ……」


 本当、どうしてくれようか。この生き物。

 人の機微にはあまり頓着しないテオルグだが、真っ直ぐと好意を向けられ嫌な気分になるはずがない。
 竜の姿が美しいだとか、恰好いいだとか、これまで言われてきたあの言葉もある種の好意であるけれど、の紡ぐそれは別物だ。何の感銘も受けなかったはずなのに、彼女に言われた途端、角の生え際がむずむずして意味も無く巨体を身動ぎさせてしまう。
 こないだの一件で、たびたび浮かんでいた影――思えばあれが彼女の抱える劣等感だったのだろう――は消え、自然に感情が押し出されるようになった。なんというか、驚くほど明るくなったと言おうか。ふわふわと放つ小さな花の数が増えたと言おうか。一挙一動の破壊力が、格段に増しているのだ。
 そしてその分、テオルグの何らかの忍耐力が試されている。

(……こうはなるまいと思っていたが)

 言葉にし難い歓喜が、じわじわと巡る。心臓がくすぐられたような心地であったけれど、悪い気分ではない。
 誤魔化すように、テオルグは一度咳払いをする。竜の姿だったせいで、吐き出した息は思いのほか強く、の淡い髪を揺らす。

「……まあ、なんだ、確かに先祖に居たという種族が何であるのか、気にはなるな」

 テオルグは視線を動かし、整列し待機する国境支部の騎竜たちを見やる。
 が現れた時からだったのだが――どういうわけか、全ての騎竜が彼女に興味を示していた。
 大人しく座ってはいるものの、じわりじわりとにじり寄って距離を詰めているし、匂いを嗅ごうと長い首を伸ばしている。
 公開訓練の時もそうだったが、これは非常に珍しい事だ。基本的に竜は、同胞を大切にするものの他種族へはあまり興味を示さない生き物だからである。

「騎竜の放牧地を見学した時も、そういえばそうでしたね。やっぱり何か匂いがあるんでしょうか。羽狂いみたいな、ムキムキな獣人とか」

 怪力を受け入れたら受け入れたで、もネタとして扱い始めた。
 冗談ぽく言いながら、自らの腕をふんふんと嗅ぐ。もちろん気になる匂いはない。

「あるいは、単純に騎竜に懐かれたのだろうな。何であれ、それによって貴方が貶められたりはしない。むしろ喜んで良い、騎竜に好かれる事はそう多くはないのだ」
「……はい」

 大きな白竜の頭部に、は頷く。今ならその言葉を、丸ごと受け入れる事が出来る。は、ふわりとはにかんだ。

 しかし、では気付けない“匂い”を、テオルグは随分と前から嗅ぎ取っていた。
 何処かで嗅いだ事があるような、懐かしいような、不思議な匂い。人工的につけたりしたものではなく、その肌から放つ匂いだ。
 彼女の身体に宿る血が、何世代も前に結ばれた異種族のものと知った今なら、それも腑に落ちるところだが……。

「……しかし、この匂いは恐らく……」

 テオルグは何かを考え込んだ。その横顔を見つめながら、は小首を傾げる。

「どうかしましたか?」
「いや……確証のない事を口にしてしまうのは、あまり良い事ではないが」

 何やら渋るテオルグへと、は「どうぞどうぞ」と先を促す。少しの間を挟んだ後、テオルグは再び口を開いた。

「……恐らく、ではあるが」
「はい」
「貴方の先祖にいる異種族とやらは」

 テオルグの、白竜の青い瞳が瞬いた。

「――獣人、ではないだろうな」

 まして、竜と有翼獣の天敵である《羽狂い》のような、大猿の血ではない。

 テオルグの呟きに、は緑色の瞳を真ん丸に見開かせた。テオルグは下げていた首を持ち上げて、竜の頭部を高い位置へ戻す。

「断言するだけの材料はないが、恐らくは」

 天辺から見下ろす青い瞳には、落ち着きと、そして自信があった。確証はないと言ったけれど、何らかの理由があるのだと、は思わず食い入るように見つめた。

「そ、それって、どういう」

 と、その時、テオルグの視線がから外れる。広場の遠くを見やり、「アシルたちが戻って来たようだな」と呟いた。あんまり長居してはならないと、はあっと声を漏らす。

(うう、でも、すごく気になる……!)

 十数年、の頭の中で渦巻いていた単語はすっかりとゴリラである。筋骨隆々とした猿の獣人に違いないと思い込んでいただけに、ここにきてまさかの否定だ。獣人ではないなら一体。

 気になって仕方ないと表情で訴えるへ、テオルグは一つ提案をした。

「……近々、他支部に行く事があってな。良ければ、だが、少し調べてみたいのだが良いか」

 それは、にとっては願ってもない事だけれど。

「あ、あの、ご迷惑では……?」

 が窺うと、テオルグの頭は大きく横へ振られた。

「調べるといっても、軽くだ。少し気になるところがあるから、俺も放っておきたくはない」

 それに。テオルグの声が小さく響いた。

「……不安にさせる要素は、可能な限り、取り除きたい。それだけだ」

 だからどうか、迷惑などとは言ってくれるな。
 テオルグのこぼす低い声は、普段の冷静な響きとはまた異なる調子を乗せていた。の胸の奥が、じわりと温かく、それでいてくすぐったくなる。

 やっぱりこの人は、この竜は、綺麗なのにかっこよくて素敵で、そしてずるい。

 空を飛ぶ翼のように力強く自然に言うものだから、は今日もドキドキと心臓を躍らせた。

「あ、ありがとうございます、テオルグさん」

 こっくりと頷いたは、柔らかくはにかんだ。
 取っ掛かりになるようにと、メモ紙に故郷である村の場所を簡単に書き記し、騎乗用装具の隙間に入れテオルグへ託した。

 微笑むに、テオルグはほっと安堵を浮かべる。
 何故だか無性に思うのだ。期待と不安を混ぜたその表情が、いつものほのぼのとした笑みへと変わればと。不安など何一つとしてなくなったその笑みが――自分に向けられれば、と。

 今は一人にのみ許している背中と翼に、疼くようなくすぐったさがまた走った。



実はラストがもう間近だったりします。


2016.01.01