そんな君との日常

魏国で今持ちきりの話題といえば、一般からの女官試験のことであった。
数週間前に、年に1度かあるいは数年に1度の女官採用試験があったのだが、魏国の君主たる曹操がほんの気まぐれで最終試験を見に行ったところ面白い女がいたと非常に大喜びであったことから、話が始まる。
上位の文官などがまず100を越える志願者を競り落とす一次試験を行い、実際に作業を行う実技の二次試験、そして十数人ほどまで残った者と細かな会話を交わす最終試験。文官などはてんてこ舞いであったがさらに上位の者たちは特に関わることもないため至って平穏に過ごしていたが、そこに何を思ったか曹操が「わしも見に行きたい」などと言い出し、執務を放り投げて試験会場へ突撃していった。当然姿を消した君主に皆がそれこそ大慌てだったというのに、その数時間後曹操は何事もなく戻ってきた。心配、というよりも半分は執務が滞るという苦情を早速貰う曹操だったのだが、彼は何やら笑顔でずいぶん楽しげな様子であったという。何をそんなに楽しげなのかとある武将が尋ねたところ、彼はこう言った。
やたら武芸達者で面白い女官志願者がいた、と。
何でもその女は、下町の道場の娘らしく、曹操がほんの興味心で「型を見せてくれ」と言った。その女は一瞬苦く口元を歪めたが、すぐに表情をにこやかに変えると「失礼します」と言った後、武芸に長けた曹操の目も引き付ける綺麗な演舞を見せたとか。そこでまた彼は調子に乗って、「剣は持てるか」「何がもっとも得意か」などと深く突っ込み、最終的には女が得意だという鞭を持たせて模擬試合までさせたらしい。もはや女官の試験ではない、兵の試験だった。その場に居合わせた本来の試験官はそう語る。ただ、曹操の要求を全て見事に応えたその女は、その後試験終了後異例の速さで採用になった。( だって試験終了直後に曹操がそう言ったから )
あの曹操が気に入った新人女官だということもあり、話は瞬く間に広がっていった。実はあの女は、過去名を残した歴代将軍の中にいた武将と女傑の娘であったとか、幼い頃は《鬼調教師》というあだ名をつけられていたとか、げにも恐ろしい女という印象ばかりが先走ってしまい、今ではとんでもない《現れた鬼女官》などと言われている。
しかも、曹操が独断で「こういう者が居れば、我々の目に届かないところまで護衛することが出来るな」と大層喜んで、もし緊急時に人手が足りなくなった場合等に要請される兵として、女官兼緊急時護衛兵なんて役職をプラスされ、いよいよ恐れられるようになった。本人が聞けば、卒倒しそうな話だと思う。

そんな噂話が止むことなく、迎えてしまった試験に勝ち抜いた新人女官たちのやって来る日。
早速、その噂話は噂であったということを、見事に知らされた各方面の者たちがいた。

いかにも初々しい新人という雰囲気漂う女官に選ばれた娘たち、その中でとりわけしっかりと前を見据えている肝の据わった女がいた。繊細な蒼の色彩の美しい女官衣装に包まれた身体は華奢で、真っ白な肌と黒髪の対比が細い印象をさらに強くさせる。なかなかに整った顔立ちでか弱そうにも見えるが……新人女官とは思えないほど堂々としているためか、妙に各武将たちは奥底の感覚で馴染んだ。それは、武芸に通ずるものを見ているような感覚に近かったからだろう。
しかし、ものすごく嬉しそうな表情をしている。緊張はもちろんあるが、それを加えても嬉しさの勝る表情だ。

そういえば、曹操に気に入られた面白い女という噂に見合うものは、その中にいないようだった。やはり噂かと思っていたが……この時の彼らの頭の中にあったのは奇特な行動をする女か、あるいは武将顔負けの闘気滲むものか、そんな恐ろしいほど飛躍した想像をしていた。
そのため、気付かなかったのである。彼らが眺めていた女官の中に、確かに曹操に気に入られた武芸達者な女がいたことに。
ただ、その女は行き過ぎた噂には到底当てはまらない、華奢でふんわり綺麗な容姿のやたら嬉しそうにしていた女が、そうだったのである。


そして噂に拍子抜けして、戸惑っている武将の一人が、この典韋である。
曹操からの信頼を得る、屈強な体躯と剛腕の持ち主の男性で、その勇ましさから《悪来》とも称され他国からも恐れられる人物だ。常人には持つことすら敵わないような鉄球すら振り回し、戦場を駆け抜ける。
そんな彼が噂ごときに、と思うところであるが、それだけ噂が誇大化していたということである。
なんせ、あの曹操が自ら採用したも同然の女官だ。典韋とて、その話には興味を持たせられたし、聞けば聞くほど女にあるまじき経歴の持ち主だった。( 道場の時期師範代とか、百人組手で連勝したとか、そんなんばっか )
一体、どのような人物か。
ある意味では意気込んでいた、彼の前に現れたのは……。
想像も、していなかったのだ。


その典韋は今、書庫と隣接する一室 ―― いわゆる事務の作業室のようなものだ ―― で、頭を捻っていた。
机の上にドカドカと置かれた、書簡の山。これが、彼を悩ませている原因だ。
もともとそんなに得意ではない、デスクワーク。武将は常に戦場で駆けまわっていればそれで良いという見解は大間違いで、自軍の事務、特に戦後の報告書などなど兵たちから大量に押し寄せてくる。それをさばいていくのは、当然その軍の指揮官……武将だ。
この瞬間が、典韋にとっては苦痛だ。かれこれこの事務とも付き合って数年、いや十数年だが、一向に慣れる傾向はない。それでもやってのける彼も、努力家である。

未処理の書簡と、処理済みの書簡、どちらが多いかと言えば、誰がどの角度で見ても未処理の書簡。典韋の口からはらしくもなく溜め息が出る。
周囲にも、事務作業を行う武将らの姿が見えるが、作業スピードは……典韋の方が圧倒的に遅い。

( 早く終わらせちまって、鍛錬でもしてえなあ )

そう思いながら、彼は重い筆を走らす。
その時、書簡だらけの机の片隅に、コトリと何かが置かれる。視線を辿らせてみれば、それは上品な漆色の茶器で、淹れたての茶の豊かな香りと湯気が上がっていた。そして、それに添えられた白く細い手。そのまま顔を上げて、典韋は一瞬慌てた。

「よ、宜しかったら、どうぞ」

ふわっと、穏やかに微笑む女性が控えめに佇んでいた。媚びるでもなく、自らを美しく見せるわけでもなく、ただほっと優しい純朴さも感じられる笑みだった。静かな青い女官衣装に身を包んだ彼女……が笑った拍子に、さらりと黒髪が揺れ流れた。それが、妙に雰囲気に馴染み綺麗でもある。
典韋は、「お、お、おう」などと妙に口ごもって片手を上げた。

「お疲れ様です、大変ですね。典韋様」

彼女がそうふんわり言っても、上手く返答出来ずにぎこちなく笑うだけであった。そして思い出したように茶器を持ち上げ、彼女へ言う。

「わ、わりいな」
「いえ、これが私のお役目ですから。また、作ってきますね」

彼女はそう笑うと、静かに礼をして離れていく。その細い背中をぼんやり見つめ、彼は思う。まさかあの華奢な印象すらある女性が、曹操自ら引き抜いた ( 気に入った ) 女官だとは。言われなければ誰も分かるまい。
《現れた鬼女官》などという噂に、到底似合いそうもない柔らかな物腰。
百人組手の猛者という事実には、到底気付きそうもない華奢な身体つきと、白い肌。

……まさか、あれで本当に、道場の娘で、女官兼緊急護衛兵などという役職を与えられているなんて。

実際に、彼女の兵としての働きぶり……いや武芸に通ずる者としての働きぶりは、目を見張るものがある。こないだ城に無法者が忍び込んできたことがあったが、典韋らが駆け付けた時はすでに縄が巻かれていた。あの華奢な、によって。

「えと、こういう時にもお役に立つようにと、曹操様から言いつけられて……」

控えめに言う傍ら、ギリギリと縄の締め付けを強めていく。苦しみに潰されたような無法者の顔が、あの時ばかりは妙に同情を誘った。
あれは、ある意味では噂は真実であったことを表していたが……。
何もそれが、ここまで典韋を戸惑わせているわけではない。
緊急時に駆り出される女兵とは思えないくらいの、この柔らかい雰囲気。おそらくそれだ。何せこの魏国の曹操が座る城は、美男美女揃っているわりに要らんオプションが加わったような人物ばかり。( 高笑いだったりヒゲだったり蝶だったり ) 女官も数多くいれど、それらオプションが恐れを植え付けるのかどうも距離があるのだ。かくいう典韋も、この容姿のせいで恐れられがちだが、の女性らしい柔らかさは普通のはずなのに上手く向き合えず……まあ、簡単に言えば。

……ドキリ、とするのである。

女官としての仕事ぶりも凄まじいようで、どんなことも進んで行って、女官長からは大変な信頼をすでに寄せられているとか。武将や文官からの評判も上々。おまけに女官仲間からは、恋する乙女ばりの歓声をもらっているらしい。( あれでは男の方が型無しだ )

怖いものなんてなさそうなくせに、普通の女官、いや多少腕が立つ程度の女に激しくどもりまくる悪来典韋。
意外に、肝の小さい男である。

典韋は、筆を置き、広げていた書簡を一度横に退ける。大きな手を伸ばして茶を取ると、ぐっと一気に傾けて飲み干す。熱すぎず、心地好い温かさが喉を伝って、芯に染みるようだった。

「美しくありませんよ、典韋殿!」
「ぶわっ?!」

真横から飛んできた、やかましい特徴的な声に、危うく手から茶器が滑りかかる。ついでに鳥肌がゾワゾワと這い、身震いを引き起こす。
容姿端麗なはずなのに無駄なオプションがついて残念な気分にさせる、代表格……張コウ。それが隣で無駄に踊りながら、典韋を見下ろしてきた。彼とは異なり、長身で、すらりと細身の身体つき。……まあ慣れとは恐ろしいもので、隣でどれだけ踊られようと平気になった。
だが、喉を潤した温かい茶による穏やかさは、一瞬で消える。それが口惜しい。

「せっかく、が淹れたのですよ。あんな風にぞんざいに扱って……しかも、一気飲みだなんて!」

ああ、嘆かわしい! オーバーなほど悲嘆にくれる張コウに、典韋は戸惑う。普段ならば、お前だよ! と一言言ってやるのだが、この時はそれが不発に終わる。張コウが気持ち悪いからではない、というその単語が出たからだ。

「わ、わしは別に、おめえが思っているようなことはしとらん」
「いーえ、私の美徳に反する、不躾ぶりでした。ほら、張遼殿はとても紳士的です」

張コウがそう言って、斜め前を指さす。思わずそれを辿ると、整頓された机にかけている張遼と、その隣で笑うの姿がある。茶器を優雅に傾け、何を言っているから分からないが恐らく褒めているのだろう。少し恥ずかしそうにしながらも、嬉しげに笑うの横顔がその光景に似合って。
かと言ってそれは、典韋にこそ似合わないものだった。張遼だからこそ、であるが、自分があんな風にとか……考えられない。典韋は眉をひそめ、筆を取る。

「わしには似合わねえ。張遼さんのようにしなくたって、……の茶は上手い。それは分かってんだから良いだろッ」
「おや……」

張コウは何やら驚いた素振りを見せると、食い入るように典韋を見つめる。それこそ背を屈め、あからさまなくらいに。

「将軍の口からその言葉が出るのも、何だか不思議な気分ですね」
「お、おま……!」

典韋がまなじりを上げれば、張コウはクスクスと楽しそうに笑いクルリと回る。高く結いあげた髪がサラリと揺れて、綺麗な軌跡を描いた。

、こちらにもおかわりをお願いしますよ!」

典韋の空の茶器を指し示しながら、彼は何処か女性的な恐ろしく綺麗な笑みでそう言った。隣の典韋が、ギョッと目を見開く。
はパッと振り返ると、ふんわりした笑みで「はい!」と返事をし、張遼に礼をした後歩み寄ってきた。
その間慌て始めた典韋を、張コウは楽しそうに見下ろして、見透かしたような細めた瞳で小さく呟いた。

「それを言って差し上げたら、はもっと笑顔を将軍に見せるでしょうに」

典韋は、らしくもなく硬直する。張コウは笑みを絶やさずに、その場を離れていった。妙に軽やかな、ステップ付きで。
机のそばにやってきたは、「気付かずにすみません」と頭を下げたが、典韋がいやにぎこちないため不思議がった。

「あの、どうかしましたか……?」
「い、いや、何でもねえ」

……普通の女相手だと、悪来の型無しだ。自らを恥じるが、はそれ以上聞かず、典韋から空の器を受け取るとそこへ茶を注いでいく。綺麗な透き通った茶が、ゆっくりと底を満たしていき、蒸気を仄かに立ち上らせる。真剣に淹れる横顔が、妙に可笑しかったが……こうやって見る分にはやはりなんてことはない女官だと思う。むしろ、こういった給仕が似合う。
これで、百人組手の連勝者とは。本当に、不思議だ。

「どうぞ」

カチャリ、と茶器を差し出した。その時、の手が僅かに震えていたことに気付いたが、典韋はあまり気にかけずに受け取った。というより、「お、お、おう」とどもってそれどころじゃなかったのだ。
すっかり頭から張コウの存在が消え去っていて、また同じように一気に飲み下してからハッとなって思い出した。
チラリと隣を見れば、がいやにガン見してきていて、典韋の行動を僅かでもそらさないとでもいうような熱心な視線に、さすがの彼も耐えかねて彼女へ言う。

「そ、そんなに見て……どうかしたか?」
「え! あ、ご、ごめんなさい」

はパッと謝るが、少しの空白を挟んだ後、恐る恐ると尋ねる。

「あの、美味しいですか?」
「あ、ああ?」
「ま、不味くはないですか?」

……急にどうしたのだ。典韋は首を傾げたが、無意識の内に「美味い」と返していた。素っ気なく、言葉に見合うものは何も浮かんではいない。だがその瞬間、は輝いた笑みをこぼした。おぼんをキュッと胸に抱き、小さく呟く。

「良かったです……あの、そうやって、飲んでいただけると、凄い嬉しくて……」

自信が持てます。
は礼をして離れると、一度振り返って、ふんわり笑った。

「お茶の用意を、またしてきますね! 典韋様!」

鼻歌混じりな足取りで、彼女はその一室を一度去る。
典韋はそれを眺め、ふと茶器を見下ろす。底に、僅かに茶が残っていて、脳裏にもまだ光をまとっているが焼きついている。典韋はじっと見下ろした空の茶器に口を付けると、ぐっと垂直に傾ける。一滴を飲み込んで、茶器を置いた。



そんな典韋と夢主の話。
私の中で典韋は、女に弱いイメージがある。何故だ。

2011.03.01